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●天水桶や梵鐘、仏像などには、鋳造者名が鋳出されている事が多い。作者が作品に自分の名前や落款、ロゴマークを残すという事は、現代においても、至極自然なことであろう。自動車メーカーは車体に必ずロゴマークを入れるしなど、当たり前の慣習であって、何の違和感も無い。同一的な作品における差別化であり、製造責任者の明確化と言う意味合いもあろう。

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書店に並ぶ書物には、必ず著作者名があるし、書き初めをすれば左下に己の名前を書き残す。芸術作品もそうだ。画像は、書家の中村不折による筆で、四書五経の中の大学にある言葉の「徳潤身」だが、徳があれば人間の品格を上げることが出来るというような意味だ。名を記してあるから、その筆跡の妙を味わえるのだ。

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●しかし、名を残す理由はそれだけではない。特に江戸時代の鋳造物の場合、別の意味合いもある。それはマーキングだ。犬が電柱に排泄して縄張りを主張するあれである。過去に記述の通り、全国的に江戸時代の鋳物師達は、元締めである京都の真継家(前40項)から鋳物師職許状(しききょじょう)の発給を受け、己のマーケット内での営業権を確保していた。

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しかしそれでも当時は、鍋釜の販売をはじめ、よそ者がマーケットを荒らすという紛争は絶えなかったという。鋳造者名の鋳出し文字は、「この納入設置場所は間違いなく、私○○の縄張りです」というアピールではなかったか。

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●当時の鋳物師達が、製造責任者としての意味合いを込めて、あるいは、後世へ名を馳せようと見越して、名を鋳出したのであろうか。それも無いとは言えないにせよ、マーキングして存在をアピールするという事の方が重要だったのだ。明治維新後の市場開放後の作例にも名の鋳出しが見られるのは、その名残りであろう。

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近年においては、後々のメンテの問題などから青銅製や石製桶が台頭している訳であるが、鋳造者名の鋳出し文字が存在しないものが多くなってきている。必要なのは、寄進者や奉納者名であり、設置理由であり、造立年月日である。誰が鋳造したのかは、さして重要視されていない。過去の鋳物師達は、如何なる経緯があったにせよ、結果的に後世に名を残しているのだ。

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●さて、この項に至るまでに、数多くの作者不明の天水桶をアップしてきたが、最近出会った作者不明の桶達をアップしてみよう。まずは、川口市上青木の浄土宗、青木山専称寺(前3項)だ。開山は、応永27年、1420年寂という酉蓮社(ゆうれんしゃ)了誉(りょうよ)上人と伝わる。

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「昭和六拾年(1985)拾壱月(11)拾日(10)」造立の鋳鉄製の1対だが、この天水桶にも作者名が無い。下細りで酒樽や水桶というよりコップを連想させるが、出会ったことが無いデザインだ。据わっている紋章は「抱き茗荷」のようで、大きさは口径Φ800、高さは700ミリだ。

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●「六」という漢数字のほかに、「拾」や「壱」という、単純な漢数字の代わりに用いる大字(だいじ)を使用している点が特徴だ。「川口市本町」の人が寄贈しているが、表記文字は大き目だ。一番主張したいのは、出資したこの人の名前なのだ。

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前41項で記述したように、文字の書体だけを見ると、山崎甚五兵衛の匂いがするが、拡大してみるとやはり違う事が判る。「和」の文字の、「のぎ偏」の縦棒に「跳ね」が無い。同氏の作例の鋳出し文字を改めて見てみたが、ほぼ全ての「のぎ偏」に「跳ね」があるのだ。これは山崎の作ではない、結局のところ作者不明だ。

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●次は、川口市のオートレース場近くの、川口市青木の願生山成就院西方寺で、本尊は、阿弥陀如来像だ。都内文京区小石川・小石川伝通院(後110項)を創建するなどで著名な高僧・了誉上人の開山と言うが、浄土宗中興の祖であった。

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上人は、常陸国久慈郡出身の室町時代初期の僧だが、額に三日月の相があったので三日月上人とも呼ばれたという。先例の青木山専称寺と同じ人だ。なおここに掛かる銅鐘に関しては、後130項で見ているのでご参照いただきたい。

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●天水桶は、青銅製の1対で、「平成8年(1996)3月吉日」の造立であるから、つい最近の作だ。伝通院は、徳川家の菩提所であるなど、将軍家とゆかりの深い寺だ、金色に輝く「葵紋」が正面にあるのもうなずける。大きさは口径Φ1.070、高さは1.100ミリだ。

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時の住職は、「34世 泉誉泰夫代」であったが、襲いかからんばかりの2匹の龍がおどろおどろしい。作者不明の桶であるが、多くの檀家が軌を一にして、菩提供養のために奉納している。作者は不明だが、この龍や本体の意匠は、前38項で見た「大田区本羽田・羽田神社 富山県高岡市 (株)竹中製作所製」にそっくりだ。ここの天水桶を鋳たのは竹中さんかも知れない。

