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●散策中の都内世田谷区弦巻地区で、面白い実用的なオブジェを見つけた。廃棄となった鋳鉄製の配管部材らしきものが歩道の柵として再利用されているのだ。これは上下の水道用鋳鉄管だろうか、工場で使用された鋳鉄管だろうか。車道と歩道を確実に区分けしていて、歩行者の安全が確保されている。

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鋳鉄管表面の鋳出し文字に「250」とあるのは、太さを示す呼称だ。内径がΦ250ミリ、10インチである事を意味しているが、パイプの中を流れる水量に関係する数字だ。初めて見る人には奇異な風景だが、現役を終えたこの鋳造物も、永く生きながらえて地域の安全に役立つのかと思うと頼もしい。

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●水道管の鋳造は、かつて川口鋳造業の発展に大きく関与してきた歴史がある。突端は、明治時代初期の伝染病コレラの流行だ。当時は発生の詳細な原因が判らず、治療法も確立していない。伝染防止策は、発生した家への出入り禁止と消毒、集会や水泳の禁止、果実や魚介類、古着売買の禁止など患者の隔離という対策で、自然消滅を待つのみであった。画像は、都内文京区本郷の東京都水道歴史館で見た明治時代の水道管。

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因みに、福井県の史料によれば、江戸期の安政6年(1859)の流行時には、「世間が陰気となっているので町内で大太鼓などをたたき賑々(にぎにぎ)しくするよう」小浜藩が命じ、勝山藩は、流行を打ち払うため10ケ所で大砲計41発を放ったという。社会の雰囲気を明るくすることで、疫病を打ち払えるとしていた時代だったのだ。

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●そして伝染病流行の原因の1つとして、汚水の河川への流入が挙げられ、全国の自治体が水道管の敷設に動き出したのだ。後104項で解析しているが、川口鋳造業界中興の祖とされる永瀬庄吉の永瀬鉄工所は、明治20年(1887~)ごろから水道用鋳鉄管(後121項)の製造を開始し、後に関西は大阪の久保田製作所、関東は川口の永瀬と言われるほどに成長している。

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当初、東京市が輸入した水道管が破損、補充製造を依頼された永瀬工場の製品がすこぶる良好で、これが我が国初の大口径鋳造管であったという。国家規模の需要であり、主力製品であった訳で、樺太や朝鮮、台湾などへの輸出にもつながり、川口鋳物は大隆興時代を迎えたのだ。しかし残念ながら、昭和期の戦時に格好の標的となった永瀬の工場は、空襲を受け壊滅している。

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上下の古写真には、永瀬が作った水道用鋳鉄管が写っている。川口市朝日にあった「(株)増平鉄工所」前の門柱だ。撮影時期や口径は不明だが、「昭和九年(1934)」と浮き出ている。紫色で囲っておいたが、それに続く紋章は、永瀬鉄工所の社章だ。しかし残念ながら、この鋳鉄管は現存しないようだ。

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●さて、前64項で台東区上野公園の上野東照宮(後107項)の神楽殿の天水桶をアップした。その時期は社殿の改装中で境内への立ち入りは出来なかったが、時間も経ち混雑も収まったであろうと思い再訪してみた。社殿は慶安4年(1651)に、3代将軍徳川家光公が造営替えをしたもので、栃木県日光市山内の日光東照宮(後107項)に準じた豪壮華麗な堂宇だ。

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現在の参道には、全48基の銅灯籠がひしめいて並んでいる。多くは散逸したのだろうか(後79項後86項)、この造営替えに際し、石製も含めて約250基もの灯籠が、全国の大名から競うように奉納されたのだ。幕末には東叡山寛永寺(前13項)の伽藍や子院の多くが消失する上野戦争が勃発しているが、上野東照宮には火の手が及んでいない。

