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●ネット上を検索していると、天水桶があるらしい寺社仏閣の画像に出くわす。「○○に参詣してきました」などとして、社殿正面の様子をアップしてくれている。写り込んでいる桶を見てチェックしておく訳だが、石製か金属製かくらいの判断はできる。

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ただ観点が違うから、桶を意識的にフレームに収めるべく撮影された画像はほとんど無い。たまたま写り込んでいる、くらいが関の山だ。それでもそこそこの情報は蓄積されていって、いつしか1日散策するのに充分な道程表が出来上がってくる。

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●今回は、神奈川県のJR根岸線の横浜市周辺を歩いてみた。横浜市は、神奈川県東部に位置する政令指定都市で、人口は約377万人だが、東京23区を除けば全国最大の人口だ。日本有数の港湾都市であり商工業都市だが、観光地としても人気がある。

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横浜中華街や元町、山下公園などがある関内地区を筆頭に、横浜みなとみらい21地区や山手地区などが有名だ。横浜の都市開発の発端は、嘉永6年(1853)のペリーの黒船来航で、安政元年(1854)の日米和親条約締結、安政5年の日米修好通商条約締結が発端であった事は、よく知られている。

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●移動範囲は広く、散策と言うよりは一日中電車に揺られていた、という感じであったが、想定以上に素晴らしい桶達に出会えた。ある夏の暑い日、早朝から出発。東急東横線は渋谷から発しているが、多摩川を渡れば神奈川県だ。

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数駅目の日吉でグリーンラインへ乗り換えて、東山田駅に到着。既に2時間弱が経過している。閑散とした町だが、そこから歩くこと15分、横浜市都筑区南山田町の山田神社に到着。本殿までは、緩やかながら長い石段を登らなければならない。画像の階段はほんの一部だ。

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●ここの社殿は、小規模な一間社流造で、正面に軒唐破風、千鳥破風を付け、屋根をこけらで葺いている。けやきの素木造りの彫物が多用され、向拝柱には丸彫の竜が巻き付き、壁面には仙人像、欄間には鳳凰、脇障子には鷹に松など主題は多種多様。棟札によると天保13年(1842)の造営である。(市教育委員会掲示より)

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屋根から大分離れた無意味な位置に、1対の鋳鉄製天水桶がある。本殿造営の翌年の設置だが、当時は屋根の真下にあったのであろう、そうでなければ役目を全うしない。それにしても何故だろう、移動させた理由が思い浮かばない。願主は、「当所 二註連谷 栗原政五郎」であった。

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鋳出された銘は、「武州八王子住 御鋳物師 師岡美寛作 天保十四癸卯年(1843)九月吉日」だ。武州は「武蔵国」の別称で、今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部にあたるが、川口市も八王子市も武州なのだから広範囲だ。大きさは、口径Φ900、高さは790ミリとなっている。

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●この鋳物師・師岡家の詳細は不明だが、文政11年(1828)から嘉永5年(1852)の「諸国鋳物師名寄記」や、明治時代に書かれた「由緒鋳物師人名録」には、ヒントの記載がある。武蔵国の「多摩郡八王子駅」の項に、「師岡忠輔 安政6年(1859)正月 当家跡目」と出ているのだ。この地域では、この師岡家一家だけだ。

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史料に見られるという事は、鋳物師の総元締めである、京都真継家(後40項)傘下の勅許鋳物師であるという意味だが、ここの美寛はその先代の方であろう、系統に繋がる方に間違いあるまい。なお、後105項でも同鋳物師に出会っているのでご参照いただきたい。

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●次に横浜駅まで行き、相鉄線で隣り駅の平沼橋に降り立った。あっという間にもう10時過ぎだ。歩いて数分で横浜市西区平沼の、水天宮平沼神社に到着。ここは、天保10年(1839)9月5日、平沼九兵衛による創建で、安産、水難除け、海上安全守護の水天宮社だが、この日も多くの参拝者が見られた。


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社伝によれば、当時の平沼一帯は塩田であり、塩田作業中の村人が入江に流れついた祠を見つけ、これを沖へ返そうとする度に岸に戻ってくるので、平沼九兵衛にその事を伝えると、九兵衛が守護神の無いこの地に祀れとの啓示であろうと、岸に上げて平沼新田の守護神として祀るようになったという。

