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●江戸時代に振袖火事とも呼ばれる明暦の大火(前22項)が起きている。明暦3年(1657)の事で、江戸城を含む都市の大半を焼き、死者10万人とも言われる大火災だ。明暦の大火、明和の大火(1772)、文化(1806)の大火を江戸三大大火と呼ぶが、関東大震災や東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火、ロンドン大火、明暦の大火を世界三大大火とする場合もある。

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明暦の大火の後、江戸幕府は道幅を広げ火除け地を設けるなどの都市改造を実施している。あるいは寺院の郊外移転や武家屋敷の移動を行って防災都市を創ったが、火災に弱い都市構造に変わりはなかった。明暦の大火の直後にも3回の火事が起きているし、翌年の明暦4年1月10日には、本郷から出火、駿河台、日本橋、京橋、新橋を焼き、霊岸島、八丁堀、鉄砲洲、馬喰町までが延焼している。

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●万治3年(1660)にも火災は頻発している。年明け早々からの3ケ月間だけで105回もの火事が起き、翌年も1月20日に大火が発生、41町を焼き787軒が燃えている。江戸は冬場の乾燥に弱い燃えやすい都市であった。幕府は寛文年間(1661~)に入ると、火を使う茶屋に対して夜間の営業を禁止し、その後も町家に対しては、町々に天水桶を設置することを義務付けている。

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現在でも条例によるものなのか、設置されている光景を見ることができる。例えば、墨田区業平(なりひら)近辺だが、あちこちに丸缶型の「防火用水」が置かれている。雨水が流れ込んで溜まる様な構造では無いようだが、いざという時には役立つのであろう。なお、このような情景には、後102項でも出会っている。

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●かつて昭和期の金属資源が少ない時代は、街中のゴミ箱や防火用水升は、コンクリート製であった。散策していると、今でも各地で見受けられるが、プランターや金魚鉢に転用されている事も多い。画像は、東京都中野区江古田の区立歴史民俗資料館で見た水升。

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設置は全国区的な施策であったように思われ、大きさも形状も様々のようだが、仕様は各自治体任せであったのだろうか。画像の物は、某所で見た奥行き500×横700ミリ、高さは620ミリの水升だ。入る水量は風呂桶にも遠く及ばずだが、緊急時に果たして威力を発揮したのだろうか。

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●とある民家にはこんな物も。「雨水利用は地球を救う」と記された「天水尊(前48項)」だが、屋根は自作だろうか、いい雰囲気ではないか。主に植木への水遣りに使うのだろうか。墨田区は、全国に先駆けた雨水活用先進地だが、雨水市民の会(後96項)の徳永暢男氏がこの雨水タンクを開発したという。

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また町中の路地の安全を守るシンボルとして、「路地尊」も手掛けている。屋根に降った雨を地下のタンクに溜め、手押しポンプで汲み上げる装置で、防災に貢献、水道代の節約にもなるという。

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荒川区南千住の素戔雄(すさのお)神社(前9項)の境内には、バケツとプラスチック製の防火用水桶が、数カ所に常備されている。この桶のモチーフは、江戸期のタガで組まれた木桶だ。これも主に植木への水やりに供されるものであろうが、常日頃からの防災意識は絶対に必要だ。

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●さて、川口の大砲鋳造家の増田家の出自、歴史についてみてみよう。資料として「シリーズ100年企業への挑戦-埼玉の老舗企業に学ぶ~ぶぎんレポート2012年12月」を要約させていただき、画像を追加した。このレポートは、(株)ぶぎん地域経済研究所のもので、株主は、(株)武蔵野銀行ほかだ。県内の企業経営や経済状況を分析調査し公開しているが、企業経営者にとっては、大変参考になるサイトだ。

