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●年が改まり、修復工事中だった台東区上野公園の東照宮(後74項後107項)は公開が始まったことと思うが、大変な混雑であろうから、いまだ参拝がはばかられる。公開前の旧年中、社殿の手前までは立ち入り出来たので訪れてみた。

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参道にある説明板の略記によれば、祭神は徳川家康、吉宗、慶喜だ。さらに「元和2年(1616)2月、見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎(前33項前56項など)と天海僧正は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された。


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そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に、寛永4年(1627)に本宮を造営した。その後、将軍家光はこの建物に満足出来ず、慶安4年(1651)、現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした」とある。

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●社殿、透塀、唐門、大石鳥居は、国の重要文化財に指定されている。画像は、深川木場組合が奉納した神楽殿で、明治7年(1874)に「勾配の美、都下随一」との表現がされているが、それは屋根の勾配のことであり、花見の時期には御神楽の奉納が行われている。

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その両脇に鋳鉄製の天水桶が1対鎮座しているが、製造日や製造者名は一切鋳出されていない。大きさは、口径Φ1m、高さは840ミリだ。前面に飛び出ている3個の突起物は、恐らく葵の紋章を固定していたボルトだろう。サビで見苦しいが、多くの参拝者がある場所だけに、社殿同様にこれも修復が待たれるところだ。

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●ここの参道には、48基もの銅灯籠(後74項)が並んでいて圧巻だが、その中に手水舎がある。石製の水盤に刻まれた銘は、「奉献 石御手水鉢 慶安四年(1651)孟春吉辰」で、春の始まりの「孟春」のこの日は、居並ぶ銅灯籠と同じく、家康公の36回忌に当たっての諸大名の奉納日、かつ、社殿造営替えの落慶日だ。

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奉納者は、「従四位下 阿部対馬守 藤原朝臣重次」だが、重次は、武蔵岩槻藩2代目藩主で、主君家光のもとで老中職を務めている。家光は、しばしば日光東照宮に社参しているが、江戸からの1泊目が岩槻にあたり、城主である重次が接待にあたっている。慶安4年4月20日、家光が死去すると、享年54才にして殉死している。手水鉢の奉納後、間もなくであった。

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●屋根の下には、青銅製の大鈴が掛かっている。目測ながら、大きさは直径、高さ共に70cmほどだろう。上の画像の左側に見える狛犬を彫った、「明治七甲戌年(1874)六月 駒込肴町(現文京区向丘) 願主 石屋八右衛門」の奉納だ。同人は酒井八右衛門(前19項)で、「井亀泉(せいきせん)」の名で名石工として知られ、「廣郡鶴(こうぐんかく) 窪世祥(くぼせしょう)」と共に、江戸三代石匠に数えられている。(説明板による)

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余談ながら、窪世祥が彫ったという石碑がある。台東区浅草の金龍山浅草寺(前1項前6項後76項後85項など)の境内で、「正観世音菩薩碑」という石碑だ。『銘文は長年の風雪により摩滅が進んでいるが、「文」や「窪世」とわかる所が残されていることから、江戸時代の有名な石工の(大)窪世祥が、文化・文政年間(1804~)頃に文字を彫ったと思われる。他にも世祥の金石は三基、境内に残されており、当寺にも関わりの深い人であった」という。

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●鈴の上部には、「東照宮」と目立つように大きく囲い込み彫りされている。誰も気に留める人は居なさそうだが、願主名の真裏には、鋳造者銘が陰刻されている。鋳造時期は不明ながら「川口住 鋳物師 永瀬八五郎」という銘だ。

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諸書にはあまり名が見えない鋳物師で詳細は不明だが、その姓からして川口鋳造業の大家、永瀬家の系統である事に間違いなかろう。この大鈴の存在自体が知られていない様だが、記録に残すべき名物であるに違いない。

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●八五郎の鋳造物の記録が1つだけある。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」だが、これに記載されている出典根拠は、「川口市勢要覧(昭和9年)」などのようだ。

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この年表に「明治11年(1878) 神奈川県伊勢原市大山 (雨降山)大山寺(前63項) 銅大振鈴1対 永瀬八五郎」とあるが、現存はしていない。これも、普通イメージする薄い銅板細工の鈴ではないようで、鋳造された大きな銅製の鈴2個だろう。察するに、東照宮の大鈴もこれと同じ頃の造立と思うが、実に貴重な記録だ。

