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●今回は、鋳鉄製の丸型郵便ポストについて考察してみたいと思う。数年前に、広島県廿日市市宮島町の世界文化遺産、国宝厳島神社に参詣した事がある。ここは、全国に約500社ある厳島神社の総本社で、安芸国一宮だ。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」で、宗像三女神の3柱を祭神として祀っている。

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広島湾に浮かぶ厳島は、安芸の宮島と呼ばれる日本三景の1つで、神社は、標高535mの弥山(みせん)北麓に鎮座する。平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられていて、海上に立つ高さ16mの重要文化財の大鳥居は、日本三大鳥居の1つだが、固定されている訳ではなく、自重で立っているという。

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「厳島宝物館」の前に、赤い郵便ポストが置かれている。数少なくなったとは言え、未だ各地で見かけるお馴染みのポストだが、これの製造者に注目する人は余り居ない。「郵便差出箱1号丸型」と呼ばれる、戦後の昭和24年(1949)から登場したポストだが、胴体はΦ400ミリほどで、総高は、根石を含めて1.5mだ。差し入れ口は、地面から約1.3mほどの位置に設定されているが、ちょうど人が投入し易い高さなのだ。

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●真裏の真下に、陽鋳された鋳出し文字(前1項)がある。「昭(和).32(年).吉村製」で、川口市朝日に工場を持つ鋳造業者だが、昭和5年(1930)5月創業の吉村工業(株)だ(前69項前85項後132項)。現社長は、昭和36年(1961)生まれの若手経営者で、本社を台東区東上野に構えている。昭和26年頃から郵政省より大量のポスト製造を受注し納入、経営基盤を確立したようだ。

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当時の新聞には、「鋳物製の新型ポストは、昭和24年度(1949)1万本のうち、第1回分2千本が各工場に注文され、既に5割を達成」とある。1社だけでは到底こなせない数量で、何社かに発注されたのが判る。遠い広島の地で、川口産の鋳造物に出会えて感激であった訳だが、これらが全国に広がり設置されたのだ。

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●気付きにくいが、この種類のポストには、ちょっとした工夫がなされている。丸い差し入れ口と、その下の四角い回収扉の間に、輪っか状の膨らみがあるが、ここで上胴と下胴に分割されていて回転するのだ。設置に際して、差し入れし易い向き、回収し易い向きを個々に選択できる訳で、真横や真裏に回収扉がある状態にできるのだ。画像は、「昭.27.伊藤製」で不明なメーカーだが、茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮(前108項)近くで見たポストで、位相が90度ずれている。

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位置決めは90度毎に4通りで、任意の半端な角度には固定できないようだ。なぜなら、内側から締め付けられているボルトは1本で、4か所にしかネジ孔が無いからだ。また、回転させるためには、オスメスのはめ合わせ加工が必要だ。昭和半ばの雑誌「ぽすとまん」には、その様子の写真があり、旋盤でチャックされたポストの下胴が、旋削加工されている。

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この他の主な部品は、丸みを帯びた頭部の鋳物「笠金」だ。昭和24年(1949)8月15日付の、郵政大臣官房資材部が製図したポストの最終製作図面には、笠金の外径はΦ470ミリ、と記載されていて、上胴に3本のボルトで内側から固定されている。全ての1号丸型ポストはこれによって規格が統一され製造されているのだ。画像は、吉村の工場での組み付けの様子だ。

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●笠金を見ていて不思議に思ったことがある。最頂部のボッチだが、小さい丸頭六角ボルトがネジ込まれている。ここに吊り上げ用のフックが付けられ、設置後にボルトで孔が塞がれ、この状態になっていると思っていたのだ。しかし違った。規格の検討段階では、「将来、広告塔使用にかえて、頭部の中心にネジ孔をうがち、平素はフタをしておく」とある。画像は、吉村の工場での人手による塗装の様子。

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昭和25年9月には、「郵政省広告取扱規則」によって、ポストの広告塔による一般商業広告業務を開始しているが、早くも翌26年8月にはこれが廃止されている。広告収入を得ようと、頂上に幟旗でも立てたのであろうか、詳細は不明だが、このネジ孔は、設置用の上げ下げの吊りボルト孔専用ではなかったのだ。

