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●あちこちを飛び回るが、今回は、各地で出会った鋳造物を見ていこうと思う。神奈川県藤沢市の江の島(前72項)は、周囲5km、標高60mほどの陸繋島(りくけいとう)だ。江戸時代後期からは、大山阿夫利や鎌倉地域を含んだ観光ルートが流行し、以来、景勝地や古蹟、神社仏閣を巡り、名物を味わい土産とする庶民の行楽地となっている。

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現在では、「江の島まちづくり憲章」によれば、「さらに豊かな江の島の魅力を創り出してゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい価値を持った活力と魅力あるまちづくり”島ぐるみ野外博物館”を目指します」としている。

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昭和39年(1964)の第18回東京オリンピック(前72項)でヨット競技会場に選ばれた際に、島の東部が大幅に埋め立てられ、湘南港建設のために「江の島大橋」が開通している。平行する画像の歩道が「江の島弁天橋」だ。明治半ばに架橋され、大正11年(1922)、県営になった時には、「金2銭也」の渡橋料を払ったというが、現在は無料だ。

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●昭和の半ばには鉄筋コンクリート造りになっているが、その橋を渡ると、市指定文化財の大きな銅製の鳥居が迎えてくれる。龍の彫刻に囲まれた扁額には、個性的な文字で「江島大明神」と書かれている。柱の脚元に絡みついている彫刻は、藻が生えた蓑亀のようだ。

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この鳥居は、寛保3年(1743)に朱塗りの木製鳥居が崩壊し、その後は、現在の主柱の陰刻にある通り、延享4年(1747)1月に青銅鳥居を建立、文政4年(1821)3月に再建されている。柱の裏の上部左右には、「国土安全」、「天下泰平」と刻され、建立の願念が込められている。

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目の届く高さには、250名ほどの願主や世話人の名が見られるが、「新吉原」と「志ん生」は高額寄付者なのであろう、凸文字の陽鋳造であり、別格扱いだ。再建日と辻褄が合わない気がするが、志ん生は、文化6年(1809)生まれという初代古今亭志ん生であろうか。幕末期に活躍した江戸の落語家で、通称「八丁荒らしの志ん生」と言われたという。

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●また、人名が列挙された区画から外れ、陰刻ながら大きめに「願主 下之坊恭眞」とあるのは、静岡県富士宮市の、藤の花で知られる日蓮正宗発祥の寺院であろうか。さらに同等の扱いで、「浅草新鳥越町 世話人 八百屋善四郎」とある。享保年間(1716~)に創業し、江戸時代に会席料理を確立した、元八百屋の高級料亭、八百善(前52項前109項)だ。

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刻銘は、4代目当主の栗山善四郎で、文政5年に刊行した「江戸流行料理通」は当時の料理テキストだ。徳川将軍家の御成りも仰ぎ、ペリー来航の際の饗応料理も担うなど、その名を江戸中にとどろかせている。有名な「一両二分の茶漬け」や「はりはり漬」など料理にまつわる逸話も存在するが、今は、鎌倉十二所の五大堂明王院境内で、10代目栗山善四郎が料理屋を復活させている。(ウィキペディアから要約)

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●作者は、「粉川市正 藤原國信作」で、左右の柱で肩書の表現が違っているが、「鋳物師」、「鋳工」となっている。前52項で解析したが、元禄期頃(1688~)、和歌山から江戸神田に出てきて活動した由緒ある鋳物師だ。

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徳川家菩提寺の三縁山増上寺(前126項)にある吊灯籠には、「明治4年(1871)9月吉日 粉川市正 藤原国信」と刻まれていたが、この後の活動は不明のようだ。江の島の銅鳥居は、延享4年(1747)に建立、文政4年(1821)に再建されている。74年の差異があるが、共に代違いの粉川家の手によるものだろう。

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●続いては、神奈川県平塚市浅間町の平塚八幡宮。社伝によれば、仁徳天皇68年(380)に、勅願により応神天皇を祭神として創建されたという。慶長年間(1596~)前後には、徳川家康が参拝、朱印地50石を寄進するなど、現在でも相模国一国一社八幡宮として、また鎮地大神と仰がれ参拝者が絶えない。

