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●時の移ろいに抗せるはずもなく、早、半世紀を永らえてきたが、今更ながら、日々の中に驚きの種が散在している事に気付く。読書していても、未だにお初の漢字を見る事があるが、漢字の種類の多さには呆れるばかりだ。先日のこと、パソコンで「べっこう」と言う単語を調べていて、少なからず驚いた。装飾品などに加工される、飴色の「べっ甲細工」だ。

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画像の文字だが、読めもしないし書けもしないし、初めて見ると言っていい。確か素材は海亀の甲羅。漢字は象形文字だ、なるほど、「亀」の文字が入っている。調べると「タイマイ」という亀で、サンゴ礁が発達した赤道周辺の海域に暮らす、べっこうガメとも呼ばれる種で、日本の南西諸島が最北の生息地という。

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驚いたのはそこではない。この漢字、訓読みするとなんと「すっぽん」なのだ。海亀のはずなのに何故だろう。面白い説をみつけた。江戸時代後期までは、「玳瑁(タイマイ)細工」と言っていたらしいが、天保期(1830~)頃に出された「奢侈(しゃし)禁止令」を境に、「べっ甲細工」になったというのだ。

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老中首座の水野忠邦による、 贅沢禁止令であるが、この取締りから逃れるために、「これは高価なタイマイではなく、安価なすっぽんだ」と誤魔化し始まったというのだ。なるほど、語源は一々奥が深い。

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●さて、最近出会った天水桶を見てみよう。まずは、埼玉県北西部の児玉郡神川町に鎮座する、武州六大明神の1つ、金鑚(かなさな)神社(後95項)だ。武州六大明神は、小野神社(東京都多摩市)、二宮神社(東京都あきる野市)、氷川神社(さいたま市大宮区・前20項)。

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そして、秩父神社(埼玉県秩父市・前45項)、杉山神社(横浜市緑区・後118項)の6社を指すとされる。「金鑚」は、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源であるとされ、神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたと考えられている。(ウィキペディアより)

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ここの神社に参詣して固定観念が変わった。境内の説明文にもあったが、この神社には本殿が無く、背後の山全体を御神体にしているというのだ。本殿が無いのは、ここの他、長野県の諏訪大社と、下の画像の奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社だけであるという。

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●下の画像は、聖域の山への山門であるが、当然、出入りは出来ない。山岳信仰とは、山を神聖なものとして崇拝崇敬するものだ。山は、噴火や雷鳴、稲光などの脅威で人の立ち入りを阻む厳しさを持つ一方、雄大な容姿は人心を引き寄せ、水や食料、建築資材や燃料などの恩恵を与えてくれる。

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人知など及ぶべくも無い、山への畏怖と尊敬、それが山岳信仰の原点だ。寺院の呼称には山号があるが、山岳信仰に端を発している。寺院の門を「山門」と呼称する習慣も同様の観念だろう。

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●拝殿前の1対の天水桶は、作者不明の青銅製で、「平成2年(1990)11月吉日」の造立だ。大きさは口径Φ930、高さは940ミリとなっている。額縁にいるのは、神馬だろうか、獅子だろうか。「武蔵二宮 金鑚神社 宮司 金鑚和夫」と記され、今上天皇の「御即位記念」での奉納であった。金鑚家は、代々が宮司をお勤めのようだ。

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染色(後62項)したのであろうが、このウグイス色はどうやって出したのだろう。神紋は、葵紋や柏紋のようにも見えるが、「丸に三つ蔦(つた)」であろう。優雅ながらも絡みついて離れない様から、芸妓や商人にも好まれた家紋だ。江戸時代には、築城の名手・藤堂高虎(後56項)、江戸城最後の大奥御年寄・瀧山(前3項)らが使用していたという。

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●墨田区の八広にある日枝神社は、荒川沿いにある。この地を開拓した住民が氏神として祀ったと伝わり、慶長19年(1614)に創建したという。結構な古社だが、大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀っている。名前の「くい」は杭のことで、大山に杭を打つ神、つまり大きな山の所有者である神を意味する山の地主神であり、また、農耕や治水を司る神ともされている。

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1対の天水桶は、「昭和50年(1975)6月吉日」に、地元の板金業者であろう方が奉納している。ステンレス製だが、いかにも現代技術ならではの作で、口径Φ900、高さ900ミリの3尺サイズだ。薄い板をロール状に巻いて、上部の枠と底板を溶接したのであろう。

