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●前回に続いて、川口市出身の鋳物師・鈴木文吾作や川口製(後100項)の天水桶をアップしよう。川口市三ツ和の真言宗智山派無量山源永寺(後16項)は、江戸時代初期には、川口舟戸町の善光寺(後130項)付近の荒川のほとりにあったというが、瀬替えにより当地に移築、中興朝尊和尚によって開山されている。

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指定文化財の室町期の板碑が多くあるが、六地蔵の台座の刻みには、「宝暦5年(1755)2月吉祥日 第2世安称」の文字が見られるので、18世紀初頭の開山であろう。1対の天水桶は、「鈴木文吾」作の青銅製だが、後継の「常夫」氏の名も見られる。「法灯事業 落慶記念」での寄進で、市内の奉納者名が並んでいるが、現住「第23世 石山義雄」の時世だ。大きさは口径Φ1m、高さは1.2mとなっている。

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正面の寺紋は、典型的な秋の名花の「桔梗紋」で、台座部分にもかなり小さく見られるが、「平成10年(1998)3月25日」に造立されている。この年の2月7日には、長野オリンピックが開幕、3月には奈良県明日香村のキトラ古墳で、四神の白虎図や東アジア最古の天文図が発見されている。4月5日には、明石海峡大橋が開通、6月27日には、大相撲で貴乃花と若乃花の史上初の兄弟横綱が誕生、7月には、和歌山毒物カレー事件が発生している。

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●続いては、川口市上青木の日蓮宗、長陽山宗信寺。同市のサイトによれば、「開祖日蓮の高弟の1人、白蓮阿闍利日興上人により、鎌倉時代の正応4年(1291)3月、ここ上青木の地に創建された富士山光妙寺を前身とする寺です。その後、江戸時代の前期に、武田信玄の家臣であった土屋備前守宗次が、大田区池上の長栄山池上本門寺(後22項)19世の日豊上人を中興の祖として招き、現在の地に建立したものです」という。

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本堂前の鋳鉄製の天水桶1対は、口径Φ960、高さは940ミリだ。中心には、井桁に橘の宗紋が据えられ、額縁には蓮華の花托があり、対向した鳳凰らしき鳥が舞っている。辞書によれば、鳳凰は、五色絢爛な色彩の霊鳥で、羽には孔雀に似た五色の紋があり、声は五音を発するという。その容姿は頭と嘴が鶏、頸は蛇、胴体の前部が麟、後部が鹿、背は亀、頷は燕、尾は魚であるとされる。

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「長陽山宗信寺 長陽山第30世 辨(弁)成代」の奉納で、作者銘として、「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一 濱長工業株式会社 昭和49年(1974)9月吉日」と鋳出されている。浜長工業は次の後5項で登場するが、文吾の工場が手狭であったため間借りした場所だ。

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●市内金山町の川口神社(後100項)は、地域の総鎮守で川口宿の鎮守でもあったが、境内にある金山神社の天水桶も鈴木氏作だ。鋳造業者によって篤く崇敬されてきた神社というだけあって、天水桶も威風堂々、存在感のある立派なものだ。鋳物製の手桶を乗せていて、もはやオブジェだが、川口市の鋳造技術の粋を垣間見れる。この神社の歴史については、後5項をご覧いただきたい。

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最近手入れされ、磨き込まれたのであろう、黒光りしている。見惚れるほど堂々としていて、圧巻の1対と言えるが、鋳鉄製の本体と、手桶や屋根のバランスが抜群にいい。本体の大きさは口径Φ1m、高さは980ミリで、総高は2mほどだ。川口市の至宝であろう。
川口神社・文吾

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製作に係わった方や寄進した人、氏子や総代の方であろう、両基に32名の名士の名が刻まれている。作者は、「昭和37年(1962)5月建之 鋳造 鈴木文吾」だ。この後登場する「永瀬留十郎」や「笠倉昇(後19項)」、元川口鋳物工業(協)理事長「田中博(後122項など)」、市長経験者も「大野元美(後127項など) 高石幸三郎 大泉寛三 永瀬寅吉(後121項) 岩田三史」ら5名もの氏名がある。川口市の歴史を刻み留める貴重な1対だ。

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●千代田区神田須田町の柳森神社のものは、川口町時代に浅倉庄吉が鋳造している。神社は、長禄2年(1457)、太田道灌公(後89項)が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来するという。

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鋳鉄製の天水桶1対の奉納は、「東京市神田區 柳原川岸3号 高橋三次郎」で、石の台座には、「大正12年(1923) 大震災復興記念」と陰刻されているから、これで奉納された理由が判る。大震災は、190万人が被災、10万人余りが死亡したという悲惨な災害であった。

