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●秋の半ば、機会があって東京メトロが参画する「東京さんぽ」なるものに参加してみた。江東区深川から中央区日本橋を経て神田界隈を歩き、台東区上野公園でゴールする単純な散策で、今日に至るまで何度も歩いたことがある地域だが、色々なものに出会えた。
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画像は江東区富岡の深川不動堂だが、成田山新勝寺(前52項)の東京別院だ。元禄16年(1703)に永代寺で行われた成田山本尊の不動明王(前20項)の出開帳に起源を持つという。かつて参詣したことがあるが、天水桶の存在に気付かなかった。それは、本殿の向かって右奥の裏の方に隠れるように設置されていたが、大きさは口径Φ760、高さは800ミリだ。

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1基のみらしく、青銅製の桶で「御手長講(前14項)」が奉納しているが、その時期は不明だ。「手長」とは、宮中での饗宴で膳を取り次ぐことで、供物を順に手送りして奉献した後、手送りで下げるという行為。この行為を行う講中を「御手長講」と呼ぶらしいが、その意味だろう。あるいは、長野県諏訪市や埼玉県寄居町などには手長神社があって、防災や盗賊除けの祈願を「手長講」が行ったという文献も散見できるが、その意味だろうか。

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●明治30年(1897)ごろの「新撰東京名所図会 深川成田山不動堂全図」という俯瞰図では、長閑な光景の中、本堂前に大き目な灯籠や、屋根付きの天水桶1対があるのを確認できる。

深川不動堂

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また、大正4年(1915)当時のここの古写真を見ると、左側に本尊不動明王や両童子の開帳を知らせる高札が立っていて、露店らしき出店も確認できる。堂宇前の両側には、人の背高ほどの大きな1対の天水桶がある。各種の史料には何の記載もないので詳細は不明だが、これは木製なのかも知れない。

深川不動堂

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●あるいは、昭和期の写真にも鋳鉄製らしき天水桶が写っている。正面には、現役中のものと同じく「内陣五講 御手長講」と鋳出されているが、裏側の銘は「昭和27年(1952)2月建立 川口領家町 鋳造 川口鋳造所」だ。昭和12年(1937)の、400社近い登録がある「川口商工人名録」には同社の登録がある。

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「一般鋳物業」で、「領家町 合資会社 川口鋳造所 入野作一」だが、現在も川口市領家4丁目で営業している、「不二工業株式会社 社長 入野 純一」だ。創業は昭和12年で、社名の変更は、昭和34年(1959)頃の会社組織化の時といい、社名の由来は、「二つとない会社」を目指すという意味合いがあると言う。写真はカラーだから戦後のものだろうが、戦時の金属供出(前3項)を逃れ、今もどこかに現存するのだろうか。

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●すぐお隣が富岡八幡宮だ。江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。そこへの途中に、八幡橋があった。鋳鉄製の橋としては日本最古のもので、昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されている。

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江東区の説明によれば、「八幡橋は、明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所(前65項)が製作した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(きょうばしもみじがわ・中央区)にかけられた弾正橋と称したが、大正2年(1913)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。」四角い穴が開いたアーチ状の部分が鋳鉄鋳物だ。

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●「楓」の読みは「かえで」だが、なぜか「もみじ」と読ませるようだ。続けて、「大正12年、関東大震災後の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和4年(1929)5月、現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので八幡橋と称した。

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アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋であり、かつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として、近代橋梁技術史上価値の高い橋である」とある。突端の接合部には菊の御紋をあしらった装飾が施されていた。

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明治34年(1901)の「東京名所図会」にもこの八幡橋が描かれている。左上に見える橋だ。「島田弾正屋敷が近くにあった事から、弾正橋と呼ばれていました。弾正橋は、馬場先門から本所・深川とを結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました」と説明されている。当時の由緒を惜しみ移設され、現役の橋として市民生活に供され、ここで永らえているのは喜ばしい限りだ。