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●ところで、東照宮がある上野公園内の大仏山には、かつて上野大仏があった。寛永寺教化部によれば、像高約6mの釈迦如来坐像であったが、度重なる罹災により損壊し、昭和47年(1972)、寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に安置、保存されている。

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銘は何も存在せず作者は不明のようだが、当初は寛永8年(1631)に、 越後村上藩主、堀丹後守直寄が戦死者慰霊のために建立している。「瓦吹」という手法により、下から順次一部分づつの鋳造を繰り返し繋いでいったもので、鋳金工芸家・香取秀眞(後116項)によれば、これを「鋳がらくり(後127項)」と言う。


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●「度重なる罹災」とはどんな様相だったのであろうか。ウィキペディアから拾ってみると、「天保12年(1841)、火災により損傷、安政2年(1855)、安政大地震により頭部が破損。大正12年(1923)、関東大震災により頭部が落下。昭和15年(1940)、軍需金属資源として顔面部を除く頭部、胴部以下が金属供出(前3項)され消滅」だ。

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柔和な顔立ちからは想像もできないほど悲惨な運命をたどってきた訳だが、現在では、「これ以上落ちない」ということから、「合格大仏」として親しまれている。これからは、永劫に亘って平和に安泰にお過ごし頂きたいと願う。


●さて、最近出会った天水桶を見てみよう。まずは、北区滝野川にある浄土宗、思惟山浄業三昧寺正受院。室町時代の末、寺の裏にあった不動の滝に打たれて修行をしていた学仙坊という僧が、石神井川から不動の霊像をすくいあげ本尊としたことが、寺の由緒として説明されている。広く「赤ちゃん寺」として知られており、水子のための納骨堂である慈眼堂が、昭和29年(1954)に建てられている。

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「江戸名所図会」によれば、「泉流の滝ともいふ。正受院の本堂の後ろ、坂路を巡り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々(とうとう)として峭(しょう)壁に趨(はし)る、この境は常に蒼樹蓊鬱(おううつ)として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」とある。

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●石製の台座の上に、台座付きのハス花型の天水桶が1対載っているが、それらは鋳鉄製だ。異様なほど縦長なのが印象的で、このようなデザインの桶に出会ったのは初めてだ。

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作者は「名古屋市 鋳工 水野孝太郎 昭和3年(1928)3月建之」銘で、初めて知る鋳物師であった。明治12年(1879)に集計された「由緒鋳物師人名録」を見てみると、尾張国の欄に「愛智郡名古屋 水野太郎左衛門 尾張大納言義直郷 黒印」という記録を確認できる。明治期には、京都の公家、真継家(前40項)傘下の勅許鋳物師であったのだ。

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●「大納言義直」は、徳川家康の9男にして、尾張徳川藩の初代藩主、始祖だ。由緒の深さを感じるが、この人名録は禁裏鋳物師名簿であり、「水野孝太郎」がその系統の方だとすれば、ここの桶、そう易々と看過できない代物であろう。

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さらにこの人名録には、前後の文脈が不明ながら、「信長公朱印」と記録されている。朱印の使用が可能なのは、時の為政者だけだ。永禄年間(1558~)当時は、水野家は、真継家傘下に属さなかったようで、織田信長より朱印状を拝領し、尾張の地で御用鋳物師として活動していたのだ。

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●文書によれば、「信長から梵鐘などの鋳造、課役免除の特権を認められ、また熱田の地において、他の鉄屋(鋳物師)が吹屋(鋳造所)を立てること、その承認を得ずに他国より鍋釜を移入する事を禁止する」など手厚い保護を受けている。イメージ画像は、過日訪れた、愛知県名古屋市熱田区の尾張国三宮熱田神宮。

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確かに、文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記(真継家)」や文久元年(1861)の「禁裏諸司 真継家名寄牒写」の「愛智郡名古屋」の欄は空白で、何の誰の記載も無い。ちなみにこの3冊の、「智多郡久米村」の欄すべてには「片山茂兵衛」のみが記載されていて、この地方では、両巨頭が違った権威を背景に鋳造活動をしていたのが判る。

