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●最近出会った天水桶を見ていこう。ある日、車で東北自動車道を北へ向かった。目的地は群馬県館林IC近くにある神社と、上り線の羽生パーキングエリア(PA)だ。まずは、PAの話。ここのキャッチは、「江戸の美味と人情に心和(なご)むくつろぎ処 鬼平江戸処」。鬼平を一躍有名にしたのが、東京浅草生まれで、美食家にして時代小説家の池波正太郎(1923~1990)だ。

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PAのパンフから抜粋してみると、『江戸時代、ここ羽生の隣町に、江戸の要所「栗橋関所」がありました。この関所は、東海道、中山道と並ぶ五街道のひとつ、日光街道に位置する関所で、約250年に亘り、「入り鉄砲と出女」を取り締まる重要な役目を担ってきました。「鬼平江戸処」は、江戸の玄関口だったこの土地に、時を隔てて蘇った現代の「江戸の入り口」です』となっている。
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●広大なスペースではなく、一回り10分もあればという感じだ。食したのは、深川飯おにぎり1個(180円)と、軍鶏(しゃも)焼き6個(500円)。軍鶏肉一杯のタコ焼き風であったが、美味しいので夢中でいただいた。屋根には天水桶が備わっていて、日本橋の擬宝珠(後89項後127項など)を模した柱もある。

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興味があるのはこちらで、木製の天水桶だ。ご丁寧に「水」と表示されている訳で、明らかに消火用貯水槽だ。江戸時代当時、浮世絵などを見ても判るように、四角い桶も一般的であった。ただ水漏れのことを考える時、製作上、角の四隅の密閉処理はどうしていたのであろうか、気になる。

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下の画像は、一角にあった丸い桶だが、これなら気密性は充分保てる。竹などで編んだ輪状のタガを締めれば良いのだ。このタガが外れると、構成する板片が当然バラバラになってしまう。感情をコントロール出来なくなる様を「タガが外れる」というが、言い得て妙だ。

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●歌川広重の浮世絵、「猿わか町 夜の景 安政3年(1856)」にも、四角い桶の存在を確認できる。今に見られる金属製の桶は、圧倒的に丸形状のものが多いが、これまで見てきた、千代田区外神田の神田神社(前10項)の「川口鋳物師 永瀬源七作 弘化4年(1847)」などの様に四角形状の桶もたまに見受けられる。

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余談だが、この源七は、「お祭り男」タレントである宮川大輔さんの母方の5代前の先祖だという。天下祭で有名な神田明神とは、奇しくもその辺で繋がっているのかと思うと、なるほどだ。

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こちらは、喫煙所近くにある丸い桶だが、単なるオブジェではない。手洗い用の水道だ、左下に蛇口が付いている。とことん江戸時代こだわって、凝りに凝った造りの羽生PAであった。

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●さて、群馬県館林市近郊の話だ。近辺は天正18年(1579)に、関東以北の守りとして徳川四天王の榊原康政(後120項)が、10万石で館林城に入城してから注目される町となったが、5代将軍徳川綱吉が25万石で城主だった時期もあった。

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羽附町(はねつくちょう)にある、真言宗豊山派の金龍山宝秀寺は、天正7年(1580)、法印観賢によって開基されたが、明治4年(1871)に伽藍、宝物が全焼している。現在の社殿は、昭和54年(1979)に5千万円を投じて完成したものだという。(掲示板による)

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●茶色味かかったこれは、何という種類の花崗岩石(前11項)であろうか、中央にある、「輪違い紋」の香炉台とセットになっている。貯水槽としての機能は無く、単なる水受けだが、自然石は無二の個性が実に風流だ。正面に見られるのは、「菊水紋」だ。

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武家では、室町幕府初代将軍の足利尊氏が、後醍醐天皇からこの紋章を恩賞として下賜されている。南北朝時代の武将、楠木正成も菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして下半分を水に流し、この「菊水紋」にしたという。

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●邑楽郡板倉町にある板倉雷電神社は、社伝によれば、創建は推古天皇6年(598)。この地方では、魚の「なまず」と深い縁があるようだ。神様からの賜り物として大事にし、「地震を除けて自信が湧き出てくる」として親しまれているようだ。

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参道や周辺には、なまずの料理屋も散見できるが、画像は社務所に鎮座する「なまずさん」で、これは青銅製で体長は1.5m程だ。なまずという漢字は、魚に「念」と書くが、その顔を見ていると、さもありなんとうなずけるから不思議だ。

