.

●前回に引き続き、渋谷区神南の国立代々木競技場にある聖火台について考察していくが、まずは関連した余談から。東京五輪開催時の昭和39年(1964)頃には、聖火台やらに関するこんな切手も発売された。しばらくぶりにストックブックを引っ張り出してみたが、額面は5円などで時代を感じるが、「第18回オリンピック競技大会記念」と印刷されている。

.

このピンバッジは、都内渋谷区神南の国立代々木競技場の中にあった、秩父宮記念博物館(前71項)で買い求めたものだ。説明書きには、「聖火台は高さ2.1m、最大直径も2.1mで重さは約2トン」とあるが、この重さに関しては疑義がある。

.

ウィキペディアでは「4トン」とも記載されていて、これは論外だが、実物は「2.6トン」だ。川口市もそう広報しているし、何よりも前44項で、鋳造者本人の鈴木文吾が「それは2トン半でしょ・・」と、聖火台受注の際の話として証言しているからだ。これらの錯綜は、一体どこからくるのであろうか。

.
●画像右のオブジェが載ったこの建築物を御存じであろうか。完成したばかりのスカイツリーといいコンビだが、平成元年(1989)竣工の、都内墨田区吾妻橋にあるアサヒスーパードライホールだ。

.

現在、1階のビアレストランでは工場直送のビールを楽しめるが、室内の様相は、深海をイメージしているという。散策の途中にしばしば立ち寄るが、ドライブラックという黒ビールは、「黒麦芽由来のコクがあるのに、爽快に飲めるので、リフレッシュしたい時に合うビールです」と言う。

.
●建屋は、隅田川の吾妻橋のたもとにあった旧吾妻橋工場跡地の再開発で建造されている。屋上に載っているのは、アサヒビール社の燃える心を象徴する「金の炎のオブジェ」、フラムドールだが、炎の部分は長さ44メートル、高さ14メートルで360トンもの鋼材を使用している。

.

そして台座となっている黒っぽいビルは、広報部によれば、意外にも聖火台をイメージしているという。当初の構想では、炎がビルを貫くような形に垂直に立てるつもりが、構造上の問題があって、ごろんと寝てしまったとも言っている。

.

●ここの部分は、後年の追記だ。令和3年(2021)に開催された東京五輪に合わせ、旧国立代々木競技場内にあった川口製の聖火台は、後132項で見るように各地を転々とした後、2019年11月に完成した新国立競技場に置かれている。新競技場は隈研吾によるデザインで、周辺の明治神宮外苑との調和を目指した「杜のスタジアム」となっていて、使用された木材は、47都道府県から集められた杉材およびカラマツ、約2千平方メートル分を使用している。

.

置かれている場所は、新競技場の東側にあるGゲート、青山門の前だ。神奈川県内の工場で燃焼装置を交換するなどの修繕を行った後、透明な囲いに守られ、フタが被せられている。広めの敷地であるのは、いつの日かの点火を想定しての事であろうか。ここで川口レガシーの聖火台が、永遠に余生を過ごす訳だ。

.

●掲示板に書かれた名称にちょっと違和感がある。「炬火台(後73項) ~きょかだい~ Olympic Cauldron -1964 Tokyo Olympics」で、「聖火台」とはなっていないからだ。なぜ言い習わされた「聖火台」ではないのか不思議だ。「Cauldron」の和訳は、「大釜」だし、どこかちぐはぐ感が否めない。

.

もう1つあまり納得いかないのが説明文の内容で、「1958年アジア大会へ向けて、炬火台の設計は国立競技場の設計者である角田栄ほか4名、製作は川口内燃鋳造所・美術鋳造の名工である鈴木万之助が担当した」とある事だ。前71項で記したが、この記述は日本スポーツ振興センターのサイトからの引用だ。

.

設計は、埼玉県鋳物機械工業試験場に勤務していた山下誠一(前26項後115項など)のはずだが、同氏は「ほか4名」の内の1人であり、炬火台は共同設計であったのだろうか。また万之助(萬之助・前44項など)は、天水桶や火鉢などの工芸品に特化した鋳物師であり、緻密な美術鋳物を鋳た実績は少ないはずだ。

.
●さて、本家の聖火台を模したレプリカはどこにどれだけ現存しているのだろうか。実は、何基か存在するのだ。まずは、何度も見てきた川口市西青木の青木公園(前26項など)のものを、もう一度見てみよう。レプリカ前には、上部に太陽光パネルを設置した碑が建っていて、鋳造者の鈴木文吾の肉声が流れる趣向らしいが、今は故障しているようだ。文字碑の内容を書き出してみよう。

.
『近代五輪の原点「平和とスポーツの祭典」が、世界で唯一の被爆国日本で、1964年(昭和39年)に開催されました。10月10日、第18回「東京オリンピック」のメイン会場である「国立霞ヶ丘競技場(代々木公園)」の聖火台に、アジアで初めてオリンピアの真赤な炎が立ち上がったのです。


.

