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●いつの間にか、40項目を迎えた。天水桶についての考察が、ここまで継続するとは思いもよらなかったが、天水桶や川口鋳物師らとの出会いが続く限り項が立つ訳で、今はエピローグが見えない。

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それにしてもこの時期はうだるように暑い。辞書によれば、「うだる」は、「茹る(ゆだる)」の転形で、「湯で十分熱せられる」の意味のようだが、言い得て妙、正に茹で上がってしまいそうだ。近くのコンビニまで出向くのでさえ、はばかられる始末である。まして散策となると、体調への悪害は必至だ。この時期は車で移動して、桶との出会いを楽しむしかあるまい。

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どうせだから、鉄道網が疎な地域を周ってみようという事にしている訳で、ランダムにアップしてみる。江戸川区西一之江の真言宗豊山派の長慶山寿命院円福寺は、賢明法印(天文19年・1550年寂)が開山し、大永2年(1522)に創建されている。本尊の木造延命地蔵菩薩座像は、室町期の了運上人作と伝わるが秘仏だという。

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堂宇前に、ハスの花のイメージであろう、コンクリート製とおぼしき天水桶がある。下部は花弁の表現だが、奇抜な形状で注目する1対だ。上向きに開いているので、これは「受花」といわれる形状だ。反対に下側へ末広がりに開いた蓮弁を「反花(後51項)」といい、これは最盛時の満開の状態を示すものと言われる。

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●さいたま市岩槻区尾ヶ崎にある、曹洞宗日峰山光秀寺は、永禄7年(1564)に開創されているが、江戸期には、寺領3石を賜った朱印寺であった。朱印寺とは、世界大百科事典・第2版の解説によれば、「朱印寺社領ともいう。江戸時代において、将軍の朱印状によって領有を認められた寺社の領地、および朱印状によって租税免除の特権を与えられた寺社の所持地をいう。

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前者は寺社の知行地で、寺社は封建領主(地頭)としての支配権(領知権)を行使したが、その内容は租税徴収権とそれに付随するごく軽微な行政権にすぎなかった。これに対して後者は、寺社が持主(地主)として所持する土地であり、領主に対する租税を朱印状によって免ぜられていたのである」とある。

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●また、日本大百科全書の解説では、「近世期、豊臣氏や徳川歴代将軍の朱印状によって領有が保証された土地をいうが、その多くは寺社朱印地である。朱印地を与えられた寺社の数は、4代将軍家綱までは増加傾向にあるが、その後はほとんど固定して、朱印地をもつことが寺社の1つの格式を示すようになる。

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朱印地石高の大きい場合、寺社は領主として代官などを置いて寺社領農民から年貢・諸役を徴収するなど直接の領有をするが、朱印地石高の小さい場合は、その地域の支配領主から朱印地高の年貢・課役を免除される形となる」とある。

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●ここに、蓮花形の青銅製桶が1対あるが、ちょっと洒落ている。「平成9年(1997)8月吉日」建立だが、作者は不明。最下部には花托があり、そそり立つような葉は枚数も多いが、ハス葉のイメージだ。現在の本堂は、27世隆光大和尚の代に、10年の歳月をかけ平成9年に新築されているが、それを記念しての奉納だろう。

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下方から伸びている、アクセントとしての蓮華のつぼみが目を引くのだ。多くの天水桶を見てきたが他に類がなく、実に微笑ましくて愛嬌がある天水桶ではないか。

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●同じく、さいたま市岩槻区釣上(かぎあげ)にある、曹洞宗医王山玉泉寺の青銅製天水桶は、富山県高岡市の仏具メーカーの名匠、老子氏作だ(前8項)。薬師如来を本尊とし、慶長2年(1597)に没した玉泉心泰が開山したといい、境内地には、寛文4年(1664)銘の寒念仏供養塔や、寛文12年(1672)銘の庚申塔などがある。

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大きさは口径Φ760、高さは820ミリと小さ目の天水桶だが、遠くからでも老子製と判るのは、地肌が美しい梨地調だからだ。紋章は「五七の桐」をアレンジした「五三の桐」で、後醍醐天皇が足利尊氏に下賜したことで知られるが、皇室の副紋であるから高貴な紋だ。後50項後98項では、この紋章に関して詳しく解説している。

