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●埼玉県川口市は、鋳物鋳造の街だ。川口産の製品が全国各地にあふれている。マンホールのフタは、過去に前5項などでアップしたが、こんなものもそうだ。JR川口駅前にある鋳鉄製のポストに説明書きがある。

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「昭和40年(1965)頃まで川口市内の鋳物工場で、丸型の赤い郵便ポストが製作されていました。そこで、地場産業の鋳物を市民の方々に知って頂くために、CASTY(後71項後109項)の完成を記念して、曲線を生かした未来型郵便ポストを製作いたしました。」

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●「CASTY」とは、商業施設ビルで旧川口産業会館だが、鋳物の「CASTING」を意味している。ポストの製造者は、市内でマンホールの蓋類を鋳造している、昭和5年(1930)5月創業の川口市朝日町の吉村工業(株)さん(後85項後123項後132項)で、現在の社長は、昭和36年生まれの若手経営者だ。かつてのポストメーカーだけあって、社屋の入り口前には赤い丸型ポストが置かれている。

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ポストは、「’05(平成17年)5月」の設置だが、マンホールの蓋と言っても多種多様で、電気や通信用、上下水道用鉄蓋などがあって、形状的にも丸型、角型などがある。同社のホムペにも写真がある通り、同社がかつて、赤い丸型ポストの製造元であった縁で、今回の未来型ポストの鋳造という運びになったのであろう。

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そして後日、「川口市長 岡村幸四郎」から、「まちかどスポット賞」が、「キャスティー管理組合法人様」宛てに贈られている。「あなたの作品が本市のまちかどの景観向上に寄与したことを称えます」とあるが、発注し設置したのは、市の施策ではなく、キャスティービル側であったようだ。

キャスティー前・ポスト

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●なおポストに関しては、後123項で詳しく検証しているのでご参照いただきたいが、ここでは現存する吉村製限定の、鋳鉄製の丸型郵便ポストを何例か見ておこう。まずは青梅市だが、東京都西部の西多摩地域最大の市で、人口は、約13万人だ。青梅街道の宿場町、青梅宿として発達していて、古くから綿織物が盛んな市だ。昭和42年(1967)に始まった有名な青梅マラソンには、海外からも含めて約1万5千人が参加するという。

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画像は、同市大柳町の大柳八坂神社前にある、とある商店脇に立つポストだ。この神社は、後106項後132項で登場しているが、ここで川口鋳物師が鋳た「武刕(州)足立郡川口住人 鋳物師 永瀬豊八 豊次作之」銘の半鐘を見ている。ここのポストの鋳出し銘は、「昭.37.吉村製」だ。

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同市での散策中には、この他にも、森下町の山田商店前で「昭.32.吉村製」に出会っている。さらに滝ノ上町の青梅市民会館南交差点近くには「稚子橋の碑」があるが、そのそばにあるポストも、同じく「昭.32.吉村製」だ。青梅市とは、これらを以てしても川口市との由縁を感じる地域だ。

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●続いては、茨城県龍ケ崎市から2例。人口約7万5千人の都市で、東京都心から約45kmの位置にあり、東京通勤圏であるという。ウイキペディアによれば、市の呼びの由来としては、『平安時代末期、この地の地頭に任ぜられた下河辺政義が、鎌倉時代に源義経の姻戚であったことから、領地を没収された後、氏を龍崎と称したことが由来とされる。』画像は、同市下町の田中商店前の「昭.36.吉村製」銘のポスト。

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さらに由来は、『その他に「龍ケ崎市史」によると竜巻が多い土地だったから、千葉県に伝わる言い伝えから龍が降って来た土地の先にあった土地だったから、「新編常陸国誌」によると町が龍の形をしていたから等の諸説がある』という。「龍ケ崎コロッケ会館」脇のポストは、「昭.31.吉村製」銘だ。