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関東大震災にも倒れず、世界大戦では社殿のすぐ裏に爆弾が投下されているが、幸いにも不発弾であり倒壊を免れている。明治時代には神仏分離令のため、境内の五重塔(後107項)を寛永寺に譲渡(現在は東京都の管理)するなど、境内地は縮小されているが、江戸初期に建立された社殿や灯籠が、数々の困難を乗り越え現存するのは奇跡的で、強運な神君家康公の御遺徳の賜物と言われている。(ホムペを要約)

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●これらの銅灯籠は、蕨手が天に向かって伸びている部分だけを見れば、春日型灯籠(前33項)と言われるタイプで、慶安4年(1651年)銘のものがほとんどだ。これは家康公の36回忌に当たっての諸大名の奉納物で、社殿とともに重要文化財だ。この灯籠の役目は照明器具では無い。神事や仏事に使う、清めた火である「浄火」であって、これを灯して法会を執行するのだという。

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上の画像は、別格の徳川御三家の3対6基の銅灯籠だが、蕨手の突端に居るのは、想像上の動物の「蜃(しん)」だ。しかし全体のフォルムは、下部の2段にくびれた竿の部分の形状からすれば、太閤型と呼ばれる灯籠だろう。太閤殿下、豊臣秀吉の家紋と言えば「桐紋」が有名だが、それ以前は、馬印として「瓢箪(ひょうたん)紋」を使っていた。

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この型では、中台や火袋などにその瓢箪が刻まれる事が多いのが呼称の由来のようだ。火袋は、上下を絞って丸みを持たせているが、全体的なバランスも良く、彫刻も多彩な型だ。秀吉ゆかりの灯籠としては、他には、変化に富んだフォルムで彫刻も多い聚楽型がある。かつて秀吉が京都に営んだ華麗な邸宅の名だ。

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●さて、例えば下の銅灯籠には、「加賀能登越中三國主菅原姓 松平犬千代丸」という陰刻があるが、この頃であれば、加賀藩第5代藩主、前田綱紀(つなのり)の献納だ。綱紀は、寛永20年(1643)に江戸で生まれ、享保9年(1724)、江戸で没している。3才の時に会津藩主の保科正之の後見を得て襲封、その治政は80年の長きに及んでいる。

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文字のすぐ左側をよく見ると、鋳造時の不具合である「巣喰い(後121項など)」が確認できる。これらは国内での鋳造であるが、当時の工業技術の稚拙さがよく判る。

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鋳造者は、「冶工(やこう) 鳥居権佐正信」で江戸鋳物師だが、ここでは、3対6基の鋳造が確認できる。彼は、日光東照宮の大猷院(家光)の廟所でも、薨去(こうきょ・慶安4年4月20日)の盂蘭盆会(7月12日・前18項)に、「讃岐守酒井忠勝」が奉納した銅灯籠を鋳ている。あるいは、同所夜叉門外の銅灯籠、「承応2年(1653)4月20日」付けの、「伊賀国主 従四位下侍従 大学頭藤堂高次」献納も手掛けている。後述する高虎の嫡男だ。

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●他の灯籠には「鑄成 御釜屋 堀山城守清光 慶安4年(1651)4月17日(家康36回忌)」とあるが、この日は東照宮の落慶日でもある。鋳物師ではなく「釜屋」という肩書だが、ここでは最大の6対12基を見られる。

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京都出身の鋳物師で、幕命により江戸に下向し、代々が「山城守」を名のってきた家系であったが、この清光は、名を世襲した2代目で、初代「堀山城守浄栄(寛永4年・1627年没)」の息子の浄甫(じょうほ)だ。没年は、天和2年(1682)であった。
 

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●同人は日光東照宮でも、「承応2年(1653)4月20日(家光3回忌)」と刻まれた同数程度の銅灯籠を鋳ているが、家康の36回忌とは数年の差異しか無い。驚異的な鋳造量と言ってよい訳で、相当に大規模な釜屋であったと想像できる。清光が鋳た1例が、下の画像の右側の「会津 従四位上 左近衛権少将 源朝臣正之」銘だが、上述の3代将軍徳川家光の異母弟の保科正之だ。