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作者の鋳出し文字もかなり細か目だが、はっきりとした輪郭だ。それなりのこだわりがあるに違いない。「平成11年(1999)3月吉日」に檀家が寄進しているが、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」銘の1対だ。

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●江戸川区一之江の日蓮宗、利栄山善学院長勝寺にも同氏作の天水桶があった。説明板によれば、天正11年(1583)の創建で、本尊には一尊四士と鬼子母神を祀り、境内には「浄行菩薩」の像がある。菩薩像には皮膚病などにご利益があり、亀の子タワシで洗って祈願する人が多いという。画像は本堂で、蓮華形の天水桶が1対見える。

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下の画像は境内の鬼子母神堂だが、ここは、江戸三大鬼子母神の1つという千葉県市川市中山の正中山法華経寺(後55項)の末寺だ。諸説ある中、三大のあとの2ケ所は、台東区下谷の入谷鬼子母神の佛立山真源寺(後128項)、豊島区雑司ケ谷の法明寺境外堂の鬼子母神堂(前2項)を指すようだ。

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ここにも1対の天水桶があるが、正面の紋章は柘榴(ざくろ)の実の意匠だ。柘榴には、たくさんの小さな実が詰まっているが、そこに子孫繁栄を当てはめ縁起のよい果物とされている。

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●よって境内には、2対計4基の天水桶があるが、壮観な光景だ。全てが「昭和51年(1976)11月吉日」の建立で、青銅製だ。「先祖代々菩薩」供養での奉納で、「願主 智光院日乾(26世)」の時世であった。本堂前の1対の大きさは口径Φ1.080、高さは1.050ミリで、鬼子母神堂前の1対はそれよりも少し小ぶりとなっている。

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葉脈がクッキリとデザインされているが、その合間に、鋳造者銘として、「鋳造 老子製作所」、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」と鋳出されている。なお鐘楼塔に掛かる梵鐘も、「昭和50年(1975)2月吉日」、「梵鐘鋳造 高岡 老子製作所」銘だ。

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●江戸川区江戸川の鎮守の二之江神社には、「東京府南千住町 鋳造人 清水栄三郎 明治41年(1908)5月」という鋳鉄製の天水桶が1対ある。朱色の塗装が映えていて、小さい社殿を引き立てている。ここは、経津主命を祭神としているが、区の掲示によれば、旧二之江村の鎮守で村社だった香取神社と、寛文年間(1661~)創建の八幡神社(旧妙勝寺境内三十番神)を昭和42年(1967)12月に合併、二之江神社としたという。

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社務所の脇にも全く同じものが2基あって、計2対4基を鋳造したようだが、現在は営業していないのだろうか、この鋳造人の詳細は判らない。ところで、明治時代の東京の工業界の状況はどうであったのだろう。「東京鋳物史考」によれば、当初幕営であった各工場は、維新後に官営企業として拡充している。さらに民間工場の増加につれ、鋳造工場の開業も増えていったという。

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明治19年(1886)10月、浅草廣栄堂発行の「東京鋳物職一覧鑑」には、青銅で神仏具や工芸品を作る人77人、鋳鉄製の日用品や機械鋳物を作る人23人の名前が記されている。「神田区」の欄には「清水平吉」、「本所区」では「清水新三郎」の名が見られるが、鋳造者の「清水栄三郎」は、何らかの関わりがあるのかも知れない。

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●台東区谷中には、寛永7年(1630)に創建した日蓮宗、寂静山蓮華寺があるが、古来より虫封の寺として、また赤門寺としても有名だ。境内の掲示によれば、ここの赤門は、明暦、元禄の大火、上野戦争などの災害を免れたもので建築様式は貴重なものだと言う。説明によれば、「現在の本堂等は、江戸文政年頃(1818~)、大檀越の勘定奉行、細田丹波守時敏の寄進せられた貴重なる建造物であり、老朽の美を表している」という。

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「明暦の大火(前22項後83項)」と言えば、江戸城天守をはじめ、府内の大半を焼きつくした1657年の大火事であったが、それをも逃れたという訳で、今に見られるこの天水桶の存在も貴重であるに違いない。

