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●今回は、各地で見た注視したい銅鐘について見ていきたい。埼玉県草加市は、日光街道の宿場町であったが、松原の松並木は松尾芭蕉の「奥の細道」でも知られる。宿場で売り出されたという煎餅は、今や全国区の名産品だ。市立歴史民俗資料館は、旧草加小学校西校舎を保存し利用しているが、国の登録有形文化財となっている。建屋の上部に見える丸い紋は校章ではなく草加市の市章で、草加の「草」の古字「艸」と「カ」を図案化したものだ。

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展示物の半鐘には、縦帯(前8項)に「星 特製」とだけ鋳出されているが、この真裏の撞座を見ると、そのへこみ具合からしてかなり使用感がある1口(こう)だ。かつてはどこかの火の見櫓にでも備わっていたものであろうか。「星」の文字には、逆L(エル)字があるので、これは社章だろうが、メーカーの詳細は不明だ。下部の口径は、Φ250、総高は400ミリだ。

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各地で似たような半鐘をたくさん見ているが、さいたま市南区白幡の白幡観音堂では、「白幡村 檀徒一同」が寄進した、「赤澤 特製」という鋳出し文字であった。このお堂は真言宗智山派で、扁額に見えるが、本尊は聖観世音菩薩だ。石碑には、「足立坂東第十一番 白幡観音霊場」とある。

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●埼玉県久喜市下清久の瑠璃山清福寺でも見られる。ここは、戦国武将で2代目古河公方の足利政氏が、久喜に隠居した永正2年3月(1505)頃に、不動明王(前20項)を本尊とし開基したという寺だ。

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縦帯に「東京〇吉 特製」と陽鋳造されているが、やはり不明なメーカーだ。東京という呼称は、江戸が慶応4年(1868)7月に、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」により名称変更されて始まった都市だから、江戸期ではなく、明治維新後の近代の作例と言える。

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●栃木県佐野市亀井町の栗崎鋳工所は、ホムペによれば、「創業以来、鉄・銅合金・アルミニウム等による鋳造業として天明鋳物(前108項)の技と心を今に伝え、伝統工芸品としてだけでなく、現代のライフスタイルにもマッチした製品づくりを目指しております」という。販売店では、朱銅の花瓶やベーゴマなどが売られているが、片隅に大き目な半鐘が置かれている。

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許可を得て撮影させていただいたが、「佐野 大明 特製」と浮き出ている。「天明」ではなく「大明」だが、かつての社号だという。しかし、「特製(後132項)」の意味については的を得た回答が無い。受注の度に誂えた、「特別製造品」という解釈でよかろうか。なお「特製」と表示されたものは銅鐘だけではなく、画像の様に井戸のポンプなどにも見られるようだ。

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●都内台東区上野桜木の寛永寺三十六坊の1つの東叡山浄名院(前77項)には、江戸六地蔵の代理の銅仏が鎮座していたが、ここの境内に雑然と半鐘が置かれている。表面に「江刺郡(えさしぐん)田茂山村 冶工 及川十郎兵衛重久」という線刻がある。江刺郡は岩手県にあった郡で、田茂山村は、現在の奥州市水沢区羽田町に吸収されているが、この鋳物師の詳細は判らない。なお、前122項でも及川姓の鋳物師が登場しているのでご参照いただきたい。

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刻銘には、「正徳二年(1712)壬辰九月十五日 六角牛山(ろっこうしさん)善応寺 現住法印」ともあり、鋳造時期も知れるが、六角牛山は、遠野小富士の異名を持つ、岩手の遠野三山として親しまれている。奥州地域の半鐘がなぜ今ここにあるのか不明だが、戦時の金属供出(前3項)というドタバタの中での出来事であろうか。

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●神奈川県藤沢市藤沢の日蓮宗、長藤山妙善寺は、ウィキペディアによれば、永正元年(1504)に日純により開基されている。前身とされる密教寺院が建立された延暦15年(796)が創立で、弘安3年(1280)、日聞が日蓮宗に改宗したという説もある。 ここに、鐘楼塔から降ろされ、撞き棒と共に殿前に安置されているスリムな梵鐘があるが、今は、塔の新築へ向けての仮安置なのだろうか。

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鋳造者を示す陽鋳文字は、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和32年(1957)10月10日」だ。同氏に関しては、前21項に作例のリンク先を貼ってあり、多くの作品を見てきている。

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この小田部製の銅鐘は、関東近郊では、戦後の早めの時期に鋳られた部類の梵鐘だ。なお、戦後の最も早い時期のものは、知る限り、前119項で見た「笠間市稲田・稲田山西念寺 昭和27年(1952)4月陽春 茨城県真壁町 御鋳物師 小田部庄右エ門」銘であった。

