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●前項では、千葉県成田市の鳴鐘山宗吾霊堂にある、川口鋳物師・山崎甚五兵衛作の天水桶を紹介したが、今回は、その隣に構えている「川口鋳物師・鈴木文吾(前3項前45項後122項など)」の作品のアップから始めよう。正面からの画像だが、2対は、本来降雨を受け入れる位置には置かれていない。それにしても、川口市の2強鋳物師の桶が並列している様は、壮観と言える。

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文吾、絶頂期の独特のデザインだが、2.5尺サイズほどの7個の手桶を背負っていて、堂々たる風格だ。本体の大きさは口径Φ950、高さは970ミリだ。屋根と本体の高さが同じでバランスがいいが、正面や手桶には、宗吾霊堂の「宗」の字を桜の花びらが囲っているという、ここの寺紋が見られる。

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「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一(前26項後115項) 昭和51年(1976)10月吉日」銘で、いつものコンビだが、隣にある赤茶色の、山崎が鋳造した桶よりも24年後の鋳鉄製の天水桶だ。両人は、昭和の初めから平成初期という同じような時代に競い合うように技を磨き、多くの桶を今の世に残している。

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●「参拝25周年記念 川口宗吾講」と鋳出されていて、講元ら、川口市の人の名前が列挙されている。前5項で登場した「大熊不二 大熊三郎」氏の名前も見えるようだが、この講は、今も続いているのだろうか。かつて川口市の人達は、高名な寺社に天水桶などを奉納する慣習があったようで、各地で色々な講の名を見れる。

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前24項では、大田区羽田・穴守稲荷神社で「青木穴守稲荷奉賛会 安行植木講 川口穴守稲荷講」、前45項後115項の茨城県笠間市・笠間稲荷神社で「川口市一力講 川口平和講」、埼玉県長瀞町・宝登山(ほどさん)神社で「川口福重講」と鋳鉄製の手水盤には「川口福心講」銘。

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前46項では、さいたま市岩槻区大戸の武蔵第六天神社で「川口講中」、後87項の高崎市鼻高町・少林山達磨寺で「川口開運達磨講」と玉垣には「川口市達磨講」、後106項の東松山市箭弓(やきゅう)町の箭弓稲荷神社で「川口箭弓稲荷講」の銘を見ている。

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下は背面からの画像だが、台座には銅板に陰刻された、「登山25周年記念 天水桶奉賛者 順不同」名簿がはめ込まれている。登山に参加した多くの人名が見られるが、それには文吾のご長男、常夫氏の名前も見受けられる。

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●では流れで、文吾の未アップ作を続けよう。まずは葛飾区新宿にある、真言宗豊山派の医王山蓮華院宝蓮寺。天文元年(1532)に、僧の栄源が創建したと伝わるが、本尊は薬師三尊立像という。南葛八十八ケ所霊場73番、新四国四箇領八十八ケ所霊場27番となっている。前者は、大正時代に旧南葛飾郡内を対象として整備された霊場で、現在の葛飾区や江戸川区に集中している。

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堂宇前の1対は鋳鉄製の天水桶で、大きさは口径Φ920、高さは1.050ミリだ。口縁の下には雲の紋様が、両基で対抗し合うように配されている。輪違い紋や「奉納 宝蓮寺」などの文字が、高めに浮き出るように陽鋳造されているのが特徴的だ。

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銘は、「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一 昭和59年(1984)10月吉日」と鋳出されている。「檀家一同」、「弘法大師 千百五十年御遠忌記念」の奉納で、「第28世 義章」の時世であった。

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●同じく葛飾区新宿の浄土宗、覚林山宝樹院西念寺は、増上寺末(前52項後126項など)で、天文元年(1532)に、覚蓮社法誉が開山創建している。本尊は、阿弥陀三尊像だが、これは元禄14年(1701)、16世尊誉が、平安時代中期の天台宗の高僧、恵心僧都作のものを安置したという。

