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●都内の台東区浅草や、上野界隈には多くの寺社仏閣が存在する訳で、通っても通っても話の種は尽きない。浅草の地名の由来は、「台東区史 沿革編(昭和41年・1966)」にある、「草が浅く茂っていたから」という地形描写説が有力と言う。

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上野の地名の由来は、事典によれば、江戸時代初期に伊賀上野を領していた藤堂高虎(前33項後56項)の屋敷があったためとか、隣接する下谷したやに対して呼ばれるようになったという説などがあるらしい。

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●ランドマークとしての東京都墨田区押上の東京スカイツリーもオープンしたばかりだ。現存する電波塔としては世界第1位の634mという高さで、ギネス世界記録の認定を受けている。この数字は、東京近辺の旧国名である武蔵国の語呂合わせであるという。収容人数は、第1天望台で約2千人、第2天望回廊で約900人というが、想像以上に多い感じだ。

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非常階段数は、2.523段で、当然エレベーターが備わっているが、地上4階から350mの第1展望台までは、分速600mの40人乗りが4台ある。時速36kmだが、約50秒で到達するようだ。また地下1階の駐車場から天望回廊の更に上の458mまでを結ぶエレベータは、昇降距離が464.4mであり日本最長という。

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●上野から浅草へと東西に走る浅草通りは、通称「仏壇通り」と呼ばれ、近辺には仏具屋が多い。よく登場いただく(株)翠雲堂(後59項)の本店もここにあり、近隣には稲荷町店や、画像の上野駅前店もある。前身は後述の「五雲堂」であったが、昭和22年(1947)に「翠雲堂」として開業していて、現在は、「最も古くて 最も新しい」を売りに5店舗で営業展開している。

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翠雲堂提供の、未アップの画像がある。大田区本羽田の真言宗智山派、喜修山了仲寺正蔵院だ。創建年代は不詳だが、当院住職の重仙が宝徳2年(1449)に、また、住職の乗信が文禄4年(1595)に、本尊で区指定有形文化財の不動明王像(前20項)を修復したという記録があり、室町時代以前の創建と推定される。(掲示板による)

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●どっしりしていて、存在感充分な天水桶ではないか。青銅製の1対で、施主が奉納している。額縁の全周には唐草紋様が廻り、紋章は、戦国武将の明智光秀も使用していた「桔梗紋」だ。

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銘は「昭和57年(1982) 第19世 昭海代」で、「翠雲堂 謹製」であった。同社の代表的な作例は、何と言っても前22項で見た大田区池上の日蓮宗大本山、長栄山池上本門寺の巨大な天水桶や、後59項で登場する板橋区赤塚・赤塚山乗蓮寺の、東京名物の東京大仏だが、他にも多くの項で登場しているので、当サイト内で検索いただきたい。

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●「創業100年の技術と信頼の店」、(有)大日堂仏具店も近辺にある。住所は台東区寿だ。季節ごとに刊行される真言宗豊山派の機関誌「光明」に広告を出しているが、「真言宗豊山派御用達」を謳っている。同派の定紋は輪違い紋だが、看板にも見られるように、同店では多少簡略化された「大日輪宝紋を」使用しているようだ。

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店頭に置かれている御利益がありそうな仏像だが、結構なお値段で手が出ない。この通り沿いでは、半鐘が展示されていたりなど、この様な風景があちこちに見られ、仏像の細部までを接見して眺められる。

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●ここが提供する天水桶にも出会っている。足立区神明の真言宗安養山南蔵院で、大日如来像を本尊としている。元和5年(1619)に、安行村(現埼玉県川口市)の宝厳院慈林寺(後130項)の隠居寺として、空深上人により開山したという。

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下細りではなく、このでっぷり感が特徴的だ。堂宇前を警護しているかのようで、やはり存在感充分だ。青銅製の1対で、ここの正面に据わっているのも「桔梗紋」だ。

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銘は「昭和62年(1987)4月吉日 浅草大日堂 謹納」、菩提供養のための奉納で、「第26世 凱充代」の時世であった。なお、大日堂さんに関しては、後105項でも登場しているし、また後59項では、鋳鉄製の天水桶も取り扱っていたのでご参照いただきたい。

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●中野三佛屋も、ここ浅草仏壇神具通りにある。店舗のキャッチとして、「各宗はもちろん、日蓮宗の仏具を特に多く取り揃えています。日蓮宗各御本山御寺院御用達」とある。ここ提供の天水桶の紹介は2回目(前29項)だが、後59項後105項でも登場しているのでご参照いただきたい。

