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●埼玉県川口市本町の市立文化財センター(前30項前108項など)には、画像のような半鐘がある。銘は、「川口町 山﨑寅道作」だが、製作時期や人となりは不明だ。名前からして、前20項前69項などで紹介している、川口鋳物師の山﨑寅蔵にごく近しい人物であろうことは容易に想像できるが、確証はない。

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一方こちらは、前106項で見た千葉県君津市笹の清水渓流広場にある、「大正11年(1922)10月 山﨑寅蔵製」という銘の半鐘で、「幸福の鐘」と名付けられている。寅蔵が鋳た半鐘は、知る限りこの1例だけだ。

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●この山﨑製の2例の半鐘のデザインを比べてみると、それぞれ64個ある「乳」は、本体の大きさに比して異様に張り出している。また、異常なまでにデフォルメされた撞座の盛り上がりは特異で、他にあまり例を見ない。

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文化財センターによれば、これは、激しく乱打される事を前提にした、火事発生を報知する火の見櫓用の半鐘であろうという。さらに、その撞座の中心を通る1本の横帯が、かなり太く強調されぐるりを廻っているのも個性的だ。

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全体像から受ける印象や、縦横の帯の形状や間隔、位置も近似しているし、最下部の紋様も同じようだ。この2例は、木型や図面を共有していたのだろう、同一人が手掛けたといっても差し支えないほどそっくりだ。寅道作には、鋳造年の銘が見られず残念だが、寅蔵、寅道は、近親者であると判断して何ら無理がなかろう。(後132項参照)

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●気になる半鐘があるので、ここに挙げておこうと思う。それは、都内小金井市にある、江戸東京博物館(前89項など)の分館の「江戸東京たてもの園(前86項前99項前103項後123項など)」内に現存する。失われつつある歴史的建造物を移築し保存しているが、ここに、「(東京)上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部」がある。大正14年(1925)の建築で、旧所在地では23.6mの高さがあったという。

江戸東京たてもの館・半鐘

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昭和45年(1970)まで使用されていたという火の見櫓の近代版で、三脚四層式外廊型だが、ここに掛かっている半鐘は、撞座(前8項)の盛り上がり方といい竜頭の形状といい、乳の印象や駒の爪の上の紋様にいたるまで、寅道、寅蔵製のものとほぼ同じ意匠だ。望遠撮影し確認してみたが、何の銘の陽鋳も線刻も見られず残念だが、どちらかが手掛けた半鐘かも知れない。

江戸東京たてもの館・半鐘

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●日本の各地には、未だに多くの火の見櫓が残されているが、通常、それらに備わっている半鐘は高所に位置している。何例かを挙げてみると、画像の鉄骨造りの火の見櫓は、新潟地方を散策したときに見たものだ。かなりの高さで頂上に半鐘が備わっているが、刻銘を読むことは出来ない。鋳造者を特定するにはそれなりの調査体制が必要であろうが、可能であれば、一層、「寅道」に近づけるだろう。

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●栃木県日光市柄倉の江戸ワンダーランド日光江戸村(前107項)は、江戸時代の文化や生活を集大成したテーマパークで、江戸時代中期の町並みを再現しているが、忍者活劇や華麗な花魁道中などのアトラクションが呼び物だ。

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この町中に、時代劇で見るような簡易的な木造の高い櫓が立っていて、上に半鐘があるが近づけない。火消し人足が、この梯子を素早く駆け上がり、鐘を乱打する姿が想像されて興味深いではないか。

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●次は、前30項前97項でも登場した埼玉県熊谷市妻沼の聖天山歓喜院(かんぎいん)で、日本三大聖天だという。そこへの駐車場近くの「熊谷市消防団妻沼分団」の敷地に鉄骨造りの櫓が建っていて、その高さの半ばの所に半鐘が掛けられている。

今は退役しているからこの位置なのだろうが、それが幸いして一部の陰刻が読める。「于時(うじ=時は・前28項) 宝暦十三癸未(1763)龍集(前19項)九月日」と刻まれているが、そこそこ古い半鐘だ。

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身近な住宅街にも、未だに火の見櫓が残っている事にお気づきだろうか。ここは、人家が密集する埼玉県新座市内の一景だ。鉄骨塔の最頂部には4方に向けてサイレンが備え付けられているから、櫓自体は現役なのであろう。その下に、もはやオブジェ的存在であろう半鐘がある。かつての主だが、表面には何の刻みも無いようだ。

