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●鋳鉄製の天水桶や聖火台(後71項ほか)に関するメンテについて、川口鋳物師の鈴木文吾が生前、川口市のインタビューに対し、次のように答えていた。「山岡(インタビューアー):天水桶や聖火台を磨きに行く話ですけど、なぜゴマ油を使うんですか。

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鈴木(文吾):なんでってね、鉄はね、錆がくるでしょ。夏なんかに膨張してね、線路だって橋だってね、セメントだって、アスファルトだって、びーっと伸びるでしょ。あったかいと伸びるの。だから線路のすき間、割ってあるでしょ。と同じで、それで鋳物ってのは、一番、顕微鏡で見てみると、空間があるんだよね。あったかいと伸びるし、寒くなると縮まるから。じゃ、暖かい時にゴマ油を持っていって、塗ると、その空間に油がしみ込んで行くんだよね。
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山岡:やっぱりゴマ油ですか。鈴木:ゴマ油はね、なぜかっていうと、一番高いんだよね、油の中でも。それでね、斉藤道三があれした、岐阜のあの油が、未だに一番高いね。そのいい油を持ってくとね。女の人が、油でも特ににおいがいいねって言うんだよ。私が行くと、ゴマ油の良いにおいがするよって。
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今のサラダ油なんか使ってもにおわないの。うちの親爺もやっぱりゴマ油を使って、成田さんとか宗吾霊堂の、あれは昭和何年だっけな、あれは供出されちゃったんだよね、戦争中にね。川口だってね、金山線の単線があったんだけどね、それも全部(供出されたの)。」
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なるほど、熱で伸びきった鋳物の表面に、塗装じゃなくてゴマ油を塗布する訳だ。鈴木氏の鋳物に対する愛情が感じられよう。つまり、塗装じゃないんだ、鋳肌の純朴さをどこまでも隠したくないという風に理解できる。画像は、生前の文吾夫婦が、国立競技場にある聖火台をゴマ油で磨いている情景だ。
天水桶あれこれ-聖火台

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●前回に続いて、近年の青銅製天水桶の台頭について検討してみる。ユーザー、つまり寺社や氏子、檀家側が望む要素の中で「低コストであること」は、第一の検討事項であろう。弾性のある青銅製の桶は肉厚を薄くでき、結果、軽量になるから、「キログラムあたりいくら」の鋳物の取引においては有利だ。鉄に比して、素材のキロ単価が割高であろうとも、メンテ、特に定期的な塗装の問題も含めて考えると、主流になるのであろう。
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まずは、品川区北品川の浄土宗臨海山法禅寺。東海三十三観音霊場31番札所で、阿弥陀坐像を本尊としている。境内には区指定史跡である「流民叢塚碑」があるが、天保の飢饉の惨状が刻まれている、名もない庶民の供養塔だ(説明板を要約)。

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ここの青銅製桶は大きい。上面の直径は1メートルはあろうが、肉厚は10ミリも無い。遠目から見ると重量感があるが、肉が薄いと判ると、数人で運べそうな気さえしてくる。鋳鉄製の場合、肉厚は、3尺桶で20ミリくらいはあろうか。

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●この流れに、川口の鋳物師達も逆らうことができなかったようだ。昭和の鋳物師、山崎甚五兵衛(後84項など)の作例のほとんどは鋳鉄製だが、何基かの青銅製桶も製作している。まずは、台東区谷中の天台宗、随龍山了ごん寺。寛永元年(1624)に、日安尼によって現在地に草創されているが、木造阿弥陀如来立像は、区の有形文化財だ。

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花弁部の湾曲が緩やかなのが印象的な青銅製桶だ。紋章は、花が「3-5-3」並びの「五三の桐」だ。太閤秀吉は、織田信長の家臣時代はこの紋を活用していたが、天下統一後、時の後陽成天皇から下賜されたのは、「5-7-5」並びの「五七の桐」で、菊紋と並んで高貴な家紋だ。

