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●半年の充電期間を経て久しぶりの更新となるが、昭和年間(1926~1989)を通して多くの天水桶を鋳造してきた、川口鋳物師・山崎甚五兵衛の作例をアップしてみよう。

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当サイトでは、既に多くの作品を紹介してきているが、その前に人名について疑問があったので調べてみた。この山崎氏のように、「○兵衛」とか、「○右衛門」、「○左衛門」さんという古風な名をよく耳にするが、どういう意味を持つのだろうか。

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●これらは、京にいた天皇を守護する役職から発生した、武士にとっては名誉ある命名法であった。冷静に考えてみれば何も難解なことはない、漢字そのものが意味を成しているではないか。「門を衛(まも)る」と書いてある。

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どの門か?右の門であり、左の門だ。御所の中を衛るのが、「兵衛(ひょうえ)」だ。天皇のそれこそ身辺を衛るのが「近衛(このえ)」だが、こちらはあまりに恐れ多くて、一般的には使用をためらったという事だろう、多用はされていないようだ。
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例えば「平兵衛」さんであり、「源右衛門」さんであり、「吉左衛門」さんだが、時代が下るにつれて必ずしも武士専用の命名法ではなくなってきたらしい。命名法に一々制限やら法度があった訳ではないだろうから。イメージ画像は、後121項で見る山梨県南巨摩郡身延町の身延山永平寺の三解脱をあらわす三門だが、門の下の両側には、護衛者の詰所が存在する。

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●さて本題だが、まずは、台東区西浅草にある、浄土真宗東本願寺派の善龍寺。山号は存在するのかどうか不明だ。金森五郎左衛門長秋が、天文21年(1552)に創建し、明暦の大火後の寛文10年(1670)に広大な浅草本願寺境内へ移転したという。山門から本殿までの距離が無く、全体を映し込めない。

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天水桶正面のこの紋は、「抱き牡丹」であろう。百花の王とも呼ばれる花だが、日本では古来より、美女の代名詞として称されている。公家の近衛家の家紋として使用され、菊、桐、葵に次ぐ高貴な家紋だ。

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鋳鉄製の1対は、「昭和38年(1963)9月28日」の造立で、作者銘は「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」だ。住職は、「16世 釋玄亮」の時世であった。この年は、10月26日に日本初の原子力発電所である東海村発電所が稼働していて、この日が毎年、原子力の日となっている。

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●台東区谷中の長清山養泉寺は、養泉院日要(元和元年・1615年遷化)が開山となり創建したという、日蓮宗の寺院だ。近隣は「谷根千」と呼ばれ親しまれる地域だが、多くの寺社が群集している。谷中、根津、千駄木の略だというが、今や既に時流にとけ込んだ一般的な言葉となっている。

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額縁部に鋳出し文字があるのはかなり珍しく、「養泉寺 護持会」の寄進だ。この会は、文字通り、檀信徒が菩提寺を維持運営していくために存在するようだ。両方の桶の裏側には銘板が張られていて、多くの寄進者名が刻まれている。「長清山第30世 飯久保勝縁代」の時世であった。


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1対の鋳鉄製の桶は、手入れも行き届いていて、丁寧な塗装が心地よい。大きさは、口径Φ950、高さは940ミリだ。「昭和33年(1958)7月吉日」の造立でそこそこ古く、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」、初期の頃の作例だ。卍の紋様がぐるりを廻っている意匠も同氏の作例としては異例だ。

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●埼玉県さいたま市浦和区東岸町にある日蓮宗円蔵寺は、山号を長久山と称し、大本山池上本門寺(前22項)の末寺だ。寛正3年(1462)に千葉県夷隅郡総野村(現在の勝浦市)に創建されたが、明治19年(1886)、正法院日寛の代に現在地へ移転したという。

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1対の鋳鉄製の天水桶は、正面の井桁に橘の日蓮宗紋や、額縁の水龍神が金色に輝いていて目を引く。古代中国に発する想像上の動物である龍神は、水を司る水神として日本各地で祀られているが、雨乞いの儀式には欠かせない神だ。水を呼び寄せるべく設置される天水桶に描かれるのはこのためだ。