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●次のここは、埼玉県さいたま市桜区の「田島火の見下」という交差点だ。県道沿いの「さいたま市消防団 土合第2分団」の敷地に火の見櫓がある。3本の電柱に支持され、梯子階段も備わっていて頂上に半鐘が掛かっている。

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しかしこの現代に於いては、叩かれる事はまず無いだろう。閑静な土地柄ならともかく、鐘の響きは、車などの騒音に掻き消されてしまうからだ。半鐘の有無は別としても、同市内には、この様な櫓が30ケ所以上に現存し立っているようだ。

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繁華な街中の街道沿いにもある。ここは埼玉県蕨市中央で、国道17号線の「蕨駅入口」という交差点近くの「蕨市消防団 第3分団」の敷地内だ。幟旗などを掲揚できる構造の様で近代的な鉄骨造りの櫓だが、頂上にわざわざ半鐘が掛けられている。そのための櫓であるようにも思えるが、一応、人が登れる造りのようだ。悪く言えば無用の長物とも言えるが、火の用心を喚起する象徴としての銅鐘なのであろう。

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●さて、先のたてもの園には、知られざる鋳鉄製の天水桶が保存管理されているので、ここで見ておこう。画像の銭湯は、昭和4年(1929)10月の開業当時を復元した、足立区千住元町にあった子宝湯の建屋だ。玄関には大型の唐破風屋根が掛かり、舟に乗る七福神の精緻な彫刻が据えられている。

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格天井に設えられた男湯の脱衣場には坪庭が付き、浴室にはお馴染みの富士山が描かれ、あるいは、猿蟹合戦の一場面などのタイル絵が見られるのも楽しげだ。内部は昭和27年ごろの様子だが、「入浴者心得」が掲げられ、台秤式の体重計が備わっている。東京都公衆浴場商業協同組合が定めた入浴料金は、「大人金十五円 婦人洗髪料金十円」であった。

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●事前に撮影とブログ記事へのアップの許可をもらい、学芸員の方にご案内をいただいたが、この湯屋の裏側の立ち入りできないボイラー室に、1対の天水桶が良好な状態で保管されている。移動は石の台座ごと切り取られて行われ、同時に防錆処理が施されたのであろうか、今は黒サビで覆われ、これ以上のサビの進行はないだろう。

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寄贈したのは、都内武蔵村山市伊奈平のケーエム鋼材(株)だ。ホムペを要約すれば、江戸末期の弘化4年(1847)、初代根岸萬吉が、東京四谷に釘を扱う店、「釘屋萬吉」、通称「釘萬」を開業、以降、建築用金属資材を中心に取扱商品を広げている。平成18年(2006)、この釘萬の鋼材部門、鉄筋工事部門の営業譲渡を受け、生まれ変わったのがこの会社だ。

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正面には、「山マーク 加 釘萬」とある。「加」の意味合いがよく判らないが、このマークはかつての社章であったのだろうか。同社のサイトを見ても、現在は全く別物の社章だ。壁際の裏側からも撮影してみたが、2基とも同じ文字の陽鋳造で、8ミリもの高さがある。大きさは、口径Φ900ミリの3尺サイズ、高さは850ミリとなっている。

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●実は、「加」の文字で悩んだのは今回で3回目だ。次の画像は、前39項で見た横浜市磯子区下町の旧柳下邸前にあった1基の天水桶だ。明治大正期の銅鉄取扱商人であったが、鋳造業者ではない。造立年代も作者名も鋳出されていないが、正面の「○に加」の紋章の意味が判らない。

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この時は、全く同じような社章から判断して、川口市幸町で営業していた、笠倉鋳工所(前19項)とも関連があるのだろうかとしたが、やはりおかしい。一番目立つ前面のこの位置に必須なのは鋳造業者名ではなく、ユーザーであるお客さん本位の情報だろう。同業の商人であり、同時期の造立という共通性はあるが、3例とも「加」という文字との関連が判らない。私見ながら、これは「加持水(前39項後116項)」の「加」であろうと考えている。

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●さて、造立日は「明治卅九年(1906)五月吉日」だが、「卅」は、数字の「30」の異体字だ。文字を鋳型に仕込む時や銅鐘にタガネで彫る時、「参拾」などとするよりも手数が少なく簡単であり、たまに目にする表示だ。作者銘としては、「川口町 栗作製」となっている。しかしこの6文字が難解だ。

