.

●文京区本郷の東京大学本郷キャンパスには、有名な重要文化財の「赤門」がある。東大の象徴だ。江戸幕府11代将軍徳川家斉の第21女の溶姫が、加賀前田家に嫁した時に造られたもので、文政10年(1827) 年に完成している。建築様式としては薬医門であり、切妻造りの本瓦葺で、朱漆塗りとなっている。両側には唐破風造りの番所が備わっているが、これが東大の正門ではない。
東大門
.
その数百メートル北側にあるのが、大正元年(1912)に完成した正門だ。両脇門扉は鋳鉄製だが、メインの中央門扉は後年に再製されたのであろうか、青銅製だ。鋳造者は判らないが、脇門から判断するに、デザインは踏襲されたようだ。横にある門衛所も合わせて登録有形文化財に登録されているが、設計は伊東忠太(前101項)だ。
東大門

.
東大の敷地を囲む長い鉄柵は年季が入っていそうだ。前103項で見たとおり、川口鋳物師の永瀬留十郎製だというが、この鉄柵であろうか。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、「大正元年(1912) 東京大学 門柱梁 1個 製作者不祥」と記されている。辞書によれば、梁(はり)は、「建物の水平短径方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材」ではあるが、どうであろうか。

東大門

.

●前回に引き続き、都内新宿区戸山にある学習院女子科の門扉の鋳造者について考察していくが、学習院門の設置は、当時の「朝野新聞(前103項)」によれば、明治10年(1877)7月1日以前だが、学習院の開校は、約3ケ月後の10月17日であった。

.
一方、東大は、明治政府によって明治10年(1877)4月12日に設立された日本最初の官立大学だ。学習院の半年前だ。明治政府が設立した2つの官立洋学校の東京開成学校と東京医学校は、それぞれ旧江戸幕府以来の独自の歴史を持っていたが、これらが統合され設立されたのだ。画像は当時の東京医学校本館の様子で、門柱には「帝国大学」と記されている。大学設立時に鋳造されたとは限らないが、鋳鉄製とも思われるこの門扉は非常に興味深い。

.
●次の画像は現在の学習院の鉄門扉であるが、真っ赤に彩られていて存在感充分であり、現存する日本最古と言われる鉄門扉として、国の重要文化財指定に相応しい。しかしこの意匠は、先行で設立されていた東京医学校本館の門扉とかなり酷似している。

.

門柱上部の擬宝珠飾りの有無が大きな違いのようだが、学習院門は、この踏襲ではなかろうか。その当時これらを鋳る事が出来たのは、川口鋳物師に違いなかろう。ほぼ同時期の鋳造でもあり、もしかしたらその鋳物師は、同じ木型を使い回したのかも知れない。

.
●さて前回は、川口鋳物師の「永瀬留十郎」、「増田安次郎」に関しての考察であったが、今回は、「永瀬庄吉」だ。該当しそうな3代目永瀬庄吉は、安政4年(1857)10月20日の生まれだが、父利吉、やす夫妻の長男で幼名は次郎吉であった。3代目は川口鋳物近代化の父であり、鋳造業界の先駆者であったが、昭和20年(1945)4月20日に89才で没している。
永瀬庄吉
.
12才の時、初代庄吉からは鋳造技術を、15才の頃からは、長崎の日本画絵師・荒木雲洞から絵模様を習い、「花鳥山水 絵付け鉄瓶」で川口三名人の1人になったという。画像の鉄瓶は、庄吉が16才の時の作品だ。

.
次の画像は、「雲鶴」の号が見られる絵で、庄吉75才の時の揮毫だ。唐草模様に鋳抜かれた、透かしの飾り板で構成されている学習院門のデザインは、芸術肌を持ち合わせていた彼だったのだろうか。とすれば、弱冠二十才の頃であった事になる。
永瀬庄吉
.
●16才の時、家出同然で、前項で述べた「工部省赤羽工作分局」に飛び込み、イギリス人技術者のギンク氏に取り付いて、蒸気機関による送風機を模造し、約3年後に自社内で運転を開始している。それまでの人力たたら踏みから、動力方式への転換であった。

.