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1対の天水桶は、「竣工 昭和47年(1972) 川口市 山崎甚五兵衛」銘、寺の「維持会 創立20周年記念」での奉納で、住職は「廣信代」の時世であった。

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●続いて足立区本木(もとき)の田中稲荷神社。足立風土記によれば、「この社は、冬木屋(後42項)が建てた別邸内に稲荷神社を勧請したことに始まりました。江戸時代には深川木場の講中が冬木邸に集まり盛大な初午祭りを行い、江戸の人びとの参拝で賑わったといいます。

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この事を物語るように、境内には1755年(宝暦5)2月に江戸講中・深川講中寄進の手水鉢が残されています。明治になって冬木屋敷は廃邸になったといいますが、その後も地元の人びとの信仰によって現在に及んでいます」という。かなり小さな社で、天水桶が主役かのようだが、往時の賑わいは想像できない。1対の互いの距離もかなり近いが、よく見かける同氏独特のデザインだ。

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「昭和54年(1979) 川口市 山崎甚五兵衛」作の青銅製で、鋳出し文字がくっきり浮き出ている。鋳鉄製に比して青銅製の陽鋳の凸文字は輪郭が鮮明だ。湯(溶けた金属)流れがいい証左であろうか。

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●同じく昭和・平成の鋳物師、鈴木文吾(前3項ほか)の場合はもっと顕著で、私が出会った半数以上が青銅製だ。傾向的には、昭和30年過ぎ(1955~)から手掛け出し、昭和の終わりまでは鋳鉄製、平成に入るとそのほとんどが青銅製なのだ。

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川口市川口の日蓮宗、遠光山妙仙寺は、昭和13年(1938)に鋳造業者の伊藤家が建立している。昭和44年(1969)の伊藤仙太郎翁の命日に、大本山本門寺貫主の日慎大導師を迎えて開堂したという。青銅製の天水桶1対は、「開堂50周年記念 伊藤合名会社 伊藤鉄工株式会社」の奉納であるが、合名会社が前身で、昭和6年(1931)に川口市で創業している。


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●かつて「センロク竃(かまど)」で一世を風靡した、本家「伊藤愃六(せんろく)総本店」からの独立であった。独立後は、「愃王ストーブ(後68項)」ブランドとして名を馳せ、国内のみならず朝鮮半島や満州にまで輸出展開、国内有数のストーブメーカーに成長している。

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蒸気機関車が代表するように、この時代のエネルギー源は石炭が主流であった。市内には多くのストーブメーカーがひしめいていたが、川口産のストーブは、全国シェアの約8割を占めたという。昭和29年(1954)10月の埼玉新聞には、「特性ストーブ 関西ですごい売れ行き」、「ひっぱりだこの川口ストーブ、フル操業も追いつかず」と見える。

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●昭和初期の伊藤合名会社の広告では、「愃王ストーブ 燃料僅かに五分ノ一 一台で二台の代用」、「一回の投炭 約六時間 連続燃焼」と宣伝し、「断然ストーブ界の驚異的大発明」とまで謳っている。

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本家の社長、伊藤愃六の顔写真入りの広告もある。左側には広告塔が見えるが、「愃六商社全国総本店営業所」だ。右側は広大な敷地に展開している「第一工場全景」だが、他所にも工場があったのであろうか。「営業課目」として、「オガクズ焚愃六竃 モミガラ焚愃六竃 愃六式萬歳風呂 愃六ストーヴ」を挙げているが、多彩だ。

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●この古写真は、昭和42年(1967)まで川口駅前にそびえていた上述の広告塔だ。高さは30mもあり、鋳物の町川口のシンボルであったが、夜はイルミネーションが際立っていたという。