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詳しい記録は残っておらず俗名は不明だが、創業者の増田の生誕は、鋳物の産地、近江国栗太郡(現在の滋賀県栗東市)周辺で、初代が、文化元年(1804)2月に埼玉県川口市に下って来て、「増田屋」という屋号で鋳造業を始めたという。
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創業後家業は盛んになり、鋳物で作った鍋や釜などの日常用品のほか、寺の鐘や天水桶も製造していたが、創業から20年後の文政7年(1824)3月22日に死去する。翌文政8年には異国船打払令が出されるなど激動の時代を迎えるが、2代目当主の初代安治郎の腕は確かだったようで、文政9年に、見込まれて水戸藩に招かれている。国土防衛のため、大砲製造の命が下ったのだ。
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●安治郎は手代の八十六と共に研究を重ねて、大砲を製造した後川口に戻るが、その心労が重なったのか、天保3年(1832)3月14日に他界した。安治郎が鋳造したとされる、「太極」と鋳出された大砲は、今でも水戸市常磐町の常磐神社(後97項後104項後119項)に現存している。

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同市の文化財だ。江戸時代後期、太平洋に直面する水戸藩は海防意識が強く、「攘夷の模範を見せてやる」とばかりに、防衛上の諸施策を展開している。兵を訓練したり兵器を造ったりだ。

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●大砲などの銅素材は、水戸領内の寺院から銅鐘などを供出させ、鋳潰して鋳造しているが、これは殺人武器への転用であり、寺院勢力からは大きな反感を買っている。昭和の戦時の金属供出(前3項)を思わせる施策だ。

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僧侶たちは幕府に駆け込み、藩主の徳川斉昭(後119項)の狂気の沙汰を訴え、結果幕府は、斉昭やそのブレーンの藤田東湖らを処罰している。砲身に鋳物師の銘は記されていないが、これは後述のように、水戸藩主のものらしき角印が見られる訳で、比肩するかのような一介の鋳物師名の同列は論外であろう。

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「太極」とは、中国の易学では、「宇宙の万物が生ずる根本」という意味だ。水戸藩では、いわゆる水戸学に根差した国粋的な思想からなのか、銃砲などの兵器に各々命名したという。国家鎮護の聖なる武器として崇め、あるいは戦士の士気を鼓舞する意味合いもあったのだろうか。例えば昭和期の海軍は、戦艦に「大和」やら「武蔵」と名付けているが、相通じる思想を感じる。画像は、さいたま市大宮区高鼻町の大宮氷川神社(前20項)にある「戦艦武蔵の碑」。

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●これは、臼砲(きゅうほう・前82項後118項)、モルチール砲とも、曲射砲とも呼ばれる砲で、城壁を飛び越えるべく弾を上に向けて放つ口径35.7cm、砲身1.27mの大砲だ。着弾後は火薬が炸裂したというから、命中率はともかく破壊力は抜群で、当時の欧州では主力となっていた最新兵器であった。

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砲口部とその反対側には、雷紋様(後116項)も見えるが、天水桶の額縁部にもよく見られる意匠だ。雷は、人知の及ばない強大で畏怖な力であり、時の為政者は、権力の象徴として昇華させ使用してきている。

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画像を回転させてみたが、表面には、2種の角印、落款(前65項)まで見られる。うまく判読できないが、下側のものは烈公と諡号された徳川斉昭の「斉昭」という篆書体らしく思える。砲尾には、葵紋や剣らしき紋様もあるが、葵紋の上部には火口らしき部分も確認できる。ここから火縄で、内側に仕込んだ火薬に点火したのだろう。

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●ところで、先ほど水戸藩の金属供出では「寺院勢力からは大きな反感を買っている」としたが、それを裏付ける物証がある。水戸市見川の大慧山妙雲寺の梵鐘の刻銘だ。寺の創建は慶長元年(1596)で、法雲院日道聖人によって開基された日蓮宗の寺院だ。

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天狗党の総大将である武田耕雲斎の墓や、「(彦根城主)大老 井伊掃部頭直弼 台霊塔(塚)」という石碑がある事で知られている。梵鐘は、「平成3年(1991)5月吉日」に鋳られ、鐘身の内側に「茨城県真壁町 鋳物師三十六代 小田部庄右エ門(前21項など)」と陰刻されている。

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●鐘身には、「妙雲寺梵鐘の由来」と題され、初めに寺伝が記されている。「当時の梵鐘は 檀徒の三木玄重氏が水戸藩隠退後 報恩のため 元和元年(1615) 大梵鐘を寄進したものであった」とある。

