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●今回は、学生街の千代田区・御茶ノ水駅界隈を散策した様子から記してみよう。同駅は、明治37年(1904)12月31日に開業しているが、東京メトロ丸ノ内線「駅番号M20」、同千代田線「C12」とJR中央線「JC03」、JR中央・総武線「JB18」が乗り入れる接続駅だ。江戸期の外堀でもある神田川は区界だが、この西側に掛かる橋の呼称は、「お茶の水橋」が正式名となっている。

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その橋のたもとの交番脇にお茶の水の地名の由来を語る石碑があり、右横の水盤には今でも水が湧き出ている。「慶長(1596~)の昔、この辺りの神田山の麓に金峰山高林寺(前33項・現文京区向丘)という寺があった。

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寺の庭から良い水が湧き出るので、将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられ大変良い水だとお褒めの言葉を戴いたのが始まり」という。石碑は「お茶の水保勝会」が、昭和32年(1957)9月9日に設置しているが、ご住職であろうか、「高林寺 田中良彰」の名が刻まれている。

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●駅の北側には、お茶の水女子大学や東京医科歯科大学、順天堂大学、日本サッカー協会ビルや東京都水道歴史館などがある。南側には、日本製紙(株)本社や三井住友海上本社、御茶の水美術学院、駿台予備学校、日本大学、中央大学や東京六大学の明治大学(後95項)などがあり、「日本のカルチエ・ラタン」とも呼ばれる、日本最大級の学生街として知られている。

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駅の東側に掛かるのが聖橋で、画像のキリスト教の大聖堂、ニコライ堂がある事で知られる。この周辺では、前10項で、文京区湯島の湯島聖堂や千代田区外神田の神田神社と魚河岸水神社にある天水桶を、前13項では神田神社内にある小舟町八雲神社の、前16項では同じく大伝馬町八雲神社の天水桶を、後89項でも、神田神社内で元萬世橋の擬宝珠を見ている。また、文京区本郷の金刀比羅宮東京分社(前15項)や神田猿楽町の豊島屋本店(前22項)も界隈だ。

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●神田神社の北側、文京区湯島3丁目には湯島天満宮が鎮座している。社伝によれば、雄略天皇2年(458)1月の創建という。古来より江戸、東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため、受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れるが、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。画像の拝殿は、老朽化のため平成7年(1995)12月に総檜造りで造営されている。

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銅造の表鳥居は、都指定の文化財となっている。笠木の下に島木があって反りが加えられているので、明神鳥居と呼ばれる形式だ。笠木には、ここの神紋の「加賀梅鉢紋」が据えられているが、有名な境内の約300本の梅木の内の約8割は白梅という。ここのサイトを見ると、「鳥居の大きさは、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81m」だ。

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礎石は5角形の梅花を模していて、羅紗紋様が施された根巻きの4方では、魔除けの意味であろう獅子頭が睨みを利かせている。この様な凝った手法は、前3項の千代田区平河町の平河天満宮の銅造鳥居、「天保十五申辰歳(1844)十二月吉祥日 御鋳物師 西村和泉 藤原政時作」などでも見ている。なお、江戸期に鋳られた、関東近郊に現存する銅造の鳥居は数少ないが、本サイトで登場する項番は前3項からご覧いただけるのでご参照いただきたい。

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●この鳥居は、焼損など幾多もの災禍に出くわしたようで、柱の銘板にはその来歴が刻まれているので列挙しておこう。「寛文7年(1667)9月建設 鋳工不明、同11年(1671)11月修繕 仝上、宝暦11年(1761)2月修繕再建 仝上、文化6年(1809)2月 同上 仝上、文政6年(1823)10月 同上 仝上」で、「仝上(上に同じ)」は、全て「鋳工不明」を意味するようだ。

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続けて、「安政6年(1859)9月 同上 鋳工 長谷川兵部正源良寿、明治35年(1902)11月 同上 東京本郷湯島住 鋳匠 山田浄雲」、そして銘板の枠から外れて「大正6年(1917)10月 同上 2代目 山田浄雲」だ。

