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●先ごろ、民意によって政権トップが交代した。かつての身分差別時代に、民意の介入する余地は無かった。絶対君主である天皇が統括してきた歴史だ。江戸時代の徳川将軍家は、あくまでも天皇に任命されたトップにすぎない。代理人として絶対的権力の発動を許可され、政治運営を委任されていたのだ。その際、全権を委譲した征夷大将軍に下賜したのが、節刀(せっとう)、節(しるし)の刀だ。

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征夷大将軍とは、東夷(とうい)、つまり東国の武士を征討する武家のトップだが、「あなたが責任を持って、天皇である私を守りなさい」である。しかし幕末には、やはり天皇家が日本国のトップではないかという、尊王思想が広まった。危機感の中、幕府が執ったのが、「朝廷とは対等である」感を演出する公武合体策であった。

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それぞれの時代のトップが、世の中を正しい方向へ導いてきたのであろうが、やがて明治維新を迎え世界戦争期を乗り越え、今我々は、平和な時代に浸っている。いつの時代も、トップは強大なリーダーシップを発揮すべき立場である訳だが、その意味合いはいつの時代においても必要だ。

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●さて、年の暮れの慌ただしさをよそに散策しているが、最近出会った天水桶を見てみよう。新たな鋳物師達にも遭遇し、あらためて散策の楽しさを噛みしめた。江戸川区は、北小岩の天祖神社。旧上小岩村の鎮守だが、創立年代は不詳という。安政の大地震で倒壊したが、安政5年(1858)に改築されている。

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コンクリート製の天水桶1対であるが、木株をイメージしている木目調が目を引く。単に、水受けの器であればよいというものでもなかろう、ほほ笑ましい1例だ。小さな社殿に無くてはならない、一体不可分な存在になっている。同じようなデザインは、杉並区和泉の遍照山文殊院(後66項)や、川崎市中原区市ノ坪の市ノ坪神社(後75項)でも見たことがある。

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●文京区小石川の真宗大谷派の善仁寺は、石川山福寿院と号し、真言宗福住院として安和2年(969)に創建したと伝わっている。「鎌倉時代、東国巡錫の旅に出ていた親鸞が当寺に立ち寄った。親鸞は水を所望したが、井戸から水を汲むのに難儀していた。

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そこで親鸞は持っていた杖で地面を掘ったところ、水がこんこんと湧き出てきた。この奇瑞を目の当たりにした当寺の住職賢徴は親鸞に帰依し浄土真宗に転宗した。この親鸞の湧水は現在も、極楽水の井戸として残っている」と寺伝にある。

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●ウィキペディアによれば、画像の銅像の親鸞は、承安3年(1173)4月生まれの、鎌倉時代前半から中期にかけての仏教家で、浄土真宗の宗祖とされる。浄土宗の開祖の法然を師と仰ぎ、浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いでいる。堂宇前の青銅製のハス型天水桶1対は、「昭和50年(1975)10月」に、「善仁寺什物」として奉納されている。

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鐘楼塔に掛かる梵鐘は香取正彦(後116項など)による鋳造だが、石碑には、「重要無形文化財保持者 人間国宝」と刻まれている。遠くからでも香取製である事が判る独特なデザインだが、「昭和57年春(1982) 石川山福住院善仁寺 什宝 鋳匠 香取正彦」と鋳出されている。ここでは、創建時の「福住院」銘となっているようだが、これは、誰でも登壇でき打鐘できる銅鐘だ。

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●栃木県鹿沼市寺町の浄土宗、天動山往生院雲龍寺の銅鐘も香取製だ。寺の創建は鎌倉時代で、平家の落ち武者がこの地に土着し、宗祖法然上人の高弟を招いて建立したと伝わるという。本尊は、阿弥陀如来だ。堂宇前の青銅製の天水桶は作者が無銘だが、勾配のきつい蓮華の反花(前51項)が高さとスリム感をもたらしていて、他所では見られない個性的な1対だ。「第二十八世 一誉有宏代」の時世での造立であった。

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鐘楼塔に掛かる梵鐘は、やはり遠目でも香取製と判るが、スリムで美麗な1口(こう)だ。通常108個とも言われる乳(前8項)の数量にこだわりは無く、ここでは40個しか無い。池の間では、雲間に踊る龍が薄っすらと陽鋳造されているが、実に控えめで簡素だ。刻銘は、「昭和49年(1974)春 天動山雲龍寺 第二十八世 一誉有宏」、「鋳匠 香取正彦」と陽鋳されている。