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続けて、「幕末烈公(徳川斉昭)の代 梵鐘供出の命令に従わず そのため諸堂は焼かれ 偕楽園より移転した 七面堂も廃燼に帰し 大梵鐘は没収された」と陽鋳造されている。強制的に奪われ武器へと変わってしまった訳だが、当時の悲惨な事実が書き残されているのだ。

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●さて、3代目当主は長男の金平で、「安治郎(前82項)」を襲名し、混迷の中、やはり大砲製造に携わるが、幕府の砲術奉行、高島流砲術の創始者の高島秋帆(前55項)と協力し、海岸防備用の大砲を鋳造している。

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嘉永5年(1852)には、津軽藩からも依頼を受けて、当時では製作不可能と言われた長砲のカノン砲を完成させたのだ。現在の川口市本町の増幸産業(株)の敷地内に展示されているのが、その復刻版であるが、この3代目が肥後藩向けなどに大量の大砲を鋳造しているのだ。(前2項参照)

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●大砲製造が主力となったことを示す史料として、ある月の「金銀出入帳」には、「収入は金739両2分と銭182貫904文、支出は275両2分と銭72貫25文。差引464両2分と110貫879文」とある。増田家文書だ。

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これからすると、1年間の売り上げは約9.000両近くあったことが推測され、家業は大砲の受注で隆盛を極めていたことになる。大黒柱だった3代目は、激務のためか、幕府が日米修好通商条約に調印した安政5年(1858)7月11日に、わずか40才の若さで他界している。

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後を継いだのは4代目の利助で、家業は相変わらず大砲の鋳造を主軸に事業を展開しているが、やがて衰退の時を迎える。明治維新を境に鋳物で大砲を製造する時代は終わりを告げ、この4代目の晩年(明治26年・1893年4月20日没)近くになると家業は本来の鍋や釜など、生活必需品の鋳物造りに回帰している。

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●5代目利平が明治41年(1903)2月25日に、6代目清助(芳松・前55項)が昭和2年(1927)7月31日に亡くなり、再興を果たしたのが7代目の増田幸蔵(芳城)で、大正11年(1922)、20代後半に鋳物製品と茶器や花器を販売する「増幸商店」を立ち上げた。画像の出典は、「写真集 明治大正昭和 川口 ふるさとの想い出 沼口信一編著」であるが、昭和初期の商店の様子だ。

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継承した8代目恒男(忠彦)は、産業機械の製造開発を始めたが、その代表が粉砕機であった。当時、豆腐屋や餡子屋が繁盛していたのを見た8代目は、大豆を石臼で粉砕する豆すり機や煮釜、揚げ竈などを開発して数多くの特許を取得し、「増幸」の名を全国区にした。
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昭和6年(1931)頃には広告も出している。「BEANS GRINDING MACHINE」とあり、豆粉砕機をメインにしているが、釜類、鉄瓶銅器のほか、生け花道具類も販売していたのが判る。9代目の増田幸也現社長はその精神を受け継ぎ、増幸産業(株)として、グローバルスタンダードな会社へと育て上げている。超微粒粉砕機の専門メーカー、「MASUKO」ブランドだ。

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●ではここで、千葉県我孫子市の緑香取神社(前20項)にある天水桶を見てみよう。享保年間(1716~)頃の創建だとされ、我孫子宿の鎮守社だという。祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)だが、日本神話に登場する神だ。千葉県香取市の下総一宮香取神宮(後108項)の祭神であることから、香取神、香取大明神とも呼ばれ、日本各地の香取神社で祀られている。


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社殿前に樽型の鋳鉄製の天水桶が鎮座している。緑香取神社だけに、緑色に塗装されているようだ。上部の額縁には雷紋様(後116項)が廻っているが、2尺強という小さ目な1対だ。

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●背面に「伊勢太々講中 昭和4年(1929)2月19日」と鋳出されている。鋳造した時期から考えてみると、大正11年(1922)に、「増幸商店」を立ち上げた7代目幸蔵(昭和6年8月20日没)の頃だ。

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太々講(だいだいこう)は、代参を目的とした講中だが、富士山を仰ぎつつ東海道を西へと進み、目的地である伊勢神宮へと向かったのであろう。ちなみに、狛犬の台座には、「明治29年(1896) 太々講奉納」と刻まれている。