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大きさは口径Φ870、高さは820ミリで、造立日は、「川口町 浅倉庄吉製 昭和5年(1930)8月吉日」であったが、大震災から7年後であり、街並みもそこそこ再興され日常が戻り始めた頃であろうか。鋳出し銘には、「多」という社章も浮き出ているが、この社章については、後54項をご参照いただきたい。

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●昭和6年(1931)ごろの同社の広告を見てみると、同じ社章で「鑄(鋳)工所 浅倉庄吉」とあり、住所は「埼玉県川口町横曽根」だ。「水道用具一式」と題しているので、その関連の鋳造をしていたのが判る。広告には、雑然とした工場らしき写真が掲載されているが、写り込んでいるのが水道管(後74項)であろう。天水桶は、ここで鋳造されたのであろうか。(後20項参照)

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こちらの広告では、「川口市」となっている。市制施行は、県内では川越市についで2番目で昭和8年4月1日であったから、それ以後だ。「所主 浅倉庄吉」は同じだが、「浅倉鐵(鉄)工所」と社名変更している。従って、天水桶の鋳造は、「鋳工所」の時だ。広告は、顔写真とキューポラ(後68項)が備わった工場の写真入りで、「水道並瓦斯(ガス) 高級鋳鉄管 及異形管類」を営業品目の筆頭に挙げている。

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●一方、境内奥の社務所らしき玄関前には、古びた鋳鉄製の天水桶1対が、ひっそりと鎮座している。注意すれば表通りからも見えるが、これに気付く人は少なかろう。時の流れを確実に伝え遺している貴重な1対だ。

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正面には、「焔玉(ほむらだま)宝珠(後94項)」の紋様が据えられているが、「柳原岩井町」の人々の奉納で、多くの人名が列挙されている。この地名は、享保年間(1716~)に成立、明治2年(1869)ごろまで存在したという。「岩井町」という呼称は、徳川将軍家の御用鎧師を代々務めた岩井家の屋敷が近辺にあったことに由来するとされている。

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●経年の劣化で、亀裂が走っていて気掛かりだが、造立は、「文政三年庚辰(かのえたつ、こうしん・1820)十二月吉辰日」となっている。2世紀も前の風雨に弱い鋳造物が、黒サビを帯びて今なお野ざらしで存在を主張しているのだ。

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鋳造者銘は、「江戸深川 釜屋」と陽鋳造されている。特定の個人名ではないが、この当時の深川の鋳物師と言えば、釜六(後17項)、釜七(後18項)しかおるまい。「釜屋」という呼びは、鋳造工場という意味合いだが、後94項をご参照いただきたい。

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●北区岩淵町にある八雲神社は、荒川堤防の南側に鎮座していて、日光御成道第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社だ。江戸時代末期からの幕臣で、幕末の三舟とも称された勝海舟が、荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗を所蔵するが、その由来が長々と石碑に刻まれている。

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1対の鋳鉄製天水桶は、魔除けの意味合いか赤く塗装されていて、社殿の顔として相応しい。裏側には、寄進者名が並んでいる。額縁部に見えるのは、渦巻き状の雷紋様(後116項)ではなく、「八雲」の2文字の連続だ。

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口径は840ミリ、高さは、底の一部が石の台座に埋没しているが、見えている部分で740ミリだ。裏の鋳出し文字に「武州川口町 永瀬留十郎製造 明治37年(1904)1月吉日」とある。留十郎は、先ほどの川口市・金山神社の天水桶にも名前が見えた鋳物師だが、後47項などでも登場し、後68項でも解析している。

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●池田砲金さん(後21項後81項)も川口市から鋳造品を世に送り出している。青白いその鋳肌(いはだ)の色合いからして、銅合金、ブロンズ製だ。銅合金は湯(溶鉄)流れが良く、靱性に富むというが、天水桶に求められる特性は、耐腐食性であろう。川口市辻にある長照山常住寺(後9項)の本尊は阿弥陀如来像で、松戸市のあじさい寺、長谷山本土寺(後70項)とのゆかりが深いという。

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天水桶は、「日蓮聖人 第七百遠忌御報恩」のために設置された青銅製の1対で、大きさは口径Φ950、高さは1.020ミリだが、宗紋の井桁に橘の鋳出しもかなり大きい。日蓮宗の開祖、日蓮聖人は、承久4年(1222)2月16日生まれ、弘安5年(1282)10月13日没の鎌倉時代の僧侶だ。ここが保持する「木造日蓮上人坐像」は、市指定の有形文化財となっているが、市内では数少ない戦国時代の彫像だ。