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墨田区東駒形の日蓮宗是應山実相寺は、慶長2年(1597)に、日澄上人が創建している。松戸市平賀のあじさい寺、長谷山本土寺(後70項)の末寺だ。越前朝倉義景に仕えていた熊谷安左衛門が、熊谷家伝来の法華経の利益により白狐を助け、その縁により文殊菩薩を勧請したことから熊谷稲荷を祀っている。その稲荷堂も境内に鎮座していて、その扁額には「大佛師 西村房斎」の名が見られるが、菩薩像の彫り師だろう。

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●3尺サイズの1対の天水桶の造立は「昭和56年(1981)10月」で、「日蓮聖人第七百遠忌記念」での奉納であった。これは、本堂の大規模な改修であったようで、裏側には施工業者などの社名が並んでいる。「鳶工 鉄工 瓦工 錺工 左官 塗工 大工」の肩書だが、普請には多くの業者の一致協力が不可欠だ。

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「第38世 日実代」の時世で、「製作責任者 浅草 中野三佛屋」銘の青銅製だ。中野さんは、手掛けたその多くに「製作責任者」という銘をわざわざ刻んでいるが、信頼と自信の証しであろう。

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●ここに青銅製の香炉盤、あるいは手水盤と思われるものがあったので、アップしておこう。稲荷マークの両サイドや横面には、長寿の象徴の亀が並んでいるデザインだが、波にもまれて泳ぐ蓑(みの)亀だ。大きさは840×1.120、総高は580ミリで、造立は、「明治22年(1889)8月吉日 本所表町 実相寺 卅三世(33世)日誘代」であった。

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戦時の金属供出(前3項)を逃れた青銅製の盤の現存自体が極めて稀少(前7項)だが、作者銘を読むと、更に貴重で稀有な盤である事が知れた。銘は「大日本釜師長(おさ) 名越昌晴造」、「門人 松本立○ 小幡主水」で、門人の詳細は不明ながら、名越は、日本を代表する鋳物師だと名乗っている。どんな人物であろうか。

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●山形県の銅町は、出羽山形藩主の戦国武将・最上義光が、鋳物師達を集め形成した町であった(前27項)。また、富山県の高岡銅器の起源は、慶長16年(1611)、加賀藩主の前田利長が高岡城下の繁栄のために、河内国丹南の流れを汲む金森弥右衛門ほか7人の鋳造師を、現在の高岡市金屋町に呼び寄せたことに始まるという。(後120項

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あるいは、徳川家康は江戸開府に前後して、大坂摂津国佃村から漁師の森孫右衛門一族らを呼びよせた事はよく知られている。また後126項で記述したが、城下造成のために多くの鋳物師を呼んでいる。栃木県の佐野天明(後108項)からは、伝承によれば、椎名家、小沼家、長谷川家、早川家、横塚家で、京都からは、堀家、大西家、そして「名越家」だ。

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●この様に都市の開拓には、多種多様な職人が呼ばれた訳だが、先の銘の「名越昌晴」は、江戸に移住してきて定住し活躍した鋳物師の家系であった。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞の「日本鋳工史稿」(後116項)によれば、その初代は、名越家昌だという。

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銘の「名越昌晴」の「昌」の文字は、通字として連綿と継承されてきたようだが、読みは「まさはる」であろうか、「よしはる」であろうか。史料によれば、昌晴は、初めは仁之助を名乗り、後に弥五郎に改めているが、「弥五郎」名は代々が名乗った幼名だ。没年は、明治44年(1911)12月、享年83才となっている。

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名越家は大正期の時点で11代を数えているが、昌晴は10代目だ。61才の時に手掛けた盤が、ここ実相寺に遺っているという事は、誠に意義深い。文化財指定相当の逸品であろう。なお昌晴は、後88項の太田市金山町・大光院新田寺の鉄灯籠の銘でも登場している。「大日本鋳工棟梁」という、やはり厳めしい肩書きを名乗っているのでご参照いただきたい。

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●杉並区荻窪の日蓮宗中道寺は、大光山千葉院と号している。区によれば、天正10年(1582)に、大光院日道が当地に草庵として建立、その弟子日法が、元和2年(1616)に大光山中道寺と寺号を称したという。

