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●散策中に出会った天水桶をアップしているが、今回は、金属製で無いものを見ていこう。ある日、埼玉県加須市(かぞし)の騎西城を訪ねた。15世紀半ばの築城だというが、騎西城は「根古屋城」、「山根城」とも呼ばれた平城で、康正元年(1455)には古河公方足利成氏に攻略されている。
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さらに永禄6年(1563)には、上杉謙信に攻め落とされ、その後の江戸時代の寛永9年(1632)に廃城となっている。城内には色々な展示物があるが、見学にも時間を割いて戦国時代に思いを馳せた。戦国時代、この地方にも鋳物師の活動が見られたようで、武家屋敷の井戸の中からは仏具や鏡、画像の鉄鍋の鋳型や溶解炉が発掘されている。
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●城下町の造成には各種の職人集団の招集が欠かせない。山形県の銅町は、出羽山形藩主の戦国武将・最上義光が、鋳物師達を集め形成した町であった(前27項)。また、富山県の高岡銅器の起源は、慶長16年(1611)、加賀藩主の前田利長が高岡城下の繁栄のために、現在の高岡市金屋町に鋳物師を呼び寄せたことに始まるという。(後120項)
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あるいは、徳川家康は江戸開府に前後して、大坂摂津国佃村から漁師の森孫右衛門一族らを呼びよせた事はよく知られている。さらに後126項で記述したが、江戸城の城下造成のために栃木県の佐野天明(後108項)から多くの鋳物師らを呼んでいる。これらの事は前34項でも記述しているが、ここ騎西城周辺も例外ではないという事が、出土品から明らかなのは興味深い。
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●まずは、この城の近隣にある、加須市日出安の駒形神社だ。境内にある説明板によると、『応安8年(1375)の史料に、「武州崎西(騎西)秀安(日出安)駒形堂」とあることから、創建はかなり古いものと思われる。・・ 一説には上杉謙信が騎西城攻略のおり、病でなくなった愛馬を祀った・・』とある。彼の愛馬は、本当に今もここに眠るのだろうか。
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これは困った、ここの天水桶は、2基の風呂桶が代用ではないか。読み取れないが、奉納者らしき銘板も桶の前面に存在する。「処分するにはもったいないからここに置こう」的な発想であろうか。底には水抜きの栓が付いている、間違いない、風呂桶の転用だ。
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●辞書を見ると、風呂とは、身体の洗浄や温浴のための設備だが、その起源は、紀元前4千年のメソポタミア文明まで遡るという。日本では元々神道の風習であり、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習であったと考えられている。
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風呂の語源は、「窟(いわや)」や「岩室(いわむろ)」の意味を持つ「室(むろ)」が転じたという説、抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から来たという説があるようだ。
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●神奈川県足柄下郡箱根町須雲川に箱根大天狗山神社別院天聖院がある。新興宗教の建物であろうか、画像は、中の撮影が禁止されているようなので街道からの様子だけだ。別地の本社は、「開山以来、幼子を救うことを幼神供養と呼んで多くの幼子を神様の元に送って来ています。神様の庭で観音様に守られながら神界へ帰ることのできる日本で唯一の幼神神社なのです」という。
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境内の撮影は不可なので、許可を得て参詣だけしたが、本殿前にある金色のハス型の天水桶は、樹脂製だ。門の奥に見える1対だが、ウィキペディアによれば、「繊維強化プラスチックつまりFRPで、エポキシ樹脂やフェノール樹脂などに、ガラス繊維や炭素繊維などの繊維を複合して強度を向上させた強化プラスチック」だ。