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●天水桶を下で懸命に支えている3匹の獅子脚のデザインも凝っていて、かなりリアルに表現されている。前14項の川口市宮町・光輝山本覚寺や、前24項のさいたま市浦和区岸町・調神社(つきじんじゃ)で見た獅子脚と同じだ。

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大きさは口径Φ980、高さは1.050ミリで、銘は「昭和48年(1973)6月吉祥日」、「川口市 山崎甚五兵衛」作となっている。住職は「第5世 日宣代」の時世であったが、この地に移転してから140年弱で、まだ歴史は浅いという解釈になろうが、創建以来の長い歴史はどう捉えているのだろうか。

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●台東区上野公園、JR山手線の鴬谷駅近くの寒松院は天台宗だ。開祖である城造りの名人と称される、藤堂高虎(前33項)の戒名をそのまま寺名にしたものだという。藤堂家の墓所が非公開なのは残念だが、「旧津幡主 藤堂高虎公 開創之」という石碑が立っている。

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寛永年間(1624~)の創建になるが、徳川家とも深い縁な訳で、寛永寺(前13項)三十六坊の1つだから、山号は「東叡山」だ。一説によれば、「上野」という地名も、高虎公の領地である「伊賀上野」に由来するという。


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●一方、近くには上野動物園があるが、その敷地内に「閑々亭(かんかんてい)」がある。寛永4年、徳川秀忠、家光が、上野東照宮(後64項後74項)への参詣の折立ち寄ったという高虎ゆかりの家だ。「武士も風流をたしなむほど世の中が閑(ひま)になったので、閑々亭と名付けるがよかろう」と言われた事による命名という。

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寒松院は、明治元年(1868)の彰義隊(前23項後101項)の戦いで焼失、その後の明治11年5月、その庭に存在した閑々亭だけが、元々のこの場所に復旧され今日に至っている。上野動物園は、明治15年に開園した日本最初の動物園だが、それに伴い寒松院が移転したのだろうか。

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●寒松院にある鋳鉄製の天水桶の正面に据えられているこの団扇のような寺紋は、「変わり羽団扇」であろうか。武将が、陣営で采配を揮うために用いた「軍配」のイメージでもなく、少なくとも、藤堂家の「蔦紋」ではない。

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大きさは口径Φ920、高さは910ミリで、狭い境内に見合った1対だが、サビが目立ち始めている、そろそろ手入れをして欲しいところだ。後79項で見るように、リニューアルすれば甦るのだ。「昭和42年(1967)10月8日 川口市 山崎甚五兵衛」の造立で、「本堂落慶記念」での奉納であった。

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●埼玉県三郷市高州の阿弥陀院香取山宝蓮寺は、通称、八木郷戸ケ崎めぐりの「三郷七福神」のうちの福禄寿だ。手書きの説明板によれば、木造阿弥陀如来立像は、市指定の文化財となっている。この立像は、材質がひのき材の寄木造りで、作者不詳ながら室町時代中期の作という。

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1対の天水桶は、堂宇前のバランスの良い位置に鎮座している。「第46世 現住職 鈴木常英」の時世で、正面に「輪違い紋」が見られる。これは、戦国武将の「賤ケ岳合戦の七本槍(前42項後57項)」の1人、脇坂安治が家紋としていた。

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この戦いは、天正11年(1583)4月、近江国伊香郡(現滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いだ。これは織田家の勢力を二分する激しいものとなり、勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人への第一歩を開いている。

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「昭和57年(1982)8月吉日」造立の鋳鉄製で、「川口市 山崎甚五兵衛」の鋳出しは、いつもと同じだ。この年には、東北新幹線の大宮駅から盛岡駅間が開通している。現在この路線は、日本最長の営業キロ713.7kmを有し、線内の白石蔵王駅と仙台駅間の25.7kmは、日本最長の直線区間だ。また、上越新幹線の大宮駅から新潟駅間も開通しているが、これは本州の太平洋側と日本海側を横断して結ぶ初の新幹線であった。


