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●前回は、茨城県、常陸国真壁の御用達勅許鋳物師・小田部庄右衛門作の天水桶を見てきたが、前21項には、同家の作例の全てのリンク先を貼ってある。創業以来8世紀にわたって伝統を受け継いできているが、ところで、現在の37代目庄右衛門が36代目から襲名し後継したのはいつ頃だろうか。
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鋳造された梵鐘などを見てみることで検証してみよう。36代目の銘が最後に確認できるのは、昭和の後期から平成の初期までだ。前111項で見た茨城県那珂市の鹿島八幡額田神社の天水桶は、「昭和59年(1984)1月と平成元年(1989)年6月」。

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牛久市牛野町の威徳山観音寺の梵鐘は、「昭和61年」、千葉県香取市の妙光山観福寺の天水桶は、「平成5年(1993)3月」銘であった。また前47項では、笠間市の愛宕神社で、「昭和59年1月」銘の36代目作の鋳鉄桶を見てきている。

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●では、その他に3例の梵鐘を見てみよう。まずは、埼玉県白岡市白岡の曹洞宗泰崇山興善寺。平安初期に、慈覚大師円仁により天台宗として開基されていて、江戸期には、寺領15石を受けた朱印寺であった。

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朱印状の初見は天正19年(1591)で、その日付の下には徳川家康が使用していた「福徳」印が押されているという。鐘楼塔は、8方に立派な鬼瓦を従えていて、総ケヤキの入母屋造りだ。平成7年(1995)に建てられた豪華な記念石碑があるので見てみよう。

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●設計監理は、「京都市(財)建築研究協会」、基礎工事は白岡市の、木工事は下館市の、石工事は真壁町の、瓦工事は東京都の業者がそれぞれ担当していて、棟梁は、「福島県三春町 大内功雄」であった。

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総工事費は¥100.825.144で、1億円超えだ。内訳としては、「鐘楼工事費¥79.458.607」、「梵鐘鋳造費¥8.682.900」、「諸経費¥12.683.637」だが、驚くほど高価な工事であることが判る。
白岡市・興善寺
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●梵鐘の正面の縦帯(前8項)に、「開山 季雲永岳大和尚」とあるように、ここは文亀2年(1502)に、現在の曹洞宗に改宗している。池の間には、石碑と同じようなことが陽鋳造されている。元禄年間(1688~)に寄進された梵鐘があったが、戦時に勝利を願って文字通りたすき掛けで出征、金属供出(前3項)したが、不帰の鐘となっていたという。
白岡市・興善寺
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「この事業を通して寺檀一体、寺門の興隆、檀信徒各家の繁栄を念じつつ」とあり、「大願成就 平成4年(1992)10月31日、大本山永平寺(前110項) 77世 丹羽廉芳禅師(瑞岳廉芳 慈光圓海禅師 1905~1993)を拝請、落慶法要を修行」している。

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結びには、「正に願わくは、この功徳を以て普く(あまねく)一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん事を 興善寺 29世 興淳明 合掌」とある。この口径2尺5寸、615ミリの梵鐘は、「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ門」の鋳造だ。

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●次の、千葉県流山市名都借(なづかり)にある、長福山廣寿(こうじゅ)禅寺は、永禄5年(1562)の建立といわれる。本尊の、鎌倉期の彫刻の観音菩薩坐像は、高さ54.3cmで、市指定有形文化財第6号だ。画像に見える「九曜紋」の青銅製の天水桶1対は、「昭和52年(1977)秋彼岸」に新調されている。

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「檀信徒 総力決集の心願」として、「平和の鐘 時の鐘 幸運の鐘」である鐘楼堂の存在理由が掲げられている。合掌礼拝し、素直に真心で撞けば遠くまで鳴り響くといい、「妙音を観音様に、ご先祖様に。仏様との会話は、鐘の音です。願いを込めて平和あれ。」と記されている。


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●池の間には、寺の象徴たる「福」と「寿」の文字が大きく記され、「長福山主」の印影(前13項)がある。さらに、小田部家のシンボルである、雲を従えた2人の天女が舞い、下部では十六菊紋が外周を埋めている。これを見ただけで、小田部製と判るのだ。撞座の意匠も凝っていて、通常蓮華座である事が多い中、ここでは寺紋の九曜である事も見逃せない。