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「安価・軽量で耐久性がよく、成型、穴あけ等の加工も比較的容易なことから、小型船舶の船体や、自動車・鉄道車両の内外装、ユニットバスや浄化槽などの住宅設備機器で大きな地位を占めている」という。水を受ける天水桶には最適な材質なのだ。また、ここに掛かる梵鐘も、桶と同様に金ピカだ。後116項でも、佐野市金井上町の天台宗惣宗寺、佐野厄除け大師で金ピカの梵鐘を見るが、やはり異様な雰囲気がある。
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●群馬県高崎市赤坂町の曹洞宗、松隆山恵徳禅寺にもプラスチック製の天水桶がある。境内の由緒書きによれば、「天正年間(1573~)、井伊直政公が伯母である恵徳院宗貞尼菩提の為、箕輪日向峰に一宇を創立し松隆山恵徳院と号した」という。
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直政(後132項)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将だ。上野国高崎藩の初代藩主で、後には近江国彦根藩の初代藩主であったが、徳川四天王として数えられ、神君家康に仕えた大名として著名だ。
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後51項)があって、その上に蓮花型の本体が載っているが、反花のついたものは、最盛時の満開の状態を示すものとも言われる。 表面には、何の文字も紋章も見られない。白っ茶けているが、強い陽の光を浴び続けて劣化が始まっているのだろう。 8角形の台座に反花(
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●品川区南品川の曹洞宗瑞雲山天龍寺は、越前国福井藩3代藩主の松平忠昌の生母清涼院殿(寛永17年・1640年逝去)が開基となり、一庭氷見和尚が天正9年(1581)に創建しているが、本尊は釈迦坐像だ。
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忠昌は、徳川家康の次男の結城秀康の次男として生まれている。2代将軍秀忠から、「忠」の字の偏諱(へんき)を賜り伊予守忠昌と名乗って元服しているが、武勇に優れた血気盛んな武将であったという。偏諱とは、為政者らが、功績のあった臣下や元服する者に自分の名の1字を与える事だ。
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1.5メートル角の、ここの水受けは奇異だ。導水パイプが大地へ直結であるが、これは元々、天水桶の台座であったのかも知れない。これまでに、戦時中の金属供出(前3項)によって、台座だけが空しく残されている例を何度か見てきたが、新たな桶を設置せずとも、降雨を受けられればこれでいいのかも知れない。
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●お次は、墨田区墨田の隅田稲荷神社。室町時代に伊豆韮山の堀越政知の家臣であった江川善左衛門がこの地を開墾した際、京都伏見稲荷を勧請し、氏神としたのが始まりだという。近年復活したという「万燈みこし」の祭礼は、墨田地区の祖を偲んでのものであろう。
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石製の桶に陰刻されている文字は、氏子総代名と「昭和18年(1943)10月8日」だ。唯一無二の自然石の線形をそのまま生かして、いい感じに配置されているが、かなり風流で社殿にマッチしている。
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●江戸川区南小岩の新義真言宗、神明山円蔵院は、覚因上人が開山となり天文年間(1532~)に創建している。聞きなれない宗派であるが、ウィキペディアによると、『空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。
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狭義では真言宗十八本山の一つで、根来寺を総本山とする「新義真言宗」を指す。従来の真言宗(いわゆる古義真言宗)では本地身説法(真言宗最高仏である大日如来が自ら説法するとする説)を説くのに対して、新義真言宗では加持身説法(大日如来が説法のため加持身となって教えを説くとする説)を説くことが教義上の違いである』とある。
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●ここには、「平井筒紋」を思わせる、井筒状に組まれた花崗岩製の天水桶がある。大きさは1m角ほどだ。「井」は水を意味するから、水受けとしては、うってつけの形状ではある。井筒紋は、各線が水平垂直であるのが基本形で、戦国武将の井伊家や日蓮聖人も定紋としていた。