少年庄吉が初めて見る文明の利器で、「すごい、大砲を鋳込むのに3日も掛かっていたのに、こいつは1日で溶かしてしまう」と言ったという。この時、庄吉は20才ごろであった。しかし、この蒸気装置を使っての学習院門の鋳造には、操業開始時期の点から、無理があろう。

.

折角できた機関をうまく運転できず、房州行きの蒸気船に乗り込み修学、やっと動かしたというから、明治10年7月完成の門には、使用できなかったかも知れない。鉄門は、学習院の開校の3ケ月前に完成している。あわてて鋳造する必要はなかった、製作期間は充分あったのだ。蒸気装置に頼って性急に鋳造しなければならない状況にはなかったと言えよう。

プレス発表から逆算すれば、門の部品の塗装、運搬、組み立てなどに当然必要な期間を差し引くと、少なくも、6月ごろには鋳造を終えていなければならなかろう。さらに、打ち合わせやデザインに要する時間、鋳造に必要な木型の製作時間などを考えれば、発注は明治10年(1877)の初め頃と考えてよかろう。

.
●話を戻すと、庄吉は、27才(明治17年・1884)のとき家業を継承したが、他にも、繰り返し使え、乾燥も早い西洋式生型(なまがた)による鋳造法の普及、それまでの木炭から、それを蒸し焼きにして作られた火力の強いコークス溶解への転換など、多くの技術革新導入に貢献している。
.
明治20年ごろからは水道用鋳鉄管(前74項)の製造を開始し、関西は大阪の久保田製作所、関東は川口の永瀬と言われるほどに成長している。明治37年(1904)に勃発した日露戦争特需の時の従業員数は、530余名だというから、大企業だった訳だ。下の画像に見えるのは、製作中の砲弾だ。

.
しかし、第2次世界大戦で2回の爆撃を受け永瀬の工場は全滅、その影響もあってか、昭和46年(1971)3月に破産、76年の永瀬鉄工所の歴史にピリオドを打っている。画像は、昭和初期の工場の様子。

.
●庄吉は、大正9年(1920)から第8代川口鋳物工業協同組合理事長、同14年からは、川口町長を務め紺綬褒章を受けている。因みに、明治23年(1890)生まれの長男の永瀬寅吉(後121項)は、初代の商工会議所会頭や貴族院議員、第3代川口市長を歴任している。

.

平成22年、2010年時点で、3代目庄吉のひ孫の、画像の永瀬孝男氏は、(株)薬研屋の社長だ。この社名は、江戸時代からの呼びで、皇漢医が使用する薬研や鉄瓶を専門的に鋳造して事による。皇漢は、中国から伝来し日本で発達した漢方医学だ。

.

●羽振りの良かった往時の記録を見てみよう。「貴族院多額納税者議員互選人名簿」だ。「明治44年(1911) 鋳物業永瀬庄吉 国税2.123円、県下21位」、「大正14年(1925) 永瀬庄吉 国税4.612円、県下18位」。

.

そして「永瀬寅吉(庄吉の長男) 国税1.646円、県下87位」などとなっている。14年ほど後には倍額を納税しているが、大変な鋳物長者であった。画像は昭和10年(1935)11月頃で、旧川口市庁舎前にあった庄吉の銅像だが、本人の申し出もあり、戦時に金属供出(前3項)している。

.

●さて、3代目が学習院門を製作したとしたら、彼が、20才ごろであった訳で余りにも若輩そうだが、可能だったろうか。考えてみれば、父の2代目庄吉(利吉)は49才で存命、送風機製造などの資金捻出をしたのも彼であったろうし、受注したとすれば2代目であろう。では、受注できるほどの素地はあったのだろうか。
.
華族学校の発注であるから、官からの信頼やつながりが無くては、声も掛からないだろうし受注は出来まい。「新型送風機を設置したから短期間で鋳造できます」と言っても次元の違う話だ。実は、素地はあった。

.