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●境内の植え込みの中に、口径1.050、高さ780ミリの1基の鋳鉄製天水桶がある。 「文政五年壬午(1822)十一月吉辰 川口九兵衛」作だが、この人は川口鋳物師の永瀬源内だ。「九兵衛(後82項)」の鋳出し文字に出会ったのは、墨田区向島の三囲神社(前16項)に続き2例目で、そこのは同年5月作であった。

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正面には卍紋が見えるが、別鋳造の踊り出さんばかりのイノシシの飾りには、結構な厚みがある。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」によれば、「文政5年(1822)11月吉辰」という同年同月鋳造の桶が、台東区上野の妙宣山徳大寺宛で記録されている。1基が被災のためここ蓮華寺に移されたともいうが、もう1基の所在は不明で、焼失したのかも知れないが、このイノシシは互いに向き合うように意匠されていたに違いない。

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ここのこの天水桶は、JR京浜東北線の御徒町駅からも見える、アメ横商店街内の下谷摩利支天徳大寺のものであったという訳だ。摩利支天の「マリシ」は、威光、陽炎を意味し、仏教を守護する天部の神だ。武士階級の守護神として信仰が広がり、楠木正成や足利尊氏、毛利元就や徳川家康らは、摩利支天の尊像や旗印と共に合戦に出陣したと言われ、忠臣蔵の大石内蔵助も髷の中にその小像を入れ本懐を遂げたという。

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●しかし何とも言えないが、徳大寺へ行ってみると、少し事情が違うような気がしないでもない。現在、堂内には、下の画像の古写真が展示されている。タイトルは、「徳大寺本堂正面」だ。左下に1基の天水桶が半分写り込んでいるが、ここも日蓮宗だから井桁に橘の宗紋が見える。桶上部の額縁の厚みが違うし、卍紋も無いようだから、蓮華寺のものとは明らかに別物の桶だ。

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徳大寺は、関東大震災と昭和の戦災で2度にわたって灰燼に帰しているが、その後、新たな天水桶を鋳造したのかどうかは不明だ。また、古写真がいつの時代なのかも判らないし、なぜ返還されなかったのかという疑問も含めて、移動されたという話はどうもあやふやの様に思えないでもない。なお、本堂正面の扁額の「威光殿」の文字は、元総理大臣・吉田茂の揮毫により、本堂復興記念として寄贈されたものという。

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●一方で、宝永5年(1708)以来ここに祀られている摩利支天像は、聖徳太子の御手彫りと伝わる。「常に日天に先んじて進み、大自在神通の力を以て昼夜の別なく光を放ち、参詣祈願の面々に気力・体力・財力を与え、厄を除き福を招き運を開き、福寿吉祥開運勝利を誓い給いし、諸天善神中、最も霊験顕著なる守護神」であると、寺の冊子に書かれている。

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「頭髪上空に飛揚し、二臂にして右手に利剣を掲げ、左手を開いて前方に掲げ、走猪の上に立たせ給う」という摩利支天は、十二支の亥(猪・イノシシ)が使者であり、その背中に立つという。天水桶に見られたイノシシの飾りは、摩利支天に仕える亥を意味するのかも知れない。だとすれば、イノシシが描かれた蓮華寺に現存する1基は、やはり元々は徳大寺宛てに鋳られた天水桶であったのだろうか。

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●上述と重なるが、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」には、「文政5年(1822)11月 川口九兵衛 水盤(天水桶) 半双 上野徳大寺」という記載がある。「半双」、つまり1基であった事がミソであり、その証左であるかも知れない。

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並んで、「安政2年(1855)正月初亥 鋳物師 忠五郎 水盤(天水桶) 三双 上野徳大寺」ともある。3対6基という数多い量だが、この内の1基が上の写真のものであったのだろうか。忠五郎は、後92項でも登場する名だが、残念ながら情報が少なく、不明な鋳物師だ。