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上下の画像は、墨田区横網の江戸東京博物館(前89項など)の入り口で見たポストで、「昭.44.新東洋製」となっているが、ここも不明なメーカーだ。この年度の1号丸型は、最後の調達になったというポストで、これ以降は、今に続く角型が主流となっている。当時の貨幣価値はよく判らないが、ポスト1基の価格は、¥23.900であったという。

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●ポストはどれほどの重量なのだろう。鋳物の肉厚は、「上胴が5粍(ミリ)、下胴が6粍」だという。図面の仕様書には「完成総重量130瓩(キロ=Kg)以上、根石、取り付けボルトを除く」とされている。一方、資材不足のためか銑鉄の割当量は決まっていて、当初は、80トンで500基を製造する見込みであった。割り算すると、1基あたり160Kgになるが、鋳造するには、押し湯や湯道、堰(せき)などの余肉分が必要だから、妥当な数字だろう。

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先の笠金の丸頭六角ボルトについて、こだわって考えてみると、ネジ孔の存在は広告塔用であったが、吊り上げ設置用としても使用されたはずだ。ここで吊り上げるという事は、最もバランスが良く安定的で、しかも早くて簡単だ。しかも、先の広告業務終了後も、昭和44年(1969)の最後の調達までこの加工は実施されている。1工程分の手間が掛かるのにだ。やはり吊り上げに利用するためであったろう。

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画像の、昭和23年(1948)1月15日付の「鋳鉄製郵便柱函 試案1号設計図」に、勝手に白い実線と破線を書き足したが、笠金の肉厚5ミリ部分に破線のネジがあり、この試作段階では実線の余肉は存在しなかったようだ。が、余肉が無いと吊り上げ強度に問題が生じるはずだ。

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●ポストの各所に使用されている全てのボルトは、インチサイズの英式ウイットネジで、現在は、JIS規格からは除外されている。笠金のボルトのサイズは、頭部の六角の対辺の長さを現物で確認すると26ミリだから、「5/8”」、通称5分(ごぶ)ネジだ。1インチは25.4ミリだから、25.4×5÷8=外径Φ15.875ミリとなる。

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現在のM16ミリのJISネジとほぼ同じだが、このサイズなら130Kg程度の垂直静荷重の吊り上げに問題はない。画像の輪っかにワイヤーを通せば簡単に吊れる。強度に問題が生じるとしたのは、メスネジの笠金の方で、肉厚が薄いからだ。最低でもネジ外径の2倍、32ミリは欲しいところだ。そうでないと、ネジ山が崩れて抜け落ちてしまう可能性大だ。

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●台東区上野公園の不忍池の畔に、「下町風俗資料館」がある。大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の戦災によって面影をなくしたが、その後目覚しい復興を遂げた下町の様子を後世に伝えるべく、昭和55年(1980)10月に開館している。

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ここに、昭和24年(1949)8月15日付の最終製作図面によって鋳造された、「昭.37.吉村製」の1号丸型ポストがある。ここで、ひさしの下からカメラのレンズを上に向け、笠金のネジの部分の真裏を撮影してみた。試案図には無かった、Φ50ミリくらいの余肉部分の丸い座が確認できる。正確な肉厚は判らないが、絞め込まれたボルトの頭が少しはみ出している事からして、吊り上げに充分な厚みであろう。

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●また、後述の郵政博物館に展示中の1号丸型鋳鉄製ポストは、「昭.27.昭和製作所製」で、金色文字に装飾し復元されている。ここでは、自由に触れると確認できていたので、差し入れ口から中に腕を伸ばし、存在する丸座を触ってみた。

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ボルトの頭が少し出ている。吊って設置するという作業工程を考慮し設計する事は不可欠だ。1号丸型ポストには、初期製から最終調達製まで、しっかり丸座が設定されていた。量産ポストの正式図面は、吊り上げの安全性も考慮された完全な設計であったのだ。

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●ところで、日本最初のポストとはどんなものであったのだろうか。画像のアップを許可されたので、都内墨田区押上の東京スカイツリータウン・ソラマチの9階にある郵政博物館の展示物から見てみよう。ここは文字通り、郵便および通信に関する収蔵品を展示、紹介する博物館で、日本最大となる約33万種の切手のほか、国内外の郵政に関する資料約400点を展示している。

