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●かつて、埼玉県川口住(後100項)の鋳造人たちは、多くの天水桶を世に送り出してきた。これまでの項で、幾人かの鋳物師達を紹介してきた訳だが、まだ名前が登場していない鋳造人が大勢いる。

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第6代将軍徳川家宣(いえのぶ)所縁の根津神社(後132項)は、文京区根津に鎮座している。宝永3年(1706)に5代将軍綱吉が社殿を造営、今は千駄木の旧地より遷座している。2千坪のつつじ苑に咲く、約100種3千株のつつじは有名で、茶屋や植木市、露店等も並び毎年盛大だ。

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●堂宇前にある鋳鉄製の天水桶の直径は、Φ1.080ミリの3.5尺、高さは900ミリの3尺サイズだ。最もこういった器の場合、貯水できる水量が重要なのであって、つまり、外径より内径寸法に注視すべきだろう。とすれば、Φ900ミリ程だから3尺サイズという呼びになろうか。

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正面には卍紋がアレンジされ据えられているが、円形内に収められ、左ではなく長めに右側に流れている。賽銭箱にも丸い同じ紋があるが、こちらは左へ流れているので、向きにこだわりは無いようだ。

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●奉納は、「駒込土物店 後藤弥太郎」と「駒込肴町(現文京区向丘) 酒井八右衛門」だ。後64項の台東区上野公園の東照宮でも登場するが、酒井は、通称「石屋八右衛門」で、「井亀泉(せいきせん)」の名で名石工として知られ、「廣郡鶴(こうぐんかく) 窪世祥(くぼせしょう)」と共に、江戸三代石匠に数えられている。ここもしかりだが、徳川家との縁が深いようで、御用達の石工であったろうか。

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この1対は、「明治29年(1896)11月吉日」に、「川口町 鋳物師 永井文治郎」が鋳造している。永井家系統は、現在でも川口市内で鋳造業を営んでいるが、文治郎はその祖先の方であろうか。関東近郊で現存する文治郎製はこの1対だけだ。同系かは不明だが、永井家は後38項でも登場している。

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なお、川口史林(昭和45年)に掲載されている、鈴木茂の「川口の鋳工と作品」や昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、「明治34年5月 台東区上野公園 清水観音堂(後47項)天水桶1対 永井文治(次)郎」銘の実績が登録されている。現存しないが貴重な記録だ。

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●境内には1対の青銅製の太閤型灯籠(後74項)がある。宝珠を冠し八方に蕨手が伸び、火袋などには卍紋が配されていて、「根津大権現」、「宝永七庚寅年(1710)四月」の陰刻がある。奉納は「伊賀国主 従四位下侍従 藤原姓 藤堂和泉守高敏」だ。

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高敏は、伊勢国津藩の第5代藩主で、藤堂家初代は、築城の名手といわれた高虎(後33項)だが、高敏は宗家5代目だ。宝永4年12月には、従四位下・大学頭に叙任されている。灯籠は、将軍家という時の為政者に関する宝物であり、戦時の金属供出(前3項)を逃れている。現存する江戸期の金属製の灯籠は数少ない。後33項には、それらのリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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鋳造者銘は、「鋳物御大工 椎名伊豫(予)重体」だ。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞の「日本鋳工史稿(後116項)」によれば、「重体」は、「重休」の誤りで、ここの拝殿の擬宝珠(宝永3年10月)や、「日本橋時の鐘 宝永辛卯(8年)四月中浣(中旬) 鋳物御大工 椎名伊予 藤原重休(後89項後126項)」などの作例がある。

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●「椎名伊予 藤原重休」の作例の多くは、灯籠や擬宝珠(後121項など)で、現存する梵鐘は希少で稀有だ。ここで1例を見ておこう。場所は、都内渋谷区広尾の臨済宗大徳寺派、瑞泉山祥雲寺だ。

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筑前福岡藩主52万石の黒田長政を追善して、嫡子忠之(承応3年没・1654)が開基となり、長政が帰依していた京都紫野大徳寺の龍岳和尚を開山として創建している。龍岳和尚は本山大徳寺164世で、笠仙大法禅師として後水尾天皇より勅賜された名僧であった。