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●桝形の社章の下に、「川口町 増幸鋳造部 山寅作」とある。増幸商店で受注しながらも、山寅こと山﨑寅蔵(前20項)率いる、山﨑鋳工場に鋳造依頼したのが判る。これは完全に山寅独自の意匠だ。増田商店は、「鋳造部」という部所を持ちながらも、業務形態が鋳物製品販売業へと移行していた過渡期であったのだろう。

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社章を拡大してみたが、よく見ると先に掲げた増幸商店の古写真の左側にもこれを確認できる。そして天水桶にも鋳出されているし、現社長にいただいた返信封筒にもある。同社の由緒ある歴史と名声と実力が、この社章に込められているのである。「ミクロの世界に挑戦する」、増幸産業(株)殿の永劫なる発展を期して止まない。
増幸ロゴ

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●この社章は、「枡形紋」として知られる家紋でもある。元々は「桝形の田」を意味し、姓(かばね)には、縁起の良い漢字の「増」や「益」、「桝」の文字が充てられる。桝形紋は、方形の対角に直線が引かれているのが特徴的だ。

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あるいは、丸で囲んだ「丸に桝紋」や3方に広げて描いた「三つ寄せ桝紋」、縦に重ねた「三階桝紋」などが知られる。桝の上に横棒、右側に縦棒を添えたものなども見られるが、川口の増田家のこの桝形紋の右肩には鍵型の線がある。これらは、同系他家との差別化を図るためにアレンジされたものであろう。

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●この紋の使用で知られる著名な方々は、徳川家4代将軍家綱の外祖父で譜代大名の増山家(ましやまけ)、西国の毛利氏の家老職を勤めた益田家、豊臣秀吉の五奉行の増田(ました)長盛(後121項)もこれを使用している。

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歌舞伎役者の市川団十郎家が定紋として用いているのは、大中小の桝を1つに収納した「三枡紋」だ。画像の銅像は、台東区浅草の金龍山浅草寺(前1項など)の本堂裏手で見られる9代目の団十郎で、同家の十八番、「暫(しばらく)」の一場面だ。

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●増田姓の発祥は地名由来だといい、静岡県を中心に四国東部にかけて多いようだ。とは言え各地に拡散していて、代表的なのは、石川県加賀市の北前船の船主の増田家や、京都伏見で「月の桂」を醸している酒造業の増田家だ。

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また駿河周辺の増田家は信濃国が発祥で、戦国武将の今川氏の家臣にはこの姓が多く見られた。画像の四国の雄の長宗我部盛親は、増田長盛を烏帽子親として元服、「盛」の1字を与えられて盛親と名乗っているが、四国地方に増田姓が多い理由の一端かも知れない。

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●電話帳の掲載件数上、増田姓が多い地域の全国ランキングを見ると誠に面白い。静岡県が断トツの1位で、2位は何故か埼玉県なのだ。東国と言える埼玉県の登場は意外だがなぜだろう。それは先の戦国武将の増田長盛(画像)の存在かも知れない。天正元年(1573)、28才の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉に召し出され、家禄200石余りで仕えている。

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太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋(後121項)や五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれている。陰刻は、「天正十八年庚寅(かのえとら・1590)正月日 豊臣初之 御代奉 増田右衛門尉長盛 造之」だ。

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●慶長3年(1598)に秀吉が没すると、石田三成と共に反徳川家康の旗色を示したが、2年後の関ケ原の戦いで西軍が負けると改易となり、長盛は高野山に預けられている。後に高野山を出たが、家康の家臣の埼玉県岩槻城の初代城主・高力清長の預かりとなっている。

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江戸城防衛の重要拠点の岩槻城であったが、温順にして慈愛深く清廉潔白な「仏高力」は、家康の信任が篤かったという。慶長13年(1608)に没した高力は、次の画像の埼玉県さいたま市岩槻区本町の快楽山浄安寺に眠っている。

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●岩槻の地は、川口鋳物師発祥の場所という説もある。後100項では、「戦国末期の1500年頃、岩槻藩主太田氏が城を追われたため、御用鋳物師の渋江氏が転地して開業」と記述している。この城は、太田道真・太田道灌父子(後89項)により、江戸城や河越城とともに築かれたとされている。