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銘は、「池田砲金鋳造所 謹製  昭和56年(1981)10月13日」、「第28世 文護日荷代」の時世だ。同社は、後年に、池田美術(株)に社名変更しているが、今は美術景観鋳物に特化しているようだ。

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●川口市元郷の同社を訪ねてみると、公道に面した入り口では、憤怒した2像が迎えてくれる。「手にのるモノから大きなモノまで、ブロンズ・アルミ製品のことならお任せください!」をキャッチコピーとしていて、モニュメントやノベルティ、表札などの銘板製作を得意としているようだ。

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後年、この阿吽形の金剛力士仁王は、川口市元郷の光明山随泉寺(ずいせんじ・後81項)の「多生門」前に移動している。「令和3年(2021)4月吉日 第36世 道夫代」の時世で、「池田美術株式会社 謹製」の銘版が貼られている。

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2像は、仁王立ちとも言うように、伽藍などを守る門番だ。その多くが上半身裸で筋肉隆々、下半身は裳をたくし上げ金剛杵を持っている。一面二臂の憤怒相だが、この形相の二体一対が門番として最適任者なのだ。

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●同じく市内領家の、本覚山実相寺。『3代将軍徳川家光公が鷹狩の折り、にわかに病を発せられ、当山にご来臨。当時、法力無双と称せられていた第16世日逞上人のご祈祷により平癒されました。この功績により、御朱印30石を御下賜、「八丁権現」の別称、ならびに御成門の建立を許されました』と説明板にある。

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堂宇前の情景にアクセントがついて抜群にいい雰囲気だが、この青銅製天水桶1対の存在がその一翼を担っていよう。正面には、井桁に橘の日蓮宗の宗紋が大きく据えられている。大きさは、口径、高さ共に1mほどだ。

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「池田砲金謹製 昭和47年(1972)3月吉日」銘で、神奈川県小田原市(後114項)の「竹輝会」の奉納だ。小田原市は人口19万人で、戦国時代には後北条氏の城下町として栄えた町だ。「竹輝会」の詳細は判らないが、川口市領家のこの地とどの様なつながりがあるのだろうか。

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●ここに掛かっている梵鐘は実に見応えがある。線刻の摩滅が激しく作者銘などは不明だが、「明治二年巳(1869)」の鋳造で、明治7年に滅した29世慈勝院日芳聖人の時世下のようだ。寺では、川口鋳物師の鋳造だというが、諸書の記録には記載が無いようだ。最下部を廻る、駒の爪(後8項)と呼ばれる外周部に十二支が陽鋳造されているが、他に類例を見ない意匠だ。

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さらにその上の草の間と呼ばれる4区画には、大きく張り出した四天王が陽鋳造されていて、その周りに摩滅はしているが、喜捨した人々の名が刻まれているのだ。辞書によれば、「四天王は、仏教観における須弥山の中腹に在る四天王天の四方で仏法僧を守護している四神で、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天(毘沙門天)」の事だ。

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●見応えのある銅鐘と言えば、後130項で見た、埼玉県秩父市桜木町の実正山定林寺の鐘は、画像の様に、周囲全体に西国・坂東・秩父の霊場百観世音の本尊を浮き彫りに鋳出し、各寺の御詠歌を刻み付けた見事な梵鐘であった。もう1例、見事な梵鐘があるのでここで見ておこう。

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都内世田谷区奥沢の九品山唯在念仏院浄真寺の梵鐘で、都指定の文化財だ。ここは、延宝6年(1678)、徳川幕府より奥沢城の跡地を賜り創建されている。鐘楼塔も実に豪華絢爛で、四周を廻る干支の彫刻は賞美に値するが、宝永5年(1708)の建立という。梵鐘は、「深沢の名家谷岡氏の御先祖が二親菩提のために鋳造され寄進されたもの」とホムペにはある。

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乳(後8項)は通常108個のところ、36個しか無い。撞座の意匠は、菊紋と真裏の蓮華紋という特異さで、天女が舞い、舟形の光背を抱いた仏様が鐘身に配されている。香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」によれば、「宝永五年戊子歳五月吉祥日 江戸神田鍛冶町住 冶工 河合兵部周徳(後122項)」銘というが、香取はこれを「雄大なものなり」と評している。

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●さて続いての天水桶は、川口市江戸袋の古桂山東光院だ。「江戸袋(後130項後131項)」とは、海無し県の平野部である埼玉県においては奇怪な地名に思えるが、かつては河川の入り江であり、袋状の地形であったという。ここの本尊は愛染明王で、「人のはなやかで温かな愛と 美しく哀れな愛と憎しみをお救いになる 縁結びの御本尊さまです」と立て札にはある。