伊藤センロク
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次は、川口駅前に設けられた本家の竃の販売所で、大正時代半ばの写真だ。各地で見かける、「IGS」と刻まれたマンホールのフタなどは、伊藤鉄工(株)のブランドで(後37項)、今の社長の伊藤光男氏は、平成24年(2012)現在、川口鋳物工業協同組合の第25代理事長だ。写真は、「川口ふるさとの想い出写真集・沼口信一編著」からの転載だ。
伊藤センロク
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●さて、天水桶は麗美に茶色がかっているが、これは錫とかニッケルとかの成分配合の違いだろうか。このような色合いの天水桶は余り見かけない。大きさは、口径、高さともに3尺サイズだが、反花(後51項)のベースに載っていて安定的だ。

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天水桶は、「平成元年5月17日」の造立だ。この年は1989年、昭和64年で、1月7日に昭和天皇が崩御し、翌日から平成に改元されている。激動の昭和時代の終焉であった。作者銘は、「鋳物師 鈴木文吾」で、「仝(同) 常夫」氏はご子息であり、後継者だ。

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●足立区関原(せきばら)の関原山不動院大聖寺(後14項)。宝徳元年(1449)に開山しているが、ここには大般若経600巻、8代目市川団十郎の寄進による大提灯など、区の登録文化財が多い。荒川辺八十八ケ所霊場41番札所だが、これは弘法大師ゆかりの八十八ケ所の寺院を、祈願のために参詣するというものだ。

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1対の青銅製の天水桶は、ハスの花弁形の台座に載っていて上部が外へ広がっているが、形状的には前例とほぼ同一だ。遠くから見ても判る文吾独特のデザインで、こちらは青味がかっているが、青銅の色だ。

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鈴木文吾は、「平成元年(1989)9月吉日」にもここで、3代目の常夫氏と青銅製の桶を鋳造している。文吾は前4項でもアップしたが、平成3年(2000)に川口の源永寺でも常夫氏と共作をしている。が、平成に入ってすでに四半世紀が経過、常夫氏単独の桶にはまだ出会っていない。

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●ちょっと脱線すると、文吾は2代目だが、初代の萬之助作(後44項)の鋳鉄製天水桶1対が川口市元郷の元郷氷川神社(後132項)にある。神社は、素盞嗚尊と市杵島姫命の親子の二柱を御祭神としていて、子宝・子孫繁栄の神として信仰を集めている。

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1対の天水桶は、「昭和30年(1955)10月吉辰日」の鋳造、文吾が共作という形で、今も堂々と鎮座している。大きさは口径Φ850、高さは990ミリの鋳鉄鋳物だ。ただ、文吾は後年、縦長というこの意匠を踏襲していない。見た目の構成比として、口径1に対し高さは1弱という、よりスクエアな安定感のある横長の形状へと指向している。

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●銘は「鈴木萬之助」作で、「芝川鋳造株式会社(後44項)」の敷地内での鋳造であったが、「仝(同)文吾作」とある。親子の共作として、文吾が同時に名を遺しているのは、唯一この桶だけだ。後年、文吾はこの表示を誇りに思い鋳造に勤しんでいる。鋳出し文字があるからこそ、歴史が、流れが判るのだ。なお続く「鈴木幸一(後45項)」の銘は、萬之助の長男だ。

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天水桶の背面には、世話人に続いて、いろは順に寄進者名が並んでいるが、上述した川口市川口の妙仙寺の「伊藤合名会社」、「伊藤愃六」がここに名を遺している。両者にとっても、記念すべき1対であろう。

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●芝川鋳造(株)の昭和6年(1931)当時の広告がある。「埼玉県川口町 芝川鋳造所 吉川鍋太郎」で、如何にも鋳物屋さんらしい名前の社長だが、市制施行前で、社名も改組前だ。同氏は、明治12年(1879)生まれで、東京市大島町の出身だ。その地の縁で13才から19才までを、丸七こと田中七右衛門(後18項)、釜七の徒弟として修業している。

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年季奉公中の17才の時に妻帯、明治36年(1903)以降の、恐らく倒産と思われる丸七滅亡後は、川越の小川五郎右衛門(後65項など)の工場で職長を歴任、その後は幾多もの変遷を経て、芝川鋳造(株)を興している。画像は、大田区羽田の鷗(かもめ)稲荷神社(後18項)の天水桶で、「明治32年(1899)1月吉日 丸七マーク 釜七製」だ。