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鋳鉄製の天水桶は、1基のみが植え込みの中に置かれていた。1対が、大戦中の鉄不足を補う為に金属供出(前3項)されたが、その後、昭和30年代(1955~)に、日本鋼管の倉庫から奇跡的に発見され返却されたという、いわく付きの桶だ。正面に「平沼神社」と見えるので、間違いなくここへの奉納物だ。センターの紋様は、稲穂のイメージだろう。

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●これは「大正2年(1913)9月吉日」に、横浜市平沼町の人が奉納している。社殿は、近辺の市街化によって3度も遷座位置を変えているが、文久3年(1863)に現在地に鎮座され、大正2年に現在地に造営し現在に至っている。この桶は、それを記念しての設置であったが、大正期に鋳られた天水桶に出会うのは珍しい、まだ数基だ。

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大きさは、口径Φ910、高さは870ミリだ。裏側に見える「内田光次郎 藤井米二郎」は奉納者だろう。その左側に「製作者」という陽鋳文字が確認できるのに、それに続くであろう文字は土中に埋没してしまっている様でその氏名が判らない。しかし、まだ文字が続いているとすれば、総高は1メートル近くになろう。ちょっとアンバランスな感じがしないでも無い。

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●また横浜駅まで戻り、根岸線で最遠地の根岸駅まで行く。下車したが、トラブル発生だ。持参していたはずの、印刷してきた地図が見当たらない。電車の混雑の中でバッグの中へ入れそびれたか。が、おおよそは頭に入っている、何とかなろう。

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幸い目的地の横浜市磯子区下町の「旧柳下邸」までの案内図が、駅前に掲示されていた。ほぼ一本道だ。10分ほど歩くと予定外にも、根岸八幡神社が途中にあった。ここは、磯子区西町だ、ちょっと寄り道しよう。

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崖上には、スダジイ、タブノキ、シロダモ、モチノキなどの常緑広葉樹林が広がっていて、地域最後の自然林という意味で、「根岸八幡神社の社叢林」として天然記念物に指定されている。計算されたかのような、濃緑の樹林をバックにした威厳ある社殿と、グリーンの天水桶の彩が実に見事だ。再度訪れたい一社である。

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●青銅製の天水桶1対の鎮座であるが、社殿格を上げていよう、桶無しの情景などあり得ないといっても言い過ぎではない。「昭和55年(1980)8月16日」の造立で、たまに見かけるデザインだが、作者銘は存在せず不明となっている。大きさは口径Φ900、高さは830ミリの3尺サイズだ。

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「天皇陛下 御即位55年奉祝記念」での奉納で、裏側にはかなり多くの寄進者名が陰刻されている。第124代の昭和天皇は、60余年の在位中に、第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と、日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇だ。

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装飾は、対峙する2匹の見事な龍の陽鋳造 ・・、ではない。別鋳造された龍のオブジェが本体にはめ込まれているのだ。作者は不明としたが、この龍は、前38項で見た「大田区本羽田・羽田神社 富山県高岡市 (株)竹中製作所製」にそっくりだ。ここの天水桶を鋳たのは竹中さんかも知れない。

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●程なく、目的の「旧柳下邸」に到着。住所は、横浜市磯子区下町だが、邸宅は、「根岸なつかし公園」内にある。明治大正期の銅鉄取扱商として有力商人であった柳下氏によって建設されたが、横浜市によって復元保存されていて、市指定の有形文化財だ。

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ここのサイトによれば、洋館の屋根にはフランス瓦が葺かれていて、ドーマー窓、銅の棟飾りがついている。規模は小さいが、周辺の町並みからは突出した高さを持っていることから、近隣のランドマーク的存在となっている。

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玄関脇には、昭和の半ばまでは当たり前のようにどこでも見られた、懐かしいコンクリート製の防火用水桶が置いてあって、金魚が悠々と泳いでいる。この様な消火枡は見かける地域で意匠が違うが、大きさは横800、奥行き500、高さ600ミリというのが平均的だ。入っている水は極少量で、初期消火に多少は役立つかもという程度の貯水量でしかない。(前10項にも登場)