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前27項前34項後120項後126項でも考察しているが、城を築き町を拓くためには、多種多様な業種の職人の召喚が不可欠だ。この一説を一蹴、否定する事は出来無かろう。画像は、東武野田線・岩槻駅近くにある「渋江」の交差点。

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●このすぐ近くには、市指定文化財の時の鐘(後126項)がある。住所は、さいたま市岩槻区本町6丁目だ。ここはかつて、岩槻城の中心部の南西に広がる武家地の一画で、その北端部、庶民の居住区である町家との境であった。武家地の街路である渋江小路と、町家の中の町の1つである渋江町の街路との境にあたり、渋江口と呼ばれていたという。本丸があった南西側だが、現在は住宅地の真っ只中だ。

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当時の様子は、江戸時代後期の岩槻城絵図や、明治18年(1885)に旧岩槻藩士たちが往時を回想して制作した「岩槻古城八景」の中の一葉、画像の「城口晩鐘」からうかがえる。あるいは、将軍の日光東照宮参詣のために作成された街道絵図にも、岩槻城下町のランドマークとして、時の鐘が描き込まれているという。

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●この銅鐘は、最初は寛文11年(1671)に時の城主阿部(伊代守)正春の命によって鋳造されているが、その後の享保5年(1720)にヒビが入ったため、後の城主の永井(伊豆守)直陳(なおのぶ)が改鋳させている。口径は75cm、本体の高さは116cmだ。町の人に聞くと、現在でも朝6時、昼12時、夕刻の6時の3回、自動打鐘装置(後120項)によって撞かれ、時を告げているという。

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近づけず陰刻は読み取れないが、市のサイトによれば、鋳造者は「武州埼玉郡岩槻城下鳴時鐘者則。所令冶工渡辺近江掾正次(前17項など)新鋳也。至今五十年 使江都良冶小幡内匠勝行(後100項など)改造焉。享保五歳次庚子(1720)八月日」という。

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現役の鐘は、「新鋳」ではなく「改造」とあるから、割れた旧鐘の母材を溶かして流用したのであろう。そして「冀夫声聞遠大於不朽也」とあるのは、「その鐘の音がいつまでも、遠くまで鳴り響くことを願います」という意味のようだ。小幡の銅鐘には黄金が鋳込まれたらしいが、これが音色に影響するようだ。

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●さて元に戻るが、時を経た元和元年(1615)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が、大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与、豊臣家が滅びると、長盛は、戦後この責任を問われ自害を命じられている。元和元年(1615)5月27日、71才であった。

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豊臣五奉行連判で、家康の悪事を糾弾する弾劾書である「内府違いの条々」に名を連ね、西国大名に西軍への加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した一方、家康に石田三成の挙兵を内通し、また三成からの資金援助要請を渋るなど、対東軍への保身工作も講じるなど、一貫性の無い優柔不断な武将であった。

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●天文14年(1545)に生まれた長盛だが、生地には2つの説がある。1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)という説だ。

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しかし彼の墓所は、生地から遠く離れた埼玉県新座市野火止の金鳳山平林寺に実在する。武蔵野の禅刹だが、知恵伊豆のあだ名で有名な川越藩主・松平信綱(1596~1662)の一族の菩提寺だ。画像は、信綱夫妻の墓所。

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●築350年の風格を湛える平林寺のシンボルである山門は、県指定の有形文化財だが、江戸時代前期の寛文3年(1663)、平林寺が岩槻から今の新座市に移転した際に、現在の地に移築されている。増田長盛家の血統もこの地埼玉県で受け継がれ、結果、掲載件数ランキング2位という現状が、一端としてあるいはあるのではなかろうか。

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「創業者の増田の生誕は、鋳物の産地、近江国栗太郡(現在の滋賀県栗東市)周辺で、初代が、文化元年(1804)2月に埼玉県川口市に下って来た」と上述した。増田長盛の生誕地の1つは近江国浅井郡益田郷であるが、大砲鋳造家の鋳物師増田家は、この系譜に連なる家系であったとしても何ら不思議は無い。

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画像のように長盛の墓所は実に質素で、名の知れた武将のものとは思えない。因みに増田姓の方の電話帳の掲載ランキングは、埼玉県内においては川口市がトップになっているようだ。つづく。