初代庄吉は、万延元年(1860)頃から、東京小菅の銭座で1文銭鋳造の頭領にもなっているし、幕命により静岡県伊豆の国市の韮山反射炉(前90項)の炉床を鋳造して納入している。子孫の永瀬正邦の「永瀬庄吉の記録」によれば、炉床は安政4年(1857)の納入で、在銘だという。明治維新前後には、多数の砲弾も鋳造しているが、この時の主たるリーダーは2代目であったに違いない。

.
●また戦時の金属供出により現存しないが、川口市金山町の川口神社(前1項など)の鋳鉄製の鳥居を受注し、鋳たのも2代目庄吉だ。明治11年(1878)1月の事であったが、この当時、市内で最も実力を有していた工場であったから、先の送風機を使って一気に鋳造したことだろう。柱には、「鋳工 永瀬庄吉」という文字があったという。画像は、鳥居が写り込んだ、大正時代の祭礼の様子。
川口神社・鳥居

.

なお現在の石鳥居は、「昭和18年(1943)5月吉日」に「株式会社 永瀬鋳物工所」が、「大東亜戦争(昭和16年の太平洋戦争) 戦勝祈願」として奉納している。当時、川口市青木町にあった会社だ。代表者は永瀬平五郎であったが、「平」の文字を社章としていたようで、それも鳥居の柱に見える。平五郎は、永瀬庄吉の系譜につながる方であったのだろうか。

川口神社・鳥居

.

●金属類回収令は、昭和18年8月12日の発令であったが、その3ケ月前に、石製に取って代わっているのは何故だろう。あるいは当時、一の鳥居、二の鳥居などで鉄製との2門が存在していたのかも知れない。

.

昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、平五郎の記録がある。画像の「明治35年(1902)1月 千葉県木更津市中央 吉祥山光明寺 永瀬平五郎 天水鉢1対」で、今は現存しないようだが、戦時に金属供出(前3項)されてしまったのだろうか。

.

●さらにやはり現存しないが、庄吉は、明治14年(1881)には、新吉原遊郭の大門として鋳鉄製の門柱を建てている。高さが4m程で、上部には、ガス灯のような大きめな照明がある。画像では不鮮明だが、「透かし飾り板」らしき構造物で、鉄柵の集合体であった学習院の門柱とそっくりではないか。

.
こちらの写真は、もう少し鮮明だ。門柱には当時、言論界や政界に名を馳せた、東京日日新聞の「福地桜痴(おうち)」の骨太の書があった。右には「春夢正濃 満街桜雲」、左は「秋信先通 両行燈影 明治14年1月2日 桜痴居士書」であったという。

.

裏側には、「応需鋳造 埼玉川口町 永瀬正吉作」と鋳出されていたというから、2代目の作だ。つまり、「庄吉」ではなく「正吉」なのだが、これは、初代庄吉が存命していた事などによる、2代目の商標的ネームであった。しかし大門は、明治44年(1911)の吉原の大火で焼失している。


.

●これまで見てきた天水桶にも「正吉」の刻銘は登場している。「足立区東伊興・佛名山常福寺(前15項) 明治21年(1888)」、「川口市鳩ケ谷本町・鳩ケ谷氷川神社(前21項) 明治16年」、「大田区大森北・大森神社(前49項) 明治16年」であった。また手水盤としては、画像の、「群馬県太田市金山町・大光院新田寺(前88項) 永瀬正吉 明治13年(1880)」銘を見ている。
永瀬正吉手水盤

.

また、かつて江東区富岡の深川不動堂(前77項)には、縦書きで「新吉原講」と鋳出された鉄門柱があった。輪宝紋を冠した、「内陣 成田山」と読める透かし彫りの鉄柵でつながれている。柱には透かしが無いようで、これは一体型の鉄柱かも知れない。右側には一般にも普及し始めたであろう電灯柱も見えるから、明治半ば以降の鋳造であろうが、作者を示す史料は見つからない。想像するだけだが、川口鋳物師によるものかも知れない。

.