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●水野の作例を1例見ておくが、愛知県名古屋市の名古屋城内(後99項)の展示物の擬宝珠だ。「現在の西区円頓寺筋の堀川五条橋の欄干を飾っていた。慶長7年(1602)、尾張の鋳物師頭であった水野太郎左衛門二代の作と伝えられている」と説明されている。他にも、水野家が鋳た名古屋市千種区の大雄山性高院の銅鐘も市指定の文化財となっている。


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●続いての、北区東十条にある常住寺は、本門佛立(ぶつりゅう)宗。開導聖人と言われる、中興の祖・日扇(にっせん)聖人は、文化14年(1817)の京都生まれという。門祖日隆聖人滅後、その法義、宗風がまさに絶えようとする時、本門佛立講を開いたという。(ホムペより)

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お堂の前にある鋳鉄製の常香炉は、川口市の人が「開延式記念」として「昭和34年(1959)10月3日」に奉納しているが、何の開延であったのだろうか。センターには寺紋が据わっているが、初めて見る紋様で呼称は判らない。周囲には、落款の様な紋様の連続があるが、これも摩滅が激しく判読出来ない。口径はΦ680ミリだ。

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●3脚の台座も鋳鉄製で、総高は630ミリとなっていて、台座の上面に「長谷川五平 野口益太郎作」という陽鋳造文字が見られる。「作」とあるから鋳造業者であろうが、この人達の詳細も不明だ。後述の秋本の従者であろうか。


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本体の香炉の作者は、川口鋳物師の秋本鋳工所だが、いつもの簡潔なスタイルの鋳出し文字で「秋本謹製」とだけある。何例か紹介してきた通り、天水桶の鋳造もしていた業者だが、その作例については、前21項に全てを見られるリンクを貼ってあるので、ご参照いただきたい。

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また、前13項の墨田区向島・久遠山常泉寺、前54項の市川市中山・正中山遠寿院(おんじゅいん)や、川崎市川崎区旭町・薬王山医王寺でも確認したように、火鉢や香炉などの製造も得意としていた業者だ。なお作者未確定ながら、後69項でも同等の香炉を見ている。

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●お初の川口鋳物師に出会ったので、2名をアップしたい。まずは王子の飛鳥山にほど近い、北区王子滝野川の滝野川八幡神社は、建仁2年(1202)創建ともいわれる、滝野川村の鎮守だ。戦前まで、社務所は東京種子同業組合として利用されていて、滝野川ニンジンなどの種子相場の協定をしていたという。(掲示板を要約)

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現在の本殿は、明治17年(1884)に改築され、拝殿は大正11年(1922)に修築されているが、この鋳鉄製の天水桶1対は、その翌年の「大正拾二年六月吉日」の奉納であった。賽銭箱も同時に「奉献」されていて、「社殿改築紀念 大正拾貳年六月廿六日」と刻まれている。

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大きさは口径Φ930、高さは935ミリの3尺サイズだ。陽鋳造の銘は「武州川口町 石原製」で、お初にお目にかかる鋳物師だが、昭和初期の、「川口商工人名録」や「川口鋳物工業組合員名簿」にも登場せず、詳細は不明な人物だ。

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●江戸川区北葛西の正一位、宇喜田稲荷神社は、現在の宇喜田町や葛西地区の氏神様だ。この近辺は江戸幕府開府前後に、小田原北条氏家臣の宇田川喜兵衛定氏が開拓した地域であり、寛永20年(1643)頃の創建と伝承されているという。2階建ての社殿だが、昭和53年(1983)に「神社改修工事奉賛会」が立ち上がり、低湿であった境内の土盛工事が施工されている。宮司「秋元重五郎」の時世であった。

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社殿への階段を登った高い位置に、1対の鋳鉄製天水桶が設置されている。稲荷社の紋章が見られ、「氏子中」の奉納であった。大きさは口径Φ1.180、高さは1.080ミリの大きな4尺サイズだが、狭い踊り場にあってはかなりの存在感だ。

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銘は、「埼玉縣川口町 鋳造人 高橋八郎 高橋庄次郎 昭和3年(1928)3月吉日」で、やはり、お初の川口鋳物師だ。同姓のこの2人は近親同士であろうか。川口市の市制施行は、昭和8年4月1日であったから、まだ「川口町」の時代だ。


●高橋氏作の桶がもう1例ある。そう離れた場所ではない、江戸川区新堀の新堀日枝神社だ。寛永2年(1625)、葛飾の正福寺の空鏡法印が当地に山王権現を勧請していて、旧新堀村の鎮守社であったという。社殿や境内整備は、昭和56年(1981)10月に8千万円を掛けて造営されていて、現代風に甦っている。