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天水桶は青銅製の1対だが、大きさは口径Φ1.2m、高さは1.1mで、直径の割に高さが少し低めで安定感がある。上部の口縁が天に向かって大きく開いているのが特徴的で、台座の反花(前51項)が逆に末広がりになっている対比の構成によって、さらに安定感が増している。

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表面の寺紋は「抱き茗荷紋」のアレンジ版であろうか、花が咲いているように見える。その真下の紋様は雲のイメージで、ぶつかり合い降雨を誘う様を表現している。これは貯水を役目とする天水桶なのだ。

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●銘は「鋳物師 鈴木文吾 常夫 昭和63年(1988)11月吉日」だが、親子の共作との出会いは、これで5例目だ。翌年の1月7日に昭和天皇が崩御し、皇太子明仁親王の第125代天皇の即位に伴い、翌8日に平成と改元されている。

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昭和64年はたったの7日間しか無かった訳で、この天水桶は、昭和期最後の作例であったろう。平成元年(1989)5月21日には、開創600年事業として、本堂や客殿、庫裡が落慶しているが、それを記念しての奉納だ。「当山 第36世 覚誉立雄代」の時世であった。

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●千葉県松戸市松戸の松戸神社。寛永3年(1626)の創建で、近隣は水戸街道、松戸宿の宿場町として賑わった事もあって、水戸光圀公も崇拝したという。本殿は、元文元年(1737)の大火災後に再建された3世紀前の建屋で、日本武尊を祀る地域の総鎮守だ。

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青銅製の天水桶1対は、「松戸神社 常盤映彦 宮司就任記念」での奉納であったが、向かって左側の1基の裏側には、多くの「石工」や氏子らの名前が並んでいる。大きさは口径Φ980、高さは1.050ミリだ。

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●右側のもう1基の鋳出し文字を見ると、川口市とは縁深いようだ。「川口神社(前1項) 宮司 竹本佳輝」とあり、その「親族」や全国にいる「友人」の名前まで記されている。並んで、上述した「川口神社大総代 大熊不二」、「(川口市)横曽根神社(前45項) 宮司 竹本美佐男」と見える。

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そして「浦和調神社(前24項) 宮司」、「大宮秋葉神社 宮司」などの名前もあるが、宮司つながりでの縁であろうか。竹本家は、代々に亘って宮司をお勤めだ。佳輝の先代の佳年は、小学校で奉職、養嗣子として竹本家に入り、大正7年(1918)に宮司を拝命している。

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●作者の銘は、「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一 平成四(1992)壬申年 吉辰」だ。「壬申(みずのえさる、じんしん)」は十干十二支の1つだが、文吾がこれを持ち出し鋳出しているのは異例で、他に類を見ない。

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干支は、「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種類の十干と、「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類の十二支を組み合わせた、60を周期とする数詞だ。「壬」には、「妊に通じ、陽気を下に姙む(はらむ)」意があり、「申」には、「陰気の支配」という本義があるようだ。

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●神奈川県の海老名市河原口にある、高野山真言宗の総持院は、海老山満蔵寺と号している。この「海老山」の読み方が突飛で、「かいろうざん」と発し「えびさん」ではない。海老名市の呼称なども、本来は前者が正統なのかも知れない。江戸時代には近隣の相模国分寺、厚木の飯山観音など19末寺を有しており、寺領10石の御朱印寺であった。

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この宗派の紋としては、「五三桐」や「三つ巴」が定紋だが、ここの紋章は、密教で用いる法具の三鈷杵(さんこしょ・後68項)が、縦と横に配され十字形を成している。これは、外道悪魔を排除し、煩悩を打ち破る象徴として用いる法具だ。また、桶下部のくびれ部数ケ所には、「菊紋」が隠れるように鋳出されている。裏側には、「祈願」として、「除災招福 世界平和 平等利益」など多くのお題目が見られる。