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豊臣秀吉や徳川家康の天下統一に貢献した長政は、元和9年(1623)に没しているが、その墓は墓標形として建てられた雄大なものだ。ここの檀家には武家が多かったため、黒田家をはじめとして福岡藩の分家の秋月藩主黒田家、久留米藩主有馬家、吹上藩主有馬家、柳本藩主織田家、岡部藩主安倍池、小野藩主一柳家、狭山藩主北条家、園部藩主小出家など諸大名の墓地群がある。(区の掲示板より)

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●陰刻されている銘は、「正徳三年歳(1713) 舎昭陽大荒落(=癸巳・みずのとみ) 仲冬(ちゅうとう)中澣日(ちゅうかん・中旬)」の鋳造で、3世紀前だ。「昭陽」は十干の「癸」の、「大荒落」は十二支の「巳」の異名で、「仲冬」は陰暦11月の異名だ。

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肩書きとして「冶工(やこう=鋳物師)」とあり、「椎名伊予 藤原重休 同氏(椎名)平蔵 藤原重祐」と刻まれている。徳川9代将軍家重の実記には、「宝暦2年(1752)6月3日、鋳工 椎名平蔵、有徳院(吉宗公)宝塔を鋳造せしを以て、金五十両を賜ふ」とある。また、10代家治実記には、「宝暦12年6月晦日、惇信院(家重公)宝塔の鋳物師、椎名平蔵に金五十両を下さる」とある。

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重祐は、重休と近しい同列の鋳物師のようで、銅鐘は合作であったのだろう。両者は国名(後99項)を受領し、藤原姓(前13項)を下賜された御用鋳物師であった。この梵鐘は、文化財に指定され保護されるべき逸品だろう。

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またこの梵鐘の池の間(前8項)には、銅鐘の来歴のような長文が刻まれている。難解で解読不能だが、その中に「萬治四年龍集辛丑(1661)夏五月 冶工 山城大掾(だいじょう・前17項) 藤原清光」の名が読める。「龍集」は、年号の次に添えられる言葉だが、「龍」は星の名、「集」は宿る意で、星は1年に1回周行するという意味合いだ。

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後74項で台東区上野の上野東照宮の銅灯籠を見るが、この人は、京都出身の鋳物師で、代々が「山城守」を名のってきた家系であった。この清光は名を世襲した2代目で、初代「堀山城守浄栄(寛永4年・1627年没)」の息子の浄甫(じょうほ・天和2年・1682没)だ。

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萬治4年は1661年だが、清光は、重休製の鐘の1世紀も前に活躍した鋳物師だ。当時、家康の36回忌に際し、上野東照宮では6対12基の、また日光東照宮でも同数程度の銅灯籠を鋳ている。短期間における驚異的な鋳造量と言ってよい訳で、相当に大規模な釜屋であったと想像できる。

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「大掾」は、職人に付与される最高の名誉号だが、藤原姓を冠した御用鋳物師としての清光銘の刻みの存在は極めて重要で、ここ祥雲寺の初代の鐘を鋳た事の証明だ。やはり、文化財に指定されるべき梵鐘だろう。なお、堀山城守系統に関しては、後126項などもご参照いただきたい。

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●さて天水桶だが、続いては川口市安行原の護国山東光寺で、本尊は、薬師如来像だ。市内の密蔵院(後112項)に属していた事もあり、真言宗智山派となっていて、武蔵国八十八ケ所霊場86番だ。ここの堂宇前に、1対の鋳鉄製天水桶がある。

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デザイン的には、川口鋳物師、山崎甚五兵衛による鋳造と思われるが、作者名は鋳出されていない。鋳肌具合や額縁の紋様、特に、本体と石台座の間にある、安定的なベースのデザインが特徴的だが、それから推しても山崎仕様ではあるまいか。