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●壊れても壊れても修繕され再建されたのは、この鳥居の前には、かつて繁華な門前町が広がっていたためであり、なくてはならない天満宮の象徴だったのだ。「山田浄雲」の人物像は不明だが、「正源良寿」は、前37項後116項でも登場する。「神田住 御鋳物師」を名乗っており、正にこの地で活動した人であった。

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その繁華な様子は、天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも描かれている。丸で囲った鳥居をくぐって本殿に向かうと、四角で囲ったが、「茶屋」、「楊弓」、「芝居」という社交場が参道の左右に点在しているのだ。何度も修繕され続けた銅鳥居は、図会が発刊された時期からすれば、「文政6年(1823)10月」製のものであろう。

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●JR御茶ノ水駅から南側に歩いて行くと、学生街だけに、楽器店街やスポーツ店街、神田神保町には国内最大の古本のメッカ、神田古書店街が位置している。神保町の町名の由来は、正徳2年(1712)に佐渡奉行を歴任した、幕臣の神保長治の屋敷があった事による。楽器店は、明大通り沿いだけでも実に40店も有るというが、学生らを当て込んでの隆興であろう。

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前2項では、神田駿河台にある太田姫稲荷神社を訪ねているが、神社の縁起伝説は9世紀から始まっている。15世紀頃には、江戸開祖の太田道灌(後89項)の姫君が重い疱瘡に病んだ際、治癒を祈願したところ、拭うように癒えたことから太田姫稲荷大明神として奉ったという。

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●代々の徳川将軍も修理造営などを行い崇拝したと伝わるが、末社には、鍛冶鋳鋼の神、金山彦命を祀る金山神社もある。小さい社ながら、ビル群の都会の一等地の中で、今なお鎮座を続けている。平成23年(2011)の暮れに訪ねた時は、画像のように古びた感じの天水桶であったが・・

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平成26年(2014)の暮れに再訪すると、見違えるほどリニューアルされていたのだ。屋根は修理され、サビて朽ちるのを待っていた天水桶1対も見事に復活しているが、寺観が一新されている。

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先の石鳥居も更新したようで「平成25年(2013)9月吉日建之」であったが、この日は、神社修繕の記念日で、「氏子中 駿河台東部町会 駿河台西奉賛会 錦町一丁目町会 小川町二丁目南町会」の名が刻まれている。塗装は剥げ、台座も崩れんばかりで、みすぼらしかった鋳鉄製の天水桶も・・

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●導水パイプとゴミ除けの金網が新設され、サンドブラストし、サビと古くなった塗装を落としとのであろう、今度は黒色に塗り替えられている。砂吹きとも言われるサンドブラストは、ショット・ブラストの一種で、表面に砂などの研磨材を吹き付ける加工法だ。大きさは口径Φ600で、脚の高さが100ミリなので総高は630ミリだが、新品同様に甦っているではないか。

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「奉献 錦町有志 駿河台有志」の人名に並んで、「鋳造人 武刕川口町 (山に亀の社章) 田中亀太郎 昭和4年(1929)5月」銘の鋳出し文字もクッキリだ。しかし、未だにこの鋳物師の詳細は判らない。

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修繕に際しては、「川口市 田中亀太郎」で検索もなさったろう。こんな時にも、この鋳出し文字が役立ったように思えるが、重要な記録だ。小ぶりながらもこの天水桶は、甦った神社の顔の一部として、なくてはならない存在なのだ。リニューアルした関係者の方々に只々、感謝だ。

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●また前56項では、江戸時代末期にイギリス公使館が置かれたことで知られる港区高輪の佛日山東禅寺を訪ねている。他の各所で米仏欄などの公使館に充てられた寺院は、今や大きく改変されてしまい、東禅寺が往時の公使館の姿を伝え遺すほぼ唯一の寺院であることから、国の史跡に指定されている。

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後日再訪問すると、鋳鉄製の1対の天水桶は見違えるほどリニューアルされていた。濃緑に塗装され清潔感いっぱいだ。上部の額縁と下部の台座の周囲にも、ここの寺紋である「十曜」が散りばめられていた事が判った。

