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●久しぶりに台東区浅草近辺を散策してみた。かつて、本龍院待乳山聖天(前8項後89項)に参詣したことはあったが、その境内に見覚えのない天水桶があるのを、ネット上で発見したのだ。画像はかつて確認しアップした、巾着型の珍しい天水桶で、富山県高岡市の佐野清銅器(株)が奉納しているが、それにしても奇抜な形状だ。またもや見とれてしまった。

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今回見た、社殿の横側にあったのは、巾着の絵柄のコンクリート製桶だった。巾着袋は日本独特のものだろうが、金品や手回り品を収納して持ち歩くための袋だ。ここでは、財宝を意味し、商売繁盛を願うものという。

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その真裏、逆サイドには、大根の絵柄の桶。この聖天のシンボルである大根は身体健常、良縁成就、夫婦和合を願うものという。社務所前の樽型の桶も含めて、狭いここの境内には合計3対6基の天水桶があったのだ。うっかり見落としていた。

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●一方これは平成30年(2018)6月の追記だが、同4月に再訪すると、このコンクリート製の天水桶が見事に青銅製の天水桶に更新されていたのだ。シンボルである大根が金色に輝いている。

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こちらは堂宇の反対側だが、台座と石枠も新調されたようだが、口径はΦ1m、高さは1.2mで、陽刻銘によれば、「平成29年(2017)12月吉日 待乳山山王 平田真純代」の時世であった。正面には、ここの象徴たる巾着袋が輝いているが、製作者銘は見られない。

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ネットで検索してみると愛知県岡崎市羽根町小豆坂のムラセ銅器(後111項)によるものと判った。同社のページを訪れると、この写真が掲載されているのだ。寺院仏具や銅像やモニュメントの制作、メンテナンスなどを手掛けているようで、地域柄、徳川家康公の銅像も作っている。

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●見落としていたと言えばここのもそう、中野区新井の梅照院だが、新井薬師といった方が判りやすい。前1項でアップした通り、社殿の裏には、川口鋳物師・山崎甚五兵衛が昭和34年(1959)に鋳造した鋳鉄製の天水桶がある。

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では、社殿前の風景をもう一度見てみよう。右下に写っているのは常香炉だが、3匹の獅子頭が本体を支えている意匠だ。

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「梅鉢紋」の上には、奉納者として「佃一心講」とある。梅照院縁起には、「開基の行春より数代後の住持玄鏡が、天和年間(1681)に手植の梅一株を北野天満宮に献じた」とあるので、その縁に由来する紋であろう。


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開口部はΦ600ミリ、高さは1mほどで、稀有な鋳鉄鋳物製の香炉であるが、これを鋳造したのは、川口鋳物師の「昭和46年(1971)5月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」であった。同人が手掛けた鋳鉄製の香炉は、知る限りこの1基だけであり貴重な存在だ。折角参詣するのだ、今後は見落としの無いよう気を付けよう。

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前57項の千葉県成田市宗吾の鳴鐘山宗吾霊堂では、青銅製の常香炉を見たが、鋳物師山崎は、天水桶に限らず香炉などの法具も多く鋳たようだ。例えば、さいたま市中央区本町西の安養山西念寺円乗院にも、青銅製の香炉がある。鎌倉時代の武将畠山重忠によって創建された古刹だ。

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愛らしい猫脚の1基なのだが、境内の撮影は禁止されているので、鋳出された銘だけを記しておこう。「平成3年(1991)4月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」で、「33世 大僧正 豊純代」の時世に、川口市内の檀家が奉納している。晩年(後述)の作例だが、これまでに多くを見逃したかも知れない。

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●では流れで、山崎甚五兵衛特集としよう。まずは神奈川県から2例。横浜市鶴見区上末吉にある末吉神社だが、同地区の鎮守さまだ。社誌によれば、「昭和31年(1956)に、三島神社、八幡社、梶山神社を合併合祀、末吉神社と改称」とある。一方、神奈川県神社庁は、昭和32年といっているようだ。