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境内には、青銅製の二の鳥居がそびえている。神社の概要によれば、明和2年(1765)、平塚宿の僧侶本誉還真(ほんよかんしん)が18年間集めた浄財で奉献したという。「新編相模国風土記稿」では、東海道の北側に「鶴峯山」の扁額が掛けられた青銅鳥居があったとし、江戸時代後期の景観を伝えている。

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柱には、「江戸久保町 相模屋佐吉」ら多くの寄進者名が並んでいる。発願主として、本誉還真の名が陰刻されているが、並んで、「再建 萬延元星次庚申(1860)八月穀旦 願主 氏子中」とある。ビス止めされ補修された跡や、焼け焦げたような痕跡も見られ歴史を感じるが、彫師は「平塚宿 鋳師 冨塚伈次良(しんじろう?) 彫之」となっている。

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●上述のように建立は、「新造 明和二星次乙酉(1765) 九月吉日」で、星次(せいじ)は、天空上の星の位置を表すようだ。発願主として、先の本誉還真の刻みも見える。鋳物師は、「江戸神田住 鑄物師 太田近江大掾 藤原正次」、通称釜六だ。当サイトでは前17項後130項など各所で同氏の作例を見てきている。

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釜六は、江戸深川の鋳物師であったが、ここの鳥居の例を見ても判るように、18世紀中頃以降は、江戸神田の住人になっている。この事は、前77項でも考察したが、元禄期の経済成長後の享保9年(1724)、8代将軍吉宗は享保の改革の一環として倹約令を出している。鋳物師らの仕事量も例外なく大幅に減ったと思われ、親戚筋が鋳造業を営む神田へ移住したようだ。

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そして、大正3年(1914)刊行の香取秀眞(ほつま・前116項)の「日本鋳工史稿」を見ても、当サイトを見ても判るが、19世紀初頭から始まった天水桶奉納という慣習の追い風に乗り、再び江戸深川で再始動したようだ。以降は、青銅鋳物ではなく、鋳鉄鋳物に特化したと言ってもよかろう。画像は、江東区大島の釜屋堀公園に建つ「釜屋跡」の石碑だが、ここが釜六の活動拠点であった。

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●なお、江戸期に鋳られた現存する銅製の鳥居は数少ないので、本サイトで登場する項を記しておこう。前3項では、「千代田区平河町・平河天満宮 天保15歳(1844)12月 西村和泉 藤原政時作」、前45項で「本庄市児玉町児玉・東石清水八幡神社 享保11年(1726)4月吉辰 野刕(栃木県)安蘇郡佐野天命住 御鋳物師 井上治兵衛 藤原重治 同太郎左衛門重友」。

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前65項では、「神奈川県伊勢原市大山・大山阿夫利神社 武江神田鍋町住 粉河市正宗信」銘。前94項では、次の画像の「新宿区市谷八幡町・市谷亀岡八幡宮 文化元年(1804)12月 西村和泉 藤原政平作」。

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前107項では、「日光市山内・日光二荒山神社 寛政11年(1799)9月 鋳物師 西村和泉(政寿)」、前110項では、「港区虎ノ門・金刀比羅宮 文政4年(1821)10月 江戸大門通角 伊勢屋長兵衛扱 土橋兵部作」と「埼玉県秩父市三峰・三峯神社 弘化2年(1845)再建造立 西村和泉守 藤原政時作」だ。

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●栃木県佐野市大蔵町の星宮神社は、久安年間(1145~)に創建したと伝わり、 後に星宮慈照大明神と称され、慶長5年(1600)に現在地に遷宮したという。天和3年(1683)夏の、当地出身で江戸住の「村山庄兵衛吉重」寄進の算額は、日本最古のものという。