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井伊家の祖先は、井戸から生まれたといわれ、その時手に橘を持っていたことから「井桁に橘」を定紋とするようになったという。日蓮宗にも橘紋が使用されているのは、日蓮聖人が井伊家一族の出身だからだとも伝えられているようだ。
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●葛飾区柴又の真言宗豊山派、弘誓山良観寺は、柴又七福神の宝袋尊、江戸川七福神の布袋尊、さらに南葛八十八ケ所霊場の52番であり、新四国四箇領八十八ケ所霊場の29番札所だ。本尊として、聖観世音菩薩立像を祀っている。
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黒い天水桶は、陽光を渋く照り返しているが、存在感のある花崗岩製の1対だ。花崗岩に関しては前11項に詳しく記載しているが、黒色系の石には、「黒アフリカ インド黒 山西黒(中国産)」などの種類があるようだ。正面には「輪違い紋」が見られ、台座には、「良観寺中興二世 香取良一代 平成15年(2003)7月建立」とある。大きさは口径Φ1m、高さは1.050ミリとなっている。
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●続いて、見応えのある石造製の天水桶を3例。まずは、新京成線の五香駅から徒歩20分のところにある、千葉県松戸市五香西の日蓮宗、謙徳山瑞雲寺だが、木造総花梨造りの豪壮な山門が出迎えてくれる。ここは、昭和36年(1961)に貞妙院日謙上人により開創されているが、願満福聖大黒尊天、鬼子母尊神を勧請していて、ここが管理する松戸霊苑内には、三世観音を奉安している。
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あちこちに立派な彫刻が見られるが、手の込んだこの賽銭箱も龍の彫刻が見事な力作で、見入ること必至だ。つい、喜捨(きしゃ)するお賽銭額もはずんでしまう。喜捨とは、文字通り喜んで捨てるだが、本来は仏教用語だという。事典の解説では、「惜しむ心なく、喜んで財物を施捨すること。施捨は仏・法・僧の三宝を守るためでもあり、また財物に対する執着や物欲から離脱させる意味もある」とあるが、言い得て妙だ。
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●ここに、邪鬼に担ぎあげられた、高さ2メートルほどの石製の巨大な天水桶が1対ある。六角形だから1基に付き6面、両サイドで計12面だが、各面に十二支が浮き出ている。比類のない趣向だ、ぐるりを見物せずには居られない。
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「邪鬼」をコトバンクで調べると、「祟りをする神、物の怪(もののけ)などを総称していうが、仏像に関しては仁王像や四天王像の足の下に踏まれている小型の鬼類をさす。毘沙門天(四天王の多聞天)の足下にいる鬼を特に天邪鬼(あまのじやく)と呼ぶという説がある」という。
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●鐘楼塔に掲げられた梵鐘は、初めてお目に掛かった鋳物師の作例であった。駒の爪(前8項)の部分の口径が1mという大鐘だが、池の間に並んでいるのは、大勢の寄進者名だ。乳の間の乳の数は計80個で、通常108個とも言われる煩悩の数には拘りが無いようだ。蓮華の撞座はやや大きめで、下帯に描かれているのは唐草紋様だろう。縦帯の鐘銘は、「瑞雲寺開山 日謙代」、「維持 昭和59年(1984)5月吉祥」となっている。
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鋳造者の銘は、鐘身の内側に陽鋳造されている。「鋳匠 富山高博」だが、兵庫県小野市に本拠を構える、(株)平安美術の初代だ。富山は、昭和15年(1940)に彫刻家の佐藤朝山に師事、8年後に平安美術研究所を設立し独立している。
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●朝山は、明治21年(1888)の生まれで福島県相馬市の出身、17才で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京、後に「佐藤玄々」と名乗っている。作例としては、千代田区大手町の皇居のブロンズ像「和気清麻呂像」や日本橋三越本店の「天女(まごころ)像(前32項)」が知られる。
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(株)平安美術は、昭和30年(1955)に、九州延岡市今山に15mの弘法大師像を初納入しているが、大型の造像を得意とするようだ。また海外へも納入しているようで、インド・デリー、アメリカ・ニューヨーク、イギリス・ロンドンへは仏舎利塔や内陣一式が納まっている。平成24年(2012)放送のNHKの大河ドラマ「平清盛」に登場した、神戸市須磨区の上野山須磨寺の「平敦盛&熊谷直実」像は同社の作例という。