●オリンピックの象徴「聖火台」。この象徴を製作したのが、川口市の鋳物師(いもじ)鈴木万之助文吾さん親子です。「川口市の鋳物の素晴らしさを日本国中、いや世界中の人に知ってもらいたい」その思いで2ケ月間寝食を忘れて取り組み完成させました。

.
永遠に鋳物師親子の偉業を称えると共に、鋳物の街「川口市」を誇りに、この”聖火台”のレプリカを保存し、後世に制作者の心と技術を伝え、さらにオリンピック本来の目的である世界の平和を、皆で実現させましょう。平成16年(2004)8月吉日 寄贈 東京オリンピック聖火台レプリカ改修事業実行委員会 宮澤静峰 謹書』である。

.
●その下の写真は、左が鈴木文吾、右が師匠であり実父の萬之助だが、どこでの撮影であろうか。ここは、昭和31年(1956)5月に、戦時に金属供出(前3項)されたものを復元し設置された、埼玉県奥秩父の三峯神社にある天水桶前だ。天水桶を鋳造し納品設置して一段落した後の、ワンショットであろう。貴重な写真だが、萬之助はこの後、昭和33年2月に他界しているから、この日が見納めの日であったかも知れない。

.
これが今現在の天水桶の姿だが、写真に写ったそのままの形状を維持している。裏側には、「鋳造者 川口市元郷町 鈴木萬之助」、「太平洋戦供出打破 昭和31年(1956)5月復元」と鋳出されているが、詳細は前44項をご参照いただきたい。

.
●その写真の、若き日の文吾が来ている法被(はっぴ)の両方の襟には、「長寿風呂」とあるが、これはどういう意味であろう。「2004(平成16年).4.3の川口談義」によれば、当時30才くらいであった同氏は、長州風呂(前12項前19項前39項後97項)、いわゆる五右衛門風呂製作のため広島方面に修行に出ていたのだ。この風呂は、画像で見るように丸型や小判型のものがあるようだ。

.

国内有数の五右衛門風呂の通販店「やまと屋」さんによれば、五右衛門風呂は底だけが鋳鉄製で周囲を木桶で囲った風呂だ。その始まりは、12世紀、東大寺の俊乗坊重源(ちょうげん)が、遊学先の宋(当時の中国)で見た鉄湯船を、帰国して周防(山口県)の地で作らせたのだという。五右衛門風呂の呼びの由来は、その後の文禄3年(1594)8月24日、盗賊の石川五右衛門が京都の三条河原で釜茹の刑に処せられた事からと言われる。

.

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、主人公の弥次さん喜多さんが、小田原宿で五右衛門風呂への入り方を知らず、底板を取り除けて入ろうとしたため釜底に触れて足を火傷し、悩んだ末に便所下駄をはいて風呂に入っている。喜多さんは下駄で踏みつけたあげく、釜を壊して大恥をかくという話が書かれている。

.

●一方、湯船全体が鋳鉄製の風呂は長州風呂と呼ばれていたようだ。始まりの地、周防は長州だから産地由来の呼び方だ。この一体型の長州風呂が、流通網の発展もあって何時しか広まる内に、木桶と鋳鉄釜の接合部分から水漏れする五右衛門風呂は駆逐されたが、呼称としては逆に、盗賊由来の五右衛門風呂の方が一般的になったようだ。

.

燃料も選ばず早く沸き、湯あがり感の温かさが長続きするという、画像のようなこの風呂は日用品として多くの需要があり、戦後の復興期にはうってつけの商品だったのだろう。法被にある通り、文吾は名称を「長寿風呂」に変え、技術修練や販路確保に躍起になっていたことが想像できる。

.