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社は、古代の古墳の名残りと言う小高い山の上にあるが、そこへの階段の入り口に青銅製の明神鳥居と1対の鉄灯籠がある。鳥居には、「享保20年(1735)、鋳物師棟梁大工職という刻銘がある」と掲示板にある。しかし、柱などあちこちを見廻してみたが、この刻みはなぜか見当たらなかった。これは、金屋町の鋳物師達が共同で製作したものといい、天明宿の総氏子が奉納したという。高さは4.24m、周囲106.05cmだ。

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●鉄灯籠は擬宝珠を冠し、笠には九曜紋が見える。天空に向け派手に伸びた6本の蕨手(前33項)が印象的だが、いわゆる太閤型(前74項)と呼ばれるタイプの灯籠だ。火袋の中には電球があり、配線もされているようなので、実際に点灯するのだろう。サビて損壊している部分も見受けられるが、戦時の金属供出(前3項)を逃れた貴重な鉄灯籠(前87項前91項参照)だ。

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脚の部分に陽鋳文字がある。「天保六乙未歳(1835)九月吉日 願主 正田亦右衛門」で、鋳物師元締めの京都真継家傘下(前40項)の佐野天明鋳物師(前108項)だ。この地域では、多くの正田姓の鋳物師が活動していたが、この「又右衛門」と「利右衛門(前124項)」、「治郎右衛門(前66項)」らの系統があるようだ。

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●群馬県太田市本町の浄土宗三宝山長念寺は、応永元年(1394)の創建という。上州太田七福神では恵比寿様を祀っているが、七福神は、市内の金山周辺の由緒ある寺を巡るコースだ。本堂前の蓮華型の天水桶1対は青銅製で、作者不明ながら、昭和50年(1975)8月の設置となっている。

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本堂の回廊に、口径2尺ほどの梵鐘が置かれている。「延宝4年(1676)8月吉祥日」だが、「終南山善導寺 第14世 念蓮社尊誉春岳」と刻まれていて、本来ここに置かれるべき鐘ではない事が判る。戦時の金属供出のドタバタの後、幸い鋳つぶされず、数奇な運命を経て今はここに現存するのであろう。(前110項参照)

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元は、前120項で登場した群馬県館林市の浄土宗、見松院善導寺のものだ。徳川四天王の1人、榊原康政父子の墓が存在する寺だが、そこの現役の鐘は、「昭和63年(1988)正月 足利住 鴇田力(前97項など)」作で、第77世英誉代の時世であった。

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作者銘として、「冶工 下野國佐野 浅沼村住人 齋藤氏重郎兵衛 藤原久重」と陽鋳されている。浅沼村は、かつて栃木県佐野市近辺に存在した村で、今の浅沼町だが、ここで活動していた天明鋳物師、重郎兵衛で斉藤久重の事だ。久重は、京都真継家の名簿には登場してこない鋳物師だ。

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●現在、浅沼町には浅沼八幡宮があり、「阿曽沼城之跡」の石碑が建っている。鎌倉期の頃、佐野氏の一族である阿曽沼四郎広綱が築城したというが、城域であった守護神八幡宮には、土塁と堀跡が残存している。慶長19年(1614)の佐野氏改易で廃城したとされるが、鋳物師斉藤家は、阿曽沼氏の権力を背景に勃興したと想像される。その後は、榊原家の庇護も受け藤原姓(前13項)の名乗りを許され、御用鋳物師として世襲してきたのであろう。

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●また、佐野市金井上町の真言宗豊山派、日輪山観音寺には、久重の銘が刻まれた、 市指定文化財の銅造阿弥陀如来座像がある。地面からの高さは3mを超えていて、定印を結び鎮座している。寺は、室町時代の大永年間(1521~)に藤原秀綱が創建したといい、佐野七福神では大黒天を祀っている。

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真裏の蓮華座に深めに彫られた陰刻によれば、「寛文9年(1669)6月15日」の造立だ。3人の天明鋳物師の合作のようで、その名が刻まれている。まず「冶工統領 金屋町之住人 太田小左衛門尉 藤原秀次」と、いかめしい肩書の銘が見えるが、頭領格の親方だ。次は「金屋鋳師中 同町住 大川久兵衛尉 藤原信正」だが、親方の補佐役の様な存在であったのだろう、細目に線刻することでそれを表現している。

