.

●前話だが、街中を散策していると多くの100円ショップに出会う。ワンプライス商法の百均だ。無数とも思える商品が陳列されているが、これが本当に¥100で製造し販売できるのかと感心する商品も多い。この商法、現今に発案されたものではない。江戸後期には、「四文屋」という食べ物の屋台が登場している。波銭と呼ばれる4文銭銅貨1枚均一の店だが、1文を25円とすれば¥100円、ワンコインだ。

.

文化年間(1804~)には、38文均一で小間物、日用品を露店売りする商売があったし、「十二文茶漬」という茶漬屋もあった。「守貞漫稿」は、天保8年(1837)に起稿された、江戸時代後期の江戸・京都・大阪の風俗やら事物を書き記した百科事典で、近世風俗史の基本文献とされている。

.

●この中に「三分亭料理、葦屋町新道に一種各銀三分の料理店を出す。その後所々にこれを開き、各屋号を三分亭と云ふ」とある。3分は銀3分の事で、1分は1匁の1/10だ。金1両=銀60匁(600分)=銅4.000文=¥10万円とするならば、1品約¥500ほどで料理を提供したのだ。

.

因みに、「三分」は「さんぷん」と読むようだ。読みが「さんぶ」では4分の3両になってしまうので誤りだろう。この様に、今に見られるワンプライスの明朗会計さは、先達の賢い知恵であった。次のイメージ画像は、江東区白河の深川江戸資料館(後43項)で見た天麩羅屋だが、1串4文で商ったという。

.

●また、四文銭が登場した事で、団子屋では異変が起きている。それまでの団子は1個1文で、1串に5個が刺さっていて5文で売られていた。しかし四文銭が流通するようになると、金銭の授受に関して面倒な事が起きてきた。お釣りだ。

.

つまり四文銭2枚、8文の支払いに対して、3文を返さなければならない訳で、これは手間が掛かる。そこで団子を1個減らし、四文銭1枚の支払いで済むワンコイン商法となったようだが、時流に合わせた変革であった。イメージ画像は、小江戸川越の時の鐘(後65項)の前で食したみたらし団子だが、4個刺しの影響は今や定着している。

.

●因みに、江戸時代に庶民の間で使われていたのは専ら銅貨であったが、「東国の金遣い」、「上方の銀遣い」と言われた様に、東西で経済の決済法に違いがあった。江戸に強健な行政府があったにも関わらず、古い歴史を持つ銀経済は根強く、金経済は浸透していない。

.

従って金銀銅貨を相互にやり繰りする両替商の発祥、繁盛は必然であった。天保6年(1835)に創鋳された天保通宝は、100文の価値とされたが、実際には80文でしか通用しなかったという。質量的に寛永通宝100枚分の価値に相当しない貨幣だったのだ。

.

●秤量貨幣、つまり重さを基準とする銀経済は十進法であり、匁、分、厘、毛と細かく端数まで計算できた。1匁は、1.000毛だ。一方金貨は、両、分、朱の3段階の四進法で、その最小単位の1両の16分の1の1朱は、銀に換算すれば3.75匁、3匁7分5厘であるが、それ以下には細分できない。

.

銅貨で言えば、4.000文÷16=250文が1朱、円なら¥6.250円だ。一説によれば、当時、ソバ1杯は16文、¥400円ほどであったという。代金として1朱金貨を差し出して、銅貨でのお釣りを要求しても無理な取り引きであった。

.

●さて、これまでに巨大な天水桶をいくつか見てきた。後55項からそれらをご覧いただけるが、口径6尺、Φ1.8mという、見上げる程にそびえ立つ大きさの桶もあった。では、最小の天水桶はどんなものだろう。

.

一般家庭にあるバケツは、直径でΦ300、高さは270ミリくらいのものが通常使われていよう。かつて川口鋳物師の鈴木文吾が言っていた。直径と高さの比率だが、高さは8、9割であるのが最も安定的だと。なるほど、古来からの経験値がバケツにも生かされているのだろう。
.
●ここは、江東区亀戸にある亀戸水神宮で、小さな社だ。亀戸水神奉賛会の由緒書を要約すると、創建は古く、室町時代の享禄年間(1528~)と推定され、土民が水害から免れようと、堤上に大和国吉野の丹生川上神社から勧請したもので、祭神は弥津波能売神(ミズハノメノ神)という水を司る女神だ。


.
Φ300ミリは、約1尺だが、それより少し大きい口径1.5尺、Φ470ミリの鋳鉄製の天水桶1基がここにある。大きすぎるとバランスが悪かろう、高さも470ミリと、祠のように小さな社殿の身の丈に合った桶だ。

.
製造年月は不明だが、「田口鋳造所」という所が製造している。昭和57年(1982)3月刊行の東京鋳物工業(協)の名簿には登場しないが、その中の歴代役員名簿をみると、昭和の半ばの6、7年の期間に理事を務めたようだ。「(有)田口鋳造所 田口鏡一郎」だが、名簿発行の時点で故人となっているから、それ以前の鋳造だ。