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当サイトでは、数例の清光の作例を見ている。前19項では、渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺、後80項で調布市深大寺元町・浮岳山深大寺、後89項で埼玉県入間郡越生町龍ケ谷・長昌山龍穏寺、後93項で台東区東上野・高龍山報恩寺、後126項で港区虎ノ門・桜田山光円寺だ。全て梵鐘だが、現存例は少なく貴重なので、是非ご覧いただきたい。

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●三重県からの奉納品には「大鑄師 伊勢住 但馬少椽(しょうじょう)吉種 越後少椽重種」とあり、伊勢国などから出向し鋳造したのであろう。「椽」は、中世以後、宮中・宮家から職人や芸人に対して、その技芸を顕彰する意味で下賜された名誉称号であったが、階級としては、大掾、掾、少椽の3段階であった。上の画像の左側だが、これの奉納主は、「伊賀少将 藤原朝臣高虎」銘で、築城の名手の藤堂高虎(前33項前56項など)だ。

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どれも同じように見える銅灯籠だが、大きさはほぼ同じ様だ。先の御三家の物は一回り大きめで威厳があるが、他は、将軍家が台座の大きさと、全高を指定したのではなかろうか。ほぼ均一で突出は見られない。

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居並ぶ中で異彩を放っているのが、次の画像のこの1対だ。6角形の台の上では反花(前51項)が大きく開き、透かし網の火袋では天女が舞っている。その中間の、一節がある竿は上下に緩やかに広がっているが、ここの上部には雲龍紋、下部には竹梅に獅子の紋様が、ごく薄く陽鋳造されているのだ。

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●これらの紋様を鋳出すには、ヘラを使って雌の鋳型の内側に絵を描かなければならない。芸術肌を持ち合わせた鋳物師だが、銘は「御花入屋 閑入作」となっている。茶の湯の世界では、茶席で花を活ける花器を「花入」と呼ぶが、その多くは鋳造物のようだ。

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御花入屋は、これを鋳る釜屋という意味であろうか。同人は、肥前国(長崎県)彼杵郡(そのぎぐん)の鋳物師だが、肥前東土山春徳禅寺の梵鐘などを鋳ている。寺や銅鐘の現況は不明ながら、そこに「冶工 生国肥前彼杵郡長崎 御花入屋 閑入」の銘があるという。

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この銅灯籠は、「奉献 銅燈籠両基 武州東叡山 東照宮宝前 慶安四年(1651)四月十七日 出雲侍従 松平出羽守直政」銘となっている。直政は、徳川家康の次男の結城秀康の3男として生まれたが、出雲国松江藩初代藩主として、徳川秀忠、家光、家綱の3代に仕えている。

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なおここまでは、大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(後116項)の「日本鋳工史稿」を参考とし、現物の銅灯籠と照らし合わせながら編集した。1世紀前の先学の書物だが、現代においても、生々しく正確である事に驚きを禁じ得ない。

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●さて、これが新装なった権現造りの社殿だが、これを見るには拝観料がかかる。その為に作られた囲いのせいで境内が狭くなり、まともに正面からの撮影もできない。何ともせせこましい感じだ。ここは、寛永4年(1627)の創建で、東照大権現・徳川家康、8代吉宗、15代慶喜を祀っている。藤堂高虎は、上野山内の屋敷の中に、家康公を追慕し、祭神とする宮祠を創ったが、これが上野東照宮の創建と言われている。

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殿前には、のっぺらぼうな鋳鉄製の天水桶が1基ある。防錆塗装はされているが、鋳造者銘などの鋳出し文字が一切無いのだ。大権現様の前では、個人の名を表示するなどもっての外ということであろう。この様な事例は、
前10項後101項後107項でも見ているので、ご参照いただきたい。桶は、金色の建屋に圧倒されて希薄な存在かも知れない。良く見ると胴の真ん中あたりに水平な鋳境線があるが、これは鋳型の分割線だ。