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●東京都町田市相原町の瑞石山清水寺の梵鐘も古く、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和33年(1958)3月吉祥日」となっていて、前例の5ケ月後の作例だ。銘文にはやはり、先代の鐘が戦時に金属供出された旨が記されている。この2例は、小田部家35代目の手によるものかも知れない。

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この銘文の中に、「十方有縁の喜捨を募り 鯨鐘一口(こう)を寄進し・・」とあるが、梵鐘を「鯨鐘(げいしょう)」と呼称するのをたまに見かける。その鳴き声からであろうか、あるいは、その大きさからの比喩であろうか。

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「鯨飲」という言葉があるが、辞書を引くと、「鯨が水を飲むように、酒を一時にたくさん飲むこと。牛飲。」とある。大きくて豪快なものの例えが、鯨であり牛なのだ。また、「洪鐘(こうしょう)」と言う場合もあるようだが、「洪」の1文字には、大きいとか優れたとかいう意味があるようだ。

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●一方、小田部氏は半鐘も鋳ているので見ておこう。都内新宿区市谷薬王寺町にある覚雲山浄栄寺だが、元和2年(1616)、市ケ谷田町に善乗法師が開基している。ホムペを見ると、江戸琳派を創始した絵師の酒井抱一や、文人で狂歌師の蜀山人、大田南畝(前16項)との関わりも深く、8世の寿徴は南畝の門下であり、雪仙と称したという。

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堂宇に半鐘が掛かっている。現住職の「第14世 釋辰也」の時世で、「御鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門 平成20年(2008)9月再鋳」と陰刻されているが、乳の出来栄えも精緻で綺麗な鋳肌だ。奉納理由が2件刻まれている。1つは、「平成19年8月3日 文化財指定記念 放下着」、「宝暦13年(1763) 普化宗鈴法寺 26世嘯山(しょうざん)勇虎ヨリ 白獅当寺6世性圓ヘ授与」だ。

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区の掲示板には次のようにある。「尺八と付属する道具一式、並びにこの尺八伝授関連資料三点(放下着傳来略記、鈴鐸話并往来、免許状)から構成される。・・普化宗門の法器として用いられた虚無僧尺八の古管として位置づけられ、江戸中期以前の遺品として貴重」という。

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●もう1つの奉納理由は、半鐘に「平成18年(2006)3月7日 文化財登録記念 梵鐘 元禄9年(1696) 願主 三世覚圓」と刻まれているが、上の画像の鐘楼塔には、高さ134.5cmの、区内で3番目に古いという銅鐘が下がっている。

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池の間(前8項)には、「旹(時)元禄九丙子歳八月日 御鋳物師 西嶋伊賀守 藤原兼長作」と線刻されている。説明板には、「江戸鋳物師の製造技術が頂点に達した時期の作品で、江戸鋳物師の作風・鋳造技術を知ることができる。また、銘文から当寺の寺歴や梵鐘鋳造の歴史を知ることができ、史料的価値も高い」とある。

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●兼長の遺作には、他にどんなものがあるのだろうか。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(かとりほつま・前116項)の「日本鋳工史稿」を見ると、ここ浄栄寺の1口(こう)のみしか記載されていない。この史料では「兼良」となっているが、先の現物の線刻によれば「兼長」が正解だ。「良」と「長」の文字は、どことなく似ているが、そんな取り違えであろう。

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また、史料にはもう1つ間違いがある。兼長の作例はもう1つ現存していて、香取は、「牛込馬場下 亀鶴山易行院(誓閑寺) 鐘 天和二壬戌歳(1682)二月五日」と記載した梵鐘を、後述の「西嶋伊賀守 藤原正重」の作例としているが、これは間違いだ。誓閑寺は、新宿区喜久井町にあるが、寛永7年(1630)に易行院と称して草創している。

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現物は、「御鋳物師 天下一 西嶋伊賀作 藤原兼長」という刻銘なのだ。総高138cm、口径79cmで区内最古の梵鐘だが、区指定の登録有形文化財となっている。東京名所図会には、「鐘胴の處々に六字の法號を鋳出し」と書かれているが、画像の右側に見える「南無阿弥陀佛」とゴージャスに囲い込んで彫られた文字の事だ。

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●香取は、この「天下一」についてこう解説している。「当時にありては、鏡師は多く天下一を称す。或いは鏡師にはあらざるか。・・家系を飾り、作品にまで其の称号を鋳たるにはあらざるか」と。それ以前には、戦国武将の織田信長は、傘下の名工名匠に「天下一」という称号を与えている。