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●そして親方よりも大きく深めに、「大工 當国浅沼村之住人 斉藤氏伝七郎久重」とある。文字の輪郭を囲い込むように線彫り(前31項)されていてゴージャスだ。続けて「家大工」として、苗字の無い従者らしき6人の名が並んでいる。そして、「三十歳造鋳之」となっているので、1639年、寛永16年己卯の生まれであることが判る。

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なお、「藤原久重」でネット検索すると、「奈良県 大和郡山市・仲仙寺梵鐘 享保19年(1734) 藤原久重」、「同妙善寺梵鐘 延享3年(1746) 藤原久重」がヒットする。6、70年後の久重と同姓同名だが、榊原家がこの地方を治めた史実はないようで、関連は薄そうだがさて関連は如何に。

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●続いては、埼玉県熊谷市三ケ尻の真言宗豊山派、少間山龍泉寺。「関東唯一の厄よけ開運大師」を謳う、通称三ケ尻観音だ。そびえ立つ総高10mという「平成安全大観音」は、右手にハスの蕾を握り、ふくよかで慈愛に満ちたお顔立ちで市井を見下ろしている。家内安全、身体安全、工場安全、職場安全にご利益ありという有り難い観音様だ。

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龍泉寺の本尊は不動明王(前20項)だが、上の画像右側の、延享4年(1747)建立という観音堂には千手観世音菩薩が祀られている。忍札所29番の観音堂は、子歳生まれの人の守り本尊だ。小高い山の中腹にあるが、この山は通称観音山と言われ、海抜82m、周囲約850mとなっている。観音様の大縁日は1月の第3日曜日だが、当日は善男善女の参拝で終日賑わうという。

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●ここに掛かるワニ口は、「御鋳物師 西村和泉守(前110項ほか)」作だが、多くの人々が目にしているはずだ。同家は、元禄4年(1691)から慶応元年(1865)までの175年間に、550口もの梵鐘を鋳造したという大家であった。

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大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま)の「日本鋳工史稿」(前116項)を見ると、西村家が鋳たワニ口は4例しか記載されていない。「武州新宿 明了山正受院(前122項) 安政3年(1856)11月 西村和泉守作」ほかだが、ここ龍泉寺のワニ口は登場してこないので、知られざる貴重な1例なのであろう。

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●鐘楼塔には、「浄化の鐘」が掛かっていて、「鐘には自分の中にある煩悩(苦しみの原因)を取り除く効果があります」と説明されている。一礼し打鐘してみると、高台から広く響き渡る音色に心底癒された。

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新編武蔵風土記稿によれば、明治初年建立の鐘楼塔には、元禄9年(1696)11月鋳造の梵鐘があったというが、今は、「正徳3年(1713)季春穀旦 江戸神田住 西宮大和 同 武兵衛金廣作」だ。「季春穀旦」は、春の吉日という意味だろう。旧鐘は短期間の存在だったようだが、割れてしまったのであろうか。

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当時、この重量物を江戸の地で鋳造し、ここまで運び上げるのは容易ではない。西宮は、同地の、あるいは従者の武兵衛の助力を得て、まさにこの高台で出吹き(前10項)、つまり、出張鋳造したのだろう。素材は、旧鐘のものを鋳潰して再利用したのかも知れない。

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●これまでに西宮には、2度出会っている。前68項の文京区大塚の神齢山護国寺で見た青銅製灯籠1対には、「貞享2年(1685)初夏吉祥日 鋳工師 西宮四郎兵衛」という刻みがあった。前126項では、現存しないが、新宿区河田町の正覚山月桂寺のかつての鐘は、「元禄3年(1690)11月27日 神田鍛冶町二丁目 御鋳物師 西宮四郎兵衛常重作」であった事を知った。

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先の史料には、他にも「伊勢国 朝熊山金剛證寺 銅造三重塔 元禄4年正月吉日 武州江戸鍛冶町 大工御鋳物師 西宮四郎兵衛尉常重」、「安房国保田村 林梅山別願院 鐘 元禄7年5月吉日 西宮大和守 藤原吉奥」、「奈良春日神社(前33項) 銅燈台1基 元禄10年(1697)正月吉祥日 江戸 西宮大和作」が記録されている。