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●足立区西綾瀬新義真言宗、真光山荘厳院長性寺は、寛永元年(1624)に創建している。弘法大師空海ゆかりの寺院を参詣する、「荒川辺八十八ケ所霊場」の50番札所だ。属する寺院は、文字通り荒川周辺に集積している。

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よく見かけるデザインだが、作者は不明で青銅製。紋章は、「三つ柏」だが、古くから神前に供える供物の器の代わりに用いられる、神聖な植物だ。伊勢神宮や熱田神宮などの大宮司家の家紋として用いられているが、この「三つ柏」の図案が最も有名だ。

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「平成4年(1992)12月12日」の設置だが、真言宗中興の祖、「興教大師八百五十年 御遠忌記念」での奉納だ。覚鑁(かくばん)は平安後期の僧で、康治3年(1144)に没しているが、死後に送られた諡号(しごう)が、この「興教大師」であった。平安時代後期に勃興していた法然らの念仏、浄土思想を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成している。

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●埼玉県春日部市粕壁真言宗智山派、華林山慈恩寺最勝院。慶安元年(1649)に、15石の朱印状を拝領した御朱印寺で、同4年、大猷院殿(3代将軍徳川家光)の日光山へのご葬送に際し、一行の旅館となったという。

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明治時代の最勝院は、粕壁小学校や粕壁税務署などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興業、各種の武道大会等にも利用されている。本尊を千手観音とし、新西国三十三ケ所33番札所となっている。

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●ここの桶もよく見かけるデザインだが、画一的な量産品の天水桶で、本体の大きさは口径Φ1.060、高さは1.110ミリだ。紋章は、金剛界と胎蔵界を表すという「輪違い紋」だ。この紋を用いた戦国武将としては脇坂氏が有名だが、「賤ケ岳の七本槍(後56項後57項)」で名を上げた安治の時に初めて使用したという。安治は、関ケ原合戦では東軍に寝返り、伊予大洲に加増転封されている。

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寄進者名がビッシリ並んでいる。「昭和59年(1984)10月21日」の、「本堂落慶記念」に、実に多くの檀家が協力して奉納しているのだ。こういった青銅製の量産品の天水桶いうのは、正面の寺紋などを除いては、同じ木型を使い廻しているので、受注と同時に鋳造出来る。その後、寄進者名を陰刻して納品だから、納期を短縮できるのだ。

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●足立区綾瀬の綾瀬稲荷神社には、高さ2mと規模は小さいながら、富士塚がある。立ち入り禁止となっていて登頂はできないが、「山包丸淵富士講関係資料一式」と共に、区の有形民俗文化財に指定されている。

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ここには、「昭和43年(1968)1月吉日」という、2尺足らずのかなり小さめの鋳鉄製天水桶が1対ある。鋳造者銘はどこにも見られない。正面に据えられた寺紋は、稲荷社の象徴の稲穂だ。

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●狛犬の台座の文字は、落語家で人間国宝の「君代月 柳家小さん 謹書」だ。著名人の名があると箔が付くものだが、左下の狐のイラストが愛らしい。小さんと言えば、5代目柳家小さん(1915~2002)だ。長野県長野市出身の落語家で、剣道家、俳優としても活躍しているが、剣道の段位は範士七段であった。

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滑稽噺を得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で一世を風靡した。特に蕎麦をすする芸は有名で、実際に食する際は、周囲の目を意識して落語の登場人物さながら汁を蕎麦の端にのみ付けていたといい、最晩年に「汁を最後まで付けてみたかった」と後悔の念を語ったという笑い話がある。

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●埼玉県さいたま市南区内谷にある内谷氷川社には、放生池(ほうじょうち)と言われる神池がある。掲示板によれば、昭和54年(1979)の発掘調査で、池からは、平安時代のものと見られる須恵器や土師器などが出土しており、そのころから水神を祭祀していたようだ。

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放生池は、捕えた魚類などを放してやるために設けた池のことだが、慈悲行の現れを意味する。「放生会は、殺生を戒める仏教の教えにより、魚鳥など生きものを放って肉食や殺生を戒める儀式。日本では旧暦の8月15日に行われた京都の石清水八幡宮の放生会が有名」と辞書にはある。こんな情景が、歌川広重の浮世絵にある。放生する人のために亀を売っているのだが、本末転倒のような気がしないでもない。

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●ここの天水桶は、「明治18年(1885)5月吉日」の造立、「伊勢太々講中」の奉納で、裏には、「沼影村」らの多くの世話人が名を連ねている。この講は、順番で伊勢参りをして太々神楽(だいだいかぐら)を奉納するもので、江戸時代に流行している。

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1対は鋳鉄鋳物で、大きさは、口径Φ900、高さは820ミリの3尺サイズだ。鋳造者を意味する銘は「吹○製造」だろうが、厚塗りの塗装が災いしていて判読できない。しかし、この塗装のおかげでサビとは無縁で寿命を永らえよう。なお後92項では、この鋳物師について判明しているのでご参照いただきたい。

