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●時代を問わず、江戸時代も現代も日本は地震大国だ。現代ならば気象庁が即座に震度を発表するから、その揺れの大きさが判る。気象庁によれば、「緊急地震速報は地震の発生直後に、震源に近い地震計でとらえた観測データを素早く解析して、震源や地震の規模を推定し、これに基づいて各地での主要動の到達時刻や震度を予想し、可能な限り素早く知らせるものです」という。

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実は、江戸時代の簡易震度計が天水桶や手水鉢であった。地震の揺れで桶に張られた水がこぼれるが、その量で震度のおおよそを判断していたのだ。最も現代の感覚で言えば、同じ震度でも、直下型の縦揺れと横揺れではこぼれる量は違うだろうし、同じ地域でも地盤によっては差異がでるだろう。 

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●ではなぜ震度の強弱を知る必要があったのだろうか。地震がインフラに与える悪影響は今ほど切実ではなかっただろう。身に感じる揺れでおおよそを推し量れば、それで事足りたはずではないのか。実はそうはいかない人々がいて、事情があったのだ。

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将軍様に仕える大名たち、あるいは大名傘下の家臣たちだ。地震の被害は大丈夫でしたかという、「御機嫌伺い」の使者を出す必要があったのだ。神君家康以来の伝統的な武家の儀礼作法で、地震に限らず、例えば将軍の病気の際なども同様で、当時は常識とも言えたようだ。

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●安政2年(1855)11月11日の夜10時頃発生した、直下型の安政江戸地震は、マグニチュード6.9とも言われる一大事で、江戸の町に甚大な被害をもたらした。多くの大名屋敷でも計2千人を超える死者を出しているが、老中や若年寄りらは、将軍の安否確認のため半刻、1時間ほどで登城している。

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例えば、当時の越後国村上藩の老中内藤紀伊守信親(のぶちか)は、一時、夫婦そろって瓦礫に埋もれたが、無傷で助け出された直後、早速登城している。大名の中で一番乗りは、出羽国庄内藩の酒井左衛門尉忠発(ただあき)であったという。イメージ画像は、神奈川県南足柄市大雄町、大雄山最乗寺(後111項)の天水桶だが、水中花が実に風流だ。

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●また、安永期(1770年ごろ)に書かれたという土浦藩(茨城県土浦市)の史料「雷地震之節心得」によれば、「当番非番ともに手水鉢水こぼれ候程に候はば、上下之上に火事羽織着罷出、中之間迄刀持参、夜は挑灯持席迄罷出候事」とある。

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つまり、桶や鉢の水がこぼれるほどの地震であれば、火事装束をまとって帯刀、夜ならば提灯を持って、急ぎ江戸城に、大名屋敷に馳せ参じた訳だ。大いにパフォーマンス的な部分もあったろうし、ある大名は使者を出し、あるいは出さずともよかろうと判断した大名もいたろう。所詮アバウトな震度計だ、温度差はかなりあったろうと思う。

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●さて、最近見た天水桶を見て行くが、地域的には群馬県としよう。まずは、榛名湖の南側に位置する高崎市榛名山町の榛名神社だが、巌山という山に鎮座している。江戸時代には満行宮榛名寺と称せられ、台東区上野桜木の東叡山寛永寺(前13項)に属し、別当が派遣され一山を管理していたが、明治初めの神仏分離策によって、榛名神社として独立している。

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山門から本殿までは550mあり15分ほど歩くことになるが、途中には見所がたくさんあり、飽きることは無い。福禄寿ら七福神のブロンズ像が出迎えてくれたりだ。なお、清流沿いの道中の階段の手すりは「東京太々講」が、平成4年(1992)5月に80回年参を記念して奉納している。

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安政2年(1855)に建立された、国の重要文化財である「双龍門」をくぐったりだが、これは間口10尺、奥行き9尺の総ケヤキ造りであった。羽目板の両面には「三国志」にちなんだ絵柄が彫られており、天井の上り龍、下り龍が双龍門の風格を高めている。

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●そしてたどり着く荘厳な本殿は、文化3年(1806)の再建であったが、霊気を感じる再訪したいパワースポットだ。延長5年(927)の延喜式の神名帳では、「上野国十二社 群馬郡小社」として位置づけられている格式の高い神社なのだ。