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1対の奉納は、「第66世現住」の時世だから、連綿と続くかなりの古刹だ。銘は「鋳物師 鈴木文吾 平成6年(1994)元旦 本堂建立記念」で青銅製だが、大きさは口径Φ1.28m、高さは1.05mだ。これで、同氏作の蓮弁形の天水桶は4例目となった。なお、川口鋳物師・鈴木文吾に関しては、他には、後71項後115項など多くの項で登場しているので、ご参照いただきたい。

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●続いては、天水桶鋳造の元祖・釜七作の天水桶を見てみよう。同氏については、前17項などで紹介している。まずは港区北青山にある浄土宗、南命山善光寺別院だが、江戸期には信州善光寺大本願上人(後122項)の東京宿院であった。ここは都会の一等地で、地下鉄千代田線の表参道駅の直ぐ北に位置し、若者の街のJR原宿駅にほど近く、北西側には明治神宮(後99項)が鎮座している。

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天保年間(1831~)の江戸名所図会によれば、「永禄元年(1558)の創建にして、谷中にありしを明観和尚の時、宝永2年(1705)に此地へ遷される・・、青山百人町にあり、信州善光寺本願上人の宿院にして・・」とある。庫裡や釈迦堂が散在し、広大な境内であった事が判るが、現在の周辺の隆盛を想像できない光景だ。

青山善光寺

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●鋳鉄製の天水桶1対は、「日本橋 講中」の奉納で、裏側には「佃屋小兵衛 い組太七 川崎屋弥兵衛」ら世話人の名が連なり、正面には「五三桐紋」が見えるが、ここの寺紋は「右離れ立ち葵」のようなので、これは講の紋章であろう。大きさは口径Φ1.080、高さは860ミリだが、導水用の金具も見栄えよく、ダイナミックで洒落ている。ただ、この金具は青銅製なので、後年に誂えられたものであろう。

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銘は、「鋳物師 江戸深川 釜屋七右衛門知足(花押・前13項) 弘化4年(1847)4月吉日」であるが、170年前の鋳造物が、異国人行きかうここ表参道で現役を続けているのだ。「知足」と表記されているが、これは興味深い。

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万治元年(1658)頃の、深川鋳物師・釜七の初代は、田中七右衛門だが、幼名は与五郎で、その後「知次」を名乗っている。同家は、「知」の文字を代々通字として継承しているが、前47項では「知次」の2代ほど後の「知義」銘が登場している。「知足」は、更に数代後の後継者だ。

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●続いては、新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社。御祭神を、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇としている。ウィキペディアによると、「元和2年(1616)に、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。その後全焼、明神社の方は千代田区九段北に移転し、築土神社として現在に至る」という。

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成り立ちは、1220年前の嵯峨天皇の御代に、 熱心に八幡神を尊信する 武蔵国豊島郡牛込住の翁が、神託により松の樹を祀った事に始まるという。その後の文明年間(1469~)に、戦国武将の扇谷上杉家当主、上杉朝興が社壇を修飾し、この地の産土神としている。江戸名所図会に見える、二の鳥居まで備わった広大な敷地の中にこの神社があり、長い階段が描かれているが、現在でもそこそこの高台に位置している。

築土八幡神社・江戸名所図会

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●天水桶正面の天皇家の「菊の紋章」が高貴な由緒を感じさせるが、その真下に、「白銀町 肴町」の世話人の名がある。「山田屋武兵衛 太田屋半兵衛 駿河屋富蔵 伊勢屋新右衛門」らだが、当時としては、恐れ多い配置ではなかったか。通常は、神威をはばかり桶の裏側に配されるのが習いだ。なお、この紋章と「奉納」の文字は、青銅製の鋳造物となっている。

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本体は鋳鉄製の1対だが、銘は「鋳物師 釜屋七右エ門(花押) 文政2年(1819)5月吉日」で、大きさは、口径Φ1.220、高さは900ミリだ。時の治世者は、いわゆる化政文化が栄えた、第11代将軍徳川家斉の時世だ。

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辞書によれば、この文化は、江戸時代後期の文化文政時代の1804年から1830年を最盛期とし、江戸を中心として栄えた町人文化を指している。浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など江戸期の町人文化の全盛期にあたり、後127項で検証しているが、天水桶奉納と言う文化が芽生え始めた時期でもあった。