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次の画像の、車輪右側の山型の屋根付きの木箱が日本初の「書状集め箱」で、明治4年(1871)4月20日に誕生している。日本最初の郵便役所は、東京江戸橋に開設されているが、ここらでの設置だろうか。初日には、東京から134通、大阪・京都からは40通が差し出されたという。大阪間の料金は1貫500文で、逓送人は時速10Kmで宿場間をリレーし、78時間で結んでいる。

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この箱の下には太政官による開業を知らせる布告の張り紙があり、差し出しの心得や各地への配達時間や料金が細かく記載されている。右端は「黒塗柱箱」でやはり木製だが、翌明治5年、郵便事業の全国展開にあたり設置されたポストだ。「郵便」という言葉自体に馴染みが薄かったため、正面に書かれた「郵便箱」という文字が、「垂便(たれべん)箱」、つまり公衆便所と勘違いされたという。

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●それから30年後の明治34年(1901)10月21日、丸型の鋳鉄製ポストが初登場する。110基ほどが実地試験に供され、東京での設置場所は、日本橋の北側であったという。本物は現存せず、展示物はFRP製のレプリカだが、京大前に立っていた時の写真を元に復元されている。

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笠金の真下の小さ目な窓が差し入れ口で、各所に植物紋様が散在しているが、下部の反花(前51項)は、皇室所縁の「五七桐紋(前98項)」を連想させる桐の葉らしい。洋文字の「POST」、「〒」のマークもすでに使われているが、漢字は「便郵」、「刻時凾開」と右から左へ書かれている。これは、日本語を縦書きする時の影響で、今でも行は右から左に書き進むのだ。第2次世界大戦直後まで、このような表記が一般的であったという。

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●高さも直径も、先の1号丸型より少し大き目だが、一番目立つ違いは、頂上の笠金のデザインだ。Φ600ミリで、雨除けの意味合いもありそうだが、上から見ると皇室の16葉の菊紋のように見え、この郵便制度が天皇の肝煎りであることを示唆するかのようだ。

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この錦絵は、3代広重の「横浜郵便局開業之図」で、その落成式の様子だが、明治8年(1875)1月1日、日本は、日米郵便交換条約を締結していて、外国郵便の取り扱いも開始している。建物の中心に掲げられ象徴としているのは、やはり菊の御紋だ。

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●このポストの考案者は、指物師で発明家の俵谷高七で、「俵谷式ポスト」と呼ぶようだ。安政元年(1854)3月に島根県で生まれ、大正元年(1912)9月に東京赤坂で、58才で没しているが、郵便用品の製作に多く携わっている。まず、明治21年(1888)に日本初の「木製煙草自動販売機」を考案、東京内国勧業博覧会(前103項)に出品され好評を博している。

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同34年に先の丸型ポスト、37年には、木製の「自働郵便切手葉書売下機」を考案しているが、これは、切手とはがきの自動販売と、ポストの3機能を一体化したユニークな製品であったという。次の画像は、右側が3銭切手の、左は1銭5厘の葉書の販売口だ。

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この他には、「俵谷式自転機(抽選機)」、「俵谷式郵便葉書自働売捌機」を作成している。俵谷の自販機には、当時既に、偽貨排除機能や売切時の硬貨返却機能が搭載されていて、欧米の機器にも見られない先駆的なものであったというから、正に発明家であった。

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●ポストは赤いというイメージだが、その理由は、明治33年(1900)春、黒く塗ったものを逓信省へ持ち込むと、「これから郵便箱は全て赤くなるから、赤くするように申し付かった」と俵谷は話している。が、その指示を誰が行ったのかが判明しないという。ろくに街灯もない時代、目立たなくてはならない存在だ、黒では困るのだ。

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因みに、先の図面の仕様では、「内面は上白色塗り。外部は、色見本指定の朱色(バーミリオン)を3回以上塗布」とある。バーミリオンとは、硫黄と水銀から人工的に作られた化合物としての銀朱(ぎんしゅ)で、英名だが、身近でいえば、判子に使う朱肉の色だ。今に見られるポストは、経年後に再塗装され、オリジナル色ではない物も多かろう。画像は、神奈川県足柄下郡の箱根町郵便局前で見た「昭.36.吉村製」のポストだが、近年に再塗装されたようだ。