●先ほど「広島方面に修行に出ていた」としたが、具体的にはどこであったのだろうか。ウィキペディアによれば、大和重工(株)(だいわじゅうこう)は、広島県広島市安佐北区可部に本社をおく鋳造メーカーだ。この地域は川運の集積地であり、街道の分岐点でもあり、江戸時代後期に大いに成長した可部鋳物の一大産地だ。

.

現在同社では、産業機械関連として、工作機械の定盤や船舶用エンジンフレームなどを、住宅機器関連として、アウトドア用品やゴルフのパター、鋳物ホーロー浴槽、やまと風呂、平釜、羽釜など多岐にわたって製造している。特に大型鋳物製造においては、陸上運送可能重量である最大40トン、長さ12mまで対応しているという。

.

天保2年(1831)創業という同社は、明治初期(1868~)より五右衛門風呂の製造を開始している。戦前には国内の8割の五右衛門風呂を製造、最盛期で月間1万本を鋳造していたという。現在でも製造を継続、平成24年(2012)時点では月間50本を製造している。上下の画像は、JR可部駅西口にある大和製の羽釜と五右衛門風呂だが、文吾の修行先はここらであったろう。

.

●千葉県山武市に大和製の羽釜後94項があるので見てみよう。松尾町八田字東雲に鎮座する金刀比羅神社だ。創建は延元2年(1337)10月で、讃岐国の金刀比羅大神を奉勧遷所したという。大国主命を御祭神としていて、開運出世の祖神として広く崇敬されている。

.

ここでは、 第17代横綱小錦八十吉ゆかりの神社と謳っている。明治期に活躍し小錦を名乗った初代だが、明治22年(1889)の5月場所後に、ここの神前で横綱披露相撲を催し郷土に錦を飾っている。その記念として、敷地35坪と2尺6寸という柱時計を寄進しているが、当時としては、かなり珍しい文明の利器であったに違いない。

.

ここでは、天水桶が2基1対の羽釜だ。先の画像で見たように、羽の上に大和重工の社章があるが、この他に文字などの鋳出しは無い。正面には、「奉納 創業五十周年記念 昭和四十九年(1974)十月十日 金物石油 村田屋本店」とペンキで書かれている。何らかの社用で使われ退役した羽釜であろうか、当初から天水桶としての奉納であったのだろうか。

.

●さてだいぶ逸れたが、この青木公園にある聖火台こそ、本来国立代々木競技場に設置されるはずのものであった訳だが、前3項のエピソードにもある通り、注湯時に爆裂して失敗後、修復されて今現在も展示されているのだ。では、「爆裂」とはどんな失敗だったのだろうか。

.

下の図は鋳造時の注湯(溶解金属の注入)をイメージした梵鐘の型の断面図だ。製品の鋳型をいくつかの外枠で固定し、最上部から湯を注ぐのだ。中に入った金属が外枠に向かう圧力は、製品が大きくなるほど膨大であるから、その固定方法に問題があったのであろう。

.

堤防が決壊するがごとく、圧力に耐え切れなくなった湯が、外枠と外枠の隙間から流出してしまい失敗したのである。「爆裂」という言葉の印象からして、湯が徐々に漏れ出したのではなく、突然にして一気に流出したのかも知れない。幸い人的な被害は無かったようで、正に不幸中の幸いであった。
爆裂
.
●このレプリカは、鋳造場所提供者である川口内燃機の岡村実平が、文吾に鋳掛け修復を依頼したというが、爆裂の痕跡はどこにも確認できない。完璧な復元である。鋳掛けとは、鍋釜などの金属器の修理法だ。穴が開いたそれらを埋めるために使用する金属は、白鑞(しろめ)と呼ばれる、錫(すず)と鉛との、ほぼ4対1の合金で、これを鞴(ふいご)を使った火力で溶かし穴を塞いだのだ。

.

しかし融点が低いこの合金による修理法で、熱を加えて使う鍋釜が、果たして再度機能したのであろうか。不思議だ。江戸期の鍋釜は、粗悪で融点の低い鋳鉄で鋳造されたといい、溶融するだけの熱量は、鋳掛屋が携帯する程度の簡易な鞴でも確保し得たという。鋳掛屋は、7尺5寸(2.3m)の長い天秤棒を担いで町中を歩いていた。軒下から7尺5寸離れていなければ、火を使う事は禁じられていたので、その距離を測るためであった。

.