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●同社の広告の内容を見ると、「鋳造課目」としては、「諸機械鋳物 日用品鋳物 瓦斯(ガス)器具一式」を挙げているが、掲載の写真が興味深い。左上が「主婦竃(かまど)」、右上が「主婦今呂(コンロ)」、中央が「長州風呂」で、全て日用品だ。後72項で見るが、この風呂釜は、いわゆる五右衛門風呂で、燃料も選ばず早く沸くので多くの需要があったようだ。

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次の広告は昭和8年(1933)当時だ。「埼玉県川口市元郷町 芝川鋳鉄所 主 吉川鍋太郎」と記されている。上の広告は「川口町」で、市制施行前の昭和6年だが、この間に「鋳造所」から「鋳鉄所」に変わっている。しかし中央に大きく長州風呂の写真を掲載しているので、主力製品に変わりは無いようだ。その鋳造法取得のため、若き日の鈴木文吾は、広島方面に修行に出ている。名を「長寿風呂」に変え、販路確保に躍起になっていたという。

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●なお記録によると、ここ元郷氷川神社の現存しない先代の天水桶は、「大正八年(1919)二月吉日 関口倉吉 関口倉次 1対」となっている。この2人は奉納した親子で、後19項で登場するが、大正期、昭和前期に活動した(株)関口製作所の経営者たちだ。愛らしい3本の猫脚に支えられ、額縁には雷紋様(後116項)が廻り、正面には焔玉(ほむらだま)が配されている。鋳出し文字の感じからしても、この意匠は、川口鋳物師の山﨑寅蔵製(後20項など)だろう。

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余談ながら、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、現存しないが、別の場所で倉吉が鋳た天水桶の記録が残っている。画像の「明治36年(1903)5月吉日 東京都文京区本駒込 天祖神社」だが、実際の鋳造は同じく寅蔵であったろうか。因みに天祖神社の先代の天水桶は、これも現存しないが、「嘉永7年(1854)9月 増田金太郎(後82項など)」だが、いずれも川口鋳物師の作例であった。

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●さて、変わり種の天水桶をいくつかアップしよう。豊島区西巣鴨の天台宗、薬王山延寿院善養寺の本堂には高さ約3メートルもの江戸三閻魔の1つ、木造閻魔王坐像が鎮座している。ほかの2ケ所は、蔵前(現杉並区)の稱光山華徳院、内藤新宿の霞関山太宗寺(後77項)を指すという。

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1対は鋳鉄製では無く青銅製だ。外径1.2mの4尺サイズ、高さは1.070ミリで、そう広くはない境内にしては、比類ないほど大きいのだ。しばし見入ったが、その存在感に圧倒される。随分豪勢なお寺さんだと思ったら、檀家さん達のまとまりがいいらしい。

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桶を奉納すべく寄付した方々が実に多いのだ。立錐の余地なく、所狭しと奉納者の名前が、陰刻ではなく、陽鋳造されている。本体鋳造後にタガネで刻む凹文字ではなく、同時鋳造の凸文字だが、手間暇がかかる。ただ、現代では人が手で彫り込む事の方が難儀だと考えるのであろう。工作機械などで予め埋め型(後81項)を製作するのだと思われる。作者銘は「東京浅草 翠雲堂(後59項)」謹製だ。

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前2項でもアップしたが、豊島区雑司ケ谷の鬼子母神のものは稀有だ。巨大な羽釜の形なのだ。貼り付けられた銘版によると、当初の天水桶は、文化元年(1804)9月に鋳造されたものらしいが、戦争で金属供出(前3項)、昭和40年(1965)10月10日に「明治百周年を記念して、総鋳鉄製とし旧態以上のものを建設した」とある。

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本体との総高は約2mで、鋳造は川口市の秋本鋳工場さんが施工している。獅子が彫りだされた石の台座には、「奉納 文化元年九月吉日 奉納願主 日参三千日 別当大行院十九世代」の文字が読み取れるが、「旧態」の天水桶とはどんなものだったのだろうか。