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●山形県から2例。置賜地方最大の都市、米沢市の人口は県内4位の約7万8千人だが、米沢藩上杉氏の城下町として知られる。JR米沢駅は市を代表する駅で、山形新幹線「つばさ」の全列車が停車するが、他にも奥羽本線と米坂線の2路線が乗り入れている。駅前に立つこのポストの銘は、「昭.28.吉村工業製」だが、川口市から遠く離れた地での出会いには、感無量の思いがある。

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実は、「工業」という2文字が追加されている例は、あまり見られない。後123項で知るが、ポストの製作図面では、「□□製」と2文字で社名を表示にするような仕様になっているからだ。社名は2文字とは限らないから、必ずしもこの通りになろうはずもないが、この4文字が存在するように、強い制約があった訳では無いようだ。

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山形県上山市葉山にホテル古窯がある。蔵王連峰が一望できる緑豊かな高台に佇んでいるが、プロが選ぶ旅館百選のTOP10に選ばれ続ける、かみのやま温泉の宿で、その泉質は「三大美人泉質」として知られている。「古窯」の名は敷地内から発掘された、今から約1.300年前の奈良時代の窯跡にちなんで名付けられている。玄関前のポストは、「昭.31.吉村工業製」銘だ。

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●埼玉県所沢市山口の西武園ゆうえんち内に「昭和の熱気で心を満たそう」と謳う「夕日の丘商店街」があるが、その中央付近に夕日丘郵便局が位置している。園内での買い物や食事には、独自の西武園通貨を円で買う必要があるが、その交換所だ。建屋の脇で赤いポストが眼を引いているが、その銘は「昭.38.吉村製」となっている。

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●さて、川口市産の他の製品としては、網目格子状にデザインされた溝蓋は、グレーチングと呼ばれているが、全国各地の路面で見られる。鋼鉄製が主流のようだが、ダクタイル鋳鉄製の物も散見できるようだ。

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画像のようにブランド名が鋳出されているが、川口鋳物工業協同組合所属、昭和50年(1975)5月創業の不二グレート工業(株)が製造している。この他、マンホールや鉄蓋も主要製品であるようだ。

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●さて、天水桶であるが、「山寅」こと山﨑寅蔵作の作例を見ていこう。彼の製品は、大正3年(1914)創業で、「川口町金山町二丁目」にあった「山﨑鑄工所 山﨑寅蔵」で生産されていたが、この住所は、下の広告の画像に表示されている。今の川口神社のすぐ真西だ。

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当初は、溶解炉である甑炉(こしきろ)を製造していて、北は北海道から西は桑名方面からも受注していたという。その後は、焼き型、それも大物作りの技術に長けていたため、寺社の天水桶鋳造と言えば「山寅ブランド」と言っていいほど普及した。

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当サイトで現在、確認できている「山寅製」の桶は、未アップも多くこれから紹介していくが、32例ほどだ。後継の2代目、山崎甚五兵衛作の桶には、散策中に最も多く出会うが、鋳鉄製、青銅製を合わせると129例にもなる。

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同社の社章は、鋳物工場イコール釜屋の、「釜」を連想させる山笠マークに、「寅」の「ト」であった。この山のマークは、天水桶の上部に付属し冠される事もある、手桶保護用の屋根をもイメージしているのかも知れないが、しかし、この紋章を鋳出した桶を見かけたことはない。
山寅

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●昭和初期の同社の広告を見てみると、「営業課目」として「美術工芸品各種」、「天水鉢・火鉢類」、「其他真鍮(しんちゅう)砲金(前41項)」の製造を得意としていたことが判る。「砲金製天水鉢 直径三尺(約91cm) 高サ三尺二寸 重量六十貫(約225kg)」と「砲金製獅々之像 高サ二尺五寸(約76cm) 重量百二十貫(約450kg)」という実績も掲載している。