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「川口町」は、全国各地に実在、あるいは存在した。新潟県北魚沼郡、都内八王子市、千葉県銚子市、三重県桑名市、広島県福山市、長崎県長崎市内だ。桑名の鋳造業も歴史が古く、明治大正期を通じて「東の川口 西の桑名」と呼ばれる産地であったし、前105項で見たように、八王子市では、加藤鋳物師と呼ばれた鋳物師集団が存在した。

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●よってこの鋳出し文字が、埼玉県川口町であるという根拠は何も無い。市制施行により川口市になったのは昭和8年(1933)4月1日からだが、しかし「川口町 天水桶」と言えば、やはり埼玉県川口市だろう。そんな前提で、作者は誰なのか考えてみよう。

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まず「栗作製」の漢字は、栗(くり)なのか、粟(あわ)なのか、票(ひょう)なのか。近しい表記だが、人名となると「栗」の可能性が高いし、拡大してみてもやはり、「くり」であるように思える。しかし、これだけの情報ではとても特定できない。

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●めげずに、昭和12年(1937)の、400社近い登録がある「川口商工人名録」を見てみよう。ただ、桶の造立日からすれば、31年後の名簿であり、どれだけ「栗作製」に近づけるのかは判らない。名簿を眺めていると、この時代の特徴が見えてくる。株式会社などの形態は少なく、個人名イコール会社名である事だ。

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それと、同じ地区にも係わらず、一字一句違わない同名の会社が実に多く存在したことだ。同姓の経営者だが、下の名前と住所、電話番号は違うから別人で別会社だ。例えば「小川鑄工所」は6軒あるがみな小川さんの経営だし、「金子鑄工所」は5軒、「高木鑄工所」は4軒、「永井鑄工所」は6軒、「永瀬鑄物工場」も6軒存在した。全て川口市内だけでの話だ。

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「栗原鑄工所」は2件だが、栗原姓の会社の別登録の経営者は合計4人いる。このうち1社には、「栗」の文字の社章の表示がある。画像は、昭和6年当時の広告の1例だが、みな川口市内の本町と栄町だから、近親者であろう。この天水桶を、栗原氏達が請け負って共同で「作製」したなら、共通する「栗」の1文字を作者銘として鋳出し、「栗作製」としたかも知れない。

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●では今回は、大正期から昭和初期にかけて天水桶の鋳造で活躍した、川口鋳物師・山﨑寅蔵作の天水桶を見ていこう。まずは、都内墨田区立花にある、立花白髭神社。祭神は、古事記の天孫降臨の段に登場する猿田彦大神だ。

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新編武蔵風土記には、南葛飾郡葛西川村の鎮守神とあり、葛西誌には、創立は、霊元天皇の御代の天和2年(1682)で、庄屋の鹿倉吉兵衛、関口一郎治の両氏が、幕府の許しを受け勧進したという。(境内掲示板による)

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1対の鋳鉄製天水桶の大きさは、口径Φ720、高さは680ミリだ。本体に比して大き目な屋根の下に、木製の手桶6個が据えられている。6個は後年の昭和57年(1982)の設置だが、重荷を背負っているかのようなイメージの天水桶だ。「御大典御遷宮記念」での奉納で、表面には「当町」の人々の名が並んでいる。

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●遷宮とは、本殿などを新たに造営し、御神体を従前とは異なる位置に移す事であるが、一般には、20年に1回実行される伊勢神宮の式年遷宮を言う。直近は平成25年(2013)の第62回であった。

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桶の設置日は、「川口町 山﨑寅蔵製 昭和3年(1928)9月吉日」なので、ここでいう遷宮記念は、昭和4年10月の第58回を指す事になろう。因みに第1回は7世紀の690年で、持統天皇4年の御代であった。

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●江戸川区東瑞江の豊田神社は、旧下鎌田村の鎮守だ。境内には、この村の「割菱八行講」が築造した高さ3mの富士塚がある。創建は不詳であるが、天照大御神と経津主神(ふつぬしのかみ)を祀り、もとは神明社といった。

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明治初期に同地にあった別当の長寿院が廃寺となったので、その跡に社殿を建立して「豊田神社」と改称している(区教育委員会掲示より)。1対の天水桶は、堂宇を背にしないと同じ構図に写し込めない。

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程よくバランスが取れた屋根付きで見栄えが良いが、その高さは1.35m、幅は1.8mとなっている。その下にΦ260、高さ480ミリの6個の木製の手桶が格納されているが、鋳鉄製の本体の大きさは口径Φ920、高さは800ミリだ。上部の額縁には雷紋様(後116項)が廻っているが、その幅は100ミリで、30ミリ程張り出している。「寄附者 下鎌田青年団」の奉納で、黒い防錆塗装が施され威容を永らえている。