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屋根も手桶も鋳鉄製だが、10個という数量は他に類例がないほど多い。1個の大きさは、口径、高さとも250ミリだ。本体の羽釜の上に載っているが、ビス止めされている訳ではない。ただそこに重ねて置かれているだけのようだが、崩れ落ちないのが不思議だ。

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●次の画像、これは何なのだろう。品川区北品川の品川神社の境内にある末社の、阿那稲荷神社のもので、祀られている宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)は、商売繁盛、五穀豊穣をつかさどる。扁額や幟に「一粒萬倍」とあるが、「米は一粒の種から、萬倍の稲穂になる」という意味だ。

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表面には何の鋳出し文字も確認できない。何かの絞り機であろうか、注ぎ口の様なものが付いている。口径は、Φ800ミリだが、降雨を受け止める天水桶として鋳造されたものでは無いだろう。

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ここでの川口鋳物師らが手掛けた鋳造物を記しておこう。昭和49年(1975)時点で損壊し、ゴミ箱同然の扱いにされ放置されていた鋳鉄製の賽銭箱があった。銘は「大正15年(1926) 埼玉県川口町 山﨑寅蔵善末(後20項など)」であった。天水桶も存在した。同時期にやはり割れて劣化し、廃棄寸前であったようだ。銘は「天保6年(1835) 東都大門通 鋳工 伊勢屋彦助 源定吉作(後37項)」であったが、現在これらは存在しないようだ。

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●誰にも間違いはある。北区西ケ原の七社神社(ななしゃ)の天水桶だ。ここは、高野山四社明神と天照大神、春日、八幡の7柱らを祀っていることから、七所明神と呼ばれていたという。新編武蔵風土記稿には、「西ケ原村無量寺項 七所明神社。村ノ鎮守トス。紀伊国高野山四社明神ヲ祀リ天照大神・春日・八幡三座ヲ合祀ス。故ニ七所明神ト号ス。末社ニ天神・稲荷アリ云々」とある。

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古くは別当寺であった佛宝山西光院無量寺の境内にあり、火災後の寛政6年(1794)の再建後もそこに祀られていた。天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも、無量寺の裏の高台に、「七の社」として描かれているが、現在この高台は、名勝旧古河庭園になっている。明治時代、近くの飛鳥山に別邸を建てていた実業家の渋沢栄一は、崇敬心篤く、ここの氏子になっている。現在の社額は、同氏の揮毫だ。

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●なおこの近くには、「史蹟 西ケ原一里塚」がある。区によれば、「江戸の日本橋から日光まで続く日光御成道の二里目の一里塚で、徳川幕府時代に設置されたままの旧位置を留めており、都内では大変貴重なものです。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功しました。大正11年(1922)3月8日には、国史跡に指定されています」という。七社神社の参道は、ここから始まっているという感じだ。

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鋳鉄製の天水桶の正面には、1基づつに「奉」と「納」の文字がそれぞれ鋳出されている。額縁に廻っている「西」の文字は、西ケ原の意味だろう。しかし、桶の裏面にある鋳出し文字の並びが明らかにおかしい。製品を鋳造してから気付いたのだろうか。しかし、時すでに遅しだ、消しゴムで消して書き直すようにはいかない。

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大きさは口径Φ970、高さは720ミリで、川口町の永瀬和吉が、「明治27年(1894)2月」に鋳造しているのだが、「北足立郡川口町」とすべきところが「北立足郡」になってしまっている。長い年月にわたって残り続ける天水桶だけに、気になる誤植、ミスだ。

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●しかし、気になるミスでは済まされない場合もある。奉納者はそれなりの寄進をしていて、表示される個人名には大いに意味があるのだ。どうしても修正しなければならない時は、他所で見た次の画像の小保方さんの「保」のように、その部分を削り取って、別途製作した正規のものをビス止めしなければならない。