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●江戸川区東葛西にある真言宗豊山派、覚王山神宮寺自性院。文亀元年(1501)寂の、良範法印を開山とする旧長島村の古刹で、本尊には大日如来像を祀っている。参道入り口の観音菩薩像庚申塔には、寛文3年(1663)の銘があるが、区の登録有形民俗文化財に登録されている。

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「弘法大師降誕 千二百年記念」に、「檀家一同」が奉納しているが、ここにも「輪違い紋」が見られる。この紋は、「和」が連鎖し広がっていくようで親しみやすく、加えて宗教的由来などが相俟って広まったという。

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面積が狭い石の台座の上に、不安定そうに1対の天水桶が載っている。銘は「昭和48年(1973)6月」の造立で、「川口市 山崎甚五兵衛」作、鋳鉄製の桶だ。この年は、ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家間の戦争である中東戦争による、第一次オイルショック始まりの年であった。原油の供給逼迫および原油価格の高騰により、世界の経済は大混乱している。

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●同じく江戸川区東葛西にある八雲神社。当地が海岸であった元禄初年(1688~)に水神を祀り水神社として創建、安政年間(1854~)に名主八郎兵衛が下総印内から八雲神社の分霊を勧請して合祀、一般に八雲神社と呼び習わされている。昭和26年(1951)6月に建てられた石碑によると、「素戔雄命を祀る病疫退散の守護神として、村郷地方の崇敬信仰篤い」とある。

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天水桶に繋がる導水チェーンが凝っていて、しばし見入るが、こちらも石製の台座が小さ過ぎてずり落ちないかちょっと心配になる設置法だ。高さ80cmという高めの石の台座は、水害除けのためであろうか。

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「昭和46年(1971)6月 宮司 加藤敦久」、「川口市 山崎甚五兵衛」銘で鋳鉄製の1対だが、大きさは口径Φ920、高さは960ミリとなっている。別の石碑には、同年6月28日付けで「八雲神社改築之記」があって、昭和26年に完成した旧社殿の新築記念での奉納である事が判るが、周囲には、多くの「責任役員」の氏名が並んでいる。

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●続いては千葉県から2例だ。千葉県富津市富津の貴布祢神社は、富津岬の先端近くに鎮座している。多くは貴船神社と記されるのだろうが、京都市左京区の貴船神社が、全国に約500社近くある総本社だ。水神である「たかおかみの神」を祀っているが、古くから朝廷による祈雨の神として信仰されてきている。

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1対の天水桶は、口径Φ900ミリ、高さは1.2mの鋳鉄製で、奉納は、漁船の「友栄丸」となっている。この漁師さんは神社の有力な氏子のようで、境内の「いわし供養塔」なども寄進している。富津港は、浦賀水道の潮の流れが速い鰯の好漁場なのだ。

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●横側には、「昭和39年(1964)9月9日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」という銘が陽鋳造されている。漁師の崇拝心が、遠いこの地に川口鋳物師を呼び寄せたようだ。

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この年は、第18回東京オリンピックが開催された年だ。昭和天皇が開会を宣言し、93ケ所の参加国・地域で20競技163種目が競われている。2012年のロンドンオリンピックは、同204カ所、26競技302種目であったので、年々規模が拡大している。

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●千葉県香取郡東庄町宮本の東大社の創建は、景行天皇53年という。以来、歴代天皇の崇敬が篤く、康和4年(1102)に堀河天皇より「総社玉子大明神」の称号を受け、享徳3年(1454)には後花園天皇から勅額が贈られている。歴代天皇の他、寿永3年(1184)、源頼朝が御厨一処を寄進し、徳川家康も天正19年(1591)に神領10石を寄進している。(ウィキペディアより)

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天水桶は大きな鋳鉄製で、口径Φ1.3m、高さは1.1mもあるが、存在感のある1対だ。奉納理由は、「昭和45年(1970) 第52回 式年大神幸記念」で、「東大社宮司 飯田秀真」の時代であった。