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1対の天水桶は青銅製で、大きさは口径Φ1m、高さも1mだ。正面には「桔梗(ききょう)紋」が大きく鋳出されている。この花は、万葉集では秋の七草として詠われている名花で、戦国武将の明智光秀もこの紋を用いているが、美濃や飛騨地方などの岐阜県で多く見られるようだ。

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背面に見られる銘は、「池田砲金謹製 昭和48年(1973)11月吉日」で、この地域の「川口市江戸袋 中村邦彦」さんが奉納している。住職は、「憲雄代」の時世であった。

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●先日のこと、名鋳物師、鈴木文吾を偲んで墓参し敬意を表してきた。菩提寺は、川口市安行原(あんぎょうはら)の海寿山萬福寺密蔵院(後112項)だ。本尊は、平安時代に創られた地蔵菩薩像で、明治初期までは京都醍醐寺末として、徳川秀忠より朱印地11石を拝していた。武州川口七福神の大黒天、武蔵国八十八ケ所霊場87番となっている。

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ここにある黒門は、明治19年(1886)、第30世三池照鳳大僧正により、薩摩藩島津家江戸中屋敷の中門を移築したものだが、荘厳だ。薩摩藩は「上屋敷」を芝三田(現港区芝五丁目のNECの敷地)、「中屋敷」を外桜田(現千代田区内幸町一丁目の帝国ホテル付近)、「下屋敷」を芝高輪南町(現港区高輪三丁目のホテルパシフィックの敷地内)に、また、「蔵屋敷」と称して芝田町一丁目(現港区芝四丁目)の海ぎわに有していた。

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中屋敷はどれも黒門であったというが、薩摩藩主が江戸へ下向した際には必ず使用したという。かつて正面にあった大門は、江戸期の代表的な構築物として国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)の空襲で惜しくも消失している。明治期に移築されたこの中門は、中屋敷の遺構中、現在確認できるものとして貴重だ。

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●お墓の位置は寺務所で確認したが、墓参する人が多いようで、担当の方もすぐに案内してくれた。文吾は、大正10年(1921)生まれで、多臓器不全のため平成20年(2008)7月6日没、行年86才であった。墓石は後継の常夫氏が建てている。

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「研精鋳碩居士」だが、戒名にも鋳物の「鋳」の文字が使われている。奥方も同じくここに葬られていて、「鈴木梅子 平成12年12月3日没」、行年78才であったが夫人に先立たれたようだ。残してくれた数々の功績に感謝だが、ただ、残念なことに、ここ密蔵院には彼の作品が1つも無い。ちょっと寂しい感じだが、ご冥福をお祈り申し上げます。

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●最後に文吾の肩書を記しておこう。川口市の郷土史家・岡田博の「川口鋳物師 鈴木文吾評伝集成(平成20年・2008)」によれば、幼年期を茨城県水戸市で過ごした文吾は、「黄門さまのふるさと水戸 水戸大使」であった。

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名刺には「鈴木鋳工所 鋳物師」の肩書が刷られ、「水戸大使は、本市出身、本市ゆかりの方々のお力添えをいただきながら、観光宣伝を通じまして本市のPRをしていただいております」と記されている。平成15年、2003年頃のようだが、市長の加藤浩一氏が直々に持参したようだ。

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●生前には、「川口市文化賞」を授章しているが、熱烈な文吾ファンであった故永瀬洋治・元市長(後108項など)の後押しがあったようだ。永瀬家の敷地内には、「天保10年(1839)10月吉日 永瀬文左衛門光次」銘の天水桶が1基あった。洋治の高祖父だ。

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これは市の有形文化財となったため、今は川口市本町の川口市立文化財センター(後30項)に保管されている。その代りのレプリカを「この天水桶は、鉄の命が抜けている。長い間放置してあったのだろう」として文吾が鋳ているのだ。平成12年(2000)ごろの事であった。

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●また、勲六等瑞宝章や黄綬褒章も受賞している。瑞宝章は、現在は6等級が制定されているが、ウィキペディアによれば、『国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者」に授与すると定められ(勲章制定ノ件3条1項)、具体的には「国及び地方公共団体の公務」または「公共的な業務」に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者を表彰する場合に授与される』という。

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黄綬褒章は「業務ニ精励シ衆民ノ模範タルベキ者」が対象で、「農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する方」に授与されるという。天水桶や梵鐘の鋳造に特化し、その技術に刻苦研鑚を重ねてきた、誇りある名匠鋳物師が授かるに相応しい勲章であった。つづく。