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後の「徳川禁令考 巻四十八粧飾器翫」の条には、「天和二戌年(1682)七月、諸事に天下一之字用ひ候儀停止」の布令があった事も紹介し、「当時各々吾勝ちに優勝者めかして、彫刻、鋳物等に天下一の称を冠りて、其弊止まる処なければ、欺く停止の令を発せるものか」としているが、時期的に推せば、易行院の銘の「天下一」が発令の発端かも知れない。

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前8項では、港区赤坂の笑柳山報土寺の、相撲取りの雷電が寄進した梵鐘銘に、「天下無双」と刻んだことが問題視され、住職共々江戸処払いになっている例を見たが、天下様は将軍様であり、「天下」という2文字の使用は、はばからなければならない時代だったのだ。

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●一方、史料には「西嶋伊賀守 藤原正重」の名前が2ケ所で登場している。1例目は「信濃国松本 正行寺鐘 元禄三庚午(1690)五月十五日 西嶋伊賀守」銘だが、この銅鐘の存在は確認できていない。「伊賀守」に続くべき「藤原〇〇」が不明だが、香取は「正重」の項で紹介している。

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2例目は「牛込郷戸塚 禅英山宝泉寺鐘 正徳元辛卯(1711)天七月吉日」だが、この銅鐘は現存している。新宿区西早稲田に在する天台宗の宝泉寺は、弘仁元年(810)に草創した約1.200年の歴史を持つ寺で、富くじ発祥の寺とも言う。かつては、すぐ近くの早稲田大学の敷地の大部分が寺領であった。

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区の登録有形文化財の銅鐘は、総高136cm、口径79cmで、現物に刻まれたその銘は、「江戸鋳物師 西嶋伊賀守 藤原正重」だ。史料では、「重正」となっているが、これは誤記だ。戦時の金属供出(前3項)を逃れたのは、鐘身に遺る貴重な寺歴の書き込みであったろうか、あるいは撞座の真上に鋳出された仏像や、池の間の梵字、キリーク文字(前47項など)の存在であったろうか。

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●香取の添え書きに、「(兼長は)天下一正重の子か、或いは別家か」とあるが、先に指摘した間違いを考慮すれば、「(正重は)天下一兼長の子か、或いは別家か」となろう。しかしこれだけでは、兼長と正重のつながりは判然としない。

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ここに登場した4例の鋳造年は、1682年から1711年という30年足らずの期間内だ。また、「新宿区喜久井町・誓閑寺」と「新宿区市谷薬王寺町・浄栄寺」と「新宿区西早稲田・宝泉寺」の地図上での位置関係はかなり近しく、半径1km強ほどの範囲内でしかない。2人の主なテリトリーだろう。

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●あるいは西嶋家の両者は、「藤原姓(前13項)」を名乗っている。これは、京都の真継家傘下(前40項)の勅許鋳物師であるという意味合いであろう。さらに同じ国名(前99項)の「伊賀守」を冠している。これは、朝廷などから、真継家を通じ金銭のやり取りを経て得た称号だ。江戸時代に入ると形骸化しているが、鋳物師ら特殊技能を持つ職人にとっては、自分が由緒ある立場にいるというステータスの誇示であった。

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国名をその子や子孫がそのまま名乗る時には、相続するという継ぎ目伺いを真継家に願い出る必要があったが、これは真継家の収入源でもあったのだ。この様な事からも、香取が「子か、或いは別家か」と言う通り、正重と兼長は親子か兄弟など、近しい縁戚関係であったろうと思われる。

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●西嶋家のことをもう少し記述しておこう。現存はしないが、千代田区・神田神社(前10項)の龍紋銅洗盤(天明2年・1782・前31項後109項など)には80余名もの東都鋳物師や工人、世話人の名があったという。さながら当時の「鋳物師一覧表」であり、当時の業況を知る上で、香取は「頗る(すこぶる)快事」と表現している。
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この中に「西嶋藤吉 西嶋喜八」、そして香取が、「西嶋伊賀の後か」、つまり後継者かと疑問視する「西嶋喜兵衛」の名がある。貴重な刻みだ。正徳元年(1711)の宝泉寺鐘のあと、少なくとも70年ほどは続いた鋳物師の家系であったようだが、現況は不明だ。

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●続いてだが、都内葛飾区東金町に、通称「松浦(まつら)の鐘」がある。この梵鐘は、旧小合村の領主、松浦河内守信正が、宝暦7年(1757)に菩提寺の龍蔵寺に奉納したものだ。銅鐘は、明治維新時(前63項)に廃寺となってからは明治時代の廃仏毀釈で村有となっている。

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郷土の著名人の来歴を明らかにする銘文が存在するという事もあり、戦時の金属供出(前3項)も逃れ、今は区指定の有形文化財(昭和52年)として、水元公園の真南側の水元さくら堤の歩道上に、鐘楼塔を誂えられ現存する。