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●相変わらず柵内への立ち入りはできない。前回は、桶のデザイン形状などからして、川口鋳物師の山崎甚五兵衛作だろうとした。今回も望遠での撮影をしてみたが、角度的にやはり無理で、鋳造者名の確定は出来なかった。しかし天水桶が甦り、さらに寿命を延ばしたことは喜ばしい限りだ。

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改修前の状態と並べて比べてみると一目瞭然だ。断然いい、甦っている、完全復活だ。サンドブラストは、圧縮空気に硅砂やアルミナ、ガラスビーズなどの研磨材を混ぜて吹き付けるが、天水桶の地柄や文字を傷つけないように保護するためには、吹き付ける強さや研磨剤の粒度に配慮が必要であろう。石材加工にも応用されるが、墓石の文字入れは、彫らない表面をゴムシートで覆いマスキングして行うようだ。

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●さらに、前69項では、大田区大森北の磐井神社を参詣している。ここは応神天皇、仲哀天皇ら5柱を祀っているが、後日再訪すると、前回気に留めなかった色々なものが見えた。霊験あらたかな大銀杏のご神木があり、池には弁財天を祀る笠島弁天社があった。区の掲示によれば、万葉集の「草陰の荒藺(あらい=地名)の崎の笠島を 見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここを指すとも言うらしい。

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社名の由来となった井戸は、境内の外の国道沿いにあった。「磐井と呼ばれる古井戸で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は薬水と称されて古来有名である。この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により、境域がせばめられたため、社前歩道上に遺存されることになった。現在飲むことはできないが、土地の人々は、この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水、という伝説を昔から伝えている」という。

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●そして鋳鉄製の天水桶が甦っていた。真っ茶色にサビついて近寄りにくかったが、鮮やかな緑色に再塗装され誠に清々しい。銘の「昭和参年(1928)拾月吉日 川口町 山﨑寅蔵善末作」も黒く浮き立ち、かなり目立つようになっている。大きさは、口径Φ1.060ミリ、高さは950ミリだ。

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サンドブラストと言う工業技術は、1870年に、船舶用のサビ取りや塗装はがしとして、アメリカ合衆国のティルマンにより考案されているが、近年では、電気回路や電子部品、配線加工などでも使われている。また、グラスなどへの記念品の名入れのように、ガラス工芸品の表面処理、装飾、彫刻を施す為にも用いられている。

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こちらも一目瞭然だ、断然いい、完全に復活している。なお、リニューアルされた天水桶としては、後96項の「都内大田区萩中・高輪山善永寺 天保12年(1841)3月 太田近江大掾 藤原正次」、通称釜六製の例や、後125項の「杉並区高円寺南・高円寺氷川神社 埼玉縣川口市 製造人 秋本島太郎 昭和10年(1935)9月」の例もあるのでご参照いただきたい。

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●ここからは、最近出会った天水桶を見ていこう。まずは文京区小石川にある、吉水山朝覚院宗慶寺。金色の葵紋が燦然と輝いているが、せまい都会のビル群に押し込められたような感じの社屋で、よく見ると苦肉の策か、鳥居を模したらしい門も、こじんまりと存在する。

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ここの院号は朝覚院だが、これは徳川家康の側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)の法名、「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」に由来している。家康公の6男忠輝の生母で、元和7年(1621)に没しているが、境内にはその墓碑、宝篋印塔がある。

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ここの天水桶は、「昭和五拾壱年 拾貮月吉日」、1976年12月銘の青銅製で、作者は不明だ。口径Φ770、高さは780ミリの1基のみだが、正面に「葵の紋」が見られ、狭い門前ながらも邪魔にならない位置にスッキリ収まっている。また裏側には、「極楽水」と鋳出されているが、これはかつてここに、清水があふれる「極楽井」が存在したことによる。近くの小石川パークタワー内には、純和風の庭園「極楽水」が現存するのだ。

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●世田谷区上馬の八幡山宗円寺は曹洞宗で、本尊を釈迦如来像としている。掲示板によれば、慶長元年(1596)の創建で、境内には、木像の「しょうづかの婆様」という小堂があるが、江戸初期の頃から祀られたもので、特に百日咳に霊験あらたかであるという。願をかけ病が平癒すると、そのお礼に捧げられる綿と茶で常に埋もれているほど参詣者が多かったといわれている。