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●さて、江東区富岡の富岡八幡宮の境内、「横綱力士碑」の隣に、「木」、「場」と大きく凹に彫られた石の台座2個が放置されている。地名の「木場」だが、この上には何が据えられていたのだろう。裏には、設置日であろうか「明治7年(1874)7月」と彫られている。

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台座の大きさは1.27m角で、高さは650ミリだ。木製の覆いを持ち上げてみると丸い穴が穿たれている。Φ630ミリ、2尺だが、かなり大きな構造物用の基礎石だ。なお、この力士碑の裏側の狭いスペースには、川口鋳物師の永瀬留十郎が鋳た貴重な天水桶1対が、人知れず温存されているので、前48項をご覧いただきたい。

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●大正期の写真にはその様子が写っているが、これは木製鳥居の直立安定化のための礎石であった。「木場」と読める同じ石だが、「大鳥居は木場からの奉納が習わしでした」と説明されている。木場とは、貯木場もしくは木材の切り出し場で、多くは海もしくは川沿いに面しているが、これは木材を海路で運んだり、上流で切り出した木をそのまま川に流したためだ。

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鳥居は、関東大震災(大正12年・1923)や東京大空襲(昭和20年・1945)で2度焼失している。現在の礎石と鳥居は新調されているが、焼け残った先代の礎石は、お役御免となっても大事に保存されていたのだ。

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●現在、ここ富岡八幡宮には天水桶は設置されていないようだが、上の写真や明治後期の絵葉書には、「鳶中」と刻まれた台座に、金属製らしい桶が載っているのが判る。よく見ると子供が桶の縁に飛び付いているが、かなりの大きさのようで、口径と高さは4尺、1.2mほどと想像できる。

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また、「関東大震災記念写真帖」の写真を見ると鳥居は罹災し損壊しているが、天水桶は免れた様子が写っている。その後の戦時に金属供出(前3項)したのだろうか。撮影日から推して、明治後期の頃の造立と思われるが、手元の史料には記載がない。この当時、これだけ巨大な天水桶を鋳造できる鋳物師はそう多くはないはずだが、誰の手による鋳造であったのだろうか。
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●手水舎にある水盤も貴重なものだった。石製の水盤のぐるりを銅の板で包んでいるという特異な構造で、つまり外側は金属、内側は石なのだ。かつては、普通に境内に置かれ参拝者向けに常用されていたが、今は資料館の中に保存されている。有料だが、希望すれば誰でも入館できる。
銅造水盤

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平成23年(2011)に区の有形文化財に指定されているが、その説明によれば、『この水盤は、享和3年(1803)5月に、「天下太平 國土安穏」を祈願して奉納されました。石製の水盤を鍛造の青銅板で包み、見事な雲の造形がなされた鋳造の脚を付けた構造となっています。

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●作者は神田(千代田区)に住む鋳物師の太田正義です。代々、太田駿河守 藤原正義を名乗り、霊厳寺(後述)などにある江戸六地蔵の鋳造も太田家が行っています。水盤の正面と両側面には、小柴長雄の筆による計290名の奉納者名と居住地が刻まれています。奉納者のほとんどは商人とみられますが、職種はさまざまです。

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また、氏子町の範囲(江東区・墨田区・中央区の一部)を越えて、大門通(中央区・千代田区)や弓町(中央区)などの町人も数多く奉納に参加しており、富岡八幡宮が氏子町にとどまらず、江戸の商人から広く信仰を集めていたことがわかります。全体に火をかぶった跡がみられますが、関東大震災や戦災を乗り越え、戦時中の金属供出もまぬがれて、今なお水盤として使用されている点でも貴重な文化財と言えます(平成24年2月現在)』とある。

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画像を見ても銅板を鋳たのは、刻まれた銘から「鋳工 太田駿河守 藤原正義」であると判読できる。このサイトでも度々登場する釜屋六右衛門、通称釜六(前17項など)の系統だ。東京深川の地で鋳造業を営んでいたが、その史跡碑もあることを前に紹介した。