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瑞雲寺に納まっているこの常香炉も同社の作例であろうか。頂上には水煙が立ち昇り、邪気が四隅を懸命に支え、正面には輪宝紋が据えられていて、周囲には24人もの仏具を携えた天女が舞っているという、味わい深い逸品だ。
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●神奈川県伊勢原市大山の、雨降山(あぶりさん)大山寺(後64項)は、高幡山金剛寺(後105項)、成田山新勝寺(前52項)と共に「関東の三大不動」とも言われる。奈良の東大寺を開いた良弁僧正が開山したという由緒ある寺院だ。
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ホムペによると、「相模の国に生まれた良弁僧正は晩年に父母を思い当地を訪れて大山に登った。峰上に登ると、地面から五色の光が出ているのを見出し、不思議に思って岩を掘り返してみると石像の不動明王(前20項)が出現した。
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不動明王よりこの山が弥勒菩薩の浄土であり、釈迦の変わりに出現して法を守護し衆生を利益しているとの託宣をうけた良弁は、聖武天皇より勅願寺の宣下を賜った。東大寺建立の際に協力した工匠・手中明王太郎を伴って大山に戻った良弁は、3年間当地に住して伽藍を整えた」とある。
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●境内にある案内板によれば、「庶民が期待する大山不動尊信仰の特別の冥加は、農・漁・商・工・職人・技芸人等多くの人々の間で、その子供達が親の職業を立派に引き継ぎ栄えるよう、加護を受けることであった」とある。
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天水桶は石製だが、ぐるりに巻きつく龍がおどろおどろしい。紋章は、簡略されて刻まれているが、「輪宝」のようだ。同山の住職が家内安全を祈願して、「昭和59年(1984)10月28日」に設置している。
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なお、川口鋳物師がかつてここで手掛けた天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「安政5年(1858)6月 増田金太郎(前13項など) 水盤(天水桶) 一双(2基) 相模大山」という記載がある。現存しないこの1対は、戦時に金属供出(前3項)してしまったのであろうか。
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●ここの境内には、見上げるほど巨大な青銅製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。「篋」は訓読みで「はこ」と読むらしいが、供養塔の一種で、通常この中にはお経などが納められる。
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寺のサイトによれば、関東一円の大山関連の寺院の賛同を得て、大山11坊の内の広徳院憲海を勧進元として旧大山寺の境内に寄進建立されている。塔の高さは2丈8尺、8.5m、重量9千貫(約34トン)だという。台石を含めれば11mもの高さになり、国内でも稀に見る巨大な印塔だ。青銅製のものは稀だが、前55項や後89項でも登場している。
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作者は、「東都鋳師 西村和泉守 藤原政時(後110項)」だ。寺院の梵鐘や灯籠の鋳造などで知られる江戸鋳物師で、当サイトでも多くの作例が登場している。造立は、「于時(うじ=時は・前28項) 寛政七年次乙卯(1795) 中冬上浣(上旬)」だ。しかしこの印塔は、明治初年頃(1868~)に、廃仏毀釈を唱える暴徒達によってことごとく破壊されている。
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●再建されたのは、「大正3年(1914)8月吉日再建」、「大山寺住職 高木快雅」の時世で、「取次先導師 二階堂若満 相原秀美 逸見民衛」の名が見れる。これは神職に与えられた名称で、先に立って信者を導く人の意味だ。