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鋳出し文字によれば、「東光寺住職第25代 石川義雄」の時世の「昭和50年(1975)8月吉日」に、草加市の人によって奉納されている。何故か別の位置に「川口市 橋本總司」とあるが、この人が鋳造者なのか檀家の人なのかは今のところ不明だ。肩書が無いのが残念だ。

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●台東区谷中の曹洞宗望湖山玉林寺は、文京区本駒込の、諏訪山吉祥寺5世用山元照和尚が開山となり天正19年(1591)に創建、慶安元年(1648)には、寺領21石8斗の御朱印状を拝領している。釈迦の入滅を描いた図である紙本着色仏涅槃図は、区の文化財だ。江戸時代中期の作で、縦304cm、横250cmであり、区内に多く現存する仏涅槃図の中でも大きなものの1つだという。

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ここは、ウルフと称された元横綱・千代の富士の菩提寺だ。角界唯一の国民栄誉賞受賞者で、昭和時代最後の大横綱であるが、その業績を讃え顕彰した銅像が境内にある。北海道松前郡福島町出身で、第58代横綱だ。得意技を右四つ、寄り、上手投げとした昭和最後の優勝力士であったが、平成28年(2016)7月31日、惜しくも61才で没している。

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●鋳鉄製天水桶の直径はΦ4尺サイズの1.23m、高さは1mという堂々たるもので、ウルフの名にふさわしい。「玉林寺」の文字の位置やバランスからして、下方の一部は、石台座に埋もれていると思われる。上部の額縁のデザインが面白い。外周に「玉」という漢字が連続しているのだ。奉納は、「当山19世秀孝代」の時世であった。

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桶には「川口市 千葉製造 昭和26年(1951)2月吉日」と刻まれていて、先祖の菩提供養のための奉納であった。関東近郊で現存する千葉製はこの1対だけだ。現在「千葉姓」と称する鋳造業者も存在するが、昭和12年(1937)の400社近い登録がある「川口商工人名録」には、千葉姓の業者は1社しかない。

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市内寿町で「一般鋳物」として営業する、「千葉鋳物(株) 千葉寅吉」であったが、ここでの鋳造だろう。寅吉は米屋の出であったが、鋳物師の永瀬家に弟子入り、親方の早世により、明治33年(1900)に独立した初代であった。当時の社名は、千葉鋳工所であったようだ。

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●その千葉鋳工所の 昭和6年(1931)当時の広告がある。「川口市寿町 主 千葉寅吉」で、「第二工場 第三工場」の記載もあるので、当時すでにそこそこ大規模な会社であった事が判る。広告の真ん中には、社屋の広大さを誇示するかのような絵も見られる。営業品目としては、「諸機械 ストーブ 瓦斯(ガス)器具 消火栓 制水弁 其他各種」となっている。

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こちらは電話番号の桁数から判断するに、その数年前の広告だが、「竹印瓦斯今呂(コンロ)」、「手提ストーブ」、「調理台用竃付(かまどつき)七輪」などと商品の名称が記され、その写真が掲載されている。作れば売れたという、日常的な生活必需品を売りにしていたようだ。

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寅吉は、明治38(1905)年8月11日に創立した川口鋳物工業協同組合の第7代理事長を歴任している。任期を見ると、大正7年(1918)から翌8年であった。この組織は、川口鋳物同業組合という時期もあったようだが、その時は、画像のように3代目の代表者を務めていたようだ。

千葉寅吉

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●また、沼口信一編著の「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 川口」によれば、寅吉は、第2代目の川口市長も努めている。前列の真ん中の人だが、昭和10年(1935)1月から同6月までの短期間であった。

川口市長・千葉寅吉

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この写真は、歴代首長の記念撮影だが、前列左が矢崎健治(後121項)・川口町最後の町長、前列右が3代目市長の永瀬寅吉(後121項)、後列左が4代目高石幸三郎、後列右が初代岩田三史だ。市長を歴任した寅吉は、襲名2代目であると思われるが、昭和24年(1949)12月に行年47才で没している。