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●さて、ポストの歴史的には、同じく 明治34年(1901)11月7日、俵谷式の2週間後に、「中村式ポスト」が15基ほど試作され登場し、日本橋南詰に置かれている。立て続けだが、2案ともに、試験的な設置であったという。違った生活環境を持つ2者に、同時に考案させることによって、万一の不具合に備えリスクを回避したのであろう。

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考案者は中村幸治(1877~1958)で、東京の人だが詳細が不明な人物だ。次の画像のものはやはりレプリカだが、京都市東山区の京都女子学園建学記念館「錦華殿」内には、唯一の実物がある。それには、差し入れ口の真下に右書きで、「特許 第四一八四号 (明治)三三・七・一三 東京府 中村幸治 発明」という銘版があるという。

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笠金の真下の外周に、縦棒が連続したデザインとなっているが、ネット上でイギリス製や中国製、ポーランド製の丸ポストを見ると、この部分だけは何故か非常に近しい紋様だ。例えばイギリスの郵便事業は、ロイヤルメールとして始まり300年以上の歴史があるが、ここからの模倣であったかも知れない。想像するに、中村は世界のポストも調査し研究した、先進性のある人だったのだろう。

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●明治41年(1908)には、鋳鉄製の「中村製回転式ポスト」が考案されている。胴部の口径Φ360ミリ、高さ136cmの展示品は、正式に鉄製赤色に制定されたポストで、福井県の郵便局で実際に使用されていた、現存する唯一のものだ。

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丸い鏡板の部分には、桜の花に埋もれた〒マークがあり、その外を雷紋様(前116項)が廻っている。〒マークの上にあるツマミを回すと上部が開口し、差し入れ口が現れる仕組みで、この丸顔のデザインが以後ずっと踏襲されていく事になるのだ。

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後年の昭和24年(1949)の「郵便柱函の規格」には、「桜の花など」と記されているが、デザインはこの規格をそのまま採用している。また、前年の「試作仕様書」には、「標記文字及模様浮出し面は、不変色の金色塗装仕上げとする」となっているが、これもその指示に従って実行されたようだ。画像では、鏡板が回転し郵便物を投入できる状態になっている。

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●ほぼ同じデザインのポストが、都内千代田区丸の内1丁目の、東京駅の丸の内南口の改札近くにもある。ドーム天井がある一角だが、画像の右下に写っている。開業100周年の東京駅赤煉瓦の駅舎とほぼ同年齢で、先の川口市の吉村工業が分解して修理したといい、平成26年(2014)から再登板し供用を再開している。

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ビス止めされた銘版には、『この「丸形庇(ひさし)付郵便ポスト」は大正時代に製造され、茨城県神栖市の波崎郵便局前で使用後、1986年(昭和61)7月から同市の「みだ保育園」で園児の安全を見守りました。2014年12月に東京駅開業100周年を迎えるにあたり、開業と同時期に製造された郵便ポストを当時の原型のまま復元・設置しました。2014年(平成26年)12月15日 銀座郵便局長』とある。

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●試作が始まって4年後の昭和28年(1953)に登場したのが、「丸型ひさし付きポスト」だ。差し入れが面倒で故障の多かった回転式を止め、ひさしにまで雷紋様を配し、盗難防止用の弁を取り付けている。

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雷は、人知の及ばない強大で畏怖な存在であり、転じて権力の象徴として昇華されてきている。天水桶の額縁部にも多く見られるが、ここでも外せないデザインとなっている。どこか違和感があるのは、中央の文字が「便郵」となっていて、右から左へと書かれている事によるのだろう。

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●このデザインの現役のポストが存在する。前6項前78項でも登場したが、愛知県豊川市の豊川稲荷の最祥殿前だ。昭和4年(1929)竣工の総檜造りで、間口13間、23.6m、奥行26間、47.27mという。29世黙童禅師の揮毫による「此處最吉祥」の大額が正面に掲げられているので、「最祥殿」と呼ばれている。

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このポストは私設なので、交換されないままこの場所に立ち続けているという。ひさしの横幅がやや狭いようだが、そこに桜の花びらと雷紋様は描かれている。定期的に再塗装されているようで、これからも役目を永らえる貴重な遺産であろう。

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●郵政博物館の次のこれは、昭和9年(1934)の「差し入れ口大」タイプで、紋様などのデザインは、ほぼそのまま引き継がれている。差し入れ口を下に押すと、口が倍の大きさに広がる様に改良されているが、これは、新聞や書籍など、大型郵便物に対応するためであった。