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ここは、関東一円に分布する雷電さまの総本宮であった。雷除けはもとより、豊作祈願、厄除け安全の神として名高い。延宝2年(1674)に藩主であった綱吉が社殿の大改修を行って以来、三つ巴紋と徳川家の三ツ葉葵紋の使用を許されている。建築様式は二間社権現造りで、横幅3.2mもある巨大な賽銭箱や、鈴を鳴らすための綱である3本もの鈴緒が、参拝者の多さを物語っていよう。

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●社殿のぐるりには、平成元年(1989)に修理された色彩鮮やかな彫刻が見られる。天保6年(1835)に社殿と共に完成したが、左甚五郎を師と仰いだという10代目の名人彫刻師、石原常八主信(前61項)の手によるものだ。

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数ある彫刻の中でも、子供たちが魔性を持つとされるウナギ(なまずでは無いようだ)を捕えている構図は、鬼門である北東側にあることから、悪難を避ける方位除けとして彫られたという。早速、方位除けのお守りを分けていただいた。

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●存在感充分な、照り輝く花崗岩製(前11項)の立派な天水桶だが、黒色系の石には、「黒アフリカ インド黒 山西黒(中国産)」などの種類があるようだ。「平成15年(2003)元旦」に埼玉県上尾市の方が奉納しているが、「宮司 江森隆裕」の時世であった。

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1対は、口径は1.3m、高さは1.240ミリという4尺サイズだが、ここまで巨大な花崗岩製の、しかも樽型の桶は珍しい。大きな岩石から、旋削加工して削り出したのであろうか。

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●引き続き石系統の桶を見ていこう。杉並区和泉の、高野山真言宗の遍照山高野寺文殊院。慶長5年(1600)の開山で、室町時代末期作の弘法大師坐像は、難産の女人を救い給う安産守護のご本尊として信仰されている。

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元禄9年(1696)、現在の港区白金台に移転した時の様子が、天保年間(1830~)に刊行された江戸名所図会に見られ、高野山在番所行人方触頭として真言宗では重要なお寺であったという。(掲示板による)

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「昭和49年(1974)9月吉日」造立のコンクリート製だが、木株をイメージした木目調が目をひく。大きさは、口径Φ940、高さは820ミリとなっている。同じようなデザインは、江戸川区北小岩の天祖神社(前54項)や、川崎市中原区市ノ坪の市ノ坪神社(後75項)でも見たことがある。

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●杉並区堀ノ内にある、日蓮宗報新山宗延寺。境内掲示板によれば、本尊である祖師像は「読経の祖師」と呼ばれ、江戸十大祖師の1つとして江戸市民に親しまれた。十大祖師とは江戸にある10ケ寺の日蓮宗寺院を参拝することにより祖師日蓮のご利益にあずかろうとする民間信仰だ。

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また貞享元年(1684)8月に、美濃青野藩主の若年寄、稲葉正休が、大老堀田正俊(下総古河藩の初代藩主)を刃傷した際に用いた刀が寺宝として保存されている。初代虎徹の刀と言うが、これは興味深い、是非とも拝見したいものだ。

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設置は、「平成16年(2004)5月吉祥」で、本来のハスとはイメージが少し違うが、花弁形の石製の天水桶だ。ハスは7月の誕生花であり夏の季語で、花言葉は「雄弁」。台座の天地逆になっている紋様もハスの花だが、これは、「反花(かえりばな・前51項)」と呼ばれる意匠だ。

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●蓮華、ハスの古名「はちす」は、花托の形状を「蜂の巣」に見立てたとするのが通説で、「ハス」はその転訛だ。画像を見れば一目瞭然、そっくりだが、これは蜂の巣ではない、枯れたハスの花托だ。

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ハスの花は、清純や聖性を意味し、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という成句があるように、仏の智慧や慈悲の象徴とされ様々に意匠されている。如来像や天水桶の台座の多くが蓮花をかたどった蓮華座であるのは、このためであろう。

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この様子は、寺院の梵鐘の撞座にも、必ずと言っていいほど採用されるモチーフだ。撞木は通常丸い木材であり、それを受ける撞座も丸形状であるのが適当だろう。ハスの花托は打って付けの素材なのだ。


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●仏道では、生まれて間もないお釈迦様が歩いた足跡に蓮華、ハスの花が咲いたと言い、その花の上で「天上天下唯我独尊」という言葉を発したとされる。泥水の中の様子は、現世における迷走や苦界を意味し、水面上の可憐な花は、極楽浄土を表しているかのようで、それが神聖や聖心を連想させている。