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たまに見かけるが、鐘の内側の内周に寄進者名や作者名が存在することがある。口径3尺、90cmの梵鐘は、檀家によって寄進されているが、「現住29世 文英代 再々建」で、「平成7年(1995)3月吉祥日」であった。鋳造は、「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ門」だ。かつての2口(こう)も小田部製であったろうか。

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●3例目は、栃木県芳賀郡茂木町の、曹洞宗龍渕山慶翁寺(けいおうじ)だ。懸魚(げきょ)が掛かった鐘楼堂だが、登壇せずに撞けるようになっている。懸魚は、火に弱い木造建築物を守る、火除けのまじないとして存在し、多くの堂宇に見られる。魚の身代わりを屋根に懸ける事が、「水をかける」という意味に掛け合わせられていて、これが語源だ。

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上部の膨らみが少なく末広がり感がある銅鐘に見えるが、これは安カメラのせいで、実物は寸胴型だ。池の間には、奉納した施主の名が刻まれているが、天女と菊紋もある。丸い撞座の真上には、蓮の花が咲いているのがどの縦帯にも見られる。ここに限らず、どこの鐘にも見られるようで、共通したデザインだ。

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梵鐘は2尺6寸の口径618ミリ、重量は約580Kgの大きさで、「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ門 平成8年(1996)4月」の造立だ。銘はやはり内周に鋳出されているが、ここの鐘が、確認できている36代目が手掛けた最後の梵鐘だ。

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●では次に、37代目の初期のころの銘がある梵鐘を3例見てみよう。都内足立区谷在家の日蓮宗長命山本応寺は、前31項で登場していて、日蓮宗紋が鮮明な青銅製の天水桶1対を見ている。ここは正応元年(1288)、日蓮十八高弟の1人、天目上人によって開山されている。

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梵鐘には、「戦死戦傷病死 殉国之英霊位」と縦帯にあり、これが設置された発願だ。「長命山本應寺 第四十世 日昌代」であるが、デザインは他所のものとほぼ同じで、大きさは2尺6寸、約Φ780ミリとなっている。

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ここの銘も内周に鋳出されているが、「西暦貳千年壱月壱日」とある。2000年、平成12年1月1日付けだ。鋳物師は、「茨城県真壁町 鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」という凸の陽鋳造となっている。すぐ脇には、「鋳造人 広瀬一」とも陰刻されている。凹文字であるのは親方との差別化だが、小田部ブランドを支える優秀な匠に違いなかろう。

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●茨城県水戸市内原町有賀の、真言宗迦葉山慈眼寺。永徳2年(1382)の開基だが、明治時代の火災で堂宇を焼失、本尊であった運慶作の十一面観世音菩薩像を失い、焼失を免れた享保年間の作という大日如来を本尊として再建されている。銅鐘の縦帯には、「南無大師遍照金剛」、「南無毘沙門天」、「南無興教大師」、「南無本尊大日如来」とあり、地元の檀家が菩提供養のため寄進しているが、「43世 成和代」の時世だ。

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「乳」というのは、乳の間に5列×5行×4面で100個、縦帯4本の上部に2個づつあって合計108個だが、これが一般的な配置だ。この梵鐘の口径も2尺6寸で、銘は外周に見られるが、「茨城県真壁町 鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門 維持平成9年(1997)3月吉日」となっている。

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●最後は、茨城県那珂町南酒出にある、曹洞宗蒼龍寺だ。元弘元年(1330)に建立し、南酒出城主であった佐竹義忠が開基している。後に徳川光圀の命によって廃寺、水戸の千波湖畔から新たに大湖山蒼龍寺がこの地に引き移され、幕府から寺領23石を下されている。堂宇は2度罹災していて、文化7年(1810)に再建されたようだ。

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平成27年(2015)9月25付の茨城新聞の記事を読むと、『日東日本大震災で傷んだ本堂を解体したところ、200年前の建設当時に書かれた墨書を発見した。本尊を取り囲む木材の内側などに、大工らが蝦夷地警備へ向かったことや、職人たちを「大酒飲みで困る」と寸評する文章もあり、解体しないと見えない文字。当時の住職が書き残したタイムカプセルだ』というが、興味深い。

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●本堂に併設された鐘楼塔は更新されていて真新しいが、梵鐘は口径2尺8寸の大きさだ。「発願 終戦50年 平成7年(1995)8月15日終戦記念日」で、「平成9年3月吉祥日 当山35世 泰然功雄代」の設置だ。縦帯には、「終戦五十年平和祈念」とある。池の間には、4人の天女が描かれ、菊紋も周囲を廻っている。

