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●昭和後期から平成にかけて作られる天水桶のほとんどは、青銅製だ。真新しい鋳鉄製のものを見かけることはほぼ無い。何故だろう。まず第一に、青銅製は、メンテ要らずという事だろう。鋳鉄は必ずサビるから、定期的な、と言っても何十年かに1回で事済もうが、防錆塗装する手間とかコストを計算しなければならない。
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鉄の赤サビは時間と共にさらに酸化が進んで、強固で安定した黒サビに変化する場合がある。黒サビは黒染めに似て耐食性があり、これが形成されるとさらなる腐食は進み難くなると言う。そうなれば、塗装の手間は無くなると言うことだろうか。それにしても劣悪な環境下で使用される運命にあるのが天水桶である。常に風雨にさらされ、内側はいつも水分100%、サビとの戦いからは逃れられまい。
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●そろそろ、塗装して化粧直しして欲しい桶を見てみよう。台東区今戸の真宗大谷派、臨川山本龍寺は、隅田川にかかる桜橋の西側に位置する。元和2年(1616)の創建という。ここに、鋳鉄製の天水桶が1対ある。大きさは、口径Φ900ミリの3尺サイズ、高さは1.300ミリだが、大き目な台座で、高さは350ミリもあり安定感抜群だ。

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正面には「右離れ立ち葵紋」が見られ、額縁には龍が踊っているが、本堂の飾りとの対比がいい。「川口市 山崎甚五兵衛(後84項)」作、「昭和44年(1969)7月」製だから、43年経過している。塗装がヒビ割れてしまっているようで、もう限界かも知れない。

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●荒川区荒川にある真言宗豊山派、清瀧山龍光院観音寺は、豊島八十八ケ所霊場の6番札所で、徳川将軍家の鷹狩りの際の御膳所だった寺だ。区の掲示によれば、『江戸時代の三河島近辺は鶴の飛来地で、毎年11月からの農閑期に、竹の囲いを廻らして、つるの餌付けがおこなわれていた。 将軍家は特に8代吉宗以降、頻繁に鷹狩りを行った。

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なかでも鶴は珍重され、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしであった。三河島筋の鶴お成りの際には、観音寺か法界寺(後64項)が御膳所にあてられた。 

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観音寺にお成りの場合は、将軍は正門からではなく、東側の竹藪を切り開いて出入りしたという。その都度寺では土地の名産「三河島菜」を献上するのが通例であった。』昭和の東京大空襲で焼失するまで、将軍が休憩する座敷が残されていたという。

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●1基の天水桶は、鋳鉄製鋳物にしては珍しい蓮華形だが、大きさは口径Φ1.070、高さは850、台座は400ミリだ。天水桶は、通常は2基で1対であるはずなので伺ってみると、本堂新築の際にその裏側に移動したという。現在は立ち入れないので拝見出来なかったが、現存するのは間違いなさそうだ。正面に山号の「清瀧山」が見えるが、もう1基には寺号の「観音寺」が表示されているのかも知れない。

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赤サビが激しく、触るにはかなり抵抗がある。こうなると、サンドブラストをかけてサビを落とし塗装するしかないが、見違えるはずだ(後79項)。表示銘は、「昭和10年(1935)2月 星野宥清代」、鋳造者銘は「川口市 田中鋳工所製」、そして角印と丸い社章紋だが、鋳出し文字の位置が異風で、下部の台座に横書きされている。なお、田中氏系統の作例は、前6項に全てのリンクを貼ってあるので、ご参照いただきたい。

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●サビていると、こんな不都合も出てくる。溶けだした鉄分が流れ出し、台座を茶色に染め、そのうち敷地をも汚すことになる。見た目も悪かろう、いずれ、メンテナンスが必要になってくる。画像の足立区東伊興の松賢山本行寺は、浄土真宗本願寺派。隣には、幼稚園が併設されている。