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●西宮は、江戸に居住していながら、遠方地での鋳造が多かったようだ。他の鋳物師とは一線を画し、出吹きのスペシャリストとして名の通った鋳物師であったのだろうか。また西宮は、国名(前99項)としての「大和」や「尉」という官職名など、あるいは藤原姓(前13項)を名乗っているが、鋳物師元締めの京都真継家傘下(前40項)の鋳物師ではない。

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例えば、嘉永7年(1854)の「諸国御鋳物師姓名記」は、傘下の全国の鋳物師名簿だが、ここに西宮姓は一切見られないのだ。当時の鋳物師職は特殊技能保持者と言えたが、その箔付けのために、西宮が勝手に名乗ったものと思われる。

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●都内港区高輪の承教寺の銅鐘を見てみよう。ここは、日蓮宗池上本門寺の末頭で、山号は長祐山だ。ここには英一蝶(はなぶさいっちょう)の墓碑がある。港区が掲げたの説明板を要約してみよう。

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『江戸中期の絵師、英派の始祖。承応元年(1652)大坂に生まれ、狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人であった。元禄11年(1698)、「当世百人一首」や「朝妻舟」の図などが将軍綱吉を風刺したとして三宅島に配流となったが、在島12年ののち大赦により江戸に戻った。

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赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したという。軽妙洒脱な筆致で江戸市民や都市風俗を描くことを得意としたが、享保9年(1724)、73才で没している』。

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天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」によれば、「姓は多賀氏、諱は信香、一名を朝湖といふ。暁雲、翠簑(すいさ)、隣樵(りんしょう)はその別号なり。(赦免後、)初めて名を英一蝶と改め、北窓翁と号す。俳師芭蕉、其角と同時の人にして朋友たり。」と記されている。

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●鐘楼塔の梵鐘は、「長祐山承教寺 第20世現住 沙門日隨(にちずい)」の時世の「元禄第二屠維大荒落(とい だいこうらく・1689)九月晦日」に掛かっている。「屠維大荒落」の意味だが、中国の文書には、十干十二支を異称で表すものがある。「古文書なび」というサイトによれば、屠維も大荒落も「己年」だから、元禄2年は、「己巳(つちのとみ、きどのみ、きし)」の年回りだ。

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鋳物師は、「鋳師 矢部豊前掾重正(前126項)」と刻されているが、区の文化財であり、総高157.6cm、口径は86cmだ。この銅鐘は太平洋戦争のために金属供出され、その後無事に返還されているが、鐘身の内側面2ケ所に、その時にペンキらしきもので書かれた「芝二本榎一丁目 承教寺」の文字が消されずに残っている。前3項では、同様の理由で書かれた文字を見ているのでご参照いただきたい。

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矢部は、先の香取の史料にも登場するが、神田鍛冶町1丁目に住した江戸中期の鋳物師で、元禄2年(1689)から正徳元年(1711)にかけて鋳造した何例かが知られている。「白金智光山立行寺 鐘 元禄5年(1692)正月」、「武蔵愛宕山 鐘 宝永4年(1707)4月中浣日」、「江戸浅草橋 擬宝珠 正徳元歳6月吉日」などの記録だが、ここ承教寺の記載は見られない。3世紀を経て現存するこの鐘は、矢部の最初期の遺例であり貴重だ。

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●続いての品川区南品川の真言宗醍醐派、海照山普門院品川寺は前77項前84項で登場していて、半鐘や「江戸六地蔵」などを紹介している。「宝永5年(1708)9月大吉祥日開眼 御鋳物師 神田鍋町二丁目 太田駿河守(藤原)正儀」作の地蔵であったが、ここに掛かる梵鐘は、「洋行帰りの鐘」と呼ばれている。