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中央には、「末吉神社」とあり、「上末吉共 葬墓地改葬実行委員会」の奉納で鋳鉄製の1対だ。ここは神社であり墓地は見られないようだが、かつては寺院もあったのだろうか。

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浮き出た銘は「昭和45年(1970)初春」の造立で、「川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されている。


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●川崎市高津区諏訪の諏訪山圓能寺明王院は、真言宗智山派で、玉川八十八ケ所霊場の30番目だ。この霊場は多摩川を挟んだ、東京と神奈川に点在する寺院から成っているが、全て真言宗だ。霊場巡りは明治時代末に廃れたが、昭和48年(1973)に、第1番札所の川崎大師平間寺(前24項)が中心となり、札所案内地図が新しく発行されたという。

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1対の鋳鉄製天水桶は、「川崎市二子」の人が奉納している。正面の紋章は、「桔梗」だが、これはかの戦国武将の明智光秀らが使用していて、美濃や飛騨など岐阜地方で多く見られる。植物由来の紋では、三大家紋と言ってよい。

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「昭和40年(1965)1月吉日再建 製作人川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されている。戦時中に金属供出(前3項)したのだろうか、その後「再建」された桶だ。大きさは口径Φ880、高さは890ミリとなっている。

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●大森駅近く、大田区山王の法光山善慶寺は日蓮宗の寺だが、「義民六人衆」の寺として有名だ。延宝5年(1677)、年貢減免の直訴をした新井宿(大田区山王)の農民6人は、当時の習いにより斬首された。大罪を犯した6人衆の遺骸を、善慶寺の第二十世証源院日応上人が引き取り、当時の禁を破って葬り供養したという。

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間宮新五郎47才、間宮太郎兵衛39才、酒井権左衛門38才、鈴木大炊之助47才、平林十郎左衛門55才、酒井善四郎53才であったが、お上に発言せんとするだけで斬首とは、何とも惨い時代であったことか。しかし直訴の結果、年貢が半減されたのは幸いであった。義民を悼み、掲示の内容を次に記しておこう。

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「新井宿義民六人衆による起訴事件は、村人の中に語り継がれ、延宝8年(1679)、義民と縁故筋にあたる間宮藤八郎が、両親の墓を建てると称して六人の法号を刻んで密かに造立したのがこの墓石である。正面に父母の、裏面に六人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取りつけられ、その間をくり抜いて連結し、一箇所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。」

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本堂前の天水桶は、「川口市 山崎甚五兵衛 昭和51年(1976)4月11日」の造立で、手入れが行き届いていて、清潔感一杯の鋳鉄製の1対だ。大きさは口径Φ1.150、高さは850ミリとなっている。「義民六人衆 第参百回忌 善根志主 檀信徒一同」の奉納で、総代や世話人の名前が、桶の表面や龍が乱舞する手の込んだ8角形の台座に並んでいる。

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●京急本線の梅屋敷駅近く、大田区大森西にあるのが貴菅神社だ。国道15号線、第一京浜に面して鎮座している小さな社だが、折しも改修中であった。当地本宿村の鎮守だが、明治時代に菅原神社と貴舩社が合祀してこの社名になっている。祭神として高寵神(たかおのかみ)、菅原道真を祀っているが、高寵神は水源の神とされている。

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鋳鉄製の1対の天水桶のセンターには、神紋の代表格の三つ巴紋があり、上部のぐるりにあるのは梅鉢紋だ。なるほど、ここは文教の神で梅の木にゆかりのある菅原道真公も祀っている。意味あるデザインという訳だ。

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「昭和36年(1961)10月大祭記念」とあるから、歴史的に盛大なお祭りだったのであろう。この時期、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」は天水桶を量産していて、躍進期と言える時の産物だ。この年は、3月15日に栃木県日光市の日光東照宮薬師堂が火災焼失、4月12日には、人類初の有人衛星、ソビエト連邦宇宙船のボストーク1号が、ユーリイ・ガガーリン飛行士を乗せ地球一周に成功している。

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●ここは、令和3年(2021)1月に再訪すると新装されていた。第一京浜国道の拡幅に際し、社殿は改築、社務所は新築され、境内の様子は一新されていた。鎮座していたはずの天水桶1対は見当たらず残念だが、隣の倉庫に眠っている事だろう。