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こちらは昭和4年(1929)に制定された航空郵便制度に伴って、東京、大阪、福岡、静岡に設置された細身の鋳鉄製ポストで、胴部の口径は、Φ320ミリほどだ。踏襲されたデザインの丸顔の鏡板の下には、「航空郵便専用」という文字が陽鋳造されている。航空だけにスカイブルーだが、この色は後の速達専用ポストに受け継がれている。

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●最後は時代を反映している、「ストニー製代用ポスト」だ。一見、1号丸型ポストと差異が無いようだが、これの材質は、特殊な薬品をセメントに加え固めたものだ。中身の骨組みには、鉄筋のほか、竹も使われたという。昭和12年(1937)に始まった日中戦争による物資不足のため、鉄製の代用としてコンクリート製や陶器製が登場していたのだ。

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これが製造された期間は、昭和12年から同20年と説明されている。戦時の金属類回収令(前3項)は、昭和18年(1943)8月12日の発令で、金属資源不足を補うための勅令であった。戦時中に7万6千基あったというポストのうち、6%の4.600基ほどが被災したという。既存のポストも回収され武器や弾丸に代わったが、同時にこの代用ポストが設置されたのだ。

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●では、各地で見たポストを見てみよう。全国的には、1号丸型ポストは、5.600基ほどが未だに存在しているらしい。都内23区内ではたったの10基ほどらしいが、東京都小平市には、36基あって都内最多という。平成21年(2009)10月に、大きさが日本一という巨大丸ポストが、「ルネこだいら」の前に誕生している。高さ2.8m、口径80cmで重さは1.155トンだ。

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製作は、「日本一丸ポスト製作実行委員会」で、材料として「ヒューム管、中華鍋」と記されているが、頂上の笠金の部分に中華鍋を逆さにして流用したようだ。人間と比してもその大きさが判るが、差し入れ口は正面の上下に2ケ所あり、A4サイズの郵便物を折らずにそのまま投函できるという。

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●東京23区内ではたったの10基ほどという、その1基が次の画像だ。存在場所がユニークなのだが、ここは豊島区南池袋の西武池袋本店デパート、南フロア7階の池袋西武簡易郵便局だ。場所柄、土日祝日も営業しているようだが、建屋内で見られる丸型鋳鉄製ポストとしては、日本で最も高位置かも知れない。なお、真裏下の文字は摩滅していて、年代もメーカーも不詳だ。

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埼玉県越生町の路上からは、ポストの集団が見える。私有地の様なので立ち入れないが、十数基はあるようで、メーカーも多種に及んでいるだろう。廃棄処分される運命にあるポストを置いてあるようで壮観だ。しかし、こうして鋳鉄製の丸型郵便ポストが消えて行くのかと思うと寂しい光景でもある訳だ。

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次のここは、愛知県犬山市の明治村内(前99項前103項前117項)にある宇治山田郵便局舎で、建物の旧所在地は、三重県伊勢市豊川町だ。館内に色々なポストが展示されている。先ほど見てきた書状集箱や柱箱もあるが、ここのそれは少し進化形で、木製の周囲を鉄板で覆って強度を持たせている。丸型コンクリート製や角型アルミ製などもあり、ポストの種類は多様だ。

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●神奈川県鎌倉市の江ノ電の極楽寺駅前。古い木造の駅舎だが、「関東の駅百選」に選ばれている。近くには、地名の由来でもある、真言律宗霊鷲山極楽寺がある。その開基は鎌倉時代前期の武将、北条重時だが、尼将軍と呼ばれた北条政子の甥にあたり、極楽寺重時とも呼ばれるという。愛嬌ある丸顔のポストが出迎えてくれるほほ笑ましい駅だが、この丸い部分はΦ300ミリとして規格化されている。鋳造先は、不明瞭で判読できない。

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栃木県足利市猿田町の天台宗、乾坤山徳蔵寺は、ピンポン寺として親しまれている。昭和51年(1976)、核家族や親子の断絶を感じ、話し合いや人間関係を密にしたいと考え、話し合いのテーブルの代わりにピンポン台を出して、スポーツを通して人の交流を深め始めたという。愛染堂の前には、「縁結び 愛のお願いポスト」が置かれている。鋳造業者の銘は、「昭.39.新東洋製」だ。