●さて、第1回内国博には、庄吉は作品を出品していない。第2回には鋳鉄扉や鉄柵を、第3回には、鋳鉄扉と手摺(てすり)を出しているが、前項で登場した永瀬留十郎と共に、「三等協賛賞」として、褒状を授与されている。

.

しかし、上の新吉原の門柱が決め手にはならないだろうか。デザイン的に近しい下の学習院門を鋳造した実績が、4年後の、新吉原大門の受注に繋がったのではなかろうか。鋳鉄扉と鉄柵にさしたる大きな差異はなかろう、ここの門は扉の集合体であるとも言える。

.
以上のような状況下から推察するに、受注できる素地も、鋳造できる生産体制も実績もあった訳で、学習院門を手掛けた可能性は高い。実際、永瀬家では、「3代目庄吉が製造した」と語り継がれているという。画像は、庄吉が住んでいた現存する邸宅だが、ステンドグラスとバルコニーがある西洋風の館だ。

.
●では前項をも含めて総括してみよう。学習院門の完成は、明治10年(1877)7月以前であった。「永瀬留十郎」の先代(実父)は、明治8年ごろから各所の鉄柵、鉄門を鋳造している。「増田安次郎」は、明治14年3月の第2回内国博に、葡萄紋様の鉄門を出品している。「永瀬庄吉」は、明治14年4月に、新吉原遊郭の透かし飾りらしい鉄製の門柱を建てている。
.
さらに、「留十郎」は、明治初期から日本陸軍に暖炉を納入していた。「安次郎」は、幕末の大砲製造家として名を馳せていて、諸藩の御用達鋳物師だった。「庄吉」の実父は、明治維新前後には、多数の砲弾を鋳造していた。

.

以上がキーポイントだと思うが、当時3人共が、軍部や官公庁との繋がりを持っていて、受注可能体制下にあり、信頼も納入実績もあり、門扉を鋳造するに必要な設備を有していた事になり、結局のところ、決定打が無く鋳造者を断定できない。
.
●では視点を変え、先入観を排して考えてみよう。3人に絞って鋳造者を特定しようとしてきた訳だが、ほかの人が鋳造した可能性は無いのだろうか。それは充分にあり得る話だと思う。中堅どころの業者もそこそこ存在したからだ。前項では「鉄柱門というよりは、鉄柵の集合体なのであって、それが重要。一体不可分のものとして鋳造されていない」と書いた。当然そうでなければならない構造設計だったのだ。

.

なぜなら、透かし飾り紋様の鉄柵1枚だけなら2、3人で持ち上げ、移動させられよう。超重量級では困るのだ。クレーンなどの重設備は要らないし、まだそんな時世でもなかった。設置場所への運搬にしたって、自動車が日本に登場するのは明治の半ば以降で、牛車や荷馬車、舟運がメインだったのだ。大工場である必要はない。中小零細業者でも対応できたと言えよう。

.
●さらに、こんな可能性もある。例えば、安次郎がその伝手で受注したはいいが、多忙で間に合いそうになく鋳造できない。そこで庄吉に依頼する。快諾して鋳造、難なく納入完了した、としたらどうなろうか。いわゆる外注だ。安次郎にしてみれば、鋳造はしていないのだから、そう声高には言えまい。庄吉にしたって、受注した訳ではないのだから、発注主たる安次郎の手前、同様な心境だろうし、逆であってもまたしかりだ。

.

こうなると、中堅業者も含めて組み合わせは多様で、また迷宮入りだが、そんな可能性はあったのだろうか。川口の鋳物業界には、「買い湯(溶鉄)」という制度があった。親方に年季奉公し勤め上げた後、その一角を間借りし、型込めの後、湯だけを買い注湯するのだ。狭い一地域だけだからこそできた、効率的な仕組みであった。
.
鉄の溶解には時間もかかるが、巨額の設備投資が必要だから、こうして独立の機を待ったのだ。親方同士の繋がりで、ほかの親方から湯を買うこともあったかも知れない。縦横無尽に湯を、臨機応変に仕事をやり取りしただろうことは、容易に想像できる。下のイメージ画像は、水戸市の常磐神社内(前83項前97項後119項)にある溶解炉、甑炉(こしきろ)だ。

.
●あるいは別の角度、つまり木型という方向から見たらどうなろうか。鋳物を作るのには、砂と粘土で固めた鋳型が必要だ。鋳型を作るのには、木型が必要で、木型に刻まれたデザインが、そのまま鋳物形状になる訳だ。

.