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●同地から、香取製の梵鐘をもう1例。鹿沼市下粕尾の瑠璃光山蓮照院常楽寺だ。市指定有形文化財の「録事堂」は、安永2年(1773)の建造だという。同寺に伝わる「録事堂縁起」によれば、建久元年(1190)に没した この地の医師中野智玄(のちの録事法眼)は、後鳥羽上皇の病気を治し、また医術の奥義を究めるため、自分の娘を実験台にして死に至らせ、あるいは雷神を灸治し、川の流れを変えさせたなどの伝承があり、村人がその遺徳を慕い霊像を祀ったとされている。

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やはり一目で「鋳匠 香取正彦」作と判る、スリムでシンプルな梵鐘だ。「南無大師遍照金剛 南無録事尊」と掲げられ、薄っすらと弘法大師空海の尊像が描かれている。「昭和五十四己未稔(1979) 寄進 檀信徒一同」での鋳造だが、「弘法大師千百五十年 御遠忌記念」での奉納なのだ。掲示板には、先代の銅鐘を戦時に金属供出(前3項)した旨が説明されているが、「現住 恵好代」の時世で、「東高野山主 恵海謹書」であった。

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●千葉県の京成中山駅近くにある、日蓮宗の護国山安世院は、正和2年(1313)の創建で、本尊を一塔両尊四士としている。住所は市川市中山で、近くの法華経寺(ほけきょうじ・後55項)は日蓮宗大本山の寺院だが、そこの塔頭となっている。ここに鋳鉄製の天水桶1対が置かれているが、大きさは口径Φ900、高さは800ミリだ。

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有りがちなデザインだが、鋳肌はデコボコで、雑な感じがしないでも無い。大きな「井桁に橘」の宗紋が目立つが、造立日時は、「昭和37年(1962・前50項)12月 吉辰当山 第45世 山中日道代」の時世であった。この年以降の数年はオリンピック景気と言われるが、高度経済成長時代の始まりであった。同39年の東京五輪の開催に伴って、東海道新幹線や首都高速道路などのインフラや、競技施設の整備により建設需要が高まっている。

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銘は「埼玉縣蕨(わらび)市 沖田義正 維」だが、これは恐らく奉納者名で、「維」は、「維持」の省略であろう。他に文字情報は見られず、鋳造者は不明だ。蕨市は川口市の隣町で、人口は7.3万人だが、人口密度は全国の市町村の中で最も高い。江戸期には蕨宿が置かれ、中山道の宿場町として栄えてきた歴史がある。この地で昭和21年(1946)から開催されている成年式が成人式のルーツといわれている。

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●次の同じく市川市中山の日蓮宗、正中山遠寿院(おんじゅいん)は、天正19(1592)年の創立だ。読経三昧堂には、荒行願満鬼子母尊神が泰安されていて、加行聖者たちは、ここで百日間、法華経読誦三昧に入るが、その修行は苛烈を極めるという。「荒行堂」の正面に掛かる扁額は、文政年間(1818~)に、富山藩9台藩主の前田利幹(としつよ)が揮毫している。堂宇は、昭和天皇の皇后陛下の実家の正田家が、筆頭勧進主となり寄進されている。

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ここの境内にこんなものがあった。「昭和6年(1931)10月吉日 秋本謹製」銘であるが、これは形状からして香炉、あるいは、手あぶり火鉢だ。鋳鉄製で、大きさは口径Φ770、高さは380ミリとなっているが、退役したようだ。表面には、日蓮宗紋の「井桁に橘」と本山の法華経寺の「桔梗紋」が大きく表示されている。左右にある獅子頭は、取っ手の意味合いだろうが、精緻な意匠が品格を挙げていよう。

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外周には、宗祖の「六百五十遠忌」として、「埼玉縣川口町」の人々の奉納者名が鋳出されている。遠寿院では、酷烈を極めた大荒行が成満し出行を迎える日、京浜近在の檀信徒はもとより、遠く北海道や九州からも、多くの出迎え信者で境内は一杯になるという。川口にも多くの信者が居るという証左であろうか。並んで見られる鋳造者銘は、「秋本謹製」と四角く囲まれている。当サイトでは見慣れた簡潔な印影だが、この人は川口鋳物師の秋本島太郎だ。