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●東京都小金井市の「江戸東京たてもの園(前59項前86項前99項前103項前113項)」。江戸、東京の歴史的な建物を移築し展示しているが、野外に万世橋交番がある。そばにある丸ポストは「昭.25.三谷製」だが、不明なメーカーだ。これは、「郵便差出箱1号丸型」として製造された、一番最初のポストであった。

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交番は明治期の建物といわれ、移築の時には、千代田区神田須田町からトレーラーでそっくり運んでいる。画像のジオラマは、大正時代初期の万世橋の様子だが、中央のレンガ造りの万世橋駅の脇に交番はあったようだ。

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●次は、茨城県常陸太田市の奥久慈県立自然公園に位置する、竜神大吊橋。橋の長さは375mで、歩行者専用としては本州一という。Φ190ミリのケーブルに支えられ、1度に3.500人が渡っても問題ないという。橋の中ほどには、人気のバンジージャンプの設備もある。

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ポストがメインの画像で、橋の長大さが判らない素人写真になってしまったが、裏には、やはり詳細を確定できないメーカー(後述)ながら、「昭.27.京三製」と浮き出ている。先の昭和24年(1949)8月15日付の、郵政大臣官房資材部の最終製作図面には、20ミリ角という文字の大きさや「.」の位置までが詳細に明記されているのだ。

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●世界遺産で国宝の旧富岡製糸場は、群馬県富岡市にある。明治維新の頃、生糸は主要な輸出品であったが、ここは更なる生産性向上、品質改善を目指して、フランスの技術を導入し設立されている。器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模であったという。入口の丸ポストの製造は、「昭.27.昭和製」で、ここは川口市の鋳造業者だ。

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祭りの日に訪れた、群馬県の伊香保温泉。伊香保神社(前87項)へ続く、石段街の入り口に丸ポストが佇んでいる。角に大きな丸みがある根石は、規格統一されていて、高さ20cm、直径60cmだ。根石とポストはボルトでしっかり結合固定され、転倒しない構造になっている。後に画像をアップしてあるが、製造は、「昭.26.三谷製」と裏側に陽鋳されている。

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●北茨城市大津町に五浦(いづら)六角堂がある。文人岡倉天心がこよなく愛した地だが、お堂は、国の登録有形文化財に登録されている。先の東北太平洋沖地震に伴う津波の直撃を受け、お堂は土台のみを残して姿を消したが、平成24年(2012)4月、幸いにも復元されている。また、複雑に削られた崖や岩礁から聞こえてくる荒波の音は、環境庁の「残したい日本の音風景100選(前65項など)」にも選ばれているが、絶好の景観の地だ。

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上は、対岸の五浦観光ホテル前のレストランからの撮影であったが、この敷地に異風な丸型ポストがあった。先の明治45年登場の「丸型ひさし付きポスト」の変形のようだが、各所でデザインの違いが見られる。正面の「便郵」は「郵便」と左から右へと表示されているが、昭和10年(1935)頃のもので、この他にはどこにも陽鋳文字は存在せず作者は不明だ。

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●千葉県銚子市の東突端に立つ、レンガ造りで塔高31.3mの犬吠埼灯台は、銚子海上保安部が管理している。イギリスの技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計、監督のもと、文明開化の先駆けとして造立されている。初点灯は、明治7年(1874)11月15日であったが、実効光度110万カンデラの光は、光達距離19.5海里、約36kmという。

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灯台は、建設当初から真っ白な塔形であったというが、敷地の壁も建屋も門扉も、そしてポストも白色に統一されている。現役のポストは、「郵便は世界を結ぶ」と題された石枠の上に載っていて、銚子郵便局が管理している。「昭.35.吉村製」銘で1日1回の取集だが、ここに投函された郵便物には、全てに灯台の風景印が押されるという。

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●真っ白なポストは、本項の最後に登場する千葉県白井市(しろいし)堀込の白井郵便局前にもある。同市は、昭和54年(1979)に北総線が開通して以来住宅都市として開発が進み、業務核都市の千葉ニュータウンに属している。明治時代以来、梨の栽培が盛んで、「しろいの梨」としてブランド化されている。