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●昭和初期のここの古写真があるので見ておくと、建屋は唐破風の意匠だ。社殿は、その後の戦災で焼失、昭和38年(1963)に氏子の浄財を募り再建されているが、その意匠は踏襲されている。「奉納 若者中 津久戸」と刻まれた狛犬も、今現在1対が残っているが、この天水桶1対も、戦禍や金属供出(前3項)を逃れ、今も永らえているのだ。

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●江東区亀戸の木花咲耶比売命を祀る、亀戸浅間神社。境内の掲示板によると、「大永7年(1527)に創建され・・、文化財の冨士せんげん道道標があり・・、関東最大級の茅の輪を作る神事が年2回行われるなど、亀戸東部地域の歴史や民俗を伝える鎮守」であるという。

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境内は手入れが行き届いていて、数々の丁寧な説明板が置かれ、宮司や氏子の意気込みを感じる。本殿は、安政2年(1855)の江戸大地震などで被災しているが、昭和初年に建立され、平成10年(1998)に現在地に移動している。

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●高い位置に設置された天水桶は、立看板にあるように、「有形民俗文化財」だ。正面には、富士山の紋様と、「丸に不二」の紋章がある。鋳鉄製の1対で、大きさは口径Φ750、高さは880ミリとなっている。

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「鳳集 明治33年(1900)庚子(かのえね)6月桂辰 釜七製」であるが、丸の中に「七」の文字の社章も見られ、会社組織の形態が確認できる。「鳳集(ほうしゅう)」とは、すぐれた才能をもった人が集まり来る例えだと辞書にはある。

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「桂辰」の「桂」には、月の別名で「桂月」という呼び方があるし、「辰」には日や月、星の総称で、「辰宿」、「星辰」という言い方があるので、そういった意味であろう。

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●最後は、墨田区緑の五柱(ごはしら)稲荷神社だ。「五柱」の社号は京都・伏見稲荷の稲荷五社に由来すると言われるが、享保13年(1716)にここを創建した植村土佐守正朝は、8代将軍徳川吉宗の時代の大坂城番であった。御神徳は、広大無辺で霊験あらたかにして、特に盗難除けの信仰があり、また商売繁昌にも通じるとされ、商家などはこぞって参拝したという。(東京都神社名鑑より)

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ここの鋳鉄製の天水桶1対は、バケツでも置いているかのように、ただただほったらかしだ。上述と同じで、山型の紋様が見られる。丸に横三本線のこの紋は、「丸に三つ引き両」ではないようだが、「丸に三つ算木」であろうか。

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算木は、占いの易にも使われ神聖視されてもいたが、中国数学や和算で用いられた計算用具だ。長さ3~14cmの木製または竹製の細長い直方体で、縦または横に置くことで数を表した。算盤と並んで用いられる計算道具であったが、江戸時代の日本の数学者はこれを使って数学の発展に貢献している。

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●鋳出されているのは、「田中七右エ門 明治22年(1889)6月」銘だが、何代目であろうか、釜七作に間違いない。この銘が重厚感に欠けるのは、「鋳物師」などの肩書が無いせいだろうか。

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それにしても、ここの桶はいずれ朽ち果てて、スクラップ処理されてしまうような気がしてならない。この時世に文化財に指定されている天水桶は数多い。サビを落とし、再塗装すれば新品同様になるのだ。氏子、檀家が中心になって保存していこうとする姿勢が絶対に必要だ。

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●令和2年(2020)12月の追記であるが、再度参詣すると上述の廃棄の事が現実に起きていた。「ここに天水桶が置かれていましたが、どこかに移動しましたか?」、「サビて見苦しいので、業者に頼んで処分しました」、「再生不可能な文化財ですよ」と申し上げたが、そういう意識自体無いようでとても残念だ。奉納したかつての氏子の、五柱への崇高な願念が途切れた瞬間であった。つづく。