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●中野区江古田の「江古田の森公園」の南にあるのが、江古田氷川神社。寛正元年(1460)の創祀と伝わるが、区の掲示板によれば、「屋根の勾配や全体のバランスが良く、区内に残されている数少ない江戸時代の建造物として代表的なものです。天上は格天井になっていて、色彩豊かな花鳥画が描かれています。言い伝えによると、この地の名主、山崎家の離れ(茶室書院として現存)に絵師が滞在して花鳥画を仕上げたということです」とある。

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鋳鉄製の1対は、特に固定されるでもなく、ただ置かれているだけの不安定な感じの天水桶で、寄進者はこの地区の2名によっている。大きさは口径Φ800、高さは860ミリだ。

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「昭和39年(1964)10月吉日」の設置で、早、半世紀前だ。サビ汁が立派な社殿のイメージを汚していよう、そろそろ手入れが必要なようだ。「川口市 山崎甚五兵衛作」銘となっているが、細かい事ながら最後に「作」の文字を入れているのは異例だ。


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●最後は、埼玉県戸田市笹目の17号バイパス沿いにある笹目神社。「埼玉の神社」によれば、「当地は中世の佐々目郷に属し、地内を鎌倉街道中道の脇街道が通り、当時は鎌倉鶴岡八幡宮領になっていた」という。化政期の風土記稿の下笹目村の項には「聖社」と記載されていて、現在でも聖様と呼ばれているようだ。

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場所は、荒川調整池である彩湖のすぐ東側だ。広めの境内には、平成12年(2000)に3千万円を掛けて建立したという神楽殿あり、柊の大木あり、昭和53年(1978)に再鋳された銅鐘ありで、見どころの多い神社だ。

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創建など詳細は不明だが、祭神は素戔嗚尊や木花咲耶姫命など十柱だ。明治40年(1907)に、津島神社、稲荷社、熊野社、天神社、浅間社、第六天社などを合祀していて、この時社号が、笹目神社に改められている。しかし不思議だ、神社なのに鐘楼塔がある。昭和59年(1984)には塔の屋根も改築されたほどの意気込みなのだ。

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●「昭和53年10月19日 梵鐘の目方 弐百参拾貫」と記されているが、230貫は、1貫を3.75Kgとすれば、862.5Kgの重量だ。縦帯(前8項)には「笹目神社」のほかに、「郷土繁栄」、「氏子安全」とも鋳出されている。作者は、「京都本町 高橋鋳工場 謹鋳」だ。この工場は、ブロンズ象や仏像仏具製作、文化財修理を手掛けていたようだが、事情により平成23年(2011)11月に廃業している。

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大きさは口径Φ870ミリ、高さは1.3mほどだ。鋳出されている文字を読んでみよう。「鐘の由来 この鐘は、神仏習合時代の名残である。昔この処に大聖山延命寺という神社の別当寺あり。明治初年の神仏分離の時、この寺は廃寺となったが、村民に親しまれた鐘楼はここに残された。
 

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延享年間製作の鐘は太平洋戦争に供出したので、昭和53年(1978)秋に再鋳して、再び諸願成就の音を響かせるようになった」という。先代の鋳造者の名が記されていないのは残念だが、延享年間は、1744年から1747年までの期間だ。時の徳川将軍は吉宗、家重であったが、ここでも昭和の戦時中の愚かとも言える金属供出(前3項)という政策によって、貴重な文化財が失われていた。

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●ここで他所で見た高橋製の梵鐘を2例見ておこう。前40項では、さいたま市南区内谷の真言宗智山派、一乗院を訪れている。ここに「寄進 総檀中」で、「昭和58年(1983)5月吉日」造の梵鐘が掛かっている。なだらかな胴身の和鐘で、撞座の1つは蓮華座だが、反対側のもう1つは、「丸に立ち沢瀉(おもだか)紋」になっていて、小洒落た意匠になっている。