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ここでは雨乞講も多いようで、聖なる御神水を持ち帰り各地で雨乞の行事を行うという。堂宇前の1対の青銅製の天水桶は、横縞模様が目を引く個性的なもので、当榛名町の人が、昭和38年(1963)5月に奉納している。本項最初の画像は、これを上から見下ろした状態だが、残念ながら鋳造者名は確認できない。

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●境内には、県指定の重要文化財もあった。鎌倉時代に新田(源)義貞が奉納したという、県内最古の鉄灯籠だ。高さが無いから、雪見灯籠と呼ばれるタイプだろうか。呼称の由来は、笠の形が、傘の上に雪が積もったように見えるからともいう。

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掲示板によれば、当時の工芸品に鉄製が多いのは、坂東武士の世の質実剛健の気風に合致していたからだとしている。鉄製品の持つ肌合いは、木製彫刻品や青銅鋳物と違い荒々しく重厚だ。群雄割拠の時代に生きた荒武者の、明日をも知れぬ「生」への執着に通ずるという事であろう。

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●例えば、栃木県上石川の薬師堂に現存する薬師如来の鉄仏は、鎌倉期の建保3年(1215)の鋳造で関東最古のものだという。次の画像は、栃木県宇都宮市大通りの天台宗光明山宝蔵寺の境内で見られる鋳造物だ。

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大正7年製(1918)で、不祥な人ながら亀田由蔵の作と言う。鉄製のこれは、忿怒相で三鈷剣を握り、火炎光背を抱き炎髪であるから不動明王(前20項)であろうか、やはり野ざらしであり、なるほど荒々しい。各地に70体ほどしかないという鉄仏の多くは、鎌倉時代に奉納されているようだ。

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●鉄仏は都内にも存在する。中央区日本橋人形町の聖観音宗大観音寺の本尊の「鉄造菩薩頭」だ。説明によれば「菩薩頭は鋳鉄製で、総高170、面幅54cm。頭頂部のみは後に補修された鋳銅製。頭上には53cmの高髻があり、後に補われた鋳銅製蓮華座に祀られています。

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この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観世音菩薩像でしたが、火災で廃寺となった後、江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前(後127項)の鉄井から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治9年(1876)、大観音寺に安置されています。」

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続けて、「以後、本尊として今日に至りました。毎月11日と17日にのみ開帳され、信仰を集めています。中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品である事から、昭和47年(1972)4月、都指定有形文化財に指定されています。」とあり、「鉄造菩薩頭」は、お前立像の後ろの扉の中に鎮座しているようだ。

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●逸れるが、鉄灯籠をもう2例見ておこう。埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺の華林山慈恩寺(前52項後131項)で、地名の由来にもなっている名刹だ。天長元年(824)に、伝教大師最澄の弟子の慈覚大師によって開かれた天台宗の寺院で、江戸時代には寺領100石を拝領、坂東三十三ケ所観音霊場の十二番札所でもある。

さいたま市岩槻区慈恩寺

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境内にあるここは華林山最上院で、その額が掛かった堂宇前の天水桶は、「昭和62年(1987)5月吉日 高岡市 老子製作所(前8項)」の青銅製だ。また、梵鐘も同社製で、「昭和51年(1976)仲秋 老子次右衛門」の名が刻まれている。

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昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、「大正2年(1913) 慈恩寺 ワニ口1個 橋本八十七」という記録が残っている。昭和12年(1937)の、400社近い登録がある「川口商工人名録」には、橋本の名があるが、「栄町二丁目 橋本鑄工所」の社主で、営業内容は、「諸機械鋳物」となっている。

さいたま市岩槻区慈恩寺

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●有形文化財の「南蛮鉄灯籠」には、「天正17年(1589)5月 伊達与兵衛尉房実(ふさざね)」と彫り込まれているが、説明板によれば、「天下泰平 万民豊楽 岩槻城安泰」を祈願しての寄進であった。この時期は、太閤・豊臣秀吉の全盛期だ。