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作者の銘は「武刕川口町 山﨑寅蔵製 大正11年(1922)4月新調」だ。この年の10月頃に社殿の改築や狛犬の更新がなされたようで、境内の石碑にはその刻みがあるので、天水桶もその記念の一端として設置されたのであろう。先代の桶が存在したから「新調」なのだろうが、どんなものが据えられていたのだろうか、記録は見つからない。

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●台東区西浅草にある、西浅草八幡神社の境内にある由緒書きは、「氏子総代 渡辺留三郎(百歳)」が記している。「御祭神は応神天皇なり。元禄十三年(1700年)庚辰八月九日、田島山快楽院誓願寺に於て、豊前の国宇佐八幡宮の御神霊分神を斯の地に御奉遷す。

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事来、旧浅草田島町の鎮護として御祭りす。昭和二十年三月九日夜、戦火に依り灰燼と帰すも、地域住民有志の浄財寄進にて昭和二十四年二月再建、更に昭和四十七年五月、近代的コンクリート造りの社殿、社務所が完成し現在に至る。(一部略)」とある。

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●口径Φ740ミリだから2.5尺、高さ780ミリの鋳鉄製の1対は、青色に厚めに塗装されていて、社殿の朱色との対比が心地いい。額縁の丸い紋様は、「山崎」の2字がデザインされていて、これが外周に連続している。

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3本の脚のデザインは、雨を呼び込む雲をイメージしているのであろう。なおこの3脚の存在が、前54項の豊島区上池袋・子安稲荷神社の天水桶の鋳造者を特定する手掛かりになっているので、ご参照いただきたい。

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作者銘は「武刕川口町 製作人 山﨑寅蔵 印影 昭和6年(1931)6月吉辰」で、大き目に鋳出された「氏子中」の奉納だが、その文字の下に開いているのは排水穴だ。上述の通り、社殿は昭和の戦火で灰燼に帰したというが、この天水桶は焼損を免れたようで、貴重な1対だ。

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●ところで、作者名の下には印影(前13項)がある。書画などの端に押される落款とでも言うべき判子を、陽鋳造して表現したものだ。刻まれた文字をどうしても判読できずにいた訳だが、やっと解読できた。通常は、画像の右上から真下、そして左上からその下へと読み進むのだが、この印影には何とも深い意味があったのだ。

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その前に寅蔵は、4種類の印影を残してきている。下の画像のこの「山寅製」、あるいは「山寅作」という単純明快な印影は、横書き、縦書きの2仕様があるが、中央区茅場町の日枝神社日本橋摂社や、あるいは、他の鋳物師からの依頼で鋳造した桶などで、10例ほどを見てきた。(前20項など参照)

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例えば、前38項の文京区千石の簸川(ひかわ)神社で見たのは、「埼玉懸川口町 (そ=社章)永井惣次郎鋳造 昭和5年(1930)9月吉日」であったが、「山寅作」という縦書きの印影があり、実際の鋳造は、寅蔵だったようだ。

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●3種目は、前106項の川口市飯塚の飯塚氷川神社で見た角印で、「武刕川口 山﨑寅蔵作 昭和26年(1951)10月吉日」であったが、このような形態の落款、印影は、この1例だけだ。後述するが寅蔵は、昭和20年に没しているから、この桶は後継の甚五兵衛が、父親である寅蔵の名を借りて鋳た作品と思われる。

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4種目の、今回解読できたこの印影の存在がこれまでに確認できているのは、鋳鉄製では4例だが、上述した台東区・西浅草八幡神社のその他の3例の、印影部分を再度見ておこう。まずは、やはり前20項で見た港区高輪の高山稲荷神社だが、「昭和6年(1931)9月」造立であった。「町」と「人」という文字には寅蔵独特の癖があって面白い。

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●千葉県松戸市平賀にある長谷山本土寺は、前70項で登場しているが、「川口市 製作人 山﨑寅蔵 昭和10年(1935)10月」の造立であった。名前の真下には、そこそこ鮮明な印影が見える。

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前55項で見たのは、千葉県市川市中山の正中山法華経寺の巨大な天水桶だ。「武州川口 製作人 山﨑寅蔵 昭和6年10月」銘であったが、いずれも今なお鮮明な陽鋳文字や印影が残されている。そして、印影に見られる4文字はすべて同じだ。