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天水桶1対は、「平成3年(1991)8月吉日」に檀家が寄贈しているが、青銅製で作者不明。あまり見ない例だが、台座に自然石を利用していて、なかなかお洒落だ。寄進は、「39世 義成代 新添」の時世であった。

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●次は、東急世田谷線の上町駅近く、世田谷区弦巻の、曹洞宗鶴松山実相禅院。掲示板によれば、本尊は薬師如来で、開基は吉良左兵衛佐氏朝とも、子の頼久とも云われ、慶安元年(1648)には、徳川家光より朱印地10石2斗2升を賜っている。

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「新編武蔵国風土紀稿」には、「今境内二氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年(1603)九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鳩松院殿快窓寿慶大姉トアリ」と記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌のみ本堂に安推せらるという。
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近くには代官屋敷跡や資料館がある。世田谷城主吉良家(前75項)の重臣であった大場氏の役宅の屋敷地で、明治の廃藩置県までこの地を統治していたという。この屋敷は、大場家7代目の六兵衛盛政が、元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事によって完成したものだ。近世中期の代表的な上層民家としての旧態を保存しているという事で、住宅建造物としては都内で初めて国指定の重要文化財に指定されている。

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●ここには、「昭和30年(1955)4月建立 平成5年(1993)4月吉日改修復元」という青銅製の天水桶が1対ある。正面には「五三桐紋(前50項後98項)」があるが、「復元」であるので、かつては、鋳鉄製の桶が存在したかも知れない。大きさは3尺サイズで、口径Φ900、高さは950ミリだ。

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緑が多い境内だが、真新しいお堂の前には、1対の陶器製の大きな鉢もある。屋根下から離れたところに位置しているから天水桶ではないが、ハスの葉をイメージした台座も存在感充分で、いい景色を醸し出している。

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●寺域には、十数基もの石灯籠が置かれている。後86項でもこの様な情景をたくさん見ているが、これらは、本来ここ実相禅院宛てに奉納されたものでは無い。刻銘は、例えば「奉献 石燈籠一基 武州増上寺(都内港区芝公園・三縁山増上寺・前52項後126項など) 有章院殿 尊前 正徳六丙申年(1716)四月晦日(30日)」は、夭折した徳川家第7代将軍の家継で、この日は彼の没日だ。

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あるいは「奉献 石燈籠一基 東叡山 浚明院殿 尊前 天明六丙午年(1786)九月八日」の「浚明院」は、第10代将軍家治の諡号で、「東叡山」は、台東区上野桜木の東叡山寛永寺(前13項)だが、彼は今もそこに眠っている。諸説があるようだが、家治の死没は、8月25日 とも言う。

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9月8日は発葬された日のようだが、この間に老中の田沼意次が失脚している。この日にちの差異は、意次が薦めた医師の日向陶庵・若林敬順の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れたためかも知れない。

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●こちらの右側は、「奉献 石燈籠 武刕(武州)東叡山 大猷院殿 尊前 慶安第五壬辰(1652)四月二十日」銘で、「大猷院」は第3代将軍徳川家光だ。彼の死没日は、この前年であるので、この灯籠は1周忌での奉納のようだ。

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この様に時代はばらけているが、徳川家ゆかりの石灯籠だ。これらの流出は、明治期の廃仏毀釈(前63項)によるとか、勝海舟の手により徳川家霊廟保護のため売却したとかの理由があるようだ。いずれにしても、各地に散在しながらも現存している事は喜ばしい限りだ。


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●神奈川県川崎市中原区上小田中の、南武線武蔵新城駅近くの真言宗智山派、大谷山和光院宝蔵寺。原勘解由左衛門勝光(慶長11年・1606年寂)が開基、法印賢祐が開山となり創建している。川崎七福神の紅一点の女神、弁才天を祀っていて、立像2尺の本尊は子育地蔵菩薩だ。玉川八十八ケ所霊場の28番札所となっているが、これは旧荏原郡や橘樹郡、都筑郡、多摩郡世田谷領の4ケ郡からなる霊場巡りだ。