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●式年神幸祭は、20年毎に執り行われる銚子市高神の浦への神輿の御幸だ。ここの神輿は、総欅製で重量は1トンという。文政13年(1830)に新調され、神幸祭の度に修理され受け継がれてきている。鳳輦(ほうれん)は、鳳凰の飾りがある神の乗り物であるが、現在のものは、天水桶奉納と同じ昭和45年に新調されたという。

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桶の額縁には青海波紋様が描かれている。波を扇状に表した幾何学模様だが、大海原の穏やかな波のように、泰平な世が続くようにという願念が込められた吉祥紋様だ。そして、大きな体躯に見合わず小さく鋳出された銘は、「川口市 山崎甚五兵衛」であった。

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●続いては、栃木県鹿沼市下永野の御嶽山神社。掲示板によれば、「弘仁3年(812)に空海上人が開山したと伝えられ、三峰山大神・御嶽山大神が祭られています。長野県木曽御嶽山の信仰をひき、関東一円に多くの信者がいます。冬至の日には厄除け祈願の行事である、お焚きあげが行われにぎわいます。」とある。

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境内からは、三峰山権現様や御嶽山お岩戸へのハイキングコースが開かれている。古来より神々が宿る霊山として信仰されて来た山々で、御嶽山は、北辰様、星宮とも言われ、三峰山は、大日如来御祭祀の地として知られる。堂宇前に鎮座する鋳鉄製の天水桶の大きさは、口径Φ930、高さは940ミリとなっている。

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●正面には、御嶽信仰にゆかりの「山に丸三」の紋章がある。丸は宇宙を表し、3本線は宇宙の根本仏である胎蔵界・大日如来、不動明王(前20項)、摩利支天(前40項)を意味する。大日如来は御嶽山座王権現三十八座の中の日の権現であり、その分身が不動明王であり、摩利支天であるという。額縁を廻る紋様は、この紋章をもじって丸の中に「北」の文字が埋め込まれている。

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1対の奉納は、「外講中一同 北辰講日向講社」で、先達や世話人の名前が並んでいる。「昭和38年(1963)9月吉日」の造立だが、神職によれば存命の方はもういないという。作者の銘は、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」だ。

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●最後の港区高輪の臨済宗妙心寺派、佛日山東禅寺は、江戸時代末期に、初のイギリス公使館が置かれたことで知られる。明治6年(1873)ごろまで使用された奥書院と玄関は当時のままであり、東京都指定文化財だ。イギリス初代公使オールコックらがここに駐在していたかと思うと、感慨も一塩だ。

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立ち入り禁止の柵があって、本殿前へは行けない。1対の天水桶は、かなり腐食が進んでいるようだ。正面に見える家紋は、「九曜」ではない。よく見ると丸(星)が10個あるから「十曜」だが、異例だ。寺の門扉にも見られるから間違いではない、なぜだろう。

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ここの開基は日向飫肥(おび)藩の2代城主、伊東祐慶(すけよし)で、寛永13年(1636)に48才で没している。格の違いからか、同じ家紋の熊本藩、細川家と識別するため3代藩主以後は、丸を1個増やしているのだ。現在の宮崎県日南市の飫肥城内の「松尾の丸」の屋根瓦にも、この「十曜紋」が見られるという。画像の梵鐘の撞座の下に配されているのも十曜紋だ。

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●天水桶の銘は、可能な限り接写して「昭和38年(1963)7月」を確認。設置されている角度からして鋳造者名は判然としないが、桶のデザイン形状、年代、字体からして、山崎甚五兵衛作と判断してよかろう。後79項では、リニューアルされた状況を見ているのでご参照いただきたい。

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今回特集した川口鋳物師・山崎甚五兵衛は、昭和期を代表する天水桶鋳造のトップメーカーとして君臨していた。当サイトでは、延べ20項ほどで登場しているが、特集を組んだ主な項をここに記しておこう。前1項前24項前27項前41項前50項後57項後84項後102項後106項後114項後128項後132項などだ。つづく。