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修復鋳造したのは、「武刕(武州)川口町 鋳物師 小川治郎吉(前24項、前53項、後131項)」だ。この人は、川口鋳造業中興の祖、3代目永瀬庄吉(後104項)の義弟で、青銅鋳物の吹き元の小川家に入っていた親戚筋であった。
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さらに災難は続き、大正12年(1923)の関東大震災では、上部が欠落倒壊してしまっているが、これに際しては、工費2.500円をかけて修理復元されている。「大正15年8月吉日」の銅板の、「東京土木建築有志 再建寄附人名」の中に、「鋳物師 小川大造」の名がある。治郎吉の後継者であろう。「東京市土木建築有志」の助力があったようで、これは現在の大手建築会社の前身だという。
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●かくして大正15年(1926)7月4日、画像のように盛大な落成式典が挙行されている。拡大してみると、「再建」の文字も見られるが、この中には、大造も映り込んでいるであろうと想像できる。
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大きな鋳造物の修復であるから、現地で出吹き(出張鋳造・前10項)したのであろうが、山間部であり運搬事情が不便な時代だ、資材の搬入一つにしても大変な労苦があった事だろう。アクセスに便利なケーブルカー(後65項)の開通は、昭和40年(1965)7月であった。写真は、「明治大正昭和 川口ふるさとの想い出写真集 沼口信一編著」から引用した。
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●本堂の柱の根元には、それを保護する根巻き(後78項)が備わっているが、表面には、荒波に翻弄される、長寿の象徴の亀が描かれている。奉納者は「東京大伝馬町 武州三田村 青梅村 調布村 川越町」など各地にばらけている。
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ここの諸堂は、安政元年(1854)の大山の大火で灰燼に帰しているが、数年で復興したようだ。先の明治初年頃(1868)の暴徒達による破壊後、明治18年(1885)には、日本各地の人々による浄財の寄進により、9年間にのぼる難工事の末、本堂が竣工している。
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●端の方に、「彫刻師 落合秀義」による陰刻がある。「明治参拾四年(1901)第四月廿六日(26) 鋳物師 小川治良」だが、先の小川治郎吉だろう。前53項で見た、明治19年(1886)10月の浅草廣栄堂発行の「東京鋳物職一覧鑑」を見てみよう。
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「唐銅鍋」の鋳造元として、文字の違いはあるが、最下段に「小川次郎吉」として記載されている。「治」と「次」の違いだ。この様な例を多く見てきたが、己の本名でさえ省略したり、異なる文字を使用するのは、鋳物師らの常習であった。
●ところで、先に「廃仏毀釈(前5項、前53項、後107項、後131項など)」という言葉が登場したが、どういう意味であろうか。辞書によれば、仏教寺院、仏像、経巻物を破棄し、仏教を廃する現象のこと。「廃仏」は、宗教の対象である仏を廃し、「毀釈」は、仏教の開祖である釈迦の教えを壊すという意味とある。画像は、イギリスの写真家フェリーチェ・ベアトが撮影した、その対象になった神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮(後127項)の大塔だ。
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明治期の廃仏毀釈は、慶応4年(1868)3月に発せられた太政官布告などであった。それまでは混然として隔てなく信仰された神道と仏教であったが、しかし明治政府は、神道の国教化に舵を切り、神社から仏教的な要素を排除するために神仏分離令を出している。
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そしてこの法令が引き金となり民衆が暴走、全国各地で寺院や仏像が次々と破壊されたのだ。これによって廃寺同然となる寺が続出、建物や宝物が二束三文で売り払われる事態も起きている。近隣では、都内江東区の富岡八幡宮(後77項)別当の永代寺、都内台東区の上野東照宮(後64項、後74項)の本地塔、静岡市駿河区の久能山東照宮(後107項)や長野県の諏訪大社(前47項)の五重塔などがその対象となっている。