●なお、岡村実平は平成16年(2004)2月に102才で逝去しているが、その孫は去年の暮れに惜しくも殉職された、前川口市長の岡村幸四郎だ。昭和28年(1953)1月12日生まれ、平成25年(2013)12月25日没、60才であった。川口市議会議員を1期、埼玉県議会議員を2期歴任し、第19代から第23代までの市長として奉職したが、在職中に急性腎不全のため死去、叙従四位、授旭日中綬章を受けている。

.

また、川口内燃機鋳造(株)は、当時、鋳造設備を持っていなかったプリンス自動車工業のためにエンジンブロックを鋳造生産し、供給していた会社だ。団塊世代の記憶の中にこびり付いて離れない、「スカG系」のエンジンだ。同社は昭和13年(1938)8月の設立だが、現在はクボタ、いすゞ自動車や三菱重工業を得意先としている。


.
●ところで、この聖火台には文吾の実父である、鈴木萬之助を略した「鈴萬」の銘が陽鋳されているというが、その場所はどこであろうか。外回りをぐるりと見廻しても文字は見当たらないが、聖火台の下の方を見てみよう。

.

鍵がかかっている開閉窓があるが、外側と内側をつなぐ唯一の場所である。ここを開ければ、ガス燃焼器具や配管などが見られると思われるが、陽鋳文字があるとすれば、この中でしかなかろう。是非とも公開して欲しいものである。(後103項参照)

.
●かつてこのレプリカは保存状態が悪かった、と言うか、ほったらかし状態だったらしく、市の財産としてこれでいいのかという機運が、平成15年(2003)11月中旬に盛り上がり、平成16年10月に「聖火台保存会」が発足している。かつてのレプリカは、雨除けのフタはあるが、囲いも碑もなく、塗装色も安っぽい。

.
立ち上がった保存会は、「東京オリンピック聖火台レプリカ改修事業実行委員会」となり、委員長には、元川口市長の永瀬洋治(後108項)が就任、顧問には鈴木文吾も名を連ねた。そして、市民からなどの寄付520万円を予算として、現在の保存状態になった訳だ。一連の文書の中にあった、文吾直筆のサインがこれで、平成16年1月30日付だが、これは、構想段階で文吾の賛同を得た日だ。

.
●続いてのレプリカ所在地は、川口市のお隣の戸田市戸田公園だが、戸田市は埼玉県南部に位置する人口約14万人の都市だ。江戸時代には御鷹場として栄え、荒川のかつての「戸田の渡し」は全国的にも有名だ。荒川沿いの戸田漕艇場、ボート競技コース場のそばに戸田公園があるが、かつてこの人工的に開削された川で、東京オリンピックが開催されたのだ。

.
この公園内に聖火台のレプリカがある。聖火台に続く通路には煉瓦が敷設されているが、鉄柵で囲われていて接近はできない。基壇の外観は校倉風の意匠となっていて、赤く塗られたコンクリート製だ。本体は灰色っぽい塗装だが、デザインは本家と同じだ。現在ここに火が灯る事はあるのだろうか。

.
●説明書きを読んでみよう。タイトルは、「戸田ボートコース聖火台」だ。「この聖火台は、昭和39年10月に開催された「第18回オリンピック東京大会」のボート競技場の聖火台として使用されたものです。鋳物製で大きさは、上部直径1.4メートル、高さ1.4メートルです。主会場の国立競技場(東京都)に設けられた聖火台(昭和33年設置)の三分の二の大きさですが、同じデザインでいずれも川口市内の鋳物工場で製作されました。

.
10月10日の開会式に国立競技場聖火台に灯された聖火から分けられた炎が、当時の戸田町役場前から3人の走者によってリレーされ11日午前9時30分に聖火台に点火されました。このきらめく聖火のもと、同日から5日間にわたり、27ケ国101クルーが7種目の競技を熱く繰り広げました」とある。リレーは、市内においては10月7日に中山道出口で隣町の蕨市から引き継ぎ、戸田橋交番前で板橋区側へと引き渡したという。

.
●戸田市立郷土博物館蔵の写真をアップしてみると、聖火が灯っているのが判るが、聖火台が載っている基壇もそっくり保存されているようだ。写真を見る限り、当時の聖火台は黒色であったように見える。代々木の国立競技場の聖火台は、五輪用に製作されたものではない。昭和33年(1958)に東京で開かれたアジア競技大会用であった。ここ戸田公園のものは、その6年後の設置であるが、五輪用として鋳造された聖火台だ。

.