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前例の宇喜田稲荷神社と同じような形状の鋳鉄製の1対で、大きさは口径Φ900、高さは810ミリの3尺サイズだ。同じ意匠の縮小版の挽き型(前33項)を使用し鋳造したのであろう、上部の額縁の意匠もほぼ同じだ。たまたまだろうか、施されている塗装色も近しい。

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●「鋳造人 川口町 高橋庄次郎 昭和7年(1932)6月吉日」銘だが、4年後に製作されたこの桶に、今度は「八郎」の名前がない。先ほどの「川口鋳物工業組合員名簿」は、昭和16年(1941)3月に発刊されていて、540社もの鋳造工場名が記載されている。

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この中に、「川口市寿町 高橋鋳工場 代表者 高橋庄次郎」が登場するが、ここで鋳造されたに違いなかろう。一方、「本町4丁目 (合)第一鋳造所 高橋八郎」も登録されていて、この何年かの間に、庄次郎と八郎は、袂を分けただろうことが判る。

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●また、秩父市の秩父神社(前45項)や川口市の川口神社(前1項)には、川口鋳物師の鈴木文吾や山崎甚五兵衛が鋳造した天水桶があるが、高橋八郎は、ここの銘に名を残している。あるいは、下の画像は、昭和初期の広告だが、「合名会社 第一竈(かまど)本店 代表者 高橋八郎」だ。

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写真付きで、「回転自動 消火装置 登録商標 文化第一コンロ」と謳っているが、キャッチフレーズが凄い。「専売特許 体裁優美 モダン型」、「工学博士 西岡政敏先生の世界的大発明 瓦斯(ガス)よりはるかに德だ・・ 木炭七厘で一升の御飯が焚ける」となっている。それにしても幾多もの組織変更があったようで、また社名が変更されている。


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●さてお次の、荒川区荒川の長盛山法界寺は、掲示板を要約すれば、長保年間(999~)に長盛居士が開基となり創建したと伝わる。江戸時代後期には、近隣の清瀧山観音寺(前11項)と共に、将軍の「鶴お成り」の際の御膳所にあてられていた。因みにその観音寺は、明治通りを挟んだ反対側にあるが、そこには川口市の田中鋳工所製の桶があって既にアップ済みだ。

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上の画像では見難いが、本堂右側の手桶棚の奥に、1基の末広がり形状の鋳鉄製の天水桶があり水を湛えている。鋳型に刻む文字を天地逆にしてしまったかの様な印象だが、高さは900ミリ、上部の口径がΦ750、下部がΦ820だから下膨れなのだ。

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●天水桶は、通常は上部の方が大きい口径のはずだが、このような鋳造物は一体何であろうか。1基しか無い事からしても、これは本来、井戸の崩落を防いだり人の転落を防止するための井戸側(前3項後68項後81項後98項後101項後116項など)であったかも知れない。画像は、都内文京区本郷の東京都水道歴史館で見た井戸端の情景の模型。

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鋳出し文字は、「埼玉縣川口町 製造人 中島音(春?)吉 明治44年(1911)第12月造」で、中央に山号の「長盛山」が見える。中島氏と言えば、過去に見てきたのは、「新宿区西早稲田・水稲荷神社(前36項) 川口町 中島鋳工所 昭和3年(1928)」と「同高田馬場・諏訪神社(前46項) 川口町 中島工場鋳造 大正15年(1926)」であったが、年代的に近いことからして、同系統の人物による鋳造と考えてよかろう。

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●本項の最後は、千葉県市川市真間、京成本線国府台駅近くの手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)。ここには、安産子育てにご利益があると伝承される伝説上の女性「手児奈霊神」が祀られている。美女の手児奈は多くの求愛に悩み、騒動を嫌い、沈む夕日に倣って海に身を投げたという。ここから北西へ数百メートルのところにある真間山弘法寺(ぐほうじ)は、手児奈の慰霊のために建立されている。

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掲示板によれば、日蓮宗寺院の弘法寺は、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、その後の平安時代、弘法大師空海が七堂を構えて真間山弘法寺とし、さらにその後天台宗に転じたとされる。鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教を受けて、建治元年(1275)、時の住持了性が日蓮の弟子で、中山法華経寺(前55項)の開祖日常との問答の末敗れ、日蓮宗に転じている。