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これも珍しい。なんと賽銭箱もステンレスの板金製だ。投げ込む賽銭の音も独特でお見事。隣りにある境内社の、木下稲荷神社の天水桶と賽銭箱も、一回り小さいが同様に板金製だ。正面に据わる「三つ巴紋」は立体的で艶めかしいが、業者渾身の作品であろう。

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●続いて、埼玉県戸田市笹目の真言宗豊山派の宝蔵院。創建年代等は不詳ながら、阿弥陀如来像を本尊としている。中山道の17号線、新大宮バイパスのすぐ東、笹目東小の南側にあって狭い境内だが、ここによく手入れされた天水桶が1対ある。

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「鋳造 布施銈三(けいぞう) 檀信徒一同 昭和56年(1981)7月吉日」銘の青銅製で蓮弁形だが、鋳造者の詳細は不明だ。住所なり会社名なり、もう一情報あれば調べようがあるのだが(後54項参照)。梨地調の鋳肌であり、排水用のドレンコックも備わっているし、デザイン的にも富山県の名匠、老子製作所の作例である感じがするがどうであろうか。老子社に関しては、前8項後86項後93項などをご参照いただきたい。

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●さいたま市南区太田窪の曹洞宗、護國山極楽寺守光院の天水桶は、石製だ。佛日金蓮禅師(元和3年・1617年寂)が開山しているが、開基は、源頼朝の家臣の佐々木三郎守綱だ。慶安2年(1649)には、寺領10石9斗の朱印状を拝領している。

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第4代将軍徳川家綱の治世は、慶安4年から延宝8年(1680)であったが、「守綱」の文字を改めて「守光」院としたのは、時の為政者の諱(いみな)の文字を憚ったためで、これは縁起に記されているという。諱とは人の本名の事だが、当時はみだりに本名を呼ぶのは礼儀に反する行為であったという。「諱」は「忌む名」からの転訛だろう。

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例えば、徳川家康を指す時は、「内府様」とか「大御所様」とかというように、その役職や住居する場所で称するのが当たり前であった、あるいは、大名同士では、「越前守」とか「備前守」などで呼び合い、本名、諱を発する事はなかった。よって、寺の呼びを変更するほど重要な慣習であったのだ。

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最近はよく、自由奔放なデザインの天水桶にお目にかかるが、これは何のイメージだろうか。つくばい(前11項)であろうか。口径は1.2mほどだ。8角形の台座には、「平成10年(1998)3月吉日」に菩提供養のために奉納された旨、刻まれている。

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●墨田区八広の三輪里稲荷神社。『通称「こんにゃく稲荷」と呼ばれて人々の信仰を集めて参りました。「こんにゃく稲荷」のいわれは、初午の日に当社が「こんにゃくの護符」を授与され、これをいただき煎じて服用すれば、のどや風邪の病に効くとされることに依ります』、と掲示板にある。

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鋳鉄製で、鋳肌が実にきれいな天水桶1対だが、丁寧に手入れすれば新品同様に甦る良い例だ。正面には大きく美麗に、稲荷紋が描かれているが、奉納した「氏子一同」さん達の気合いが感じられる。

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銘は「岡崎市 服部工業(株)鋳造 昭和参拾貳年(32年・1957)8月吉日」だが、同社のホムペによると、「1885年~初代社長・服部太朗吉が江戸時代、岡崎藩の御用鋳物師であった安藤家の世業を継承して鋳物業を営む」とある。愛知県の岡崎市だが、1885年は明治18年だ。現在は主に、業務用の厨房機器を製造販売しているようだ。(後61項後97項参照)

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●次は港区北青山の浄土宗、寂照山唯心院高徳寺。晃誉上人居的和尚(元和9年・1623年寂)が開山となり、天正7年(1579)に創建している。本尊は阿弥陀如来で、恵心僧都の作と伝わっている。同人は平安中期の天台宗の僧で、寛仁元年(1017)、76才で寂している。ここの堂宇前に1対の天水桶がある。大きさは横1.1m、奥行き90cm、高さは95cmだ。

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正面に「三つ葉葵紋」が確認できる。ここは京都知恩院の末寺であるというが、徳川家系統と所縁のある寺なのだろうか。過去に見た、文京区お茶の水の湯島聖堂(前10項)には四角い天水桶があったが、それを彷彿とさせる1対だ。しかし、磁石で確認するまで判らなかったが、実はこれはコンクリート製だ。苔むしていて茶色いので一見鋳鉄製に見えるが、上手く情景に溶け込んでいる。