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その後、寛永13年(1636)に当地に土着していた下総国千葉氏の家臣宇田川氏より寺地の寄進を受けて堂宇を整えたという。これが山号や院号の由来であろう。本尊は「願性の祖師」と呼ばれる黒目の日蓮上人像で、その名のごとく玉眼作りの目が特徴的なようだ。

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ハス型の天水桶1対は、「維持昭和40龍集(前19項)10月吉辰 願主 大光山39世 自享院日宣代」の時世に、「本堂再建の砌(みぎり)」に奉納されている。作者銘は、「製作責任者 中野三佛屋 代表 中野二郎」となっている。

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●中野三佛屋は、葛飾区柴又の帝釈天題経寺(後63項後120項)でも常香炉を納入している。「昭和45年(1970)10月吉日 第17世日滋代」の時世で、「製作責任者 浅草中野三佛屋」銘だ。日滋上人はこの4年後に、法主として日蓮宗総本山の身延山久遠寺(後121項)へ赴いていて、日蓮宗のトップとなっている。

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香炉の意匠は、京都府宇治田原町の仏具鋳造所、(株)金井工芸鋳造所による。ここは昭和17年(1942)の創業で、今は3代目を数えている。銅灯籠や天水桶なども手掛けているが、宇治平等院の鳳凰像や国宝の梵鐘も複製していて、京都伏見稲荷大社の狛狐を複製したのもここのようだ。

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●難波佛具店も近辺だが、昭和4年(1929)に建てられた異風な建物だ。鉄筋コンクリート造りの3階建てだが、屋上では宝珠を冠した立派な相輪がそびえ立ち、当時も今も、かなり目立つ存在と言えよう。

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ここの提供作にも出会っている。墨田区押上の天台宗、福聚山慈眼院正観寺だ。天正20年(1593)に、台東区浅草寺の忠尊和尚が開基、重奮(承応2年・1654年寂)が開山している。大正時代に整備された、南葛八十八ケ所霊場の67番札所となっている。

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「昭和40年(1965)11月28日 東京浅草 難波佛具店」と鋳出された、青銅製の天水桶だ。正面の紋章は蔦(つた)だが、何にでも絡みつき力強く成長する様から、特に武家に好まれた家紋だ。

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●ここ元浅草の仏壇通りには、五雲堂もある。ここ提供の天水桶にも出会ったことがあるので、アップしよう。品川区上大崎の浄土宗、撰択山念仏院本願寺で、阿弥陀如来を本尊としている。港区芝公園の三縁山増上寺(後126項など)の子院8ケ寺の1つだが、今の社殿は破風の屋根造りで洒落ていて、その下には、手の込んだ彫刻も見られる。

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天水桶は、「昭和43年(1968)10月17日」に港区飯倉の人によって奉納されているが、青銅製の1対で、大きさは口径Φ930、高さは970ミリだ。正面にあるのは、日本十大紋の1つと言われる「丸に茗荷紋」だが、「冥加」に掛け運を開く紋章とされている。

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「東京浅草 五雲堂 謹製」銘だが、「雲」の文字が、天地逆になっている。奇をてらった訳では無かろう、誤植だろうか。そうではなかった、社名の看板に答えがあった。もともと「雲」の文字だけが逆さまになっているのだ。

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●何故だろう。昭和初期、創業者は新潟で羽吹五雲を名乗った仏師であったといい、この地浅草へ出てきて仏具を商っている。「くも」を逆さにすれば読みは「もく」であり、五目堂に引っ掛けたという。様々な仏具を扱う、よろず屋さんがスタートだったのだ。

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ここ本願寺には、2mほどの高さの銅灯籠も奉納されている。「昭和53年(1978)秋彼岸 当山24世 行誉幸雄代 東京浅草 五雲堂 謹製」銘だが、これの「雲」は、天地逆になってはいない。画像は、同社のビル前に置かれている看板だが、取扱い商品は法具一般であり、他にも梵鐘や半鐘などを後51項後92項でも見ているのでご参照いただきたい。

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●この界隈の天水桶をアップしてみる。まずは、曹洞宗の寺院、台東区橋場の無量山福寿院(前9項)。江戸時代の儒学者の安藤東野の墓は、都指定文化財となっているが、5代将軍綱吉が柳沢邸に来た時、講義した事もあるという学者だ。また、「荻生徂徠先生に就いて、大いに古文を誦し、共に復古の学を唱ふ」と江戸名所図会にはある。