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ハスの花は、咲いてから4日で花びら1枚づつを落として散っていくという。中華料理店で、何気なく使っているスプーンを「レンゲ 蓮華」と呼ぶが、その儚い花びら1枚を意味し、正式名称は、「散り蓮華」であるという。


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●続いては、杉並区梅里の天羅山真盛寺。真盛(しんせい)上人が興した天台真盛宗の東京別院だ。「江戸本所真盛寺之記」によれば、伊賀の国出身の真観上人によって、寛永8年(1631)に、湯島天神前樹木谷(現文京区湯島)に開創されている。

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延宝元年(1673)に、三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺(みついでら)とも称され、三井家一門の香華院として知られている。(教育委員会の説明文より抽出)

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三井家と言えば、向島にある三囲(みめぐり)神社を思い出す。「囲」の文字の中に「井」の字が入っているし、鬼門に位置するしで、守護社に定めた訳だが、そこには、川口九兵衛(前16項)こと永瀬源内藤原富廣作の天水桶があり、「文政5年(1822)5月吉辰」の奉納であった。なお三井家が興した日本橋三越は、前32項後103項で登場している。

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●ここ真盛寺の天水桶1対は、「昭和28年(1953)7月吉祥日寄進」で、作者は不明の鋳鉄鋳物製だ。大きさは口径Φ1.030、高さは960ミリとなっている。寺紋は、「四つ片喰(かたばみ)」だ。

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日本十大紋の1つで、クローバーとよく似ているが別種の植物で、その旺盛な繁殖力から、子孫繁栄の意味が込められているという。肉厚で見慣れないデザインだが、是非とも作者名を鋳出して欲しかった。この時期に活躍していた、当サイトで知り得る鋳物師の作品では無かろう。見た目の趣向が全く異なり、思い当たる人がいない。

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●丸ノ内線東高円寺駅の北側に在する杉並区高円寺南の、高円寺天祖神社。「新編武蔵風土記稿」の多摩郡高円寺村の項にある神明社で、御祭神を天照大御神とする周辺の鎮守様だ。創建は、寛治元年(1087)と伝わるが、伊勢神宮の御分霊を賜ってこの地に奉斎したという。

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関東大震災後、氏子区域内の居住者が急増したのを契機に、大正15年(1926)に社殿の大修築と境内整備がなされ、昭和2年(1927)10月には村社となっている。1対の天水桶は、社殿の屋根の色とのマッチングが心地よく、一体を成していよう。大きさは口径Φ890、高さは950ミリだ。地元の有志の寄進で、「宮司 宮澤義夫」の時世であった。

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「昭和丗年(1955)一月吉日」の設置だが、作者は不明で、鋳鉄製だ。この鋳出し文字の「丗」は、「十」が横に3つ並んだ形で「30」を表している。辞書によれば、これは漢字の造字法の1つで、既存の文字を組み合わせ、新たな文字を生み出す方法、「会意文字」であるという。例えば「休」という漢字は、「木」の陰で「人」が「やすんで」いる様子だが、良い見本という。


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●東へ移動すると中野駅の南側、中野区中央に、福王山弥勒院慈眼寺がある。天文13年(1544)創建で、境内にはパゴダと呼ばれるミャンマー様式の仏舎利塔がある。日本の仏塔と同様、釈迦仏の遺骨や経文を安置するための施設だ。

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堂宇前の2基のこれは羽釜(後94項)を代用した天水桶だ。桶を意図して鋳造したのではなく、お役御免後に流用したのだろうが、何人炊きだろう、大きめな釜で水を満々とたたえている。大きさは、羽の最大外径部でΦ1.6m、高さは930ミリだ。両脇には、移動用の吊り輪もついていて、真正面には卍紋があるが、これは調理釜としての退役後に描かれたものだろう。

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●鋳造年月日は不明だが、羽の上側に作者名が鋳出されている。「野州佐野 正田鋳物製造所」で、「○に一」の社章も確認できるが、この社章は、後125項でも登場している。「野州」は、下野国(しもつけのくに)であり、現在の栃木県だ。埼玉県川口市、増田忠彦氏所蔵の「諸国鋳物師控帳」を見てみよう。

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表紙には文久元年(1861)の記入があるが、「下野国安蘇郡 佐野天明駅」の項だ。計19人の名前が列挙されていて、「正田」姓が4人いる。又右衛門、利右衛門、喜兵衛、そして、治郎右衛門であり、延々と襲名されてきたのが判るが、由緒ある鋳物師の家系であった。