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ここで投函された郵便物などには、その梨の形の中に北総線や市の花であるサツキ、市の鳥であるホオジロがデザインされた風景印のスタンプが押されるという。真裏の再下端に鋳出されている文字は、「昭27.昭和製」だ。

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●変わったポストを5例。とある石材屋の前で、石製のポストを見た。デザイン的には、赤い丸ポストを踏襲しているようだが、これは私設のポストだ。大きな石から工作機械で削り出すのだろうか、大変な作業だろう。

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こちらも自作の私設ポストだ。ガスボンベらしき物を改造し、丸い差し入れ口と四角い取り出し口を溶接して設けている。丸顔の鏡板はなくてはならない存在だが、茶褐色が建物とマッチしていて、いい風情であった。

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街中を散策していると、同じようなデザインのポストを見かける。これは郵便ポストではなく、個人用の郵便受けだ。頭部の丸いボッチといい基台の形状といい、そっくりだが、どこかのメーカーの商品であろうか。

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●都内台東区の恩賜上野公園内に、垂れ目パンダの愛らしい角型ポストがあった。背面には丸い尻尾があるが、これも実に愛らしい。今、動物園は平成29年(2017)6月に誕生した赤ちゃんパンダ、シャンシャンで盛り上がっているが、ここも秘かな撮影スポットらしい。角型のポストは、現在14号型まで製作されているようだが、全てが鉄板からの板金製のようだ。

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JR品川駅構内に、「0Kmポスト」と並んで「郵便車型ポスト」が置かれている。車輪と線路の模型も備わっていていい雰囲気だが、国鉄時代に活躍した荷物兼郵便車の「クモユニ」をイメージしている。0Kmポストは、路線の起点を示す標識だが、品川駅には、山手線と品鶴線の2線のポストがあるという。

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●さて、1号丸型の鋳鉄製ポストのメーカーとは一体どこなのだろうか。「〒MAP ポストをひたすらマッピング」というユニークなサイトを参考に業者名を抽出させていただき、自分が撮り溜めてきた120例余りを合わせて分析してみよう。既にここまでに、「吉村、伊藤、新東洋、三谷、京三、昭和製」の6社が登場している。外にも「東京鋳物、服部、大洋、西電、藤山、日吉、東燃、協和製」があり、メーカーは合計14社らしい。

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今に見られる鋳出しの製造年銘からして、初期の数年で撤退したらしい会社も多い。例えば「三谷製」は、昭和25年(1950)の全国調達数調査によれば、1.350基も製作しているのに、上述の伊香保温泉の「昭.26.三谷製」の例など同26年頃以降の現存は少ないようだ。

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「伊藤、西電、日吉、東燃製」も早期撤退組のようだ。納入された地域別に見ると「藤山、服部製」などは、設置場所から推して関西系と思われるが、「服部製」は、前97項で登場した「服部工業(株)」であろう。「大洋製」は、信越、信州地方に散見できるが、昭和40年(1975)銘などが多いようで、逆に、末期参入組のようだ。画像は、冒頭の茨城県鹿嶋市の鹿島神宮で見た「昭.27.伊藤製」銘だが、設置場所からして関東系のメーカーであったろうか。

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●「京三製」は関東や信越地方に多いが、大正6年(1917)に東京神田淡路町で創業したという(株)京三製作所であろう。現在は横浜市鶴見区に本社を構えているが、昭和初期に「京三号」という水冷式単気筒500ccの小型トラックなどを製造していた会社だ。昭和6年(1931)から同13年8月までの7年間で、合計2.050台が製造されたというが、日産が乗用車を実用化し、トヨタがやっと試作車を完成させた時代だ。

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同社は、国内初の踏切警報機やATS装置を手掛け、現在は、鉄道信号システムやホームドアなどの安全設備など、主に鉄道関連の産物が主流だ。栃木県鹿沼市草久(くさぎゅう)の古峯神社内(前75項)に古峯ケ原(こぶがはら)郵便局がある。ここは、火伏や豊作、村内安全の神としての古峯信仰の聖地であり、天狗の社として高名だ。

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ここに差出箱1号の丸型郵便ポストがあるが、裏側の真下に「昭.27.京三製」という鮮明な銘がある。同社のサイトには、郵便ポスト製造の歴史は記されていないが、会社の規模的にも、ポストを量産できる設備を誇っていたに違いなかろう。