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鐘は、慶応3年(1867)、パリの万国博覧会に出品された後、帰国途中に行方不明になった。昭和5年(1930)、スイスのジュネーブのアリアナ博物館に保管されているのが判り、60年ぶりに「洋行」を終え返還されている。鐘身の3面には、立体的な六観音像が陽鋳造で描かれているが、国の重要美術品指定だ。

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明暦3年(1657)に、鋳物師の「大西五郎左衛門尉 藤原村長」が鋳た銅鐘だが、徳川家康の江戸入府に際して召喚された鋳物師の大西家の一派だ(前126項)。鐘の池の間(前8項)には、「東照宮(初代神君家康) 台徳院殿(2代秀忠) 大猷院殿(3代家光)」という文字が陽鋳され威容を誇っている。

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4代将軍の徳川家綱の命を受けて鋳られたというが、この、畏れ多い時の為政者の名前の存在が展覧会への出品理由であり、幸運にも戦時中に「洋行」していたため金属供出を逃れた理由であろう。この様な梵鐘のエピソードに関しては、前110項からご覧いただきたい。

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●この2世紀後だが、文政11年(1828)から嘉永5年(1852)の「諸国鋳物師名寄記」や文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「武蔵足立 川口宿」の欄には、「大西市五郎」の名前が記載されている。

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また、前81項の都内台東区今戸の今戸神社で見た鉄製井戸側の銘は、「鋳物師 大西周八 萬延元年(1860)8月」であった。この1基は、知る限り唯一の大西家の作例であり貴重だが、後者2つの史料には名が見える真継家傘下の川口の御用鋳物師だ。ここ品川寺の「大西五郎左衛門尉」は、大西家の始祖であろうか。

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●さて、続いての鶴ケ谷八幡神社は、千葉県館山市八幡にある安房国総社だ。鎌倉期に総社信仰が衰微し、源氏の八幡神信仰の高まりによって八幡宮となっていて、創建千年を迎えた昭和51年(1976)9月の本殿改修に当たり、今の社名へと改称している。その記念石碑は境内にあるが、神社本庁統理を務めた徳川宗敬(むねよし)の名が見える。水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男だ。

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参詣日は、9月の例大祭の日であったが、国司祭の伝統を引き継ぎ千年以上行われている祭りで、千葉県の無形民俗文化財に指定されている。通称「やわたんまち(八幡祭)」で、南房総を代表する祭りであるという。各町内の神輿も還御し、お化け屋敷の小屋もかかる盛大な秋祭りだ。

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●拝殿前に1対の鋳鉄製の天水桶がある。五七桐紋が据えられていて格式高いが、「昭和47年(1972)3月吉日 氏子中」の奉納となっている。「富士ディーゼル株式会社 謹製」と鋳出されているが、ここが鋳造工場だろう。

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ここは平成初期に閉鎖したが、船舶や発電機のエンジンを造る会社であった。当然、設計部門や鋳造工場を保持していただろうが、エンジン鋳造に比べれば、容易な製造であったに違いない。

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●栃木県宇都宮市(前91項)簗瀬の明星山光徳寺は、天台宗だ。建久3年(1192)に、宇都宮城の東南の守護として創建され、城の安泰を祈願してきた寺という。「大満虚空蔵尊」が奉安されていて、開運厄除や交通安全、身体健全に効ありと謳われている。

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本堂前の1対の天水桶は、口径Φ600ミリで鋳鉄製だ。「昭和参拾七年(1962)五月拾参日」に、檀家の「先祖代々菩提供養」、堂宇の「落慶記念」として設置されている。作者は、「簗瀬町285 荒木鋳造所」と浮き出ているが、現在は存在しない工場のようだ。

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●千葉県南房総市石堂に石堂寺はある。天台宗の寺院で山号は長安山、本尊は十一面観世音菩薩という。近江国・滋賀県の石塔寺と上野国・群馬県の石塔寺とともに日本三石塔寺に数えられている。室町時代の永正10年(1513)の建築と推定される本堂は、国の重要文化財に指定されていて、寄棟造妻入り、銅板葺きだ。