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青銅製の1対で「昭和50年(1975)春彼岸」だが、台座には、「滋賀県愛知郡湖東町 鋳匠 黄地佐平 謹鋳」と刻まれている。湖東平野の中央に位置する東近江市長(おさ)町は、昔から鋳物師の村として知られるが、黄地の(株)金寿堂は、大正6年(1917)の創業で、昭和24年8月に株式会社に改織している。

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琵琶湖八景「月明彦根の古城」と謳われる彦根城にある井伊直弼像も、同家が鋳造しているが、梵鐘づくりでは700余年の伝統という老舗であり、「黄地」の名は代々襲名されてきている。後111項などでは、多くの作例を見ているので、ご覧いただきたい。

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●台東区東上野の真宗大谷派、錦雲山西照寺に参詣。延空(寛永21年・1644年寂)が開山していて、人力車営業創始者の1人である鈴木徳次郎の墓がある。他には、和泉要助、高山幸助の名があげられるが、3人は馬車から着想を得て、明治2年(1868)に人力車を完成させ、翌年に日本橋で開業したとされる。

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人力車は、それまでの駕籠よりも速く、馬よりも人間の労働コストの方が安かったため、すぐに人気の交通手段になっている。その数は、明治20年頃(1887)には3.8万台であったという。現在のタクシーの数は4万台で人口は約10倍だから、異常な台数と言える。さらに19世紀末には、全国で20万台を越しているが、旺盛な需要があったようだ。

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●1対の天水桶は青銅製で、「平成元年(1989)11月新鋳 当山第17世 釈康雄」とあるが、鋳造者は不明だ。ふっくら感がどことなく艶めかしいが、大きさは口径Φ850、高さは790ミリだ。正面の紋章は「下がり藤」で、真ん中にある文字は「十」であろうか、アレンジされているようだ。

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ここにはかつて、鋳鉄製らしき樽型の天水桶があったという。正面に配されているのは、同じ「下がり藤」の紋章で、無名だが、「元治2年(1865)」の造立であった。世代交代の理由は、大震災や戦禍によるものであろうか。


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●台東区浅草の浅草寺(前1項後85項)には、川口鋳物師・山崎甚五兵衛作の屋根付き天水桶の隣りに、ハスの花弁形の桶が鎮座している。頂上部の最大外径は1.5m、高さは1.4mほどだ。同色で、仲良く堂宇の左右に並列していて、「夫婦桶」と言ってよかろう。

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青銅製の1対だが、葉脈もくっきりで、単体で見ればこれもまた巨大だ。「昭和30年(1955)秋 御宝前」への奉納で、寺紋の「卍」が見える。この紋は、ナチスのハーケンクロイツを連想させるとして、特に外国人観光客から悪評で、1970年代頃には、「鎹山(かすがいやま)」のデザインに変更したという。

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●「鎹山紋(前21項)」は、画像の仲見世通りの看板にも見られる。鎹は、金属製の「山」の字形状の金具で、尖った先端部を、接続させる木材に打ち込む部材だ。成句にある、「子は鎹」の鎹だ。

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本堂に架かる垂れ幕にも「鎹山紋」が見られ、寺紋の「卍」はすっかり変更されたようだ。およそ半世紀が経過している訳であり、既に定着したと言えるかも知れない。

浅草寺

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天水桶は、浅草寺門前の「浅草 仲見世商店会(前8項)」が寄進しているが、それぞれの桶の裏側には、通りの「東側」、「西側」に分けて、店主名であろう氏名が並んでいる。仲見世通りを俯瞰できる画像のこの光景は、雷門の反対側にある浅草文化観光センターの上の展望テラスから誰でも見る事が出来る。ここは浅草の観光案内所だが、設計を隈研吾が担当していて、浅草に相応しい味わいのある建物だ。

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●天水桶は、荒川区西日暮里にある「東京 製作 堀川鋳金所」という銘だが、ホムペによると、「堀川鋳金所では、著名建築物の装飾金具をはじめ、銘板・置物・胸像・工芸品及び展覧会・作家作品と数多くの、多様な品物を手掛けてまいりました」とある。

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工芸品に使われる合金の「朧銀は、ろうぎん、おぼろぎん、と呼ばれます。また、銅:銀=3:1であることから、四分一(しぶいち)ともいわれます。静かな闇に浮かび上がる光は、広大な宇宙にまたたく銀河を思い起こさせてくれます」という。