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●松浦氏は下小合村の領主として数代続いた幕臣だ。信正は元禄6年(1693)の生まれで、駿府町奉行、大阪町奉行、勘定奉行を歴任、寛延元年(1748)6月、長崎奉行の要職に抜擢されている。長崎在勤中、納米について幕府へ偽りの報告をした罪で閉門を命ぜられ小普請入りとなり、明和6年(1769)に76才で生涯を閉じている。

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説明板によれば、総高121.4cm、口径68.5cmで、撞座の上の中央部4個所に梵字、キリーク(前47項)があり、信正の没年に、遠江国宝泉寺の住職、勝東州の撰による銘文が追刻されている。摩耗も激しく現物での陰刻を確認できなかったが、作者銘は、下野(栃木県)佐野の鋳物師、「利右衛門」という。

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●苗字が不明なようだが、文政11年(1828)から嘉永5年(1852)の「諸国鋳物師名寄記」には、「正田利右衛門」の名が記載されている。下野の鋳物師であればこの人に違いあるまいが、この人は真継家(前40項)傘下の勅許鋳物師だ。正田家に関しては、前66項前97項後129項などで解析している。

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一方、昭和3年(1928)6月の川口商工便覧の「川口鋳物の開祖」の項には、「大川利右衛門」の紹介がなされている。大川家に関しては、前108項で詳細に解析しているが、苗字が不明であるならば、この鋳物師である可能性も精査すべきであろう。

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●横浜市金沢区富岡東に富岡神社がある。ウィキペディアによれば、建久年間(1190~)に、源頼朝が摂津国難波の蛭子神を勧請して創建、安貞年間(1227~)に八幡神が合祀されている。八幡宮の山が応長の大津波から富岡地区を守ったことから「波除八幡」の別名を持つという。

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社務所に置かれているのは、湯釜神事で使われた羽釜だろうか。湯立神事などとも言われ、作法も様々なようだが、沸かした湯で神輿や社殿を祓い、参拝者に振り掛け無病息災などを祈るという。その起源は、火傷裁判の湯起請や火起請であろうか。

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この裁判は、沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うという信じ難いものだ。表面には「奉納 富岡神社」と陽鋳造され、「嘉永三庚戌年(1850)八月吉祥日」と陰刻されている。

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●並んで、口径2尺、総高112.3cmの梵鐘が置かれている。作者は判然としないが、「明暦貮(2)年丙申(1656)霜月吉日」と刻まれている。願主の家老や代官、名主の名が見られるが、その領主は、「武州久良岐郡富岡村 朝臣 八木但馬守宗直(慶長8年・1603~寛文5年・1666)」だ。

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八木は江戸幕府初期の4千石の旗本で、2代将軍徳川秀忠に仕え、第9代の山田奉行を歴任している。子の高豊と共に、「武運長久 子孫繁栄」を願っての奉納であったが、化政期(1804~)に編まれた武蔵国の地誌の「新編武蔵風土記稿」にもその旨の記載がある。数々の災禍を、戦時の金属供出を逃れ、360年もの長い時を経て、今なお同じ場所に現存するのはほぼ奇跡と言って良かろう。

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●西武池袋線吾野駅の駅前、埼玉県飯能市坂石町分に補陀山法光寺はある。池袋からは、1時間20分ほどの位置で、至徳3年(1386)に開眼したという延命地蔵菩薩を本尊としている。ここに、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の曹洞宗、龍雲山東禅寺の梵鐘2口が、何故か、平成23年10月から置かれていたが、山門にはその旨の立て看板も掲げられている。

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天正年間の1580年代に創建したという東禅寺だが、東北の仙台市南側の海沿い、名取川の河口に位置する。平成23年(2011)3月11日、東日本大震災で津波の直撃を受け寺は全壊、先代の三宅住職夫妻や檀信徒約235人が犠牲になっている。

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法光寺の駐車場で下の写真が掲示されていたが、高さ8mという津波は凄まじく、梵鐘は、3ケ月後に50m離れた瓦礫の中から見つかっている。自然の猛威の前では、人類の人知など無力というほかないが、2口が、ほぼ同じ場所で仲良く横たわっていたというのは、何かの導きとも言えようか。

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●丁度、電車の窓からも見える場所だが、法光寺ではその2口が、撞き棒を東禅寺の方角へ向け、それぞれが仮設の三脚に提げられている。被災地では保管場所がなく、スクラップ処理されてしまう恐れがあったため、駒沢大の宗教学部の同期であった大野住職がこれを預かったのだ。私も心ばかりほどを義捐し打鐘し、再興を祈念させていただいた。