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●注目すべきは、「大門通」として実に多くの銅鉄取り扱い商人の名が並んでいる事だ。「中嶋屋○○」、「銅屋○○」らだが、20名近い。前37項では、天保7年(1836)刊の「江戸名所図会」で、活気ある「大門通り」の様子をみた。「昔この地に吉原町ありし頃の大門の通りなりしにより、かく名づく。いまは銅物屋、馬具師多く住めり」であったが、さながらこの町内会の名簿であるかのようで貴重だ。

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文字を陰刻した、当時80才の「小柴長雄」なる人物名と印影も確認できるし、説明にあった、「見事な雲の造形がなされた鋳造の脚」もある。これは雲脚だ。その4本脚や三つ巴紋、「奉納」の文字は別鋳造され、あとで取り付けられているようだ。

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鋳造法としては、石盤を逆さにし鋳型の中子として利用したのだろう。底面には、溶解湯の注ぎ口である湯口があるし、排水口も備わっているようだ。上述のように、金属製の手水盤の現存は稀有だが、他所で見たものについては、前7項からご覧いただきたい。

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●では次に、釜六の鋳た梵鐘を5例見てみよう。まずは台東区浅草の時の鐘(後126項)で、金龍山浅草寺の南側の弁天堂近くにある。松尾芭蕉が詠んだ「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘だが、しかし、この俳句は貞享4年(1687)のもので、鋳造時期とは辻褄が合わないという。いずれにしても、浅草寺の梵鐘として使用されていた時期もあったようだ。

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大きさは、高さ2.12m、口径1.52mだ。鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月に5代将軍徳川綱吉の命により改鋳され、その費用として、下総(千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が、金200両を寄進している(説明板による)。この金の一部は鐘に溶かし込まれたともいい、発色効果や音響の良し悪しに関与しているのかも知れない。

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登壇できず接写を試みたが、かろうじて読めて確認できたのは「元禄五年八月」だけだ。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま、後116項)の「日本鋳工史稿」によれば、「太田近江正次作 浅草寺弁天山 時の鐘」と記録されている。

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先の水盤とは1世紀の隔たりがあるので、2、3世代ほど前の釜六作であろう。鐘は、特に由緒があるということで戦時の金属供出(前3項)を免れ、また、昭和20年(1945)3月の東京大空襲でも無事に災禍を逃れ残っている。

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●天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にもこの鐘楼塔や銅鐘の様子が描かれている。右端が風神雷神門で、左側へと仲見世が続き、銭瓶弁天へと昇る階段を上がった先で、「時鐘」と記されている。

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図会の説明では、「鯨鐘(後124項) 二六時これを撞けり」としていて、鋳物師は、「鋳師 武州深川 太田近江大掾 藤原正次」となっているが、これが正確な刻銘であろう。鐘は、現在も毎朝6時に役僧によって撞かれ、大晦日には新年を告げる「除夜の鐘」が鳴らされるという。

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●続いては世田谷区北烏山の本覚山妙寿寺だが、寛永8年(1631)に、江戸谷中清水町で開基した法華宗本門流寺院という。古めかしい入母屋造りの客殿は区指定の有形文化財だ。この建物はもともと、麻布区飯倉狸穴町にあった蓮池藩鍋島家の住宅であった。当主鍋島直柔子爵は、結婚を控えた嫡男直和のためにこれを建築しているが、棟札から建築着手は、明治37年(1904)12月20日と判明している。

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周辺は「烏山寺町」と呼ばれる地域で、大正12年(1923))の関東大震災後に26もの寺院が移転してきていて、緑豊かな環境と厳かな寺院建築が調和を見せる街並みが形成されている。ここの境内も樹木が生い茂り長閑で、堂宇前には木製の天水桶が1基設置されているが、かつては鍋島家で行水用にでも使用されていたのであろうか、大き目だ。

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●ここの以前の梵鐘は、延宝7年(1679)の造立であったという。後継の梵鐘は、今は境内の屋根付き展示所に安置されているが、関東大震災の時、隣接のガス会社より流出したコールタール油により被災、焼損してしまっている。大きさは口径Φ70cm、高さは1.5mほどだ。