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●なお、この様な火鉢の獅子頭の意匠は、江戸時代の浮世絵にも描かれている。画像は、天保期(1830~)に活躍した一猛斎芳虎(歌川芳虎)の「新板子供遊びの内 百物がたりのまなび」だ。芳虎は、生没年不詳ながら、江戸時代末期から明治時代中期にかけて活躍した浮世絵師だ。

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「百物語」はいわば怪談会で、夜、行灯に百本の灯心を入れ、怪談を1話語るごとに灯心を1つ消し、全部語り終り真暗になると、妖怪やお化けが現れるとされた遊びだ。この絵では、その怪談会を14人の子供たちが大きな火鉢を囲んで楽しんでいる。これは3本脚であろうか、頭の下には獅子脚があり本体を支えている。

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●神奈川県川崎市川崎区旭町の天台宗、薬王山無量院醫王(医王)寺にもある。ここでは、本尊を1尺8寸の薬師如来坐像としているが、春光坊法印祐長が、延暦24年(805)に開山したという古刹だ。多摩七薬師霊場の6番札所となっているが、堂宇前の天水桶1対は、巨大なコンクリート製で、大きさは口径Φ1.160ミリ、高さは1メートルとなっている。

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こちらは線香の点火器を備えた香炉として使用されているが、大きさは、2つの取っ手の距離が680、高さは約300ミリの鋳鉄製だ。「昭和廿九年(29・1954)三月」に「川崎市 荻原正男」が奉納していて、作者銘は、印影ではなく「川口市 秋本造」と陽鋳造されているが、時期的に後継の秋本光造だ。

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これは広く存在が知られていない貴重な川口遺産なのだ。同じ様な意匠の香炉は、前13項後64項後69項でも登場しているのでご参照いただきたい。また、川口鋳物師秋本氏の天水桶などの作例に関しては、前21項後81項で詳細に記述している。

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●上の画像の右奥に鐘楼塔が写り込んでいる。掛かる梵鐘の鐘身に、「古鐘銘文記之」として「享保十年(1725)乙巳暦十月吉祥日」、「江戸深川 太田近江大掾 藤原正次」とある。先代の銅鐘は、釜六(前17項)による鋳造であった。

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江戸期の新編武蔵風土記稿にも、「鐘楼、門を入て右にあり、二間四方。鐘径二尺八寸許、高さ五尺程。享保十年十月と彫る」と記されている。再鋳されたこの鐘は、「昭和三十八年(1963)癸卯暦五月吉祥日 当山中興二十九世 大僧都 隆顕 敬白」、「京都 田中伊雅 謹鋳」だ。

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●ウィキペディアから引けば、この人は、京都府京都市下京区万寿寺の(株)田中伊雅仏具店だ。創業は仁和年間(885~)で、現存する業歴千年を超える日本の老舗企業7社の内の1つであり、平安京遷都により数多く建立された寺院に納めるべく、創業以来70代にわたり、各宗派の仏具の製造を続けている。

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社名は元々「伊賀」と記したが、この表記は天皇家ゆかりの者のみに許されるものであることから、仁和寺の門跡より授けられた「伊雅」に改めている。社紋は、仏具の1つの華鬘をモチーフにしているという。誇り高き1口(こう)なのだ。

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●豊島区上池袋の子安稲荷神社は、創建年代は不詳ながら、正徳5年(1715)の疫病流行の際には特に霊験あらたかだったので、「子安稲荷」と称えられ、子育てや安産の神様として知られるようになっている。祀る祭神は「保食命」で、読みは「うけもちのかみ」だが、到底想像できない読み方だ。辞書から引くと、日本書紀の神産みの段にのみ登場する神で、その記述内容から女神と考えられるという。

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「うけ」は、宇迦之御魂神(うかのみたま)の「うか」と同源で、食物の意味だ。保食命は、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、代わって稲荷神社に祀られている事もあるというが、正にここ、子安稲荷神社が当該だ。1対の鋳鉄製天水桶は、「池袋消防組 解散記念」での奉納であった。正面の神紋は、稲荷社の象徴の「丸に稲穂」で、額縁に見られる紋様は、消防組の纏の穂先の意匠であろうか。

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銘は、「川口町 布施商店製 昭和7年(1932)9月吉日」であり、お初の社名だが、商店と言うからには鋳造業者ではなさそうだ。手元の当時の名簿や広告などの資料でも不明だし、どの検索でもヒットしないし、今はもう実在しない会社のようだ。ただ、前46項で見た、埼玉県戸田市笹目・宝蔵院の、「鋳造 布施銈三(けいぞう) 昭和56年(1981)7月」銘の天水桶とは、半世紀もの時代差があるが関連するかも知れない。