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この「砲金製天水鉢 砲金製獅々之像」というのは、かなり気に掛かる。砲金は、5円玉のような材質で見た目も金色だ。鋳鉄より熔解湯の温度が低く鋳造はし易いが、高価な素材だ。これを450kgも使った金ピカの狛犬や、光り輝く天水桶が本当に存在したのだろうか。写真が白黒であるのが残念でならない。

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●この広告の真ん中下にある、「府下大森南原(現大田区大森東) 三輪厳島神社奉納」という手桶を伴った樽型の天水桶は、もう存在しない。戦時中に金属供出(前3項)してしまったのだろうか、現在は、口径Φ900、高さ830ミリのコンクリート製のものが置かれている。

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源義経にまつわる治承4年(1180)創建の古社だが、砲金製という金色の鋳造品が存在したなら、かなり華やかであったろう。なお、本サイトでは、前20項後113項などでも多項にわたり「山寅」について解析している。

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●さて、川口鋳物産業の当初の特色として挙げられる一つに、鍋、釜、ストーブなどの生活必需用品、つまり、消耗品の需要に対して供給、発展してきたという歴史がある。工芸品でも芸術品でもないから、当然、それらの製品に作者名を鋳出す理由も必要性も無い。

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そんな中において、天水桶は例外だ。奉納者たる檀家や寺の住職が、あるいは製造費用を出した寄進者が自分の名前を残すことを、ある意味目的としていたのだ。鋳造者がその端に名前を鋳出していても、何の違和も無い。これから見ていく桶にも、多くの人名が列挙されているが、永劫に亘って受け継がれていくべき慣習であろう。

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●まずは、葛飾区東四つ木の、渋江白髭神社。「新編武蔵風土記稿」の渋江村の項を見てみよう。「白髭、八王子、客人権現合社。村の鎮守なり。客人権現は霊験ありとて、近郷の諸人群詣せり・・ 」とある。創建年代は不詳ながら、室町時代と推定されている。

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各地に存在する「白髭神社」とはどんな神社なのだろうか。ウィキペディアなどで調べてみると、御祭神は、猿田彦(サルタヒコまたはサルタヒコノカミ)大神であり、長寿の神として知られるが、総本宮は、滋賀県高島市にある。祭神は人格化する際に白髪の老人になるというが、その端緒は総本宮の社名「白鬚」にあるという。

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神社本庁の資料によると、全国の白髭(鬚・髯)神社の数は292社で、ベスト3は、埼玉33、岐阜62、静岡64社である。気になるのは「ひげ」を表記する漢字だ。同じ読みでも「髭」は口ひげ、「鬚」はあごひげ、「髯」はほおひげと使い分けられるようで、それを知っただけでも調べた甲斐があった。

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●天水桶は、「昭和4年(1929)10月吉日」に奉納された鋳鉄製の1対で、後ろに絵馬掛けの札が見られるが、ここには、区の文化財として、高さ51cm、幅84cmの1対の「武者図絵馬」がある。牛若丸弁慶図と川中島合戦における上杉謙信と武田信玄のもので、安政3年(1856)の墨書だという。

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大きさは口径Φ900、高さは820ミリで、鋳造は、「埼玉縣川口町 山﨑寅蔵善末作」銘だ。裏には、奉納した総代の氏名が並んでいるが、「神職 春日秀郎」の時世であった。

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●続いては、北区滝野川の四本木稲荷。陸軍十条兵器製造工場の守り神として、明治末期に創建されている。近くに4本の大木があったので名付けられた社名だと言うので、「しほんぎ」と発音するのかと思ったら、「よもとぎ」であった。天水桶を構図に入れながら社殿を撮影するとなると、こういう風にしか撮れない。堂宇の奥の方、本殿の前に鋳鉄製の天水桶が1対見られる。

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日露戦争時、工場拡張の際に、ここにあった古墳は取り崩された。その後、火薬爆発などの事故が相次ぎ死傷者も出たため、古墳を壊したせいではないかと言う事になり、社殿を造り守り神としたという。なるほど、「壓(圧)延工場 従業員一同」と鋳出されていて、その説明を裏付けている。