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沢瀉は、池や水田で白い可憐な花を咲かせる多年草だ。同音で他の字を当てた別名の「面高」から、「面目が立つ」の意味として戦国武将に愛用された家紋だ。また、葉の形が矢尻に似ている事から、「勝ち草」とも呼ばれ、やはり武人に好まれている。

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長文の「縁起」には、歴代の梵鐘の履歴が刻まれている。「延享4年(1747)3月 第19世法印秀海」の代に、「鋳匠 江府神田鍋町 粉川市正(前52項など)」が鋳た鐘があったようだが、戦時に金属供出した旨、記されている。現役のこの3代目の鐘は、「世界平和 万民豊楽 伽藍安穏 興隆仏法 壇越各家 子孫繁栄」を懇祷し鋳造されている。銘は「当山第41世 権大僧正 宗雄」の時世で、「京都本町 高橋鋳工場 謹鋳」であった。

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●品川区南品川の海照山品川寺は前77項後129項で登場していて、「江戸六地蔵」や「洋行帰りの鐘」を紹介している。ここの境内の簡易な鐘掛けには、半鐘が掛けられている。口径は、Φ330ミリの1尺サイズだ。竜頭ではなく平和の象徴である鳩が向き合っていて、宝珠を抱え揚げている。「まことの鐘」と題され、「萬世太平 至誠永輝」と外周の上部に大きく見える。

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「大東亜戦争に於ける 戦友学徒の赤誠を敬迎する国民の衆志に依り 英霊に回向し・・」と戦没者を悼む旨、陽鋳造されているが、反対面はその英訳であろう。この「銘文並発起」は「元東京府知事 香坂昌康」であったが、香坂は、「此のまことの鐘を鋳て 之を全国各地の名刹に納む」ことを発起したようだ。作者銘は「昭和35年春 西暦1960年 鋳造 京都市 高橋鋳工場」だが、この工場では、かつて多くの同じ銅鐘が鋳られたのであろう。

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●さて笹目神社に戻るが、お目にはかかれないが、社殿には、「神馬」という2頭の雄の馬形が奉納されているという。高さ、長さとも約1メートルの大きさで、胡粉を使って丁寧に仕上げられた精巧なものだ。かつて、神前へ生馬を献上した風習の名残だといわれているが、市の有形文化財だ。(掲示板を要約)

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色彩や大きさなど、社殿にマッチした存在感のある天水桶は、「川口市 山崎甚五兵衛」が鋳造している。鋳鉄製の1対で、大きさは口径Φ980ミリ、高さは1.15mだ。裏側には、 「宮司 赤尾省三(前50項)」ら10名ほどの世話人の名前が大きく鋳出されている。

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「平成4年(1992)5月吉日」の設置だが、同氏の作例の中で最も新しい日付となっている。この前例は、後106項で見た越谷市西新井の石神井(いしがみい)神社の「平成2年(1990)11月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」銘であったから、2年の更新で、平成時代に入ってからは3例目の作品だ。同年同月銘の山崎のもう1つの作例は、川越市連雀町の孤峰山蓮馨寺(れんけいじ・後98項)で出会っているのでご覧いただきたい。

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●しかし、実はこの天水桶が、山崎甚五兵衛の遺作であった。翌平成5年5月12日午前4時16分、肺炎のため82才で急逝しているのだ。明治44年(1911)1月10日、川口市で生まれ、昭和23年に合資会社山﨑鋳物工所を設立、鋳物業界を代表する焼型鋳物師であった。

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戒名は、「眞徳院道鐵甚忠清居士」。山﨑寅蔵(前20項)を先代とし、生涯で300基ほどの天水桶、香炉などを鋳造したという。会葬者は、通夜と合わせ500余名と盛儀であったというが、1つの時代が終わった瞬間であった。ご冥福をお祈り申し上げたい。

山崎甚五兵衛・遺影
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今回特集した川口鋳物師・山崎甚五兵衛は、昭和期を代表する天水桶鋳造のトップメーカーとして君臨していた。当サイトでは、山崎の作例が、終項までに延べ20項ほどで登場しているが、特集を組んだ項をここに記しておこう。前1項前24項前27項前41項前50項前56項前57項後102項後106項後114項後128項後132項だ。つづく。