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周辺の情景は、万葉集に詠われたり、歌川広重が「名所江戸百景」にも描いている。「真間の紅葉手古那の社継橋」で、紅葉の名所弘法寺から真間方向を望んでいて、中央には、山門にあった継橋を描いている。ただ、この構図は南を見ているはずなので、実際には遠方に筑波山らしい山は見えないという。
広重・真間手古那つぎ橋

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●霊神堂前には、1対の鋳鉄製の天水桶がある。大きさは口径Φ770、高さは760ミリだが、表面には紋章や文字などの表示は一切無い。造立年月の手掛かりは石の台座だけで、「明治36年(1903)9月吉日」らしき陰刻がある。奉納は、「(東京府)東京市本所区吉岡町」の人達だが、東京市は、明治22年(1889)から昭和18年(1943)まで存在していた市だ。

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軒下にかかるワニ口は、どの史料にも記載が無い存在の様なので、ここに記録しておこう。右肩に「手児奈女大明神」と、目立つように文字を一筆書きで結ぶように囲い込み、線彫りされている(前31項)。左肩には、「寛政七乙卯歳(1795)九月九日 西村和泉守作」 という線刻がある。

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西村家(後110項)は、江戸後期の鋳造業の大家であったが、このワニ口は、寛政10年に没している5代目の政平の作例だろう。西村家は、梵鐘や灯籠、宝篋(きょう)印塔、鳥居や擬宝珠など多くの作例を残しているが、高所にあって刻銘を確認し辛いワニ口のこの現存は貴重であろう。

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●本堂前にある1対の鋳鉄製の天水桶には、何の鋳出し文字も確認できないが、道路側のお堂脇に廻り込んでみると、先代らしい鋳鉄製の天水桶がある。1基のみだが、下方2、3割ほどが土中に埋没している。見えている部分の大きさは、口径Φ750、高さは540ミリだ。

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正面の紋様は、白い花を咲かせる多年草の「丸に立ち沢瀉(おもだか)」だ。別名の読みの「面高」から、面目が立つの意味で武人に愛用されたという。また葉の形が矢尻に似ている事から「勝ち草」とも呼ばれ、日本十大家紋でもある。

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●銘は「矢澤愛(?)吉 大正2年(1913)5月吉日」というサビついた桶だ。単に同姓と言うだけのつながりで見ると、「矢澤さん」としてこれまでに出会ったのは5例だ。挙げてみると、「新宿区新宿・西向天神社(前36項) 川越町 矢澤鋳工所 矢澤弥十郎作 田中喜次郎作 明治45年(1912)5月」。

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そして、「さいたま市緑区・宝珠山吉祥寺(前46項) 川越市 鋳工 矢澤四郎右衛門 昭和3年(1928)11月」、「和光市下新倉・氷川八幡神社(後92項) 武之川越 鋳物師 矢澤四郎右衛門 大正10年(1921)6月吉日」。

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「川越市喜多町・青鷹山広済寺(後98項) 矢澤四郎右衛門 大正2年(1913)9月」、「都内東村山市・野口不動尊大善院(後118項) 川越市 鋳工 矢澤四郎右衛門 昭和5年(1930)11月28日」であった。製造年月は近いが、かと言って同じ工場製であると判断するには少しばかり情報不足だろう。設置地域も都内、埼玉、千葉県とばらけているし。「近しい人達であるかも知れない」ということに留めておく。

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●先の明治12年(1879)に集計された「由緒鋳物師人名録」を見てみると、武蔵野国の欄に矢澤氏の名前が出てくる。「入間郡河越(現川越)東明寺村 矢澤四郎左衛門 安政6年(1859)正月当家継目」だ。

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また、文政11年(1828)から嘉永5年(1852)までの名簿「諸国鋳物師名寄記」では、「矢澤四郎右衛門」という名前を確認できる。両名簿には「左」と「右」の違いがあり、これは誤記であろうが、代々が「四郎右衛門」を名乗り、通称「鍋四郎」と呼ばれていた。
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いずれにしろ矢澤家は、鋳物師総括の京都真継家から職許状を受け、川越藩の御用達を務めていた訳で、これらの桶は、その矢澤氏系統による鋳造物であろうことは、容易に推測できよう。川越鋳物師の話が出たところなので、次回もそこから続けようと思う。つづく。