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●大田区久が原の日蓮宗、長久山安祥寺にも四角い天水桶がある。ここは寛永6年(1629)11月に、安詳院日憶(慶安5年・1652寂)が開山している。桶は、「昭和40年(1965)10月 長久山 第19世 日明代」に、檀家によって父母の菩提供養のために奉納されている。

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その表面のどこにも作者銘は記されていない。本体の大きさは横1.060、奥行き1.020、高さは1.090ミリ、台座を含めた総高は1.7mとなっているが、存在感のある大きな鋳鉄製の1対だ。

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「大田区の寺院」には、「堂宇ははじめ庵室程度のものであったが、元禄年間(1688~)に4世経王院日照によって立派な堂宇が建立された。この堂宇は大正15年(1926)に17世竜徳院日充によって大修復されたが、戦災を受け焼失した。18世日芳は、昭和22年(1947)5月に約25坪の仮堂を再建したが、昭和40年10月に現住の発願で現在の堂宇が建立された」とある。桶の奉納は、これを記念しての奉納でもあったのだろう。

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●新宿区高田馬場の諏訪神社。境内の掲示板によれば、「鎮座ノ儀ハ 弘仁年中(810~)、従三位左大瓣・小野篁(おのの たかむら)朝臣(あそん)、祭祀ト言」とある。ウィキペディアによると、徳川家の鷹狩と深いつながりを持ち、絵馬などが保管され、また、古来より眼病、諸病に霊験有りとする地下霊水が湧き出しているという。朝臣とは、朝廷との繋がりがあることを意味する呼称だ。

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4尺弱の大きな鋳鉄製の桶1対で、存在感充分だ。参詣者も多いようだが、誰も一瞥もくれていないようで不思議。神紋は、諏訪神社の象徴である「丸に梶の葉」だ。花よりも、複雑なシルエットの葉の方が独特で、ここのも葉脈までが詳細に表現されている。

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●多くの「諏訪若」の奉納者名が鋳出されているが、眺めていると、この時代の名前の流行りが見える。「善太郎、福太郎 半次郎 銀次郎 文五郎」など、「郎」の字がやたらと目立ち、7割ほどを占めている。辞書によれば、「郎」は元々中国の官名(後99項)だと言う。左側の部首の「良」は、穀物の籾殻を取り除いて、実だけを依り分ける道具の事で、転じて、「郎」は良い男を意味するようになったという。

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「川口町 中島工場鋳造 大正15年(1926)9月吉日」銘の建立で、世話人であろうか、「明治三十七 八年 日露戦役 凱旋記念 上戸塚 鈴木金太郎」とある。この諏訪神社から直線距離で500mほどの所、新宿区西早稲田に水稲荷神社(前36項)があるが、そこの天水桶も「川口町 中島鋳工所 昭和3年(1928)9月吉日」だ。中島さんはこの地域に何かと縁があるのだろう。

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●次は、さいたま市緑区中尾の天台宗、宝珠山十林院吉祥寺だ。第3代天台座主であった、慈覚大師(延暦13年・794生)が開山していて、江戸幕府からは寺領5石の朱印状を与えられ、天台宗別格本山として中心的寺院のひとつであった。なお後121項では、川口鋳物師が鋳たここの擬宝珠について記述しているので、ご参照いただきたい。

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設置スパンの狭い鋳鉄製の1対だが、ここのも大きくて迫力ある4尺の天水桶だ。紋章は、「卍紋」の亜種だろうか、円周に沿って丸みを帯びていて、あまり見ないデザインの紋だ。「當山 檀信徒一同」が奉納しているが、「為御大典記念 第51世僧正 良俊代」の時世であった。

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銘は、「川越市 鋳工 矢澤四郎右衛門 昭和3年(1928)11月建設之」とある。矢澤系の天水桶を見るのは、当サイトでは、新宿区新宿の西向天神社(前36項)など6例だ。それには、「川越町 矢澤鋳工所 矢澤弥十郎作 田中喜次郎作 明治45年(1912)5月」とあったが、同一の鋳造所であろうか。後92項で解析しているのでご参照いただきたい。

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●次の北区浮間の真言宗智山派、無動山妙智院観音寺は、川口市本町の錫杖寺(前3項)の末寺だ。元和元年(1615)に開創されたと伝わり、足立坂東三十三ケ所霊場の23番目で、武蔵国八十八ケ所霊場71番、武州足立百不動尊霊場36、37番だ。武州の霊場は、現さいたま市と川口市を中心とする旧足立郡域にある100の不動尊を巡拝する霊場で、不動明王(前20項)を守護仏とする酉年に開帳されている。