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●なお、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、当サイトに登場しない「九兵衛」の記録があるのでここで記述しておこう。現存しないが、「文政2年(1819)10月 東京都新宿区須賀町 須賀神社 天水鉢1対」で、作者の銘は「九兵衛」だ。須賀神社の創建は寛永11年(1634)で、江戸時代には四谷総鎮守の天王様として信仰を集めたという。

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またここには、製作年は不祥ながら、「正田利右衛門」製という鋳鉄製らしき天水桶があったようだ。利右衛門は、真継家(後述)傘下の勅許鋳物師だ。文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳(増田忠彦蔵)」の「下野安蘇 佐野天明駅」の項には、「安政4年(1857)6月 当家並自分継目」と記載されていて、引き続いての参画を認められている。

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写真はカラーだ。あるいは昭和期の半ば頃まで存在していたのだろうか。もしかすると、今なお格納されていて現存するのかも知れない。なお、正田姓の鋳物師に関しては、後66項後97項後129項などで登場しているので、ご参照いただきたい。

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●さいたま市南区内谷には、真言宗智山派の日輪山大光寺一乗院(後84項)があるが、荘厳な三棟造りの仁王門は、市指定の有形文化財だ。部材に残る墨書からは、明和5年(1768)の建立であり、大工、木挽の名が判明している(市教育委員会掲示による)。本尊を不動明王像(前20項)としていて、北足立八十八ケ所霊場10番、武州足立百不動尊霊場46番となっている。

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この地で違和な天水桶に出会った。鋳鉄製の1対で、大きさは、口径Φ1.080、高さは880ミリだ。センターの紋様は「隅立て井筒」だが、これは井戸枠を象形化したものだ。陽鋳銘は「明治5年(1872)正月吉日」で、「東京深川 御鋳物師 釜屋六右衛門」、通称釜六(前17項)の作となっている。

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何に違和を感じるのか。荒川を超えた北側のこの地は「深川鋳物師」釜六のマーケット圏外ではないのか。だが桶の造立は明治維新後だ、既に自由競争の時代で、もう違和とは言えないのだ。

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●明治維新後、全国の鋳物師達は、元締めの真継家の管理下から離れている。フリーマーケット時代への移行であるが、元締めとはどう言う意味合いなのか。貞享年間(1684)ごろ、戦国時代からの鋳物師達に対する支配を、朝廷の権威を背景にして京都公家の禁裏蔵人所の佐渡守真継家が再組織化した。一部を除き、全国的にである。

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後の安永4年(1775)11月ごろには、弛緩していた支配体制を再整備したい旨、伝奏衆を通じ江戸町奉行に申し出て、認められている。真継家は、「鋳物師職許状(しききょじょう)」の発給を行ったのだ。許状を受けた鋳物師は禁裏御鋳物師と称され、菊紋を使う事、大椽(だいじょう)などの名誉号、山城守などの受領国名(後99項)を名乗ることを許された。あるいは、諸役の免除、諸国往来の特権も認められている。

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「花押(前13項)」の使用も認められたようで、勅許鋳物師と言って差し障りない。「禁裏」とは、みだりにその中に入ることを禁じる意から、天皇を敬って使う語であり、「勅(ちょく)」とは、天皇の言葉や命令という意味だ。

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●例えば次の画像は、天保4年(1833)11月に、川口宿の鋳物師、永瀬夘之七(後68項など)に宛てられた「鋳物師職之事以由緒」という許可状だ。この人は、文政11年(1828)刊の「諸国鋳物師名寄記」にも記載されている、12人の鋳物師の内の1人だ。

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つまり、この許可状を受けると言う事は、お上からの鋳造業営業の許可証交付である。継目認定など、由緒ある鋳物師としての血統証明証であり、マーケット独占の保障証でもあったから、鋳物師達は進んで真継家の支配下に属したのだ。営業上の争論には、朝廷という権力を背景にして真継家が介入してくれた訳で、属さない理由が無い。真継家は、その対価としていくらかの上納金を得ていたのだ。

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明治維新後の資本主義台頭は、イコール自由競争時代の到来である。マーケットは解放されたのだ、真継家の管理下にいる大義が失われた。埼玉県という別天地に、「江戸深川鋳物師」銘の釜六製の天水桶があっても何ら不思議ではないのだ。つづく。