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向かって右側の梵鐘は、「為有縁無縁 三界萬霊等」としての奉納で、総高1.3mほどだ。「南無本師釋迦牟尼佛」と陽鋳造された撞座のある縦帯を線対称として、草の間では龍が対向し、その上の池の間ではやはり対向した天女が、太鼓を敲き笛を吹き悠々と舞っている。108個の乳の形状も1つ1つが精緻で手抜かりはない。

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●しかし、この乳の間を拡大してみると、乳1個が欠損している。他所にも損傷が見られるが、津波で流された際の傷跡であろうと思われる。図らずも、大震災の悪夢を語り継ぐ物証となったようだ。

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「宮城県名取市閖上 龍雲山東禅寺 願主廿三世(23世) 大賢俊昭」の時世の、「昭和53年(1978)11月吉日」の鋳造であったが、作者は、「高岡市 鋳物師 老子次右エ(衛)門(前8項など)」だ。この鐘は、東禅寺が平成29年(2017)12月に再建されたことから、同30年6月7日、預かってから約7年ぶりに里帰りしている。なお、ここ法光寺に備わっている天水桶1対も、同氏の手によっている。

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●もう1口は、少し小ぶりで肩が張ったイメージの鐘だ。「為戦死病歿(没) 諸英霊菩提」供養での奉納で、多くの寄付者名がその金額とともに陰刻されていて、「檀信協力 梵鐘鋳成」、「萬民福来 国土太平」となっている。やはり、23世の時世の「昭和43年(1968)8月吉祥日」の造立で、作者名の線刻は、「山形市銅町 鋳匠 鈴木綱一(前27項前59項)」であった。

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こちらの鐘は、毎年3月に飯能市内で開かれる、被災地の物産品販売の「震災復興元気市」で親しまれてきた事から、2021年まで同地に残されるという。元気市は今年で7回目を数え、よさこいなどの演舞の披露、東北の人々の出店などで賑わっている。両地が深い縁で繋がったようだが、その元気市のパンフの中で、東禅寺住職の三宅俊乗氏は、「衷心よりの感謝」を申し述べ、そして「九拝」で結んでいる。

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●ここ法光寺本来の梵鐘は、人間国宝であった、香取正彦(前88項)の作だ。肩幅が狭く、そのまま下へストーンと流れ広がっていくフォルムで、スリム感がある。池の間や草の間、縦帯という区割りの無い鐘身に「南無大慈大悲観世音菩薩」とあり、「昭和43年(1968)6月再鋳 23世 大光文乗」の時世で、「鋳匠 香取正彦」と鋳出されている。

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●遠く離れるが、滋賀県といえば琵琶湖だ。この日本最大の湖は、県の面積のほとんどを占めているかの様なイメージだが、6分の1だという。南端から始まる瀬田川は、宇治川、淀川と名を変え、瀬戸内海の大阪湾へ至っている。かつて舟運依存度が高い時代、このルートで日本海側の物資が最速でもたらされたのが、この地域の繁栄の理由だ。

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湖の南側の大津市が県庁所在地だが、その近くの大津市中央に大津別院がある。慶長5年(1600)、江戸時代初期までを生きた浄土真宗の僧で、東本願寺第12代法主の教如上人が敷地を拝領し創建している。慶安2年(1649)築造の本堂は、重要文化財だ。

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●鐘楼塔に掛かる梵鐘は、「安永三甲午歳(1774)中秋月」製だが、ごくスタンダードな和鐘だ。鐘身の紐(ちゅう)という隆起した縦横の帯で、いくつかの区画に分割されているが、「本願寺大津御坊」とあるだけで、文字情報は少ない。

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年月の左側に、鋳造者の線刻がある。「冶工 江州栗東郡辻村住 高谷忠兵衛掾政次」だ。辻村は大津の北東側に位置するが、直線距離にして、わずか15kmしか離れていない。かつて辻村からは、多くの鋳物師が出職によって各地に散らばっているのを、前17項前35項で見てきた。

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●文政11年(1828)から嘉永5年(1852)の「諸国鋳物師名寄記」を見ても、「越後新潟へ出職 丹後田辺へ出職」などと付記されていて、特殊な土地柄なのだ。そんな中、高谷家はこの地に留まって活動した鋳物師であったようで、明治初期の人名録にもその名を残している。

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今に遺る作としては、栗東市阿弥陀寺の旧善勝寺梵鐘、滋賀県長浜市五村別院の宝暦4年(1754)の梵鐘などがある。その銘は、「冶工 高谷忠兵衛尉 藤原政次」となっているが、高谷家は藤原姓を賜った、真継家(前40項)傘下の勅許鋳物師であった。