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ここには梵鐘が2つある。1つは、現在鐘楼塔に掛かっている、「東京浅草 翠雲堂 謹鋳」だ。もう1つは、「應(応)召の鐘」として境内に展示されている。赤紙と呼ばれた軍務への召集令状に応じて「召し出された鐘」という意味だ。石碑には、「佛縁に依り帰る」とあるが、第24世吉岡祥雲の時世であった。なお「応召鐘」は、前3項でも登場している。

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鐘は、戦時中に金属供出(前3項)したものの、幸いにも鋳つぶされることなく、約40年を経た昭和58年(1993)に返還されているのだ。この様なエピソードなどは、後110項にまとめてあるのでご参照いただきたい。その銘は、「寛政元年(1789)4月吉日 東都御鋳物師 西村和泉守 藤原政平(後89項)」、「当山第14世 法印祐延代」であるが、元禄時代(1688~)から連綿と続く神田の鋳物師で、「政平」は5代目であろう。

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●本殿前に、口径2尺強の1対の鋳鉄製天水桶がある。雷紋様(後116項)を廻らした上部の額縁が150ミリと幅広く、多重であるのが特徴的で、一見して作者名が思い浮かぶ。

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「川口市 秋本謹製 昭和40年(1965)7月」だが、秋本の鋳出す文字はいつも簡潔で、文字数が少ない。造立は「第23代 吉岡法雲」の時世であった。なお、秋本製の作例については、前21項から全てをご覧いただけるので、ご参照いただきたい。

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●同氏の桶をもう1例。世田谷区経堂の曹洞宗、福昌寺だ。玄畝和尚(寛永8年・1631年寂)が開山となり創建したといい、山号は、「経堂山」だ。経典をしまっておく建物を、「お経堂」と言うが、近辺の地名は、この和尚が多くの蔵書を所持していた事に由来するという説もある。


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「江戸消防 第八區(区)」の奉納だが、「一番組」から「五番組」までの、「代表者」の名が鋳出されている。江戸町火消の文化を後世に伝えるために発足したのが「江戸消防記念会」だが、第8区は、目黒、世田谷の全域を網羅した区割りだ。やはり、上部の額縁の部分がやたらと幅広なのが特徴的な鋳鉄製の1対だ。

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銘は「川口市 秋本謹製 昭和28年(1953)9月13日」だが、やはり簡潔な表現となっている。造立日の文字がやたら大き目なのが目を引くが、丁寧に手入れされ甦っているのが喜ばしい。

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●最後は、さいたま市の岩槻区大戸の武蔵第六天神社だ。ホムペによると、「武蔵国第六天の一として、古来より火難除け・盗賊除け・疫病を除去し、以て家内安全、五穀豊穣、商売繁盛の霊験著しい事は普く人の知るところであります。古来より、江戸界隈の人たちや武蔵国の諸処から、崇敬者が加わり、今日では県内を始め、千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・東京都の関東各地より講中を結成し・・」とある。ここに、鋳鉄製の天水桶が1対ある。

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堂々たる堂宇前の情景であるが、平成9年(1997)の社殿の改築に合わせて天水桶もリメイクしたのであろう、新品同様に再生されている。上部には龍神(前1項)が据わっているが、センターにある紋章は「ヤツデ」であろう。天狗は、天神社の御使役として諸々の心願を叶える仲立ちをするというが、天狗に付き物の団扇はヤツデであり、厄疫や邪気を払う意味がある。

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●本体の大きさは口径Φ670、高さは635ミリだ。760ミリ角、高さ330ミリの台座も鋳鉄鋳物だが、通常は石製が多い中これは珍しい。「川口講中」の奉納であるが、この台座の各面には、50名近くの講員の名前が陽鋳造されている。台座へのこの鋳鉄の凸文字という情景も他に類例がほぼ無い。川口の人達は多くの講を組んでいるようだが、この他の講については、後58項をご参照いただきたい。

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銘を読むと、「埼玉県川口町 山﨑寅蔵 善末作 大正13年(1924)10月吉日」の建立だ。寅蔵製の天水桶に関しては、前20項に全てのリンクを貼ってあるのでご参照いただきたい。それにしてもこのリニューアル(後79項後96項)は大英断だ。おかげで永く鎮座し続ける文化財となったようだ。9月も半ばを過ぎ、朝晩はやっと涼しくなってきた。散策の秋だ、次の天水桶との出会いが楽しみだ。つづく。