説明書きには、「同じデザインでいずれも川口市内の鋳物工場で製作されました。」とあるだけで、ここでは業者は特定されていない。川口鋳物工業協同組合によれば、川口内燃機鋳造(株)製というが、木型から砂型を作るという技法の違いもあり、文吾はこれには関与していない。なお、聖火を分火した他の競技会場ではメイン会場と異なるデザインの聖火台が製作されているが、この聖火台は唯一、メイン会場と同一のデザインとなっている。

.
●先の「聖火台レプリカ改修事業実行委員会」の文書を見ると、文吾の肉声発生装置は、ここにも設置予定とのことだったが、何故か実行されなかったようだ。さらにその文書には、設置予定場所として、他に「国立競技場」と「千葉県館山公園」とある。旧国立競技場のスタンドには入ったことが無いのでどうなっているのか判らない。
.
千葉県館山市藤原の館山公園にはあるだろうと思って電話取材してみたが、聖火台そのものがすでに無いようだ。川口内燃機鋳造(株)では、同じ木型で3個の聖火台を鋳造し、千葉県にも出荷したという。1個は後73項で複数登場する教育現場に現存するどれかで
、もう1個が次の画像の館山公園であろうか。納得がいかず、日を変えて館山公園に2度も電話したが、同じ回答であった。廃棄されてしまったのであろうか、不本意でならない。

.

●一方、鈴木文吾に関りは無いだろうが、東京オリンピックで使用されたという聖火台が、神奈川県藤沢市の江の島(後129項)にもある。日本オリンピック委員会のサイトによれば、『ヨット競技は東京オリンピック開催にあわせて整備された日本初の競技用ヨットハーバーである江の島ヨットハーバーを中心に開催されました。

.

大会では、強風にあおられて海に転落した選手を優勝候補だったスウェーデン・キエル兄弟がコースを戻って救出した「人類愛の金メダル」と呼ばれるエピソードが残っています。現在でも全日本選手権が開催されるなど、多くのヨット愛好者に親しまれています』という。

.

●聖火台のある場所は、江の島の東側の海に突き出たセンタープロムナードだ。台座となる主柱はコンクリート製で、目測ながら総高は2.5mほどだ。下部には、五輪のマークと「1964」の数字が浮き出ている。上部の傘状のものが青銅製の聖火台のようで、口径は2mほどだろうか。

.

先に「聖火を分火した他の競技会場ではメイン会場と異なるデザインの聖火台が製作されている」としたが、これは本家の面影が全く無い異なるデザインだ。製作者の銘などは確認できなかったが、実際に聖火リレーも行われたという。

.

●ここにもある。長野県北佐久郡軽井沢町の風越(かぜこし)公園内だ。ここは、サイトによれば「風とスポーツが、いつもそばに。」と謳われていて、「体を動かすことへのハードルを下げ、スポーツをより身近なものにしてほしいと願う生活密着型のスポーツ施設です」という。

.

ここに2基の聖火台が並んでいる。右側のカラフルで先進的なオブジェのような聖火台は、第18回長野オリンピック冬季競技大会(後132項)で使用されたもので、載っているその架台は点火装置のようだ。その開催は、1998年(平成10年)2月7日から22日であったが、日本は、カーリング競技で男女ともに5位という成績を残している。

.

●こちらが、「オリンピック東京大会 総合馬術競技聖火台」だ。説明書きによれば、「この聖火台は、1964年(昭和39年)、当町(南軽井沢地帯)で開催されたオリンピック東京大会総合馬術会場で燃え続けた聖火台です」という。日本はこの馬術競技では、団体、個人ともに良い結果を残せなかったようだ。

.

旧町資料館敷地内に移転保存されていたが、昭和53年(1978)10月、長野やまびこ国体冬季大会アイスホッケー競技と、秋季大会ライフル射撃競技の当町開催を記念して、この風越公園内に移築し保存されている。本体は肉薄の鋳鉄製で、中央に当時の馬術のピクトグラムが配され、下端のぐるりには馬の蹄鉄を模した装飾が張り付けられている。

.

城の石垣のような基壇に載っているが、本体の高さは2mほどであろうか。真裏の丸い開口部にはフタが付いているが、ここから点火装置が挿入されたのであろう。表面に凹凸はなく滑らかで、作者などの文字情報は存在しないが、どこで鋳られたものであろうか。このように各地に聖火台のレプリカは存在するが、この他に埼玉県内にまだ3基ほどある。いずれも教育現場であるが、次の後73項で見ていこうと思う。つづく。