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1対の鋳鉄製天水桶の鋳造は、「山崎甚五兵衛」銘で、大きさは口径Φ970、高さは870ミリだ。「昭和58年(1983)」製だから、まだ30才弱の桶だが、やはりそろそろ再塗装する時期かも知れない。

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●また、衝撃には弱いから、いずれヒビ割れて漏水するかも知れない。大きな亀裂は本来の目的をなさなくなる。事実、「染み出ている」程度に漏水している桶は、しょっちゅう見かける。一方の青銅は、鋳鉄よりも弾性があるので、割れには強いし、度々の塗装の必要もない。新品のうちは染色、煮色(後62項)による表面処理が施されているようだ。

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川口市安行領根岸の岸栄山妙蔵寺は日蓮宗で、長栄山池上本門寺(後22項)第3世の日輪上人(延文4年・1539年寂)が開山している。青銅製の天水桶1対は、「昭和62年(1987)」に施主が奉納している。緑青に覆われている様にも見えるが、風景に溶け込んでいて社殿の風格をあげていよう。寺紋は「下り藤だが」、その真ん中には日蓮宗の象徴である「橘紋」が配されていて、アレンジされているようだ。

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●足立区伊興本町の時宗、西嶋山煎雲院応現寺。現存する瓦葺破風の四脚門は、寛永14年(1637)の建設で、江戸時代初期の山門様式を伝える珍しい遺構だ。旧寺域から発掘され出土した兜・経筒・五鈷鈴・唐宋の古銭等は、東京国立博物館に保管されている。(区教育委員会掲示より)

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1対の青銅製の天水桶は平成19年(2009)4月製だから、まだ若干5才で、新しい社殿とのマッチングも悪くない。一方で、前の古い桶はどうなったのだろうか。潰されてスクラップ処理されてしまったかと思うと、気掛かりでならない。

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●続いての戸田市上戸田の瑞光山海禅寺は、臨済宗建長寺派で本尊を薬師瑠璃光如来像としている。建長寺11世大通禅師(正安4年・1302年寂)を勧請開山として創建したという。足立坂東三十三ケ所霊場の19番となっているが、これは、宝永2年(1705)に創設された霊場巡りだ。

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蓮花型で青銅製の1対の大きさは、口径Φ1.2mの4尺サイズ、高さは1.15mだ。奉納は、「平成元年(1989)11月吉日 当山現住 瑞厳代(13世)」となっている。正面に据わっているのは、「丸に結び雁金紋」だが、脚の部分がぐるっと巻いているから「結び」だ。通常、その顔は画像の様に左向きだが、堂宇右側の1羽は右を向いていて対面している。

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雁は、群れを作って飛ぶ様が「絆」や「統率」を連想させる鳥で、その首は長めだが、家紋では、なぜか短めにアレンジされていて、どこかユーモラスだ。戦国武将の柴田勝家が、これ系の「二つ雁金紋」を使用している。勝家は、織田信長家中では最強の武闘派で、豊臣秀吉と後継を争い自刃している猛将であったが、そのイメージに似合わない可愛らしい家紋だ。

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●次は、栃木県佐野市犬伏下町の浄土宗東明山光徳寺。創建は、唐澤山城主・藤原秀郷の家臣、柏崎高徳だ。城は、「関東一の山城」と称されるが、城跡は国の史跡に指定されている。この城跡には唐澤山神社があるが、後66項で登場している。秀郷公の遺徳を称えて創建された神社だ。

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築城は延長5年(927)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐澤山に築いたのが始まりという。秀郷は、平安時代中期の貴族、豪族、武将で、天徳2年(958)に没しているが、ここの山号が入った「東明寺殿野州大守東秀関郷大居士」という戒名を受けている。