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その2年前の陽鋳文字が見られるここ玉林寺の天水桶は、大正15年(1926)生まれで、平成11年(1999)8月没の襲名3代目の寅吉、俗名千葉和久(前6項)の作であろう。なお、後継の千葉乙郎氏は、千葉鋳物(株)を運営したようだ。

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●荒川区東尾久には、尾久においては最古の寺院と伝えられる阿遮羅山阿遮院がある。武蔵国豊島八十八ケ所霊場63番札所、御府内二十一ケ所霊場19番札所、荒川辺八十八ケ所霊場10番札所だが、これは、弘法大師の霊場を廻る巡礼だ。

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天水桶は、地域の方だろう、「芝江 初五郎」によって寄付されている。ここの紋章は珍しく、「右万字」だ。通常、地図の記号などでよく見られるのは「左卍」で、仏教の吉祥を表したり、太陽の象徴であったりする。冒頭の丸い紋も右へ流れていたが、左右の違いは、例えば台風の目を上から見た時と、下から見た時との線対称での違いのようだ。

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●ここには「埼玉懸川口市 関口製作所製造 昭和8年(1933)3月24日」と鋳出された鋳鉄製の天水桶が1対ある。大きさは口径Φ1.050、高さは900ミリだ。前12項では、川口市元郷の元郷氷川神社の旧天水桶は、関口の奉納だろうとしたが、ここの桶には「製造」と鋳出されているから、実際の鋳造者であろう。関東近郊に現存する関口銘はこの1対だけであり非常に貴重だ。

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図書館で「(株)関口製作所 工員養成所規則」なるものを見たが、この会社だ。先の「川口商工人名録」をみると、「一般鋳造業 本町2丁目 関口倉吉(前12項)」が登録されている。

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関口は明治3年(1870)7月生まれで、明治19年(1986)に同社を創業しているが、同42年4月には町議にも当選し、以来16年に亘って政治に参画している。後継者は、明治30年(1897)生まれの関口倉次であったが、益々隆盛を極め、工場敷地5千坪、従業員70余名に発展している。

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●昭和8年(1933)当時の広告もあった。「埼玉県川口町 関口製作所」と記されていて、「生産能力 工場敷地5.000坪 最大能力15噸(トン) 年生産高3.000噸」を誇っている。営業品目としては、「電気機械鋳物 工作機械鋳物 耐酸耐熱鋳物」となっている。

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次の画像は、市制施行前の昭和6年の広告だから、やはり「川口町」だが、工作機械のドリリングマシン、穴開け穿孔機の写真もある。鋳造業者でありながら、「製作所」と名乗る理由だろうが、これが製品であったようだ。当時の最新式の社内設備であったろうか。「在庫豊富 型録(カタログ)進呈」を謳っているが、天水桶はここでの鋳造に違いない。

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●江東区東砂には、陶首(とうしゅ)稲荷神社がある。ここはパラマウントベッド(株)本社の敷地内の様だが、企業内神社(後62項)なのであろうか。小じんまりとした社で、祠(ほこら)とでも言うべきかも知れない。「氏子中」の奉納だが、人名などの文字は無い。正面には、稲荷社の稲穂紋が据わっているが、大きさは口径Φ750、高さは670ミリだ。

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同社のサイトによれば、「当社グループは、1947年(昭和22年)に創業。病院用ベッドの専業メーカーとしてスタートし、その後、高齢化の進展を背景として、高齢者施設や在宅介護分野にも事業領域を拡大しながら、さまざまな製品・サービスを開発してまいりました。

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近年では、医療・介護用ベッド等の製造、販売事業をはじめ、ベッド等の点検・メンテナンス事業、福祉用具のレンタル卸事業など、国内外においてヘルスケア分野を中心とした事業の多角化に取り組んでおります」という。

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ここに「武州川口町 田中虎吉製造 昭和4年(1929)9月吉日」と鋳出された鋳鉄製の天水桶が1対ある。この川口鋳物師は、先の人名録にも、540社が登録されている昭和16年(1941)の「川口鋳物工業組合員名簿」にも登場しないが、関東近郊に現存する、虎吉製の桶は少なく貴重だ。