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内側には、世話人の委員長、会計、山主らの名が見られる。作者銘もここに鋳出されているが、「茨城県真壁町 鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」だ。ここまでを総括してみると、慶翁寺の「平成8年(1996)4月」の鐘が36代目が手掛けた最後の作品で、慈眼寺と蒼龍寺の「平成9年3月」の鐘には37代目の銘が初見できるので、ここが分岐点であり、世代交代の時期であった。

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●しかし一方で、これでは説明のつかない奇怪な梵鐘銘が存在するのだ。前4項では、埼玉県川口市安行原(あんぎょうはら)の海寿山満福寺密蔵院へ、川口鋳物師の鈴木文吾を偲んで墓参している。ここは、文明元年(1469)に中興されていて、本尊は平安期に創られた地蔵菩薩像だが、朱印地11石を賜った市内有数の古刹だ。

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鐘楼塔の天井には、たくさんの菩薩様が描かれていて、下から眺めていても飽きないが、有り難い塔だ。鐘身の縦帯(前8項)には先の、「本尊 延命富貴地蔵大菩薩」、それに真言宗で唱える一番短いお経の御宝号(ごほうごう)、「南無大師遍照金剛」が見える。

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なお、江戸期の化政期(1804~)に編まれた武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」には、「寛永2年(1625)鋳造の鐘をかく」と記されているが、情報が乏しく作者銘などは不明だ。

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●池の間の文字を読んでみよう。「本堂大改築 並檀信徒会館建設」が主たる設置主旨だろう。「第32世 権大僧正 純隆」とあり、並んで「檀家総代人 沖田雄司」らの名が鋳出されている。塔の下の石垣には石碑があるが、「本堂大改築 檀信会館新築 梵鐘新鋳寄附者名」として、多くの人名が列挙されている。

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また、「宗祖大師誕生 壱千貳百年記念」とあるが、真言宗の開祖、弘法大師空海は、宝亀5年(774)の生まれだ。左端に読めるように、この梵鐘は、「昭和50年(1975)3月24日」の設置だから、引き算すると間違いない、1.200年記念だ。

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●鐘の内側に記された銘は、「茨城県真壁町 鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」だが、これが理解できないのだ。上述のように、37代目の登場は、平成9年(1997)3月以降ではないのか。ここの鐘が昭和50年の鋳造で間違いなければ、36代目の作品でなくてはならないのだ。この22年間の差異は一体何なのだろうか。

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寺の人に聞いてみた。「ここの梵鐘の鋳造設置は、平成に入ってからではないのですか?」、「いいえ、確かに昭和の時代です」との回答だった。宗祖生誕1200年も、本堂改築も会館新築も梵鐘新鋳も、昭和50年(1975)で矛盾が無い。謎だ、困った。

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もし、「鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」の表示がタガネで彫られた陰刻なら、矛盾を解決できる可能性はあった。何らかの理由で、37代目が36代目の作品に、後に刻み込んだのかも、なのだ。しかし、凸文字の陽鋳は後からでは不可能、本体鋳造と同時でなければ無理だ。
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●別の池の間には陰刻された、「久保山鐘銘」がある。古くから人々は、この付近の丘を「久保山」と呼んでいたようで、境内にも、「安行八景 久保山と密蔵院 昭和62年(1987)選定 安行観光協会」という掲示板がある。ここは、早咲きの「安行桜」でも知られていて、画像は、3月の上旬の参道の様子なのだ。因みに、先の「檀家総代人 沖田雄司(平成29年没、98才)」がこの桜の生みの親だ。
川口安行・密蔵院
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内容を読んでみると、「久保山から戦争に依り鐘の音が絶えてから三十有余年、再び鐘が鳴り渡り、久保のお寺が息を吹き返した様な気がする。この時は本堂大改築、檀信徒会館の建設、鐘楼堂の移築、梵鐘の再鐘を願う檀信徒の善意がここに実を結び、鐘の音が響き渡る日が来たのである」と刻まれている。
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前の梵鐘は、戦時に金属供出(前3項)されたことが判るが、これは、昭和18年(1943)8月12日の勅令であるから、「30有余年」を経れば昭和50年であり、鋳造年はここでも矛盾が無く合致する。このように全ての情報で整合性が取れているのだが、ただ一点、「36」であるはずが、「37」なのだ。