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屋敷内で見たのは、これまた懐かしい長州風呂(後72項)、いわゆる五右衛門風呂だ。子供の頃、田舎町で使用した思い出があるが、底面にすのこが置かれていて、下からの熱に直接触れないようになっている。右側にはかまどがあるが、汲み湯用であろう。効率的な構造だ。

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●邸宅の玄関脇に、1基の鋳鉄製の天水桶がひっそりと置かれている。かつては、1対であったのだろうか。大きさは口径Φ900、高さは880ミリとなっている。真裏までは確認できないが、表面には、年代も作者名も鋳出されていないようだ。

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柳下氏は、「鴨井屋」の名で「弁天通」に店を構え、平次郎、達蔵兄弟の2家が、「加」を屋号としていたと言う。正面のΦ320ミリの社章の「○に加」の意味は、鴨井の「か」なのだろうか。なぜ「鴨」ではなく「加」であるのか不明だが、別に鋳造されていて、丁寧にビスで固定されている。

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●鴨井屋の活動時期と同じく、鋳造も明治大正期であろうから、これは当時の鋳造の聖地、川口の鋳物師の手によるものかも知れない。気になるのは、川口市幸町で営業していた「笠倉鋳工所(前19項)」だ。

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同社は、千葉県・成田山新勝寺(後53項)に玉垣を寄進しているが、同じ社章で、「○に加」だ。現在は(株)笠倉メテックとしているが、この寄進は昭和の半ば頃で、3代目の笠倉久昇の時世だ。しかし「笠倉」と「加」に何の関連性も見い出せない。

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●あるいは、川口には、加田屋三郎兵衛(前22項)という京都真継家傘下(後40項)の勅許鋳物師がいた。昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」によれば、藤原清秀を名乗っていたようだが、無理やり関連付ければ、この人も「加」に関係している。後113項でもこの「加」の文字について検討しているが、依然不明だ。

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一方見地を変えてみれば、これは「加持水(後113項後116項)」の「加」かも知れない。辞書によれば、諸仏の慈悲が衆生に加えられることを「加」、行者が仏の慈悲を感得することを「持」と言う。加持祈祷という言葉があるが、ここに溜まる雨水は、霊水という意味合いであろうか。

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●さて、続いては根岸線に乗って山手駅まで戻る。1駅ではあるがこの暑さ、卒倒しそうだ、とても歩ききれない。問題はここでの目的地、中区の第六天稲荷社だが、地図を紛失したから右も左も判らない。が、この国のシステムは便利で優しい。駅前交番があるから、聞けばいい。

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小さな社のはず、警官も判らないと言うが、一緒に住宅地図を目で追っていると、ほどなく発見。大和町通りの商店街のはずれで一本道だ、そうだった、記憶がよみがえる。徒歩10分、かなり狭い境内で、真正面からの撮影は不可能。存在自体、ないがしろにされている感じで、雑然としていて整備が行き届いていない。

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●境内に奉納されている石灯籠には、「明治36年(1903)2月吉日 野州足利町 川島久兵衛」と刻まれている。下野国栃木県だが、随分と場所違いだ。鳥居の両側に1対の鋳鉄製の天水桶が置かれていた。正面の「津久新」は、地名であろうか、どこかの商家の称号であろうか。

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作者は、「武川口住 冶工(やこう) 増田金太郎 安政六己未(1859)初秋」と鋳出されている。金太郎(後82項)は、幕末の大砲鋳造家だが、出会えてよかった、ここでも川口鋳物師が活躍していた。なお、冶工の「冶」の字には、金属や鉱石を溶かして成形する、という意味がある。

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画像は向かって左側の桶だが、こちらにも目立つように赤い塗装をして欲しいところだ。大きさは口径Φ800、高さは700ミリとなっている。

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●また根岸線に乗り、桜木町まで2駅を戻る。近くは海岸線で、横浜ランドマークタワーや、観覧車が見える。目的地は駅前の案内板で確認、横浜市中区海岸通の日本郵船歴史博物館だ。16本の大オーダーのコリント式列柱が印象的で、昭和11年(1936)の建築物と言う。オーダーとは、数階分の高さを貫いて構成される1本の柱の事で、東京丸の内の明治生命館と並び、アールデコ様式建築時代の最後を飾る建物だそうだ。