.
●余談だが、この桶、文字の判読ができないほどの土埃で非常に汚れていた。それを持参の小ぼうきで清掃して撮影したのだが、文字が浮き上がり、鮮明になった。ここに限らず、地面近くに設置されている場合、同じ状況が多い。中央区東日本橋の智泉院(前18項)の釜七製の桶の時もそうだった。その時はかなり懸命に清掃したのを思い出す。
.
先日浅草界隈を散策中に、小ぼうきを商っている店に出くわした。瞬時に思いついたのが、上記の使い方。そして衝動買い。硬めの毛先で、長さは120ミリといたってコンパクトだ。過去の項で記述の通り、同時に写り込んでいる小さな懐中電灯も文字の浮き立たせに有効だが、これらはいつでもどこでも街中の百均で手に入るので、本当に便利だ。

.
●さて、同じく亀戸つながりだが、鎮守の亀戸香取神社は応安4年(1371)の鎮座だという。狛犬や神輿など文化財も多く、亀戸七福神の大国神、恵比寿神としても知られている。亀戸七福神は、都内江東区内の寺社に祀られている七福神の巡礼札所だ。

.
スポーツ選手がよく訪れるというが、『歴代の天皇をはじめ源頼朝、徳川家康などの武将達、また剣豪塚原卜伝、千葉周作をはじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受け、武道修行の人々は香取大神を祖神と崇めていました。このような由来から、亀戸香取神社は「 スポーツ振興の神」として、スポーツ大会や試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れ篤い祈りを奉げています』という。(ホムペより)

.
●階段の左右にわずかに見えるのが、鋳鉄製の天水桶1対だが、幅広の額縁には、雷紋様(後116項)が廻っている。「8月大例祭記念」での奉納で、裏側には多くの氏子や総代の名前が並んでいる。

.
「昭和31年(1956)8月」、「製造人 金子正夫 小澤章八」銘という桶で、多少後述するが、製造人2人の詳細は不明だ。並んで「鋳工 長谷部カ衛」となっている。これだけでは長谷部の人物像は判らないが、後121項では、彼の大きな仕事を目の当たりにする事になる。長谷部は、川口鋳物師なのだ。

.
●同じく、江東区亀戸の亀戸石井神社は、俗に「おしゃもじ稲荷」と呼ばれ、咳の病をなおす神として信仰されている。文政3年(1829)刊行の、大石千引著「野万舎随筆」に、「咳神(せきがみ)、葛飾の亀戸村にオシャモジという神の祠有り、神前に杓子を夥しく(おびただしく)つめり、依って其故よしを土人に問けるに、咳病を煩う人、此神に願たてぬれば、さはやぐ事すみやかなり。此故に報賽に杓子を奉納するといへり」とある。(境内の印刷物を要約)

.
社殿から離れた位置にあって、天水桶としての役目は果たしておらず、羽釜とも違う感じだが、この鋳鉄製の1基は何の形をイメージしたものであろうか。大きさは、口径Φ840、高さは510ミリだ。

.
上面を見た様子だが、何の紋様だろう。これは上述の「神前に杓子を夥しくつめり」の、シャモジの紋様ではなかろうか。するとこの物体は、炊飯器、飯盒(はんごう)をイメージしたオブジェであるかも知れない。境内の石碑の刻みにもあるが、ここは、「飯杓子稲荷」とも称されていたようだ。

.
●裏側には銘があるが、本体の割に大き目な鋳出し文字で、「昭和55年(1980)5月 小澤鋳造所」さんが作っている。先ほどの桶に「小澤章八」氏の名前が見られたが、亀戸つながりでもあり、関連がありそうだ。

.
小さな本殿の両脇にある1基の桶は、鋳造物ではない。1.5尺の丸い鉄パイプに底板を溶接し、上下に帯板をロール巻きした額縁を廻らせたもので、高さ50cmの製缶品だ。なるほどこれでもいい、水受けにはなるが、小さいだけにバケツのイメージだ。

.
●次は江東区亀戸の江東天祖神社だが、亀戸七福神の福禄寿としても有名。社殿は関東大震災後の昭和4年(1929)に、日本初の防災建築として竣工している。内部は総槍造り、外部は鉄筋コソクリート製で、幸いにも、空襲被災からも免れている。

.
1対の鋳鉄製の天水桶の正面には、「宮元」と鋳出されていて、「三つ巴紋」が見られる。大きさは口径Φ930、高さは850ミリだ。サビが酷くなりつつあるので、そろそろ再塗装の時期であろう。腐食して穴が開いてしまうと再起は不能だ。後79項で見るように早めにメンテナンスし、リニューアルする事が肝心なのだ。