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●さてお次だが、都内葛飾区柴又の帝釈天(前34項、後120項)と言えば、フーテンの寅さんの映画であまりにも有名だが、柴又駅に降り立てば必ず寅さんに出会える。主役の渥美清の没後の平成11年(1999)8月、観光客らの募金によって設置された銅像だ。
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第40作「寅次郎サラダ記念日」の中の、旅に出る寅さんが妹のさくらの方を振り返ったシーンがモチーフだというが、その視線の先には、さくらの銅像も佇んでいる。映画監督の山田洋次は、「ごめんよさくら いつかはきっと偉い兄貴になるからな」という言葉を台座に刻んでいる。
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●本来、古代インドのバラモン教において、「帝釈天」とは仏教の守護神という尊格を指すが、ここ日本においてはこの柴又帝釈天を指すと言っても過言ではなかろう。映画の寅さんが与えた影響は計り知れないが、近くには「寅さん記念館」もあり、参詣とセットで訪れる人が多い。画像は、大船撮影所から移設したという、「くるまや」のセットだ。
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駅前から参道が始まっているようだが、通称帝釈天は、日蓮宗の「経栄山題経寺」が正式名だ。寛永6年(1629)に開基され、開山を下総中山法華経寺(前55項)第19世禅那院日忠上人としているが、その弟子の第2代題経院日栄上人が実際の開基だ。左に見えるのは、都指定天然記念物の「瑞龍のマツ」だが、日栄は霊泉が涌くこの地に庵を結んでいる。帝釈天の始まりだが、創建の由来を伝える名木なのだ。
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●拝殿前には、魚河岸講が奉納した青銅製の「手洗鉢」があるが、大きく開花した花弁を3人の「唐子童子」が「三人奉持」し支え合っている。大きさは口径Φ1.2、高さは1.4mだ。蓮の花ではなく、「朝顔型」と記されていて、「昭和47年(1972)11月吉日 帝釈天信徒会館建設記念」での設置だ。台座の陽鋳造銘は、「東京浅草 浜田商店 謹製」となっていて、「5代目 浜のや謹書」(前16項)であった。
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(株)浜田商店は、都内台東区寿の仏壇通り(前34項)に位置するが、明治30年(1897)創業という仏具店だ。同社のページによれば、「濱田 吉太郎、墨田区向島にて仏具鋳工場を継承設立」とある。当初は、仏具を鋳造し販売していたようだが、現在は、内陣の荘厳具一式を請ける事が多いようだ。
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●題経寺の寺名は実の開基者に基づくものであり、本堂右手にある釈迦堂(開山堂)には、日栄の木像が安置されているという。ここの境内やら山門前には10基もの天水桶が存在する。山号の「経栄山」の文字は丸みを帯びていて艶めかしいが、直径5尺、Φ1.530ミリという大きな桶だ。
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画像だと金属製に見えなくもないが、近づいて確認すると、残念ながら、全て塗装されたコンクリート製の桶であった。戦時に金属供出(前3項)したと想像できるが、しかし材質はどうであれ、堂々たる存在感だ。画像は、「柴又帝釈天」の石碑が立つ仁王門前。
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下の桶は「帝釈講」の奉納であるが、かつては、いくつもの金属製の桶が存在したのだろう、これらの石製の台座がそう思わせる。この紋は、「雷紋様」あるいは、「稲妻紋」と言われ(後116項)、豊作の兆しともされた稲妻を幾何学的に表現している。ただ、通常は、下方から反時計回りへ渦巻くのだが、ここのは、上方から始まっている。
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●次の古写真は、戦後の昭和24年(1949)11月当時で、本堂改修の完成式典の様子だ。写り込んでいる天水桶は、既にコンクリート製である様に見える。人間と比してもそこそこ大きな桶のようで、形状的にもデザイン的にも同等に思えるが、現存のコンクリート製であろうか。
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次の絵葉書には、「柴又帝釈天 本堂正面」と印刷されている。大正4年(1915)以前と言うが、ここにも1対の天水桶が写っている。上の物と現在の物とは、額縁の形状が明らかに違うから、これは別物であり恐らくは金属製であろう。諸書の史料にその詳細が記されていないのは残念だ。つづく。