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1対の鋳鉄製天水桶は、檀家の菩提供養のために「昭和5年(1930)12月」に造立しているが、作者銘は記されていない。右の正面に「奉」、左には「献」の文字が浮き出ている。時は、「石堂寺 34世権僧正 石堂純映代」であった。

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●次は福島県白河市大鹿島にある、延喜式神名帳にも見える式内社の白河鹿島神社。奈良時代の宝亀年間(770~)の光仁天皇の御代に祀られ、その後、常陸国鹿島大明神を勧請した白河城下の総鎮守だ。歴代城主の尊崇も篤く、自ら奉幣参籠し、祭田や社殿の寄進もあったという。明暦3年(1657)に藩主本多忠義が寄進した神輿は、市指定の重要文化財となっている。

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拝殿前の鋳鉄製の1対は、口径Φ900、高さは1mだ。裏側に「佐久間」さんという氏子2名の名があり、「昭和7年(1932)」に奉納されているが、「還暦記念 喜寿記念」となっている。還暦は60才、喜寿は、「喜」の字の草書体が七十七と読めるところから、77才のお祝いだが、2名は親子であろうか。

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●額縁部には幅広の雷紋様(前116項)が廻っている。神の宿る殿前に相応しく、神前に供される奉納物には欠かせない紋様だ。作者銘として、「御鋳物師 太田五郎平」とだけ鋳出されている。

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この半世紀ほど前だが、明治12年(1879)の、「由緒鋳物師人名録」の栃木県下野国安蘇、佐野天明駅の欄には、「太田五郎兵衛」の名が見える。福島の地とは距離的にかなり離れているのが気になるが、この系統の鋳物師であろう。なお、太田五郎平は前91項でも登場、人となりについても記述している。

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●天水桶の存在を知ったので参拝に訪れたが、たどり着けなかった神社がある。栃木県日光市足尾町の本山鉱山神社で、正式には杉菜畑山神社と言うらしい。足尾銅山は、慶長15年(1610)に鉱床が発見され、江戸幕府直轄の鉱山となり寛永通宝が鋳造されたこともあるが、鉱毒公害などに昭和48年(1973)に閉山、360年余りの歴史を終えている。

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神社は、明治22年(1889)4月28日、銅山繁栄を願う鉱員らの寄進によって、山坑の傍らにあった小祠を移し、杉菜畑職員住宅の最上段の地に建設されている。大山祗命ら三神が祀られていて、足尾に存在する山神社としては、最古のものという。

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入り口に鳥居がある。間違いなくここから入るのだろうが、閉山後は、立ち入る人も居ないようで、そこから先の道が判らない。生い茂る草を掻き分け進んだが、いつの間にか登山になっている。おかしい、これは参道ではない。ふと来た道を振り返ると不安になった。帰り道に迷いそうなのだ。軽装だし夕刻でもあるしで断念、神社へたどり着けなかったのだ。

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●ここからは、グーグルのストリートビューで見てみよう。管理されていないようで荒廃した社殿だが、神明鳥居、灯籠など、奉納物の多くが鋳鉄鋳物のようだ。口径は1mほどであろうか、1基の天水桶を拡大してみると、「明治22年(1889)4月吉祥日」と鋳出されている。創立記念日での設置だが、残念ながら裏側の画像が無いので、その他の情報は不明だ。

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かつては手水舎も存在したのだろうか。鋳鉄製の手水盤(前7項)は存在自体が稀有で、放置状態ではあるがここにも現存する。風雨に晒されれば、木造物の命は短いが、鉄製品はそこそこ永らえることができる。足尾銅山跡は国の史跡となっているが、こちらにも目を向けるべきだろう。

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●ウィキペディアには、『平成19年(2007)、足尾銅山を「負の遺産」として世界遺産暫定リスト記載に向け文化庁に要望書を提出。経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」として認定される』とあり、この神社の名も見える。

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本山鉱山神社は、鉱山に関わったあらゆる職種の人達が、月給12円の時代に、総額3.279円53銭を献金し、鉱山繁栄の願念がこめられ建立されている。閉山後、早半世紀だが、市指定の有形文化財だ。早急なる保存管理が待たれる。つづく。