.
作者を示す銘は、「亀戸宇野工場 謹製 鋳工 小泉太助 大正11年(1922)5月15日 再興」とある。亀戸近辺の鋳造所であろうが、詳細は不明だ。

.
●続いては、墨田区押上の飛木稲荷神社。区指定天然記念物で、目通り約4.8mの樹齢600年の大イチョウが御神木で、ここの社名の由来だ。古老の言い伝えによれば、暴風雨に飛んできたイチョウの枝がこの地に刺さり、いつの間にかそびえたので、時の人が吉兆であるとして稲荷社を祀ったという。神社名の、「飛んできた木」はイチョウであった。

.
1対の鋳鉄製の天水桶は退役し、堂宇の脇に並べられている。大きさは、口径Φ920ミリの3尺サイズ、高さは875ミリだ。正面に表示されている、「向嶋請地(うけち)町」は近隣の旧地名で、昭和39年(1964)まで存在したが、今の向島4~5丁目、押上1~2丁目あたりだ。「請地」は、本来、中世の荘園を管理した地頭や荘官が、領主に年貢の納入を「請け負っていた土地」の総称だ。

.

●同社は古来、「請地の七竈(ななかまど)」とも言われていたという。どういう意味であろか。ウィキペディアによれば、七竈とは、「バラ科の落葉高木。赤く染まる紅葉や果実が美しいので、街路樹としてよく植えられる」、「七度、かまどに入れても燃えないという俗説がある」と言う。江戸時代以前、この周辺は利根川の河口であったが、イチョウにしても七竈にしても、緑豊かな地であったに違いない。

.
天水桶は、「佐野 永島喜平」が、「大正14年(1925)9月吉日」に鋳造している。この人は、鋳物師人名録に登場する栃木県佐野市の天明鋳物師、「永島孫七」の系統だ。この後の後108項などでは、「天明」の意味について考察し、他の作品数例を見ている。東京近郊で見られる永島銘の天水桶はあまり存在せず、貴重な存在だ。

.
●本項の最後は、中央区日本橋堀留町の椙森(すぎのもり)神社。「創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。室町中期には江戸城の太田道灌(後89項)が、雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。

.
そのために江戸時代には、江戸城下の三森(他は、港区新橋・烏森神社・後114項、千代田区神田・柳森神社・前4項)の1つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正8年(1919)に建てられたもので、富札も残されており、社殿と共に区民文化財に登録されています。」(区教育委員会掲示板を要約)

.

●江戸時代の富くじとは一体どんなものであったのだろうか。ウィキペディアから引いてみよう。「富くじは富突きともいい、主に江戸時代に行われた寺社普請の為の資金収集の方法。富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金すなわち当額を給する。富札の売上額から褒美金と興行費用とを差し引いた残高が興行主の収入となる仕組みである。」

.

江戸時代中期の享保年間(1716~)以後、富くじ興行を許されたのは主に寺社で、その販売収入の他にも、当金額の多い者から冥加として若干を奉納させたという。富札の価格は、初期には1枚1分(ぶ)で、一時期は2分であったという。現在の価値に換算すれば約¥5万円にもなり、化政期(1804~)でも2朱(¥12.500)とかなり高額であった。

.

●そこで、一般庶民は1枚の富くじを数名で買う「割り札」をした。もっと手軽に庶民が手を出したのが「陰富」で、勝手に個人で富札を作り1文程度で売りさばいている。公式の番号が発表になると瓦版にして翌日配り、同じ番号のものに8倍の8文にして返したという。

.

江戸期の富くじというと、「江戸の三富」として谷中感応寺、湯島天神(後79項)、目黒不動瀧泉寺(前11項)の3寺社が知られる。これらは、すべて台東区の東叡山寛永寺(前13項)の末寺だが、画像の感応寺は、天保4年(1833)に改称して、現在は台東区谷中で護国山天王寺となっている。そもそも富くじは、運営に困窮していた寺社助成策の一環として、幕府により許可された興行であった。


.
●さて殿前の天水桶1対は、一見してその雰囲気やデザインから、川口鋳物師の鈴木文吾作、あるいは、川口市の池田砲金鋳造所製(前4項など)だと思ったのだが、作者名は鋳出されていない。青銅製で、「昭和56年(1981)5月吉日」製だから、両者の活躍時期と重なるのだが、残念だ。大きさは口径Φ980、高さは1.040ミリとなっている。

.

直径380ミリで据えられているのは独特の「三つ巴紋」で、左への流れ具合が妙に長くデフォルメされているが、「椙森神社創建一千五十年」、「奉祝 大祭記念」での奉納であった。「人形町 堀留町 本町」の寄進だが、本体の側面や裏側には、立錐の余地が無いほど氏子の氏名が陰刻されている。次回は、聖火台作者の川口鋳物師、鈴木文吾(後71項後122項)の天水桶をアップしてみたい。つづく。