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●囲いの中には2基の天水桶があるが、もう1基はサビるに任せるままで手入れはされていない。どうせならこれも改修し再塗装すべきではなかったか。何とも雑、とも言えるが、最もこれが鋳物本来の荒々しい鋳肌姿だ。大きさは全て、口径Φ1m、高さは見えている部分で840ミリだ。正面には、幾つかの突起物があるが、円形状の痕跡からして、徳川家の「丸に三つ葉葵紋」が貼り付いていたのだろう。今は、次の2基も含めて、4基全てで脱落、損逸している。

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先の御三家の銅灯籠は唐門を挟んで並んでいるが、その両端にも1対2基ある。ほぼ同じ大きさだ。これらの4基は、かつては本殿の4隅に置かれていたのだろう。それが、屋根からの降水を受ける天水桶の役目だからだ。なお前64項では、ここの参道にある神楽殿を見ているが、そこの桶1対も、ほぼ同じ大きさで同じ意匠であったので補足しておこう。

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●次は文京区から3例で、まずは音羽にある今宮神社だが、狭い境内だ。掲示板によれば、同社は、元禄10年(1697)に、犬公方こと5代将軍徳川綱吉の母である桂昌院(お玉)の発願により、京都市北区紫野今宮町の今宮神社から分霊を迎えて建立されている。

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別名「玉の輿(たまのこし)神社」とも呼ばれる本家の今宮神社だが、京都西陣の八百屋に生まれた「お玉」が第3代将軍家光の側室となった事が、「玉の輿」ということわざの由来になったとの説がある。

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ここは通称「今宮五社」で、これは伊勢神宮、今宮神社、春日大社、石清水八幡神社、熊野大社を示している。中央に三つ巴紋が配されていて、桶の上部の額縁全周に見られるのは、「葵紋」の連続で、徳川将軍家との繋がりを垣間見れる。

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大きめの文字で、「大正14年(1925)9月吉日」の造立とあるが作者は不明だ。鋳鉄製の1対の桶の中はコンクリートで満たされていて、今は貯水桶としては機能していない。大きさは口径Φ900、高さは770ミリだ。

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●江戸川橋近く、文京区小日向にある小日向(こびなた)神社。大正時代に設置された説明文によれば、天慶3年(940)に氷川神社として建立されたが、明治4年(1871)に田中八幡宮と合祀され現在に至るという。祭神としては、素戔嗚尊、譽田別尊、櫛稲田姫命、大巳貴命を祀っている。

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1基の鋳鉄製の天水桶は、サビて割れて隅に追いやられ、ボロボロでお役御免だが、確かに存在している。大きさは口径Φ700、高さは560ミリだ。ここは、昭和20年(1945)5月25日の戦災ですべてを焼失している。対のもう片方は焼けただれ焼逸したのかも知れない。

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「文政13年(1830)正月吉日」の鋳出しはクッキリ読み取れる。「小日向水道町」の奉納だが、見られる文字は他にない。「水道」の町名は今も存在するが、居合わせた人に伺うと、地名の由来は、この地に神田上水が通っていたことによるらしい。作者は誰であろうか、諸書には記録が見られず、不明で残念だ。

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●文京区小石川の曹洞宗、梵音山慈照院は、寛永8年(1631)の創建だ。辰巳屋惣兵衛なる遊侠人の墓があって、女装踊りで名声を高めたという。大名邸や天下祭にも呼ばれて踊ったが、一切の金銭を受け取らない変わり者であったらしい。それを蜀山人、大田南畝(前16項)はこう詠んでいる。「お祭りと神楽の堂に辰巳屋の 枯木娘や花咲かせ爺」だが、余ほどの有名人であったのだろう。(境内掲示による)

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「天水受一対」と題された天水桶は、「昭和45年(1970)7月吉日」奉納で、作者無記名のハス型の鋳鉄製だ。裏側の銘板には施主の名が並び、「慈照院22世 道仙代 新添」となっている。