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●次に、大津市坂本本町の比叡山延暦寺の巨鐘を見てみよう。琵琶湖南端の西側、京都府との境目に位置している。標高848mの比叡山全域を境内としていて、平安期の僧・最澄(767~822)が開いた天台宗の本山寺院だ。広大な敷地で、東塔、西塔、横川、そして岐阜県中津川市の神坂(みさか)には、飛び地境内もある。画像は、東塔の大講堂だ。

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ここと関東地方と縁深いのは、慈眼大師、天海大僧正(1536~1643)だが、107才没という高僧だ。境内にあったイラスト板の文章を書き出しておこう。「比叡山の僧にして徳川家康公の信任厚く、黒衣の宰相として知られる。比叡山を振り出しに全国を修行して歩き、後、武田信玄の帰依も受け比叡山に登った時、石田三成の挙兵を知り、神田薬師堂で護国の祈祷を修して家康公の信頼を得た話は有名。

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また、家康公に山王一実新道を説き諸法度を下すのに参与し、後の秀忠、家光と三代の将軍について幕政に参画、政権確立に貢献した。日光山を与えられこの造営に尽くし、晩年上野の東叡山寛永寺(前13項)の開山となり、国家安泰を祈ったことはよく知られている。」

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●ここには「開運の鐘」と題された巨鐘がある。縦帯には、「南無阿弥陀如来 南無釈迦牟尼如来 南無大師瑠璃光如来」、「比叡山大講堂」と鋳出されていて、下部の駒の爪の口径は、1.8mもある。総高の測定は出来なかったが、人の背丈に比せばその大きさが推し量れる。重量は1.200貫目というから、実に4.5トンだ。銅鐘は、平安遷都1.200年記念でもあったから、その数字に由来しているのだろう。

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乳の間には35個、帯の最上部に2個の乳があるが、これが4面なので、合計148個もある。「平成3年(1991)9月吉祥日 第253世座主 山田恵諦(えたい)」の時世で、名の下に花押も記されている。20年に渡って座主を務めているが、昭和62年(1987)には、比叡山開創1.200年を記念して比叡山宗教サミットを主催、平成6年2月22日、98才で寂している。

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願主は、「佐川急便グループ 会長 佐川清」で、作者は「鋳匠 京都 岩澤徹誠(前92項)」だが、京都市右京区太秦唐渡町にある会社だ。上の画像は鐘身の表面で、下は内側面だが、岩澤はなぜか表裏の2ケ所に名を残したようだ。

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●琵琶湖の最南端、大津市役所の真南の園城寺町に長等山園城寺(おんじょうじ)がある。天台寺門宗の総本山だが、この宗祖は総本山延暦寺の第5代座主、智証大師円珍(814~891)だ。国宝で秘仏の日本三不動の1つという黄不動尊仏画を保持しているが、これは円珍が感得した像という。画像は、墨書によれば、宝徳3年(1451)の建立という重文の仁王門。

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次の画像は金堂と呼ばれる国宝の総本堂で、慶長4年(1599)、豊臣秀吉の正室、高台院おねが再建している。ここに安置されているのが、第38代天智天皇(626~)の念持仏とも言われる弥勒菩薩の本尊だ。園城寺は、三井寺(みいでら)と呼ばれるのが一般的だが、その理由がこの本堂の左脇で判る。

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画像は「閼伽井屋(あかいや)」で、小さく目立たないが、園城寺を最も象徴する建屋と言える。仏を供養する霊泉を汲む井戸だが、説明書きがある。ここは、大津京を造営した天智天皇ゆかりの寺として7世紀に創建されているが、後の天武、持統天皇の3人がこの井戸水を産湯に使ったことから、「御井寺」と呼ばれるようになり、それがさらに「三井寺」という呼び名に転じたという。

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●寺域の南側、琵琶湖を望む高台には、西国三十三所観音霊場の第14番札所の観音堂がある。本尊は平安期の如意輪観音坐像だが、一面六臂の像容で、寄木造、彫眼、漆箔像という。正堂は貞享3年(1686)に火災にあい、棟札によれば、3年後の元禄2年に再建されているが、奉納絵馬には、その様子を描いた「石突きの図」や「落慶図」も残されている。

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堂宇前に、菊座の中に橘紋を据えられた1対の青銅製の天水桶が置かれている。「奉寄進」は、「昭和53年(1978)11月15日 かもめプロペラ株式会社」だ。同社は大正13年(1924)9月の操業で、横浜市戸塚区に本社を置くが、船舶の優れた操作性と経済性を実現するという「かもめ可変ピッチプロペラ」で、世界トップクラスのステータスを築いている。