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●毎年のように継続して納入していたのは、川口の業者の「吉村製、昭和製」と所在不明ながら「新東洋製」だけで、この3社で、8割以上を占めていると思われる。特に「新東洋製」は、昭和25年から最後の同44年に至るまで毎年製造している。業者が淘汰されたためであろうか、この3社製の設置は地域的にも全国区のようで、北海道から沖縄にまで現存するようだ。

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川口市所在の業者は、「吉村、昭和、東京鋳物」で、他にもあるかも知れないが、把握できていない。『戦後初の新規格郵便ポスト「1号丸型」の試作から完成まで 郵政博物館 研究紀要 第6号(2015年3月)』という資料には、「新規格ポスト写真(川口市東京鋳物株式会社工場製、1949.9.25)という記載がある。昭和24年だ。

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●昭和12年(1937)の、400社近い登録がある「川口商工人名録」の「鋳物製造」の部には、「一般鋳物 川口市寿町209 株式会社 東京鋳物工所 高木祐吉」と見えるがここであろうか。一方で、昭和16年(1941)の、540社の登録がある「川口鋳物工業組合員名簿」には、何故かこの社名が無い。また後者の名簿には、「昭和」や「東洋」を冠する社名も散見できるが、ポストのメーカーであったかどうかは定かではない。

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他にも文献を漁ったが乏しく、わずかに「川口」という文字が見られる古新聞や、古老の「確かあったはず」という話だけを根拠としている。現在、ポストの製造はしていないが、鋳造業を営業しているのは、画像の川口市朝日町の吉村工業(株)(前69項)だけのようだ。かつてのポストメーカーだけあって、社屋の入り口前には赤い丸型ポストが置かれている。

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●川口市の「東京鋳物製」は初期に撤退したようだが、地域的には関西方面に多く現存している。「吉村製」らと住み分けをしているようで、地方にも工場があったのだろうか。また、「東鋳製」と簡略化され鋳出されているポストが見られるが、これは、製作図面の指示によるものと思う。

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図面では、「□□製」と2文字で社名を表示にするような仕様になっているのだ。社名は2文字とは限らないから、必ずしもこの通りになろうはずもないが、杓子定規に当てはめようとしたのかも知れない。ここの正式名は、「東京鋳物株式会社」で長めな社名だ。

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●「協和製」は名古屋の業者だ。現存数が少ない「LETTER」と表示されたポストを手掛けている。このレターポストと称されるものは、現役としては、香川県善通寺市郵便局横と長野県塩尻市贄川(にえかわ)郵便局前、次の画像の千葉県白井市の3例しかないらしい。通常は「POST」という表示だから珍しいものだが、検討段階では、「MAIL」という案もあったという。

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ここは、千葉県白井市復にある、そろばん博物館だ。看板の文字は、そろばん玉を木片に埋め込んで表現しているが、敷地内に現役のポストが置かれている。冒頭で見たように、これも上胴と下胴が分割されていて回転出来る構造だが、笠金の頂上には何の細工も無くのっぺらぼうで、広告塔や吊り上げの件については、未だ想定外であったようだ。

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●説明板によれば、欠けていたひさしを川口市の吉村工業が修復、平成25年(2013)4月7日に投函式がなされ、現役復帰を果たしている。「占領下のため英語の文字(LETTER)が刻まれている」といい、一方で、日本的な桜の花紋様がひさしにあり、愛らしい。最後には、「そろばん(二宮)金次郎の像と一緒に有るので、お金のたまるポストと言われています」と記載されている。

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発注時の昭和23年(1948)の伺い文書には、「試作品の調製という性質上、鋳鉄製ポストの製作経験のある名古屋市の同社が好ましい」という記載があり、「協和」は、同年5月にこれを完成させている。これは、1号丸型ポストの試作品で原型であったが、文面からすれば、試作2案目なのかも知れない。

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裏には、製造年は無いが、「協和産業株式会社 納 名古屋」と鮮明に陽鋳造されている。古来より、製造者銘を刻み残す行為が極自然であった事は、このサイトでは常々見てきている。製作物に対する責任の明確化という側面も大いにあるが、郵便ポストも例外ではなかった訳で、現代に見られる残された文字は、歴史を探る上で貴重な情報であった。つづく。