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●もう1例、正田が鋳た羽釜を見てみよう。場所は、神奈川県足柄上郡松田町松田惣領にある中沢酒造(株)で、今の代表は10代目の鍵和田茂氏だ。ホムペのトップページには、「丹沢の地酒 松みどり この地で酒を醸して200年。創業文政8年(1825) 今も昔も変わらず、全量手造りにこだわる」とある。令和2年(2020)の国税局酒類鑑評会では、清酒純米燗酒部門で優等賞を受賞しているが、画像の右端に写っているのが「松美酉」の酒樽だ。

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「松田周辺の庄屋を生業とする一方で、神奈川県産の足柄米を使い、日本酒造りに精を出していました。当時は小田原藩の御用商人として大久保家に出入りしており、お酒を献上したところ、藩主大久保氏より“松美酉“の名を賜りました。この“松美酉“の名は、“松”は蔵の横を流れる酒匂川沿いの松並木を、“美”は松田町の美しい風景とこの美酒を、“酉”は酒壷の形を表し、一文字で酒を意味すると代々語り継がれています」という。

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販売所前に、前例と同じような大きさの退役した羽釜が、2基置かれている。画像を90度回転させてみたが、やはり同じ位置に作者名が鋳出されている。「野州 ○に一 鋳物製造所」だが、前例と違い「佐野」と「正田」の文字は無い。しかし社章は全く同じだ、正田製に間違いない。

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●正田家は、現在も佐野市金吹町で正田鋳造所として美術鋳物を中心に営業しているようだが、羽釜の鋳造はここの系統だろう。画像の建物の表札には、「御鋳物師 正田治郎右衛門 号暘谷(ようこく)」とあり、ここの奥で鋳造しているのか不明だが、発祥の地など象徴的な場所であるに違いない。

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さらに横看板には、「抹茶器 鳥獣置物 風流火鉢」などとあり、「鑄(鋳)造所 正田暘谷」となっている。暘谷は、明治26年(1893)生まれの正田菊次郎で、治郎右衛門の名を継いだ28代目であった。同家は、安政6年(1859)に朝廷へ献上した際の「紙本着色灯籠献上図(絵巻)」や同型の「六角鉄釣灯籠(高さ36cm)」など、多くの佐野市指定の文化財を保持している。

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●また「金銀紫青黒黄」とあり、取り扱っている銅や錫の色合いを意味するのであろう。紫色というのが気になるが、これは、戦後に特化したという合金鋳物で、同氏が得意とする「紫銅焼」による工芸品に見られる。鋳造して磨き上げた後、高温で焼かれた部分は赤紫色に、比較的低温で焼かれた部分は黄金色になるという。この焼き方具合が正田ブランドなのであろう。

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ネットオークションを見ても、「斑紫銅花瓶」などと銘打たれた作品があるが、深みのある重厚な作品だ。また、同家の系統の方であろうが、一般公募による「佐野ルネッサンス鋳金展」では、正田忠雄氏が「朧銀花入 丹頂」を出品して賞を得ている。

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●「暘谷」銘が入った貴重な手水盤(前7項)が現存するので見てみよう。栃木県佐野市富士町の唐澤山神社(前11項)だ。ホムペによれば、「明治13年(1880)10月、藤原秀郷公の子孫佐野氏及び旧臣らが、秀郷公の遺徳を称え公の御霊を祀る神社創立のため東明会を組織する。その後の明治16年10月、東明会の尽力により唐澤山古城本丸跡地に当神社が創建鎮座し、明治23年12月1日、別格官幣社(旧社格)に列せられる」という。

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国指定史跡の唐澤山城跡は、標高240mながら全山赤松に覆われ、断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞だ。平安時代初期の武士であった秀郷公は、延長5年(927)に下野国(今の栃木県)の警察にあたる押領使に任ぜられ、父祖伝来のこの地に城を築き居城としている。手水盤は鋳鉄製で、大きさは、横1.300、奥行き720、高さは560ミリだ。

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●正面に「奉納」と陽鋳造され、焔玉宝珠(前11項前33項後94項)や龍神が浮き出ている。額縁を廻っている紋様も龍神であろうか。「明治二十四年(1891)第十月」の造立で、横面には「下野國安蘇郡佐野町」、「御鋳物師 正田利一郎 正田又右衛門 正田治郎右衛門 大川四郎治 永嶋喜平(前25項後108項)」らの名が並んでいる。さながら、当時先頭だって活躍していた鋳物師名簿の様だ。