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●江戸川区西小松川町西小松川天祖神社。下総国千葉家により、康正2年(1456)に創建したと伝わるが、平成13年(2001)に、宮司、氏子有志の浄財を基に、本殿の土台を始めとする全面改修工事を実施し、平成14年5月には境内で落成式典が行われたという。

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1対の鋳鉄製天水桶は「明治29年(1896)2月」の設置だが、シンプルな外観で作者名の文字は無く、奉納者も判らない。しかし今も満々と水を溜め、役目を全うしている。


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●同じく江戸川区松江の松江白山神社は、戦国時代に加賀白山神社の分霊を祀って創建されているが、家内安全、縁結び、商談成功に御利益があるという。白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にあるが、全国に2千社以上あるとされる白山神社の総本社で、通称「白山(しらやま)さん」、「白山権現」であり、加賀の一之宮だ。

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鋳造者不明で、「昭和36年(1961)吉月」造立の鋳鉄製の天水桶1対は、狭い境内の柵の中に置かれている。ここの社殿は、明治4年(1871)に再建され白山神社と改称している。現在は鉄筋造りで、昭和36年に再建新築されているが、それを記念しての奉納であろう。

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額縁には雷紋様(後116項)が廻っている。水を呼び込みたい天水桶には欠かせない紋様だ。地元の「江戸川信用金庫」が寄進しているが、御利益の通り、商談成立といきたいものだ。

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●続いては江東区平野にある冬木弁天堂(前12項参照)。承応3年(1654)、材木商の冬木五郎右衛門直次が、琵琶湖の竹生島の弁財天の分霊を日本橋茅場町の邸内に祀り、宝永2年(1705)に、その孫弥平次がこの地に移したと伝えられる。

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造立日も作者名も鋳出されていない、口径Φ500、高さ450ミリほどの小さな鋳鉄製の天水桶があるが、大きくはない社殿にマッチしている。石の台座に見える「冬木町」は、都内江東区の深川地域に属する、丁番を持たない単独の町名だ。この地を材木置き場としていた、先の材木商、冬木屋に由来している。

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●同じく江東区佐賀の佐賀稲荷神社。境内の説明板によれば、「佐賀町に住む人々の、除厄招福を願い永世鎮護の祠を穿ち、佐賀稲荷神社の額を掲げた。時に寛永7年(1630)」とある。町名は地形が肥前国佐賀湊に似ていた事に因んだという。

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鋳鉄製の天水桶1対は、「明治十九戌年(1886)十一月」製だが、鋳造者銘は見られず不明だ。明治初期に米問屋で結成された「米仲間」が奉納しているが、穴が開きボロボロでそろそろ寿命だろう。しかし、平成8年(1996)春に社殿を修復し場内を整備した際にも、喜ばしい事に、この桶は現状のまま維持されている。

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●ウィキペディアによれば、株仲間とは、問屋などが一種の座を作りカルテルを形成することで、株式を所有することで構成員として認められた。当初は同業の問屋による私的な集団であり、江戸幕府は楽市楽座路線を継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れ、慶安元年(1648)から寛文10年(1670)にかけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象となっていた。

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しかし、享保の改革(1716~1745頃)において商業の統制を図るために組織化された方が望ましいとする方針の下に公認が与えられ、冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められている。田沼意次時代(1767~1786頃)にはさらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図されている。

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●最後は、墨田区横網の横網町公園。大相撲の国技館がある両国だけに勘違いしそうだが、「よこづな」ではない、「よこあみ」だ。園内には、関東大震災や東京大空襲の犠牲者を弔う、東京都慰霊堂(後115項)や画像の、東京都復興記念館がある。

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ここはもと陸軍被服廠のあった場所で、東京市がこれを買い受け、大正12年(1923)にこの公園の造営整備に着手している。途上、図らずも関東大震災が発生、東京市の遭難死者は5万8千人に上った。市は犠牲者の霊を追悼し、不言の警告を将来に残そうと、東京都復興記念館を建設している。

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●ここの屋外展示場に、防錆処理された金属の物体があるが、これは一体何であろうか。実はこれ、文京区湯島の湯島聖堂に備え付けられていた天水桶で、見た目の様相からして、元は四角い形状であったろう。

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これは、大正12年(1923)9月1日の関東大震災か、1945年頃の昭和期の戦争の猛火で焼損したという。表面はデコボコしているが、作者名などの鋳出し文字や、紋章などがあったのだろうか。それにしても酷い損壊だ。

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つまり、今の文京区湯島の湯島聖堂にある現役の天水桶は、その後の再生品ということになろう。前10項でアップしたのが作者不明の下の画像であったが、これは近年の設置という事になる訳だ。この表面には文字類の情報が一切なく、そこそこ古い時代の鋳造物だと思っていたのだが、災禍で焼損したという事実は消しようもない。次回へつづく。