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●境内で見られる奉納物にも、各部所の刻みが多くみられる。手水鉢には「明治43年(1910)4月 銃砲火具職工一同」、忠魂碑や石灯籠には「大正6年(1917)4月 火具製造所一同」、石鳥居には「大正13年2月 陸軍造兵廠火項廠」、お狐様には「昭和10年(1935)4月 信管工場一同」などだ。毎年4月には、招魂祭りと神社例祭が周辺の方々も参加し盛大に執り行われたという。

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天水桶は「昭和10年(1935)4月吉日」の造立で、「四本木稲荷神社」の鋳出しもあるが、正面には額縁に入れられた狐の姿と、稲穂の紋章も見られる。この狐の埋め型(後81項)は、前6項で見た港区赤坂の四合(しあわせ)稲荷神社のものと同じものだろう。大きさは、口径Φ740、高さは800ミリで、銘は、「川口市 製作人 山﨑寅蔵」とはっきり読み取れる。

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●都電荒川線の新庚申塚駅近く、豊島区西巣鴨の法華宗陣門流、長徳山妙行寺(みょうぎょうじ)の建創は、寛永元年(1624)とされている。境内には、「うなぎ供養塔」、「魚がし供養塔」や四谷怪談で知られる「お岩様」の墓などがある。

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説明によれば、「お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年(1636)2月22日であり、以来、田宮家ではいろいろと災いが続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた」という。

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入口に立つ石碑を見ると、「明治42年(1909)四谷より移転」と記録されている。東京府による市区改正事業のため、四谷鮫ケ橋南町から移転しているのだ。また、忠臣蔵で知られる「浅野家歴世之墳墓」もある。墓石の刻みを記しておくと、「浅野内匠頭長直公夫人 高光院殿之墓」、「浅野内匠頭長矩公夫人 瑶泉院殿供養塔」、「浅野大学長廣公夫人 蓮光院殿之墓」となっている。

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●天水桶は、正面の山号「長徳山」と共に、裏には「大正8年(1919)10月吉日」とある。山﨑鋳工所の創業後間もなく手掛けた鋳鉄製の1対であったが、現存する山﨑寅蔵銘の中でも最古の作例だ。大きさは口径Φ1.080、高さは920ミリで、銘は「武刕川口町 山﨑寅蔵製」と読める。

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なお山﨑家の漢字の表記であるが、寅蔵は、「﨑」という「立」を用いた文字を使っている。2代目の甚五兵衛も当初はそれを継承したが、昭和の末期以降はその銘に、「大」の方の常用漢字の「山崎」を使用している。当サイトでは、塗装の盛り上がりで判読し難いこともあって、2代目の作例に関しては、全て「山崎」で統一している事をご了承いただきたい。

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●都営新宿線西大島駅北側、江東区大島のお稲荷さんだが、扁額には、「子安稲荷大明神」とある。元禄年間(1688~)の創建だが、五穀豊穣の宇迦能魂之神を祀っていて、商売繁盛や子孫繁栄にご利益があるようだが、それにしても狭い境内だ。

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境内には、今や植木鉢と化した取っ手付きの香炉、あるいは手あぶり火鉢らしきものが2基ある。同等の意匠で、大きさは直径Φ880、高さは320ミリ、大き目な取っ手は、幅250ミリとなっているが、鋳鉄製だ。香炉ならば1基あれば事足りるはずであるから、これはかつて手あぶり火鉢であったのだろう。大きな取っ手は、頻繁に移動させられる様に備え付けられたものであるはずだ。

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火鉢は、陶磁器や金属、木材などでできた器具で、入れた灰の上で炭を燃焼させ、暖房や湯沸かし、簡単な調理を行うものだ。2基は、「昭和33年(1958)8月吉日」に、大島町3丁目の「町会々館の落成記念」として鋳造されていて、町会役員の名前が多く鋳出されている。これはやはり、町会行事などの集まりに際して供された暖房用の火鉢であろう。