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●「布施商店」が鋳造者でないとすれば、「川口町」とあることから、これは川口産の天水桶であろう。とすれば実際の鋳造者は、川口鋳物師の山寅こと山﨑寅蔵(前20項など)と思われる。この大きさは、口径Φ760、高さは750ミリだが、山寅作のスタンダードなサイズだ。あるいは全体のフォルムから受ける印象、鋳造年月日、鋳出し文字の字体からしても、そう断定するに充分な条件ではなかろうか。

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決定的と感じるのがこの3本の脚だ。神獣の脚を模していて、3個の焔玉宝珠(ほむらだま・後94項)が配されているが、この脚の存在は山寅独特のものであり、この当時の他の川口鋳物師の作例には一切見られない。次の画像は、後113項で登場する台東区西浅草の西浅草八幡神社の天水桶だ。口径はΦ740ミリであったが、デザインこそ違え3本の脚が備わっていて、「山﨑寅蔵」作と確定している。ここ子安稲荷神社の天水桶の鋳造者は、山寅であろう。

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●続いては、江戸深川の鋳物師・釜六(前17項など)こと太田近江大椽(だいじょう)藤原正次の作を2例だが、まずは、港区三田の慶応大学そばの高台に鎮座する、三田春日神社。天徳2年(958)、武蔵国国司の藤原正房卿が、藤原氏と皇室外戚の氏神である、大和国春日社(前33項)の御神霊を勧請している。江戸府内唯一の春日社として、徳川将軍や諸大名の崇敬が篤かったという。(ホムペより)

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鋳鉄製天水桶1対の正面に、「御宝前」とあるがどんな意味だろうか。辞書によると、「神や仏の御前。賽銭箱などのあるあたり」とある。まさにドンピシャリの位置にあるが、「子供中」の奉納であった。大きさは口径Φ800、高さは650ミリだが、安定化のため下部の一部が石の台座に埋没しているので、正確な高さは不明だ。
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石の台座にある「台町」は、台地が広がった旧地名の三田台町で、江戸時代には大名屋敷や御家人の屋敷が並んでいた。周辺は、歌川広重が浮世絵に月の岬として描くなど、風光明媚な地として知られた土地柄だ。また「三田」という地名は、この地に朝廷に献上する米を作る屯田(みた)が存在したからとも、伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた)があったからとも言われるようだ。
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●「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾 藤原正次 文政十一戊子歳(1828)九月吉日」銘で、2世紀も前の鋳造物が都心に堂々と残っているのは感慨深いものだ。「椽」は、中世以後、宮中・宮家から職人や芸人に対して、その技芸を顕彰する意味で下賜された名誉称号であったが、階級としては、大掾、掾、少椽の3段階であった。

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向かって右側のもう1基の桶は、新築された社殿の都合であろう、脇に追い込められてはいるが、役目は全うしている。社殿は、惜しくも戦禍により焼失。昭和34年(1959)9月、本殿や幣殿、拝殿を新築、末社稲荷社や鳥居、社務所の増築を完了して戦後復興事業を成し終えている。

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●渋谷区神宮前、明治神宮外苑南側の青山熊野神社は、現在の赤坂御所に奉斎されていたが、正保元年(1645)、当地へ遷座し青山の鎮守としたという。植林、樹林の神様として、特に建築関係の方々に深く敬神の念を受けていて、彩色見事な社殿には、霊験あらたかなパワーを感じる。(東京都神社庁による)

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1対の鋳鉄製の天水桶の奉納は、「現住十世 浄性院得妙代」の時世であったが、かつては桶の正面に取り付けられていたであろう神紋が欠落した痕跡がある。提灯に見える、三つ葉葵紋であろうか。「現住」は、「現在の住職」という意味だが、ここは神社であって寺ではない。本来、ここ宛てに鋳造された桶では無いのだろうか。

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大きさは口径Φ1.080、高さは860ミリほどで、「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾 藤原正次 文政十一戊子年(1828)三月吉日」銘だが、先ほどの桶とほぼ同時期の作例だ。従って、陽鋳文字の形態も同じだが、2世紀を経ようとする今も輪郭は鮮明であり、実に心地よい。