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 1対の天水桶は青銅製で、上部には蔦紋様が廻っている。「光徳寺檀信徒一同」、「平成5年5月吉日」の奉納となっているが、ここの本堂は、宝暦10年(1760)に再建、 平成5年(1993)に老朽化が進んだ旧本堂を再建しているので、それを記念しての造立だろう。

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●焼き物系を見てみよう。八潮市大曾根の真言宗豊山派、光林山福寿院。本尊の阿弥陀如来は1尺5寸の坐像で、地頭であった森川氏の家人根塚善左衛門定武の奉納であると伝わるという。新四国四箇領八十八ケ所霊場74番となっている。これは中川の両岸沿いにある四ケ領の葛飾郡東葛西領、葛飾郡二郷半領、 足立郡淵江領、埼玉郡八条領の弘法大師像を巡礼する霊場で、天保12年(1841)に開創したという。


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1対は、常滑(とこなめ)焼(後85項)の天水桶だ。愛知県常滑市を中心とした地域で焼かれる陶器で、寺社仏閣で見かけることも多いが、製作者の名前が刻まれていることはほぼ無い。石の台座には、「昭和16年(1941)」の奉納と刻まれている。

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●千葉県館山市那古の補陀洛山那古寺(なごじ)は、真言宗智山派の寺院だ。寺伝によれば、奈良時代の僧侶行基が元正天皇の病気平癒を祈るためこの地を訪れ、千手観世音菩薩を安置して祈願すると天皇の病気は平癒し、勅命によりこの寺が建てられたという。本尊は銅造りの千手観世音菩薩で、通称の那古観音の由来となっている。像高は105cmで、国の重要文化財だ。

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観音堂前の天水桶1対は、焼き物の陶器製だが、高さ1mほどの大きなもので存在感がある。正面には「用水」と銘打たれているので、水溜めとして誂えられたものだろう。台座に「昭和24年(1949)6月吉祥」とあり、檀徒総代が奉納している。

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●メンテ要らずならば、石製の天水桶も多い。荒川区西日暮里の日照山法光寺。西郷若狭守正員が開基となり、寛永3年(1626)、赤坂一ツ木に創建している。西日暮里駅近くに位置する富士見坂(後29項)の下にあるため、通称「富士見寺」とも言われる。花崗岩の天水桶の表面はピカピカだ、これならサビの心配も無い。

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もはや消火用水貯水槽ではない、入る水量はわずかだ。落下してくる水の勢いを食い止め、下へ流すのが役目だろう。花崗岩は、楯状地や造山帯に分布する大陸地殻を代表する深成岩石だ。

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色や呼称は産地やメーカーによって様々で、堅牢で風雨に強く、磨くと光沢が出るという特徴がある。土木・建築用石材や墓石として利用されるのはこのためだ。英名はグラナイトで、南米・アンデス山脈産の安山岩、国内では、神戸・六甲山の御影石が有名だ。

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●足立区谷在家の浄土宗、荘厳山功徳院清徳寺。慶長16年(1611)、両国矢ノ倉に創建というから、4世紀を経た古刹だ。ここには何の陰刻もない石造の天水桶があるが、これもサビとは無縁だ。花崗岩は、その組成によって見え方が随分と違うが、石目の表情によって呼称が色々ある。

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白っぽい花崗岩では、「稲田石 天光石 深山吹雪 本糠目(ほんぬかめ)」などだ。上下の2例は、国産であるとすれば神奈川県の「本小松石」であろうか、茨城県の「真壁石」であろうか、それとも香川県の高級ブランド「庵治石(あじいし)」であろうか。大きさは口径Φ1.050、高さは1.100ミリとなっている。

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●足立区北千住の千龍山慈眼寺は、掲示板によれば、正和3年(1314)2月、行覚上人が関東巡錫の時に創建されたという。3代将軍徳川家光の時、聖観世音菩薩像を安置し本尊として以来、日光東照宮社参の際の休憩所となっている。その由縁で、葵の寺紋の使用を許されたという。