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●37代目の人となりを見てみよう。昭和46年(1971)、茨城生まれ。国立高岡短期大学(現富山大学)金属工学科卒後、 盛岡の南部鉄瓶の「薫山(くんざん)工房」で修行、平成8年(1996)に25才で37代目を継承している。初見の「平成9年製の鐘」と合致する。
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昭和50年当時、37代目は幼少の4才だ。江戸期のお家の世嗣相続ではないのだ、世代継承と言うには実際無理がある。心血を注いで鋳造に勤しむ名匠が、「六」と「七」を誤植するはずもなかろう。ここ密蔵院の、「鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」の銘は、別人を意味するのだろうか。

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謎だが、こう理解している。この鐘は36代目が、37代目の誕生後の早い時期に受注した梵鐘ではあるまいか。生誕を喜び、未来の世代交代を期して、「鋳物師 三十七代」銘を鋳出したのではなかろうか。8世紀の長きに亘って連綿として継承されてきた、鋳物師魂の初の引き渡しであったのだろう。
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●36代目は、この昭和50年前後に、「三十六代」という肩書を入れていない作品も多く残している。前47項の越谷市南荻島・稲荷山玉泉院では「昭和55(1980)年12月」付けの、また、埼玉県児玉郡神川町・金鑚山(かなさなやま)大光普照寺では「昭和46(1971)年4月」付けの、下の画像の鋳鉄製天水桶を見た。

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梵鐘としては、茨城県北相馬郡の浄土宗、長根山円明寺で、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和45年(1970)11月」という世代記入のないものをネット上で見た。また、次の画像の川口市赤井の補陀山円通寺の梵鐘もそうだ。ここは、曹洞宗で本山の吉祥山永平寺(前110項)の直末寺だが、ラジオの文化放送の電波塔のすぐ隣にある。

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戦時に金属供出した旨の陰刻があり、「当山第21世 皓美代」の時世で、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和52年(1977)10月吉日」と鋳出されている。36代目は、昭和の末期から平成初期の作品の多くに「三十六代」を入れているが、ここの梵鐘には無い。
川口・円通寺

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●37代目世襲という長い歴史の中で、小田部家では、一体どれくらいの数量の銅鐘を鋳てきたのだろうか。散策中に出会える数などたかが知れているが、何例かをここに記しておこう。「茨城県土浦市文京町・宝珠山神龍寺・昭和46年(1971)」、「茨城県つくば市高須賀・高須山永興寺・昭和50年(1975)」。

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そして「茨城県結城市結城・新居山称名寺(前27項)・昭和31年(1956)」、「茨城県笠間氏泉・東谷山龍泉院・昭和60年」、「群馬県館林市赤生田本町・養老山永明寺・昭和55年(1980)」、「栃木県芳賀郡益子町益子・一翁寺正宗寺(後115項)・平成5年(1993)」だが、これらには「鋳物師 三十六代」の銘がある。

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●さらに「栃木県小山市間々田・天恵山龍昌寺・昭和52年(1977)」、「神奈川県茅ケ崎市小和田・熊野神社・昭和30年(1955)」、「神奈川県茅ケ崎市柳島・柳島八幡宮・昭和33年(1958)」だ。

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画像の「埼玉県上尾市藤波・瑞露山密蔵院」の銘は、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和48年(1973)8月吉日」という表面への線刻だ。並んで「鋳工 新山与三郎」と打刻されているが、同社の技師であろうか工場長であろうか。なお、前45項前70項前83項前111項後114項後117項後119項後124項後130項でも小田部製の梵鐘を見ているのでご参照いただきたい。

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●また小田部家は肩書として、「鋳物師」と、「御鋳物師」という銘を使用している。これまで見てきた他の鋳物師の天水桶もそうであったが、「御」という文字にはどんな意味があるのだろうか。前40項で判ったように、鋳物師たちは朝廷という権威を背景に、「鋳造業営業許可証」を発行してくれる京都の真継家傘下に進んで属した。
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「御」の字は、上層の高貴な方の御用を賜るという意味であった。「幕府御用達」、「宮内庁御用達」の「御」で、特権的な商人のステータスをイメージするが、江戸時代においては、一般町人の使用は禁止されてもいたらしい。例えば尾張名古屋の釜師は、藩から御用を仰せ付けられたので、「御釜師を称したいからお許しを得たい」という上申書を差し出している。

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しかし「御」の文字は、連綿として継承する勅許鋳物師としてのプライドと言うより、現在においてその意味は薄れ、「お客様の御用を承る」という意味合であろう。37代目は、平成15年(2003)前後を境にして、積極的に「御鋳物師」を表示している。つづく。