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●続いて江戸川区から3例。西一之江の西一之江香取神社は、江戸川区史によれば、「祭神は経津主命、土地の旧家で代々宮総代をつとめる藤ケ谷家の祖先が、御神体を奉持して下総国に下り、神社を創建したという。鎌倉時代の事といわれるが年月は不明である。社殿は万治2年(1659)に再建され、また昭和43年(1968)に改修された」という。

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境内入口の「西一之江香取神社」と刻まれた石碑には、「明治百年記念」とある。また一角には、「明治百年記念 香取神社造営寄附御芳名」の石碑が3つも並んでいる。社殿廻りの玉垣の奉納は「昭和43年8月吉日」だが、明治元年、1868年から100年後の昭和43年が、明治百年だ。大がかりな改修が実施されたのであろう。

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1対の鋳鉄製の天水桶は、拝殿を囲む玉垣の内側にあって、三つ巴の神紋が相対し合い、参拝者を出迎えるかのような向きに置かれている。サビ汁が流れているが、塗装はしっかりしているから、大事に管理されているようだ。銘は「昭和29年(1954)9月吉日 氏子中」だけで、鋳造者は不明だ。大きさは口径Φ730、高さは720ミリとなっている。

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●松島にある新義真言宗、長松山光福寺は、天文元年(1532)に海成坊が開山している。区の教育委員会によれば、『長松山延命院といい、通称「五分一不動尊」または「いちょう寺」と呼ばれています。・・境内の不動堂に「五分一不動」と称される不動明王(前20項)と「衣替観音」と呼ばれる正観世音菩薩がまつられています』とある。

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天水桶は、余り見かけない下細りのデザインで、コップの様な形状だ。葉脈はデザインされていないが、ハスの花のイメージなのであろうか。前17項で見た、江東区三好の曹洞宗、祥雲山善徳寺にあった「御鋳物師 太田近江大椽 藤原正次」銘の1基を彷彿とさせる。「奉」と「納」の文字が左右の桶に分けて表示されているが、大きさは口径Φ890、高さは750ミリとなっている。

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「昭和35年(1960)5月8日」の造立と陽鋳されている鋳鉄製の1対だが、鋳造者や奉納者名など他に文字は見当たらない。石の台座に嵌め込まれている銘版に見える「建築委員」13名が奉納者であろうか。

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●西小松川町の浄土宗、無量山西方寺中台院は、「享保2年(1717)に将軍吉宗が放鷹のため、当地を訪ずれたときに将軍御膳所(休息や食事をする場所)にあてられて以来、幕末まで将軍の御膳所でした。

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吉宗は、頻繁にこの地へ来て、鷹狩りをおこないました。自ら紀州(和歌山県、吉宗はもと紀州藩主)から呼び寄せた綱差役(獲物となる鳥の飼育などをする役)加納甚内がこの地にいたこと、当時この地には鵜が多く飛来していたことによると思われます。
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吉宗、家重、家治の三代で、百回以上もこの地で鷹狩りをしており、その大半は仲台院を御膳所にしています」という(江戸川区教育委員会掲示より)。徳川家とは、随分関わり深い寺のようで、区登録史跡の甚内の墓もここにある。寛保3年(1743)に没しているが、子孫は代々綱差役を世襲したという。

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●社殿に似合わず、口径Φ560、高さ500ミリほどの小さな鋳鉄製の天水桶1対だが、表面に描かれているのは天女であろうか、優雅に漂う姿が目を引く。さらに正面には小さいながらも、20ミリも張り出した「葵の御紋」が見られ、徳川将軍家との由緒を証明している。

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「鋳造 高橋賢介 作 柳田貴司」が作者の銘で、左下に陰刻で確認できるが、地元の鋳物師であろうか。造立は「平成元年(1989)年4月4日」だが、平成時代になってからの鋳鉄製鋳物の天水桶はかなり珍しく2例目だ。もう1例の鋳鉄製桶は、前55項でアップ済みだが、板橋区四葉にある四葉稲荷神社のもので、作者は不明ながら、「平成8年(1996)9月吉日」の鋳造であった。つづく。