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高さは1m強で、擬宝珠状の飾りを冠していて、台座部はハスの花弁を模した蓮華座だが、竿の主柱に目立った装飾は無くシンプルだ。この種類は、蕨手がある春日型灯籠(前33項)ではなく、それが無い柚木型と呼ばれるタイプだろう。

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●房実は、岩槻城主・太田氏房の家臣であったが、戦国武将にして徳川幕府の旗本で、武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市見沼区)などに450石を与えられ、寛永3年(1626)に没している。

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胴部には長文の銘があり、全文が説明板に転記されているが、鋳造者に関する文字は見られず作者は不明だ。「川口史林(昭和45年・1970)」掲載の、鈴木茂の「川口の鋳工と作品」には、その根拠を記していないが、「川口鋳物師によるものとの言い伝えがある」と書かれている。

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●しかるにその根拠は、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」内の記載であろう。「天正14年(1586) 川口長瀬 江戸城内山王社(現在の千代田区永田町の日枝神社・前8項前17項) ワニ口(の鋳造)などから思い合わせると、川口祖先の作ではなかろうか」としているのだ。

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このワニ口は現在行方不明であり、下の画像はイメージだ。いずれにしても、鉄灯籠とワニ口の製作時期が近しいというだけだが、当時は、鋳物師の数もそう多くは無かろうから、確かに川口製であるかも知れない。

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さらに要覧での記載の拠り所は、「江戸名所図会 日吉山王の神社」の項だ。「古ワニ口 径一尺あまりあり。その銘、左のごとし」、「敬白奉納 山王権現御宝前鰐口 大檀那直景(北条家の臣) 願主 南仙房 武州豊島郡江戸館 天正十四年丙戊十月二十五日」であり、「大田大和大工 長瀬椎名」銘と記されている。長瀬が、川口鋳物師の永瀬なのだ。

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●2例目の鉄灯籠は、川口市飯塚の真言宗智山派、薬王山観音寺最勝院だ。ここは川口市本町の宝珠山錫杖寺末(前3項)で、宥光法師が永正13年(1528)に開山している。本堂の正面に、高さ3m弱の鋳鉄製の太閤型灯籠(前74項)が1基置かれている。

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見られる文字は、「奉納」、「施主 小川馬助」だけだ。寺によれば、小川は鋳物工場主で、昭和13年(1938)に寄進されたという。同氏の作例であるのかは不明だが、川口鋳物師の作例であろうと想像している。なお、鋳鉄製の灯籠の現存はかなり数少なく稀有だが、前33項にそのリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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またここでは、かつて川口鋳物師が手掛けた半鐘の記録が残っている。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」では、現存しないが、「安永4年(1775)6月 岩田嘉右衛門」銘だ。一方、昭和54年(1979)に刊行された、内田三郎(前65項)の「鋳物師」では、安永6年となっている。

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●さて、続いても同名の榛名神社であるが、こちらは沼田駅の北側、沼田城跡西側の沼田市榛名町に位置し、先の榛名湖からは直線距離にして40Kmほど離れている。本殿は享禄2年(1529)の建立後、元和元年(1615)に真田信之が改築したが、安土桃山文化の流れの銅板葺の造りだ。扉の上には、真田家の家紋の六文銭が描かれている。

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堂宇側面の彫刻は左甚五郎作といわれ、マリで遊ぶ獅子やインド象が見られる。左甚五郎は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人だが、左利きであったために左という姓を名乗ったとも言われる。日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作と言われる彫り物は全国各地に多数ある。

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人物名鑑によれば、その製作年間は安土桃山時代から江戸時代後期までの3世紀にも及び、出身地も様々であるので、左甚五郎とは、1人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようだ。

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●狭い社殿前に、サビかけた1対の鋳鉄製の天水桶がある。見慣れたデザインで、双方の距離はわずか3メートルほどだが、参拝者を迎い入れ、拝殿を保護するかのような配置だ。奉納は、「群馬県議会議員」、「氏子総代」、「群馬県神社総代」らで、人名が小さい桶の表面一杯に所狭しと並んでいる。

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「昭和47年(1972)6月」の設置だが、ここでも川口鋳物師が登場、「川口市 山崎甚五兵衛」銘だ。鋳造の地、埼玉県川口市金山町からここまでは、カーナビ計測によれば116Kmだ。ここまでで出会った中では最も遠隔地での設置であった。川口市から遠い地という見地からすれば、後128項では、更に離れた地での天水桶に出会っているので、ご参照いただきたい。