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ここの天水桶の意匠は奇抜と言えるが、モチーフはハスの花だろう。この花崗岩は灰色だが、産地によって色合いは様々なようだ。外国産では、中国、インド、南米、ノルウェー産が多いようだが、素人目では判断出来ない。「弘法大師一千百五十年 御遠忌記念 昭和六十年秋彼岸 当山第十一世 了昭代」での設置であり、大きさは口径Φ1.100、高さは960ミリとなっている。

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●埼玉県川越市石原町の天台宗、高澤山妙智院観音寺。ここは、長盛(寛永18年・1641年寂)が開山している。本尊の正観音は、立像の七寸二分で弘法大師の作という。天水桶は、黒っぽい花崗岩製で、表面にハスの花模様が彫り出されていて洒落ているが、実に自由なデザインだ。黒系には、「黒アフリカ インド黒 山西黒(中国産)」などの種類があるようだが、白色よりも汚れが目立ちにくそうだ。

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●文京区向丘の桂芳山護念院、瑞泰寺は浄土宗だ。光蓮社勝誉上人桂芳和尚が開山、京極高知が開基となっているが、同家の菩提寺だ。高知は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名だ。豊臣秀吉や徳川家康にも仕え、関ケ原の戦い後は、丹後12万3千石を与えられ、京極丹後守を称している。天保9年(1837)刊の東都歳時記によると、江戸六地蔵の第一番の銅造地蔵があったというが、現存せず今は、石仏となっている。

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寸胴形は珍しい。大きな石から工作機械でくり抜くのだろうが、大変な手間暇が掛かろう。寺紋は、「目結(めゆい)」の中の「隅立て四ツ目」のようだ。染め模様の鹿の子絞りが図案化されたものだが、「結」の字にかけて人の結束や団結を暗喩している。石目は、メーカーに依っても呼称は千差万別なようだが、これは、「インド銀河」だろうか。

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●大田区仲池上、西馬込駅近くの長松山林昌寺は日蓮宗で、文亀3年(1503)の創建だ。本山の
長栄山池上本門寺(後22項)の僧、福寿院が、上池上の地に閑居し草庵を結んだのが始まりという。

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大雄殿前には、真ん丸な球状の花崗岩の水受けがある。雨水の落下衝撃を受け止め、下へ流すだけの役目で貯水はできない。それを支える脚も球形で、洒落たデザインだが、どうやって丸く加工するのだろうか。旋削ではチャッキングできそうに無い。その台座にはハスの花弁が刻まれているが、この色合いは、「インド赤」と呼ばれる石に近そうだ。

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本堂前のは「受け」ではない、貯水もできる石製の天水桶だ。大きな石から彫り出したようだが、大きな日蓮宗の紋が誇らしい。この紋は、個別に製作しておいて、あとから正面に固定したのであろう。

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●蓮慶寺は、東京都調布市布田にある日蓮宗の寺院で、山号は惺誉山だ。旧本山は大本山長栄山池上本門寺。慶安4年(1650)に3代将軍徳川家光から寺領10石9斗の御朱印地が下賜され、住職の乗駕が許され、朱塗りの赤門設立を許されたというが、これは今も現存する。本堂および室町時代の作という日蓮上人坐像等は、市指定の文化財だ。

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四角い天水桶の正面には宗紋が置かれ、10個もの手桶が屋根付きで保護されている。造立は、昭和43年(1968)2月だが、堂宇前を飾るに相応しい味わいある1対だ。ここの梵鐘も鑑賞に値する。「武州多摩郡下布田宿 惺誉山蓮慶寺什」と縦帯(前8項)に刻まれ、「維持元治元年(1864)龍集(後19項後23項)甲子十一月」とある。作者の銘は、「谷保住 関忠蔵(後126項)」だが、これは現存数が少ない稀有な1口(こう)だ。