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創業地の東京・砂町は、東京湾に注ぐ隅田川の河口にあったが、豊漁のシンボルである、かもめが飛び交う地であったという。現在の社長は板澤宏氏だが、桶には、「観音寺 住職 板澤俊夫」と鋳出されている。同姓だが、関係する一族の方であろうか。

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●さて、総本堂のそばには霊鐘堂があり、「伝説の名鐘 弁慶鐘 引摺り鐘」なる看板が見える。無銘だが、8世紀の奈良時代に遡る、日本でも有数の古鐘で重要文化財という。口径123.2cm、総高199cmで、重量は600貫、2.25トンと説明されている。

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伝承ではこの鐘は、承平年間(931~)に、田原藤太こと武将の藤原秀郷が、近江国三上山(滋賀県野州市)、愛称近江富士のムカデ退治の功のお礼に、琵琶湖の龍神から授かり三井寺に寄進した霊鐘だと言われる。

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ムカデはこの山を7巻き半巻いて、瀬田の橋へ頭を出したといい、引き伸ばすと10里もあったという。古典落語「矢橋船」では、「三上山を7巻き半と聞けばすごいが、実は8巻き(鉢巻)にちょっと足りない」と洒落ているが、有り得ない大きさであり正に怪物だが、作り話の域を出ない。

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三井寺で3世紀に亘り撞かれていた鐘であったが、やがて同じ天台宗の本山同士の座主の争いが起こり、ここで荒法師弁慶(文治5年・1189頃没)が登場する。弁慶は、紀州熊野の別当職弁戒の息子で、播州書写山で修行、比叡山西塔の弁慶坊の僧侶であった。この山門比叡山と寺門三井寺の争いに際し弁慶は、三井寺焼討ちの先鋒として梵鐘を奪い、1人で引き摺り、比叡山の大講堂に吊るしたという。

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●大変な怪力だが、下のイラストは、比叡山の境内で見られる。大の男なら、整地された平地なら、重い乗用車に紐をつけて引っ張れそうだ。摩擦を大きく軽減する車輪があるからで、コロの原理だ。しかし荒れた斜面で、台車を伴わない2トン強もの銅塊を1人で動かすのは実際不可能だろう。

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現在、鐘身に見られる摺り傷や割れは、その時、山や谷を3里半も引き摺った痕跡だという。鐘が載る展示の架台には、「幾多の災厄を乗り越えてきた霊鐘です。武蔵坊弁慶のように困難に立ち向かい、未来への勇気を授かるとされています」と添えられている。

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●しかし、なぜ梵鐘の強奪なのだろうか。こんな事例があったようだ。正治元年(1199)頃、奈良県の法相宗の大本山興福寺の僧兵が、かねてから対立していた聖徳宗の総本山法隆寺に乱入、浴堂の湯釜を奪ったが、法隆寺側も応戦しこれを取り返した騒動があったという。

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湯釜が、施浴として必要な寺の大切な什物であったために、強奪の目標になったのだ。同じく梵鐘も、どうしても守らなければならない寺の教義であり、檀家の願念の象徴であり、門外持ち出しなど許されない檀徒の什宝なのだ。(前53項参照)

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●さて、比叡山に吊るされた鐘を撞いてみると、「イノー、イノー(帰りたいよう、の意味という)」と鳴ったので、弁慶が、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と怒って谷底へ投げ捨てたという。今見られるヒビ割れもこの時のものらしい。次の絵は、建屋内で見た「近江名所図会(1814刊)」の一幕だ。

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その後、何年もの間、捨て置かれた鐘は、和解後に三井寺に戻されたという。損壊した梵鐘が良音を響かせるはずも無く、法印定円は、「さざ浪や 三井の古寺 鐘はあれど 昔にかえる 音は聞こえず」と詠んでいる。定円は、寛元年間(1243~)に、仏法を説いて衆生を導く語りものである三井寺流の唱導を興している。

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●弁慶の没年などから考えても辻褄が合わない事も多いが、ウィキペディアによれば、歴史的には、この霊鐘は文永元年(1264)の比叡山による三井寺焼討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようだという。

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3世紀に亘る打撞跡とも言えようが、撞座はすっかり摩滅している。表面に見られる多数の気泡の様なアバタは、焼討ちの際の火炎熱による溶解跡であろう。「弁慶が引き摺った」だけでは説明がつかない焼きただれた痕跡だ。

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木造製の鐘楼塔に掛かっていた銅鐘が炎に煽られ、完全に溶解してしまう前に竜頭が外れ落下、勢いで谷を転げ落ちていったのではなかろうか。溶けかかった金属塊が滑り落ちれば、擦り傷も付き易かろう。