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国会議事堂の正門にある「衆議院」、「参議院」や「最高裁判所」の名前が書かれた門標、日本橋のたもとにある東京都のマークなども手掛けたようだ。現在の3代目松本隆一氏は、公益社団法人日本工芸会正会員で、荒川区の無形文化財、工芸技術部門に登録されている鋳物師だ。2008年の第55回日本伝統工芸展本展では、4代目の松本育祥氏と共に、親子子弟で入選を果たしている。画像は、堀川鋳金所の看板。

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●台東区上野公園の五条天神社(後132項)は、不忍池(しのばずのいけ)の北側の畔にある。12代景行天皇の御代(110年頃)に、日本武尊が東征の際、上野山内天神山(摺鉢山)に創建したというから屈指の古社だ。(境内掲示を要約)

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どこかで見たようなデザインだ。台東区鳥越の鳥越神社(前20項)の「かがり火台型桶」であったが、脚がそう思わせたのだろう。そこのは丸型だったが、ここのは四角型だ。共に青銅製だがこれは賽銭箱のイメージだ。

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作者の「山寅」の2代目山崎甚五兵衛は、東京都福生市福生の福生神明社(後132項)で、材質は違えど、45年後の昭和48年(1973)にこの賽銭箱の意匠を踏襲し、今の世に遺しているのでご参照いただきたい。

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●1対には「下谷區(区)上野廣小路町」、「下谷區上野北大門町」とあり、百貨店の「松坂屋」さんの寄進のようだ。寛永18年(1641)には、菅原道真公を合祀しているから、正面には梅紋も確認できる。

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「昭和3年(1928)9月改鋳 川口山寅作」と鋳出されているが、川口鋳物師「山寅」、山﨑寅蔵は前20項などで登場、解析している。更なる鋳出し文字を覗くと、「文政二己卯(つちのとう)年(1819)鋳造」と鋳出されていた。「改鋳」前の先代は、109年前の鋳造だったのだ。

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「川口鋳物製品年表」によれば、その時の作者は、「同年8月 川口住 三次郎作」となっている。この年表の出典先は川口大百科事典だが、「文化9年(1812) 浅草寺天水鉢」にも「三次郎(前6項)」の名が登場している。

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一方、大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(後116項)の「日本鋳工史稿」を見ると、「川口 三治郎」作となっていて、1文字違う。川口鋳物師であるに違いなかろうが、いずれにしても苗字の表記が無いし、人物についての資料は見当たらず詳細が不明な鋳物師だ。

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●続いては、台東区西浅草の時宗、神田山日輪寺。元は(千代田区)神田柴崎村にあり、「柴崎道場」(時宗の念仏道場)と呼ばれた。江戸時代を通して時宗寺院の総触頭という重要な役割を果たし、後期には学寮が置かれ、僧侶の勉学の場として発展してきた。(掲示板による)

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花弁が水平に開き、胴部が長く見えるデザインが独特、出会ったことの無いタイプだが、蓮の花弁のイメージは、全国共通であろう。奉納は、「日輪寺41世 教順代」の時世であった。

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「昭和4年(1929)12月17日調之 広島市 香川鋳工場 作人 飯田大吉」銘の鋳鉄製の天水桶1対であるが、現在、操業はしていないようで、鋳造者の詳細は不明だ。

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●最後は、墨田区東向島の真言宗智山派、清瀧山蓮花寺。本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝わる。江戸の化政期(1804~)には「寺島大師」と呼ばれ、川崎大師平間寺(前24項など)、西新井大師総持寺(後116項)とともに江戸三大師と言われた。

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文政5年(1822)建立の「厄除弘法大師」の道標は、区登録文化財だが、右側面に「西 白ひけ(白髭)はしはみち(橋場道)」と案内されていて、多くの参詣者があった事がうかがえる。(区の説明文を要約)

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●ここに、川口鋳物師「山崎甚五兵衛(前27項後106項など)」作の鋳鉄製の天水桶が1対ある。上述の「山寅」、山﨑寅蔵の後継者だ。大き目な台座が特徴的で、総高は、1.350ミリとなっている。正面に「三つ鱗紋(後57項)」が見えるが、これは北条氏の代表紋として有名で、北条氏の主流は底辺が長い二等辺三角形だという。

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直径3.5尺、Φ1.050ミリと大きめなサイズだが、同氏のスタンダードな形状となっていて、「昭和48年(1973)5月吉日 28世 照蓮代」の製造だ。一日歩き廻って足は棒だが、多くの天水桶に出会えて有意義な時間を味わった。次回の散策も楽しみだ。つづく。