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●千葉県我孫子市白山の自性山興陽寺は曹洞宗で、室町時代末期の創建だ。宝暦10年(1760)頃開創という新四国相馬霊場八十八ケ所59番だが、それを示す石碑「予列国分寺格 四国五十九番」が寺の入口にある。

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ここに、自然石をくり抜いて作った天水桶がある。何の文字情報も無いが、本堂落慶記念日が「平成3年(1991)11月16日 住職 山高敬信」であったので、その頃の造立かも知れない。型に溶解した金属湯を流し込んで作った画一的な金属製桶とは違って、無二の個性が抜群にいい。いつまでも見入ってしまう。

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●目黒区下目黒にある天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師円仁が開創したといわれ、不動明王(後20項)を本尊とし、通称、目黒不動尊として親しまれている。国指定の史跡としては、甘藷先生として知られる青木昆陽(1698~1769)の墓がある。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、後期には境内で富くじが行われるようになり、「江戸の三富(後25項)」と称された。(掲示板より)

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 瀧泉寺という呼称は、慈覚大師が、堂塔建設地を占って地面に独鈷を投じたところ、たちまち泉が湧き出したとの伝説によっている。「開山以来、千百有余年涸れずに流れる霊水」と謳われているが、かつては不動行者の水垢離の場となっていた。現在も途切れない「独鈷の滝」の水は「龍御神水」とも呼ばれるが、画像の様に龍神が水を吐き出している。

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よく見ると、龍神はそのあごの下で焔玉(ほむらだま)とも如意宝珠(後33項後94項)とも呼ばれるボールを抱えている。ドラゴンボールだ。この珠はどんな願いをもかなえると言われ、病を治したり災いを避けたりする事が出来るともいう神聖なボールだ。寺社の屋根最上部などでもよく見受けるし、家紋としても用いられるのはそんな意味合いからだろう。

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●区指定の文化財としては、天和3年(1683)造で、江戸住の鋳物師、横山半右衛門尉正重作の「銅造大日如来坐像」や画像の「銅造役の行者倚像(いぞう)」などがある。「倚像」は、台座や椅子に腰をかけ、両足を前に垂らした姿の仏像だが、ここでは、奈良時代の山岳修験道の祖の役小角(えんのおづの)だ。この銅像は、寛政8年(1796)の作で、総高142.2、座高92.7cmだが、黒光りしているこの色合いはカラス銅だ。

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頭巾をかぶり木の葉の肩衣をかけ、右手に錫杖、左手に巻子(かんす)を持っている。瘦せ型の神秘的な面相で均整の取れた体躯だが、着衣のシワなどの写実的な表現は精緻と言える。頭部と胴部は1つの鋳造物で、手足はそれぞれ別鋳したものを差し込んでいるという。

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鋳造者の銘は右膝に刻まれているが、長きに亘って撫でられ続けてきたのでテカっている。「江戸神田住於玉池 鋳工 太田駿河守 藤原正義」という陰刻だが、江戸六地蔵(後77項)の作者として知られる江戸随一の名工鋳物師の作例だ。「於玉池」は「お玉が池」だが、今の千代田区岩本町あたりにあった池だ。上野の不忍池よりはるかに大きな池であったというが、正義の居住地が詳細に知れるこの刻みの存在は、貴重と言える。

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●さてここの水受け1対は、つくばい(蹲踞)を利用した天水桶で、大きさは口径Φ780、高さは450ミリだ。ウィキペディアによれば、『日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。

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手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めたのが始まりである。茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用する』とある。

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このつくばいのモチーフはハスの花弁(後66項)だろう。つくばいの種類も様々で、「菊型 夏目型 銭型」などがあるようだ。そこそこ肉厚があるとはいえ、石だから衝撃には弱そうだが、なるほど、少なくとも塗装のメンテは不要だし、太陽光にも強そうだ。昨今は、天水桶のメーカーとして、石屋さん系統が多くなってきているようだ。つづく。