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●JR信越本線の高崎駅から西へ2駅目の地に群馬八幡駅がある。そこから南へ歩くこと20分、碓井川を越えると高崎市鼻高町で、黄檗宗(おうばくしゅう・前37項)、少林山達磨寺がある。ホムペによれば、黄檗宗は達磨大師の教えを受け継ぐ禅宗のひとつで、中国福建省から渡来した隠元禅師(いんげんぜん)によって開かれている。本山は京都府宇治市にある黄檗山萬福寺で全国に450ケ寺ほどがある。

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張り子の縁起ダルマは、この寺から生まれたという。延宝8年(1680)、大洪水で流れて来た香気のある古木で、一了(いちりょう)という行者が信心を集中、一刀三礼して達磨大師の坐禅像を彫ってお堂に安置したのがその起こりだ。

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一刀三礼とは、一削りする毎に座して三礼し・・の繰り返しであるから、大変な気力だ。上州ゆかりの政治家たちも参拝するようで、ダルマが奉納されているが、「福田赳夫」、「中曽根康弘」、「小渕恵三」ら歴代の総理大臣らの名が見える。

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●堂宇前の天水桶の大きさは、口径Φ940ミリ、高さは1.13mとなっている。1対は鋳鉄製で、正面には徳川家の葵紋もあるが、「当山第17代 仁達代」の時世であった。代々のご住職は、達磨の「達」の文字を通字としているようだ。

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奉納者は、「川口開運達磨講一同」だが、川口市の人々が組んだ「講」は、寺社に天水桶を奉納する慣習がある。本サイトにアップしているその項番を挙げておくと 、前24項では、大田区羽田・穴守稲荷神社で「青木穴守稲荷奉賛会 安行植木講 川口穴守稲荷講」。

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前45項後115項の茨城県笠間市・笠間稲荷神社で「川口市一力講 川口平和講」、埼玉県長瀞町・宝登山(ほどさん)神社では「川口福重講」とあり、鋳鉄製の手水盤には「川口福心講」の銘が見えた。前46項では、さいたま市岩槻区大戸の武蔵第六天神社で「川口講中」銘を見ている。

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さらに、前58項の成田市・鳴鐘山宗吾霊堂で「川口宗吾講」、後106項の東松山市箭弓(やきゅう)町の箭弓稲荷神社で「川口箭弓稲荷講」の銘を見ている。達磨寺の天水桶には、講元や多くの世話人の名前に混ざって、鋳造者の「昭和52年(1977)5月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」の名が見られる。「川口市達磨講」は、達磨寺の開創3百年にあたって、玉垣も寄進しているようだ。

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●渋川市伊香保町の伊香保温泉(後123項)は、草津温泉と並んで群馬県を代表する温泉だ。365段の石段街を登り切ると、上野国三宮の伊香保神社がある。現在の温泉街が形成されたのは戦国時代だ。長篠の戦いで負傷した武田兵の療養場所として、武田勝頼が当時上州を支配していた真田昌幸に命じ整備されているが、この石段もこの時にできている。

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神社は天長2年(825)の創建で、主祭神は大己貴命と少彦名命の2座だが、温泉や医療の神だ。例大祭は毎年9月に催されるが、多くの観光客も参加するようだ。画像は、樽神輿だが、入魂式まで行われる神聖なもので、この神の水である酒樽を担ぎ、長い石段を登るのだという。

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●神前に1対の鋳鉄製天水桶が奉納されていて、表面には、同町出身の「木暮武太夫(ぶだゆう)」の名前が鋳出されている。同氏は、旅館業経営や関東いすゞ自動車販売社長などを歴任、その後の昭和35年(1960)、政治家として、第2次池田内閣に運輸大臣として入閣している。

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奉納は翌年の7月で、鋳物師は、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」であった。大臣就任を祝しての奉納であろう。この当時山崎は、天水桶メーカーとして名を馳せ各地に納品していたが、川口市から遠いこの地でも名を知られた鋳物師であった。つづく。