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●残念ながら鋳造者名は不明であるが、昭和の中頃まで香炉や火鉢作りを得意としていた川口市の秋本鋳工所(前21項後81項など)での作例ではなかろうか。奉納者名の下側には、全周に亘って落款(前65項)の様な印影(前13項)が見える。鋳造者を示す銘であるかも知れないが、摩滅も激しく判読できず特定はできない。

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前13項の墨田区向島・久遠山常泉寺でも1例を見ているが、前54項の川崎市川崎区旭町の薬王山医王寺では、「 昭和廿九(29)年(1954)三月  川口市 秋本造」銘が記された香炉を見ている。大きさは、2つの取っ手の距離が680ミリ、高さは約300ミリだ。こちらも摩耗して判然としないが、下方に廻っている印影は同等に見える。

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あるいは、前64項の北区東十の常住寺の香炉は、「昭和34年(1959)10月3日 秋本謹製」銘の口径Φ680ミリのものであったが、こちらも同じ様に印影の文字を読み切れない。さらにこれらの3例の取っ手の形状やデザインはどれも同じに見える。ここ子安稲荷大明神の火鉢の製造者は、秋本であると推定するに充分な様に思える。

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●さて、ここの鋳鉄製の天水桶1対は、「大正15年(1926)9月吉辰」の設置で、奉納者は、「東京大崎 高砂鐵工(てっこう)株式会社」だ。地図を見ると、この会社は現在も営業しているのであろう、稲荷社のすぐ近くに存在している。実はこの稲荷社は、同鉄工所の拡張工事により昭和30年頃(1955)、当地へ移転している。が、この天水桶はその30年前の奉納だ、移転という転機に奉納されたのではない。鉄工所の方はかねてからの崇拝者であったのだ。

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上の画像に見えるように、ここの社紋は、「右流れの三つ巴」(これを左流れという説もある)だ。左流れが多いが、特に大きな理由は無いという。諸説ある中、由来は雅楽に用いられる大太鼓で、左右に置かれた2基の巴紋は、相向き合うように意匠されている事によるという。大きさは口径Φ670、高さは590ミリだが、作者名の鋳出しは簡潔で、「山寅製」(前20項のみだ。

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●最後は、京急本線、大森海岸駅南側にある、大田区大森北の磐井神社だ。社名は、岩磐の間より湧出する井戸に由来する。敏達天皇(在位572~585)の代の創建と伝えられ、延喜式神名帳にも記載されている式内社で、東海七福神の弁財天でもある。将軍家とのつながりもあるらしく、開府前には徳川家康らが参詣して祈願所としたり、また、享保10年(1725)には、8代の吉宗が本殿などを造営した記録があるという。

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殿前には、1対の鋳鉄製天水桶がある。銘は「昭和参年(1928)拾月吉日 川口町 山﨑寅蔵善末作」だ。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」を見ると、ここの先代らしき天水桶の記録が記されている。

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「明治18年(1885)8月吉日 横山鎌吉(前42項後92項) 釜屋銀次郎 1対」だが、これは戦時に金属供出(前3項)されてしまったのであろうか。銀次郎の仔細は不明だが、鎌吉は、自らを「吹鎌」と称した川口鋳物師であった。

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「御大典記念」での寄進だが、現代でも例大祭が行われ、連合渡御の様子はユーチューブなどでも見られる。「第二部消防組」の奉納で、周りには多くの人名が刻まれている。組頭を筆頭に、はしご持ちや筒先、纏(まとい)持ちの名もあるが、永代に亘って保存維持して欲しいものだ。なお後79項では、この天水桶がリニューアルされた情景を見ているのでご覧いただきたい。次回も、山﨑寅蔵作の天水桶を見ていこうと思う。つづく。