川口町に明治元年(1868)生まれの、俗称「箱松さん」と呼ばれた木製品の彫り物師で、鋳物用の木型業も兼ねていた、小山松五郎がいた。川口木型業の草分けであったが、その子孫の話によると、「宮内庁出入りの日本橋の指物師が、学習院の鉄門の木型を作り、その木型を使って、川口で鋳造したもの」という。
.
しかし、これでは木型が誰に渡ったのか判らないから、この証言でも特定はできない。ただ、木型が1個あれば、鋳型は何個でも作れる。学習院門のメインの門柱2本に透かし飾り板が、計8枚使われている。でも木型は1個で済むのだ。作れば作るほど木型代は割安になる計算だ。
.
安次郎が葡萄紋様の鉄門を、庄吉が新吉原の透かし飾りらしい鉄門を作っているが、経費を節約するなら、当然、3年半前の学習院門鋳造に使ったのと同じ木型を使用した可能性はある。庄吉は、新吉原の鉄門の受注に際し、「東京の名物にするのだから」と言われ大幅に値切られ、当時の500円で鋳造したが、その代わり、作者名の鋳出しを認めさせたという。受注金額が安ければ、手元に所持していた学習院門用の木型を使用したかも知れない。
.
●現代において、由緒ある学習院門の設置を依頼されたなら、名誉な事であろう。赤字覚悟でも、短納期でも必死に対応しよう。しかし、当時の鋳物師から見たら、単なる一学校の門扉に過ぎない。まして後年、重文に指定されることが判っていた訳でもあるまいから、意識度はかなり低かっただろう。
.
それが、鋳造者を特定できない大きな理由かも知れない。今後特定できることがあるとすれば、受発注に関する領収証などの文書が出てきたとか、門扉とともに、納入者の人物特定ができる写真があったとかの、物的証拠の出現を待たなくてはならないだろう。

.

●過日、ご子孫の永瀬留十郎氏から連絡をいただいた。足立区千住仲町の仲町氷川神社(前68項)では、ご先祖が「明治8年(1875)9月」に鋳た、5代目永瀬宇之七、藤原清秀の天水桶1対を見ている。かつてこの工場では、明治以降の建築の西洋化に伴い、門扉や鉄柵鋳造を主流にしていた時期があったようで、仲町氷川神社にもそれらしき鉄柵が現存する。

.

永瀬製であるとは確定できていないが、神社には、その納入に関する文書があるらしいというのだ。「もしかしたら、学習院の門扉に関する記載もあるかも知れない」という意味合いを永瀬氏とのやり取りの中で読み取った。この後の展開に期待したい。


.
●なお、参考資料として、以下のものから引用、転載させていただいた。資料によって年代、表現などに多少の食い違いがあったが、子孫の方に近しい資料を優先した。「昭和7年(1932) 永瀬庄吉翁伝 山口登(永瀬正邦 詳註)」、「昭和45年 川口の鋳工と作品 鈴木茂」、「昭和48年 名をすて誇りもすてた御鋳物師 両角宗和」、「昭和54年(1979) ふるさとの想い出写真集 沼口信一」。

.

そして「昭和54年 鋳物師 内田三郎(前65項)」、「平成元年(1989) 明治の川口鋳物 沼口信一」、「平成22年(2010) 川口鋳物の歴史 川口鋳物工業協同組合(3代目庄吉のひ孫・永瀬孝男)」、「平成24年 埼玉の老舗企業に学ぶ (株)ぶぎん地域経済研究所」、「増田家古文書 増田家」、「内国勧業博覧会 国立国会図書館のサイト」、「ウィキペディア」だ。つづく。