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●昭和初期の川口市勢要覧を見ると、「川口市横曽根区 田中鋳工所 田中虎吉」が記載されている。芝川鋳造所(後76項)の所主、吉川鍋太郎(前12項)の実弟で、明治17年(1884)生まれだ。釜七(前17項など)の丸七工場や増田啓次郎の川口製作所(前10項)などで勤め、昭和4年に独立開業している。

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従者20余名で長州風呂(五右衛門風呂・後72項)などを製造したようだが、間もなく昭和9年(1934)3月9日に死去している。先の名簿に登場しないのはこのためであろう。次の画像は市制施行前の昭和6年頃の同社の広告で、「川口町横曽根」となっていている。社長の虎吉の名が見え、「風呂釜類 鍋釜類 其他日用品 建築鋳物」を商品として謳っている。その写真も掲載されているが、長州風呂も見られるようだ。

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この天水桶は創業記念とも言える1対であったかも知れない。本所大島(現江東区)の出身であったようだから、釜七とつながり、この地の稲荷社への奉納となったのであろうか。なお同鋳物師とは、後114項で久し振りに再会しているので、是非ご参照いただきたい。

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前13項では、新宿区西早稲田の穴八幡宮の、(増田)金太郎製の天水桶を紹介した。ここの境内には他に、「埼玉県川口町 笠倉鋳工所製 山寅作 昭和2年(1927)11月建造」銘という鋳鉄製の桶があるのだ。大きさは、口径Φ820、高さは780ミリだ。

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近隣の町の、氏子総代らの名前が鋳出されている。関東近郊に現存する、「笠倉」銘が見られる天水桶はここの1対だけであり貴重だ。笠倉さんは、今でも鋳造業界でご活躍の優良企業だ。川口市本町に本社を置き、茨城県古河市に工場を構え、月産能力は500トンを誇っている。

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●(株)笠倉メテックと名を変えて大きく成長した同社のホームページによると、『大正8年(1919)、初代笠倉保治が東京淀橋にて初吹。昭和2年(1927)、2代目笠倉謙三が川口市に笠倉鋳工所を設立。同23年(1948)、笠倉久昇らへと引き継がれ、平成15年(2003)、笠倉恒社長が中国天津市に「笠倉鋳造有限公司」設立』(抜粋)とある。

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初代保治は、茨城県筑波地方の出身だが、謙三は、明治32年(1899)生まれだ。興した工場では製本機械や顕微鏡、木工機械など特殊な製品造りで繁栄の基礎を固めたようだが、ここの桶は、2代目笠倉謙三の作例であった。

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●昭和6年(1931)当時の同社の広告がある。市制施行前で、住所は「埼玉県川口町 笠倉鋳工所 笠倉謙三」だ。営業品目としては、「製本機 写真機 顕微鏡 自動車付属品 豆腐器械 理髪用椅子」を挙げているが、多岐に亘る製品を鋳造していた事が判る。

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昭和16年(1941)の、540社の登録がある「川口鋳物工業組合員名簿」にも社名が見える。「川口市幸町三丁目 笠倉鋳工所 笠倉謙三」で、昭和8年の市制施行で川口市が発足し、川口町は廃止となっている。この時の所在地は「幸町」だが、株式会社の形態ではない。社章としての「○に加」も記載されている。

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●また、千葉県成田市の成田山新勝寺(後53項)の境内では、奉納された玉垣も見た。「川口市幸町三丁目 株式会社笠倉鋳工所 笠倉久昇 母笠倉くら 妻笠倉晃子」と刻まれている。3代目の久昇となっているが、同社の株式会社への改組は昭和25年であったから、それ以降の設置だ。

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上述と同じ社章も見えるが、これが気になる。「加」は漢字であろうか、その意味は何であろうか。笠倉さんの「カ」であろうか、不明だ。(後39項後113項参照)

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実は、この天水桶の左下にある印影というか落款(後65項)というか、「山寅作」という表示が非常に気になるのだ。「山寅」は、川口鋳物師の山﨑寅蔵だが、ここに表示されている事について、次項で解析しようと思う。つづく。