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展示物の中に、防錆塗装され整備された1基の鋳鉄製の天水桶があるが、当初は2基1対であったろうか。屋内で風雨にさらされることも無く空調制御もされているから、恐らくはこれから先も日本一長寿な天水桶であろう。木目を生かした木製の重厚なフタと台座は味わいがあるが、共に後日誂えたものであろうか。

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作者銘は、「東京深川 釜屋六右衛門 明治3年(1870)11月吉日造立」で、通称、釜六製(前17項)だ。大きさは口径Φ960、高さは770ミリとなっている。

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●お気付きだろうか、正面にあるこのマーク。お馴染みの三菱グループのスリーダイヤの原型だ。まさに会社の原点を示すモニュメントであろうが、日本郵船は三菱財閥のスタート会社だ。創業者で初代総帥は言わずと知れた、土佐藩出身の岩崎弥太郎だが、先の画像の左上のほぼ中央に写り込んでいる、口ひげの人物だ。坂本竜馬や後藤象二郎の活躍時期である。額縁全周に廻っているのは、「岩崎」の文字の篆書体であろう。

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日本郵船の前身とも言うべき、九十九商社は、土佐藩士達により明治2年(1869)10月に誕生している。天水桶の造立は翌年11月であるから、発注はそこそこ素早かったのだ。また、経緯は判らないが、言い慣わされているのは「商会」であると思われるが、当時は「商社」であるのが正しい事が確認できる。

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●商社の主たる事業は汽船廻漕業、つまり海運業だ。連想されるのは船舶であるから、スリーダイヤの意味は、プロペラかと思っていたら、岩崎家の三階菱紋と、土佐藩山内家の三葉柏紋とを混合したデザインだと言う。

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菱紋は、菱形の幾何学的な紋の総称だ。古代から世界中で見られた紋様で、植物であるヒシの実に由来しているとも言われているが、詳細は不明という。土器にも鱗と同じ様に刻まれている事から、呪術的な意味合いもあったと考えられてる。

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柏は、端午の節句の柏餅でお馴染だが、古くから神前に供える供物の器代わりに用いられた神聖な植物で、伊勢神宮や熱田神宮などの大宮司家の家紋として使われてきている。三葉柏紋のセンターにあるそのボッチからは、船舶のプロペラシャフトをも連想できるのだが、そうでは無いようだ。

天水桶あれこれ-山内家

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●それにしても、弥太郎と釜六には面識があっただろうと思うと、感慨も一塩だ。最後に、桶の上フタの銅板に刻まれている「賛」を、あやふやな所もあるが、現代風に訳しておこう。なおこれは、「昭和15年(1940)に、日本郵船の嘱託で夏目漱石門下の小説家、内田百閒(ひゃっけん)が記したもので、戦時中は横浜市民博物館で保管されていたため、金属回収令(前3項)を回避することができた」と、説明文にある。

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その内容は、「天水桶の賛 この天水桶は、郵便汽船・三菱会社の前身たりし九十九商社が、明治3年(1870)11月、東京深川・釜屋六右衛門に命じて鋳造せしめたるものなり。明治18年9月、三菱と共同2社の合併によりて日本郵船会社が創立せらるるや、これを継承し、以って今日に到る。

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その間、日本橋南茅場町、或いは箱崎町等に於いて、しばしば、祝融(火事)の厄に遭いしも、克(よ)くその堅牢不易の形相を保ち得たり。真に我が日本郵船会社の淵源を諷(ふう)すると共に社礎の強固なるを象徴する、好個の記念物なりというべし。

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故にその由来を誌して、永く我が社の大呂(たいりょ)たるべきを明らかにす。昭和15年6月 日本郵船株式会社」である。「大呂」とは、中国・周の太廟にある大鐘を指し、国の重要な宝物のことで、「貴重な物、重い地位や名声」などのたとえであるようだ。釜六が、三菱の大呂の象徴たる天水桶の製造に一役買っていたとは、正に意義ある1基だ。つづく。