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大きく口が開き、猛火の痕跡が痛々しいが、表面には「武州葛飾郡 本所(江東区)猿江稲荷別当 本覚山妙壽寺 第七世 蓮成院日悟代」と刻まれていて、歴史の一端が知れる。寛文年間(1661~)以前に本所猿江へ移転、猿江稲荷社の別当を勤めると共に、寺号を妙寿寺と改めた頃だ。


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「維持 享保四龍集己亥歳(1719)十一月吉辰」の鋳造で、作者は、「鋳物師 太田近江大掾(だいじょう) 藤原正次作」だが、はっきりと判読できる。先の「日本鋳工史稿」にも記録されている銅鐘だ。大掾とは、優秀な職人に与えられた名誉号で、階級としては、大掾、掾、少椽の3段階であった。「龍集」は年号の次に添えられる言葉だが、「龍」は星の名、「集」は宿る意で、星は1年に1回周行するという意味合いだ。(前19項など参照)

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●台東区元浅草の至心山唯念寺は、天文15年(1546)、長昌院浄因大僧都法印が開山となり草創したという。塔頭の林柔寺の住職の子が徳川6代将軍家宣(1662~1712)の側室月光院で、7代将軍家継を生んでいるが、寺領100石の御朱印寺であった。

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本堂前の量産品の青銅製天水桶1対は、「庫裡客殿落慶記念」として、「昭和49年(1974)8月吉日」に奉納されている。梵鐘は現役を退き、画像のように建屋に囲われ丁重に保管されている。

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●鐘身の池の間には、「願此鐘聲(声) 迷闇衆生 悉(ことごとく)皆聞之 仏界真成」と見みえ、「延宝八庚申年(1680)九月廿八日(28日) 至心山触光院唯念寺 四代清元誌」と刻まれている。「右 清元上人 古鐘之銘也」だから、これは2代目以降の梵鐘であることが判る。

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「明和壬辰(1770年)之灾(火災) 声韻不調」により、「寛政十戊午年(1798)四月十日 当山九世 寂厳謹誌」に改鋳されたのだ。つまり、明和9年(1772)2月に起きた、江戸三大火の1つ、明和の大火(目黒行人坂の大火事・後83項)で焼損、再度鋳造された訳だ。

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先の「日本鋳工史稿」にも記録されている銅鐘で、「年号不明」と記されているが、上述の銘により寛政10年が造立日であろう。「江戸神田鍋町住」との記載があるが、これは建屋の梁に隠れていて現物での確認はできない。そして線刻を紫色で囲っておいたが、鋳物師は、「太田駿河守 藤原正儀」で、区の有形文化財に指定されている銅鐘だ。

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●続いて江戸川区一之江の江久山蓮光院感応寺。空念が元久2年(1205)に建立した真言宗寺院を、正応元年(1288)、日蓮聖人が日蓮宗寺院に改めて開山したという。近年に再築されたようで、清々しい境内だ。釜六の梵鐘を見る前に、堂宇の左側の屋根下に架かっているのは半鐘だ。

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諸説あるようだが、口径1尺(30cm)以下のものを「喚鐘」、あるいは「小鐘」といい、目方が70貫目(263kg)までを「半鐘」と呼ぶらしいが、見た目だけでは重さは判らない。これ以上大きいものを、「撞鐘」とか「釣鐘」といい、法具としての寺社の鐘を特に「梵鐘」と言うようだ。銘は「天保十二辛丑年(1841)七月 江戸神田 西村和泉守作(後110項)」だが、先の史料などには記載のない半鐘だ。

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●一方鐘楼塔に掛かる梵鐘には、「武州西葛西領大島村住 御鋳物師 太田近江大掾 藤原正次作 元禄11年(1698)2月吉辰 当寺18世 日惠代」と線刻されている。こちらは史料にも記載されている銘だ。

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前18項で見たように釜六や釜七は、1657年に起きた明暦の大火(後83項)後に東京・芝から、今の都営新宿線西大島駅の南西側の江東区大島1丁目辺りに移転しているが、「大島村住」と刻まれた文字はその証明になっている。