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●文京区関口の日蓮宗、妙法山蓮光寺は、陽泉院日行上人(延宝2年正月・1674寂)が、寛永6年(1629)、牛込寺町に創建している。相撲行司の木村氏累代の墓や落語家橘屋圓太郎の墓などがある(小石川区史より)。行司の家柄は、現在では淘汰されて、幕末には木村と式守の2家のみが残っている。行司にも階級があり、経験を積んで行くにつれて三役格にまで進み、今に知られる立行司として、木村庄之助や式守伊之助を名乗るようだ。

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殿前の鋳鉄製の天水桶1対は、1世紀強を生き抜き古びてはいるが、貯水の任務を全う中で、大きさは口径Φ880、高さは800ミリとなっている。「東京市牛込區」の人が納入しているが、大きく張り出した額縁全周には、雷紋様(後116項)が見られる。正面には日蓮宗紋が配されているが、ここは、千葉県鴨川市の小湊山誕生寺末(後90項)だ。

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桶の裏側の陽鋳造文字は、いまだに鮮明だ。「埼玉縣川口町 後藤鑄工場 大正拾二年(1923)拾貮月(12)二拾八日(28)」銘だが、この業者に思い当たることがある。

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●実はこの社章「多」は、以前に一度登場している。前4項だが、「千代田区神田須田町の柳森神社のものは、川口町時代に浅倉庄吉氏が鋳造している」と記述した。「多」の社章がある広告も紹介したが、庄吉は川口市横曽根で「鑄工所」を営んでいたのだ。

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下の画像の通り、「昭和5年(1930)8月吉日」の造立であったが、確かに同じ社章だ。昭和12年の、400社近い登録がある「川口商工人名録」には、「川口市寿町 後藤鑄工所 浅倉多吉」の名がある。「工所」と「工場」の違いはあるが、「後藤鑄工場 浅倉多吉」と「鑄工所 浅倉庄吉」は、親子兄弟など近親者であろう。

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●上の名簿には、同じ「多」の社章も並記されているが、由来は、多吉の多の字であろうから、本家は後藤鑄工場なのであろう。また多吉は、川口鋳物工業協同組合の第11代理事長を歴任しているが、任期は昭和元年から2年であった。また、「川口鋳物同業組合」という時期もあったようだが、この時は、第7代の代表を務めたようだ。

浅倉多吉・7代

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なお次の、4年後の昭和16年(1941)の「川口鋳物工業組合員名簿」を見ると、「後藤鐵(鉄)工所 浅倉多吉」となっていて、「鑄工所」は川口市仲町に移転し「浅倉鐵工所 浅倉庄吉」と名を変え、社章も片仮名の「タ」となり、差別化を図っている。両社とも鋳工場から鉄工所になっているのだ。

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●昭和6年(1931)当時の広告もある。「埼玉県川口町寿町 後藤鑄工所 浅倉多吉」で、営業品目の「上下水道鋳鉄管 並ヴァルヴ(バルブ)類」の写真入りだ。他にも「衛生並浄化装置 マンホール各種 スウイングヂャッキ シリンダーポンプ類」などとあり、幅広く事業展開していた事が知れる。

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こちらの広告では、「川口市」となっている。市制施行は、県内では川越市についで2番目で昭和8年4月1日であったから、それ以後だ。社名や住所、営業品目に変更は無いが、掲載されている工場内の様子の写真が興味深い。拡大してみよう。

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簾の様に垂れ下がっているのは、動力伝達用の布ベルトだ。当時、動力源であるモーターは、高価なため数少ない設備であった。そのモーターからの回転を、多くの工作機械にベルトを介して分配している訳だ。つまり、鋳物工場でありながら、鋳造した物をを機械加工していたのだ。この事が、「鋳工所」から「鉄工所」へと社名変更した時期であり、理由であろう。

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●昭和期の「川口市勢要覧」を見るとさらに詳細が知れた。多吉は明治元年(1868)に川口町横曽根に生まれている。明治29年(1896)1月生まれの庄吉は多吉の次男で、「父の膝下に在りて鋳造の実技を修得し、大正12年(1923)3月現在に独立して開業するに至る」となっている。

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また、明治26年生まれの庄吉の兄、浅倉市五郎は、同じく「多」の社章で「後藤鐵工 飯塚工場」を切り盛りしたようだ。3者は親子関係であったが、これら2例の天水桶に鋳出された「多」の社章が無ければ、両者は結び付かなかったかも知れない。今に遺された1つ1つの鋳出し文字の存在が重要であった。つづく。