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上の画像の左端の黄色い板は、水道の蛇口の支えだ。「平成19年(2007)5月吉日 奉献 報恩感謝 天命鋳師 若林秀真(後97項)」の鋳造となっているが、先達らへの敬意を表して鋳られたものだろう。若林家も佐野の天明鋳物師なのだ。

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そして手水盤の作者銘は、背面を独占して「鑄造 正田治郎右衛門 暘谷」と鋳出されている。角の印影(前13項前65項)は「御鋳物師」のようだ。暘谷がこれをここに配したのは、連綿として続く勅許鋳物師の家系としてのプライドであろう。

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●さて、寛永18年(1641)に開発が始まったという、新潟県魚沼市にあった上田銀鉱山の記録を見ると、幕末に、正田家により銀や鉛の採掘がなされたという。この採鉱は順調で、江戸初期の政商、河村瑞賢の頃をしのぐ成績を残しているが、相応な財閥であったことが窺える。

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佐野の鋳物師は、古来より天明鋳物師(後108項)と称されてきたが、諸説ある中、伝承によればその起源は、天慶2年(939)にこの地の豪族であった藤原秀郷が、武器鋳造のため河内国丹南郡(大阪)から5人の鋳物師を移住させたことによるという。

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●江戸時代には、100軒ほどの鋳物業者と数百人もの鋳物師がいたというから、鋳造物の一大産地だったのだ。この時代に多くの鋳造物が造られたが、例えば日光東照宮(後107項)にある、各地の大名から奉納された青銅製の宝塔や灯籠類も、天明鋳物師による鋳造だ。あるいは後116項では、栃木県佐野市金井上町の春日岡山佐野厄除大師で、画像の佐野天明の鋳工105人が合作した梵鐘を見ている。

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前59項では、川口鋳物師らは、佐野天明鋳物師の後胤、つまり子孫であった事を知った。文京区向丘の浄土真宗本願寺派の涅槃山西教寺の鐘銘だ。「武州足立郡川口宿 永瀬次良右門」は、「天明四甲辰歳(1784)十二月吉日 天明伊賀守後胤」という証言を遺していたのだ。

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●また、かの大坂冬の陣(慶長19年・1614)の起因となった京都市東区・方広寺の銅鐘もその1つだ。「国家安康」、「君臣豊楽」という文言に徳川家康が難癖を付けているが、これは慶長年間末期に天明鋳物師が上洛し、京都、江戸の鋳物師と共作したもので、口径2.8m、高さ4.2m、重量82.7トンで、国の重文だ。百聞は一見に如かずだが、一目瞭然、巨鐘と呼ぶほかない。

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方広寺は数奇な運命をたどっている。豊臣秀吉が天下人として威勢を誇示し、豊臣家繁栄祈願のため、文禄4年(1595)に19mもの木造仏を造り、奈良東大寺を凌ぐ大仏殿を完成させている。が、翌年の大地震で倒壊、この時秀吉はご利益が無いからと、なんと甲斐善光寺の阿弥陀如来像を移送し、本尊にするよう命じている。図の都名所図会では、大仏殿の中に仏像が見える。

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●ところが、慶長3年(1598)8月22日の落慶供養の4日前に秀吉が死去、本尊とは成らなかった。嫡子秀頼は寺の再建を始めるも、慶長7年に火災で焼失してしまう。慶長19年(1614)、家康は豊臣家の財力を削ぐため、17回忌供養に合わせ再建させているが、ここで先の鐘銘事件が起きている。

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寺は、その後の寛文2年(1662)に地震で倒壊、その時被害を受けた金銅大仏は寛永通宝に鋳つぶされ、大仏は木造に代わっている。寛政10年(1798)に落雷で木造仏は焼失、堂宇は天保14年(1843)に規模縮小で造立されたが、昭和48年(1973)、またもや火事で焼けている。

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このように度重なる被災で、創建当時の建築物や宝物は全て失われているが、不思議な事に巨鐘だけは無事で、鐘銘も削除されずに今現在も鐘楼塔に掛かっている。大坂の陣後にでも破壊されてしかるべきであったが、豊臣家を滅亡させた突端となる証拠品を、徳川家が何が何でもこれだけはと、今に伝え遺したとしか思えない。刻まれている文字は、時を超え重要な意味合いを持っているのだ。

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最後になるが、これら慈眼寺の天水桶も中沢酒造の羽釜も、鋳出された銘が時代の流れを物語る天明鋳物師による稀有な一品であり、永劫に管理保守して後世に残していただきたいものである。今日現存する「正田銘」の遺物は少ないが、正田家については、後97項後124項後129項などもご参照願いたい。つづく。