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●しかし鋳鉄製は、その材質の性質上、サビ防止のため塗装されたりしていて、特に印影は濃密な文字の隙間が埋まってしまって平坦になりがちで判読しづらいのだ。が、幸いにも、塗装とは無縁な青銅製の天水桶が1例だけある。これも前20項で見た、台東区鳥越の鳥越神社の桶で、「昭和7年(1932)5月」造立であったが、拡大してみよう。

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角印の右下の文字は、「米」に見えてしまい、そこから抜け出せず何の展開もなかったのだが、よくよく考えてみると、印影、落款のほとんどは法人名や人名、雅号などであり、個人を特定するものであるはずだ。とすればこれは、「末」であったのだ。

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「末」と判れば、右側の2文字の読みは解けた。山﨑は、「山﨑寅蔵善末」を名乗っているのだ。「善末」は、寅蔵の幼名であろうか。難解な右上の1文字は「譱」で、中央に「羊」を書いて両下に「言」を2個配しているが、親字は「善」であった。よって、この2文字は、「善末」だ。

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●一方、左側は長らく不明であった。上の文字には糸偏があり、下は「昭」らしい、程度であったのだが、この2文字は、寅蔵の菩提寺に墓参して解明できた。そして、この印影が存在する意味深い理由を推し量れたのだ。

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菩提寺は、川口市中青木の、真言宗智山派、遍照山光明院で、ここは本尊として不動明王(前20項)を祀っている。境内の明治15年(1882)12月に日建住職が建てた記念碑、「弘法大師一千五十回忌供養碑」には、「光明院現住 石井祐道代」、本寺の「龍泉寺住職 森田竜海」らの名が刻まれている。

川口・光明院

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現在の住職が中興開山しているが、本堂前にある量産品の、1対の青銅製ハス型の天水桶の銘は、「龍泉寺 第30世一敏代 光明院本堂 新築記念 平成6年(1994)11月吉日」だ。龍泉寺とはつながりが深いようで、山崎家の菩提寺も本来は龍泉寺であった。

川口・光明院

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川口市青木の大聖山龍泉寺は、前24項で登場したが、ここには2代目の山崎甚五兵衛が、自ら鋳造して奉納した桶があり、鋳出しの銘は、「昭和49年(1974)10月 施主 山崎甚五兵衛 山崎はる」であった。この後、経緯は不明ながら、光明院に墓地を移したようだ。

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●光明院の山崎家の墓石には、こう刻まれている。「寶嚴院如月浄光居士 昭和20年(1945)1月2日 俗名 山崎寅蔵 行年59才」だから、生まれは、明治19年(1886)前後だ。夫人は、「寶嚴院壽徳清鏡大師 昭和54年(1979)6月28日 俗名 山崎きよ 行年88才」となっている。

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ここの墓誌に、冒頭の「山﨑寅道」の名は存在しない。寅道は、寅蔵の近親者であろうが、刻まれている甚五兵衛が自ら「二代目」を名乗っているから、寅蔵の先代でもない。兄弟か、あるいは従兄弟など、同年代の鋳物師であったと類推できよう。

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そして墓石の横には、「昭和6年(1931)6月8日建之 施主 山﨑寅蔵」という石碑が建っていた。それには、「昭和5年6月8日没 行年11歳 山﨑紀昭之墓」と刻まれていて、戒名は「昭善院」のようだ。この子は、大正8年(1919)生まれだから、明治44年(1911)生まれの甚五兵衛の弟だが、寅蔵は44才の頃、幼い我が子に先立たれていたのだ。

川口・光明院

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●この印影の左側2文字は、子の名前の「紀昭」であった。先に見た印影のある桶の造立日を再確認してみると、昭和6年が3例、同7年が1例、5回忌ごろである同10年が1例で、全て「紀昭」の没後だ。それ以前に寅蔵が鋳造した、確認できている他の作例にこの印影は存在しない。

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寅蔵は、悲しみに打ちひしがれながらも仕事に勤しんだろう。各地の堂宇前に奉納される天水桶に、「善末紀昭」という親子名の角の印影を刻み残す事で、人知れず菩提を弔い供養していたに違いない。そう判ると、夭折した「山﨑紀昭」が、時を超えて今に甦った感がある。寅蔵の意を汲み「紀昭」を偲ぶべく、これらの寺社へ再度参詣することにしよう。つづく。