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この例では、経年の劣化でビスの頭も外れ落ちてしまっているが、本体の鋳鉄製に対し、「保」の部分だけは、文字だけを型取りした黄銅製のようだ。材質の特性からして両者は溶接接合はできないようでビス止めなのだ。いずれにしても、陽鋳造でのミスの修正は、手間のかかる作業だ。

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さらに他所で見た、こちらの「斉藤せい」さんの「せい」も同じで、どうしても修正しなくてはならない。名前の間違いは、寄付寄進した人が納得しないのだ。

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●さて、作者の永瀬和吉は、明治38(1905)年8月11日に創立した川口鋳物業組合の初代理事長であった。任期を見ると、明治37年から38年であったが、創立前から中心になって奔走していたのだろう。顔写真も存在するが、これは、昭和7年(1932)当時の組合員名簿からの転載だ。

永瀬和吉

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こちらにも見られるが、一番左端の人で、大正4年(1915)の川口尋常小学校の上棟式の時のものだ(川口ふるさとの想い出写真集・沼口信一編著より転載)。また、工場は、川口神社の真南の川口市金山町で、今の(株)永瀬留十郎工場(後68項)の隣りにあったようだ。昭和15年4月3日、73才で没している。
永瀬和吉

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昭和初期の頃の広告もある。住所は、市制施行前だから、「埼玉県川口町外元郷 合資会社 永和鋳工所」だ。「鋳造品目」としては、「鉄道用 下水用 公園用 道路用 其他諸機械」を挙げているが、実に多岐に亘っている。なお後131項で登場するが、和吉の後継者は永瀬亀太郎だ。昭和12年(1937)の、400社近い登録がある「川口商工人名録」にはその名が見えるので、この広告の直ぐ後に事業継承したようだ。

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●ところで金属製の天水桶奉納という習慣は、19世紀初頭の1800年以降に芽生えている。散策中に出会うのは、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、明治、大正、昭和、平成時代のものが多い。安政から明治の間の8年間、つまり、万延(1860~)、文久、元治、慶応(~1868)時代の桶をあまり見かけない。

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期間が短いから当然だろうが、幕末の慌ただしいこの時期に、改元が多かったのは何故だろうか。大化(645年)から始まる元号の創始当初は、吉兆とされる形の雲が現れたとか、高貴で綺麗な鳥やお宝が献上されたとかの、めでたい祥瑞改元で、「朱鳥、大宝、慶雲、霊亀」などの例があるが、何とも大らかで悠長な時代であった。

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奈良時代の「天平感宝」は、西暦749年だけの短期間であったが、時は、第45代聖武天皇の御代であった。世の安寧を願って造立した奈良県東大寺の、高さ15mの盧舎那大仏は、約500トンもの銅と鍍金用の金60kgが使われている。当時不足がちな金が陸奥国から出た、という嬉しい知らせに天皇は、年号を「天平」から「天平感宝」に改めているのだ。

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●画像は、埼玉県秩父市黒谷の聖神社で見られるオブジェだが、ここで慶雲5年(708)に和銅(自然銅)が発見されているが、「和銅」への改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされる。産出された銅は、同年1月11日に元明天皇に献上され、2月13日にこの神社が創建されている。

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明治維新以降は一世一元号制が原則だが、それまでは革年改元されるのは当然であった。中国思想由来であるが、干支の辛酉(しんゆう)の年は、事件や災厄が起きると考えられていた訳で、「文久(1861~)」がこれに当たる。60年に一度廻りくる辛酉革命改元で、この年が廻り来ると自動的に改元されたのだ。

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甲子(きのえね)も同様であるとされていたので、未然に防ぐため改元されているが、1864年の「元治」がこれに重なっている。これが甲子革令改元だ。「万延、慶応」は、天変地異や政変戦乱による災異改元だが、安政の大獄、桜田門外の変、禁門の変などの混乱ののち改元されている。いずれこの激動期に鋳造された天水桶にも多く出会うだろう。そう思うと楽しみだ。つづく。