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●ヒビ割れはどう理解しようか。弁慶1人では無理にしても、長い距離を大勢で引き摺り廻したとしよう。でもそれだけでは、割れるほどの衝撃にはなるまい。それなりの斜面を転げ落ち、大きくバウンドし、かなりの外圧が加わった結果ではあるまいか。

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これは、現物の症状を見た素直な私見だ。そのまま谷底で長い間忘れ去られ、そして発見されたのであろうから、怪力無双の弁慶絡みの伝説が生じても何ら不思議ではない。何だこの引き摺り痕は?凄い力だ。怪力?まさか弁慶か?なのだろう。

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また、弁慶とは縁深いようで、欠損してはいるが、並列して「弁慶の汁鍋」が展示されている。先の近江名所図会にも使用されている様子が描かれているが、口径1.67m、重さ450Kgで3段に鋳継ぎされた鋳鉄鍋だ。寺伝では、「武蔵坊弁慶が所持していた大鍋で、三井寺の大鐘を奪い取った時に残していったもの」という。

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●そして三井寺2代目の梵鐘が、近江八景の1つでも知られる「三井の晩鐘」で、上述の弁慶の鐘を模して造られたともいう。環境庁の「残したい日本の音風景100選(前65項など)」でもあり、京都府宇治市・姿形の平等院鐘、同右京区高雄・銘の神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられ、天保5年(1834)の歌川広重の近江八景之内にも描かれている。

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版画には、「思うその 暁ちぎる 始めぞと まづ聞く三井の 入相の鐘」と詠まれている。入相は、日が山の端に入る頃という意味だから、晩鐘なのだ。特に音色に優れていると言われるが、鐘の音が背景の長等山に反射し、琵琶湖面へと吸い込まれていく絶好の立地条件に因るという、科学的な根拠があるらしい。

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この詩を詠んだ近衛政家(永正2年・1505没)は、戦国時代前期にかけての公家で、関白や太政大臣を務めているが、一説には、近江八景の発案にも関わったとされる。藤原摂関家の嫡流である近衛家の第13代当主であったが、この一族からは、多くの長吏(ちょうり)を輩出している。長吏は、三井寺を代表する僧で、管長、別当のことだ。

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●この鐘は、暮れ六つの鐘として時を告げ、大晦日には、先の田原藤太の、琵琶湖の龍神伝説に由来する除夜の鐘の行事も行われている。有り難いことに、冥加料300円で誰もが打鐘できるが、「一打鐘声 当願衆生 断三界苦 得見菩提」であり、つまり、鐘の響きを聞く人は、災厄を逃れ、速やかに楽土に至るという。

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梵鐘は、口径123.6cm、総高208.6cm、600貫(2.25トン)で、県の指定有形文化財だが、「于時(うじ=時は・前28項)慶長七年(1602)壬寅(みずのえとら) 盂夏廿一(21)日」銘の鋳造となっている。

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●「夫当寺之梵鐘者 昔田原藤太秀郷得龍神 請得之龍宮 其後安置於当寺・・」と、先の龍神伝説などの由来が漢文調で刻まれているが、「長等山園城寺 長吏准三宮(じゅさんぐう=朝廷からの称号) 道澄 誌焉(ここに記す)」とあり、文面を草したのが、慶長期の三井寺中興の立役者ともされる道澄であることが知れる。

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また道澄は、「願此鐘声超法界 鉄囲幽暗悉皆聞 聞塵清浄証円通 一切衆生成正覚」とも記しているが、「この鐘の音が、途絶えることなく宇宙の隅々にまで響き渡り、人々から煩悩を打ち払い、幸福をもたらす梵音として世の中が明るく清らかになるように願いを込めて造立されたことが判る。」これは説明板からの転記だが、実際に陰刻されている。

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●鐘の作者は、「摂刕(州)住吉住 大工 杦本出雲守宗次」と左下に陰刻されている。大工は鋳造業者を意味し、杦本個人の詳細は不明ながら、朝廷や寺院が出入り業者に名乗ることを許した国名(前99項)を受領している事からして、御用達鋳物師であったろう。

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摂津国は、日本の令制国の1つで、現在の大阪府北中部の大半にあたる。かつては大阪市住吉郡が存在し、今の住吉区には摂津国一宮の住吉大社が鎮座するが、この地で活躍した鋳物師であったに違いない。

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ここまで数々の梵鐘を見てきた。悠久なる時の流れを感じさせる摩滅した撞座を持つ鐘、災禍や戦時の金属供出を逃れ奇跡的に現存する鐘。刻まれた奉納者名や鋳造者名が語る来歴や、刻銘から知れる寺伝。鐘身に残された損壊が自然の猛威を伝承し、摺り傷が伝説を生んでいる。我々はこれらの貴重な文化財を、必ず、後世に伝え遺さなければならない。つづく。