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天水桶1対は、「昭和63年(1988)9月吉日」の設置であるから昭和時代のほぼ最後だ、翌春には「平成」に改元されている。残念ながら不潔感のある青銅製の天水桶で、見た目があまり良くない。「宗祖 弘法大師 中興祖 興教大師 御遠忌記念」、「宝蔵寺第32世 住職 隆昇 副住職 隆憲代」の時世での奉納であった。

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●先の七福神だが、境内に置かれている宝船の前列の真ん中におわすのがヒンドゥー教の女神、弁才天で、琵琶を抱えている。手には、本や数珠、縄、水瓶などを持つ事も多く、叡智や学問、音楽の神ともされている。因みに、日本三大弁才天とは、滋賀県竹生島(前38項)・宝厳寺竹生島神社、広島県宮島(後123項)・大願寺、神奈川県江ノ島(後129項)・江島神社だという。

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辞書によれば、「日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質を持つ」とある。神仏習合思想の1つの本地垂迹(ほんじすいじゃく)では、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多いという。次の画像は、静岡県熱海市の熱海城で見た七福神。

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●江戸川区平井の新義真言宗、明雅山燈明寺は、平井聖天と呼ばれ地域に親しまれているが、台東区浅草の本龍院待乳山(まつちやま)聖天(前8項)、埼玉県熊谷市妻沼の聖天山歓喜院(後97項)と並んで関東三聖天として知られる。徳川歴代の鷹狩の際の御膳所でもあり、「江戸名所図会」にも描かれているという。(境内の説明文による)

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何故だろう、離れた位置に1基の青銅製の天水桶が置かれている。屋根付きで大切にされてはいるが、「平成10年(1998)5月」の造立でまだ17才、作者は不明だ。最初から香炉として製作されたのだろうか。

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●次の2例は遠く離れるが、西武池袋線の正丸駅から正丸峠近くを散策したときに参詣した、埼玉県飯能市大字南の子ノ権現天龍寺。標高は600m程であろうか、山地の古刹である。延喜11年(911)に子ノ聖(ねのひじり)が創建しているが、生誕が子年子月子日子刻であったため人々に「子ノ日丸」と呼ばれたという。
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ホムペによれば、修行中の聖は、「我、化縁につきぬれば寂光の本土に帰るべし。然れども、この山に跡を垂れて永く衆生を守らん。我登山の折、魔火のため腰と足を傷め悩めることあり。故に腰より下を病める者、一心に祈らば、その験を得せしめん」という御誓願を遺したという。

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●それに因んでか、昭和38年(1963)4月には巨大な草鞋やら下駄が奉納されているが、重さ2トンの日本一の「鉄の草鞋」であるという。

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平成20年(2008)には開帳がなされたようで、その記念に青銅製の天水桶1対が奉納されている。本尊の子ノ聖像は秘仏で、12年に一度、子の年の限られた期間に厨子の扉が開けられ、本尊の手に結ばれた五色の紐により多くの方が結縁するという。

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●最後は、静岡県沼津市浅間町の丸子神社浅間神社だ。明治10年(1877)12月に、丸子神社と浅間神社が一扉二神となった、つまり2系統の神様が同座する神社だ。拝殿前の扁額にも、提灯にも賽銭箱にも等しく両社の名がある。

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丸子神社の創建は崇神天皇の御代、浅間神社の創建は延暦20年(801)、坂上田村麻呂が東征凱旋の折に、勧請したのが始まりだ。江戸期には、参勤交代する諸大名が幣帛を献じ、武運長久、道中安全を祈願したという。

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●社務所の前に、1対の鋳鉄製の天水桶がある。「明治廿八(28)年(1895)第九月」に、山梨県甲府市下河原町の人が「謹納」したようだ。

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「江尻町 鋳物師 岡田林平」が作者の銘だ。江尻町は、今の静岡市清水区の中心にあった町であろうが、会社名が不明なので詳細は判らない。明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」を見ると、「駿河国江尻町」の京都真継家(前40項)の傘下の勅許鋳物師は、「山田六郎左衛門」、「山田九郎左衛門」の2名であり、岡田姓の記載は無いようだ。つづく。