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●5例目も半鐘で、都内日野市栄町の天台宗、萬照山成就院にある。寺の創建年代は不詳ながら、僧永海が慶長16年(1611)に中興開山したという。移築されたかつての東光寺薬師堂と、安産薬師尊如来坐像は、市の有形文化財に指定されている。

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地蔵堂前に、口径450ミリの半鐘が置かれている。見事な緑青に覆われた1口(こう)だが、刻まれた銘からして、野ざらしにしておくべきではなく、管理保存されるべき貴重な銅鐘だ。戒名らしき線刻がたくさん見られるが、菩提供養のために鋳造されたものであろうか。「維持 天明八戊申(ぼしん) 佛誕生日」とある。今から230年ほど前の1788年の鋳造だが、縷々見てきた梵鐘よりも1世紀ほど後の作例だ。

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●作者銘として、「江戸深川 大田近江大正 藤原政次 六右衛門 弟子」とあり、続いて「鋳物師 南郷邑 仁左衛門」となっている。六右衛門の弟子の仁左衛門が鋳た鐘のようだ。釜六に弟子が居ても何ら不思議ではないが、この人は本当に、「太田近江大椽 藤原正次」=「太田氏 釜屋六右衛門」=釜六なのだろうか。(後126項参照)

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これまでに見てきた天水桶や寺鐘の銘は、「太田」、「正次」であって、「大田」、「政次」は1例も無い。「大正」は、職人に与えられる名誉称号の「大椽」の意味合いであろう。「椽」の文字は入り組んでいて、タガネで彫り込むには難儀であろうが、簡素化され「正」の文字を充てられたこの表現も見かけた事がない。

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●先の水盤のところの説明にもあったが、釜六は、宝永5年(1708)から享保5年(1720)にかけて「江戸六地蔵」を鋳ている。先の史料を基に、その「銅造地蔵菩薩坐像 六地蔵」を見てみよう。まず甲州街道の入り口にある、新宿区新宿の霞関山本覚院太宗寺。ここは、徳川家重臣の5代内藤正勝の厚い信望を得て開基している。六地蔵の3番目に造立されたものだが、像高は267cmであり、1番小ぶりだ。

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この地蔵の体内にあった「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が、病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の平安期の帝都六地蔵に倣って造立している。背中にある陰刻は、「正徳2年(1712)9月大吉祥日開眼 神田鍋町 御鋳物師 太田駿河守 藤原正儀」だ。

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●次は、品川区南品川の、海照山普門院品川寺(後84項後129項)だが、「ほんせんじ」と読む。六地蔵は、各街道の入り口に設置されたが、ここは旧東海道の入り口だ。現存する地蔵像の内、唯一頭上に傘を載せていないが、像高は275cmで一番大きいく、かつては鍍金が施されていたという。

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通常、作者銘は背中の上の方の位置に刻まれる事が多いが、ここでは蓮華座の真正面の花びらにある。「宝永5年(1708)9月大吉祥日開眼 御鋳物師 神田鍋町2丁目 太田駿河守 正儀」とあるが、最も古い。「奉造立 唐銅丈六(後述) 武州江戸六地蔵大菩薩」、「勧化之沙門 深川 地蔵坊正元」であった。

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天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にもこの様子が描かれている。「紫銅地蔵尊 門を入りて左の方にあり。石を畳て台座を設く。江戸六地蔵の一員なり。」と説明されている。紫銅とは、唐金、青銅の事だが、特に赤みがかったものを言うようで、前66項では、工芸美術品の紫銅焼を見ている。ここの地蔵尊は、当時そんな色合いであったのだろうか。

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●台東区東浅草2丁目の曹洞宗、洞雲山東禅寺は、寛永元年(1624)の創建で、奥州街道の入り口という。門を入るといきなり鎮座おわすが、銘は「宝永7歳(1710)8月24日 神田鍋町 御鋳物師 太田駿河守 藤原正儀」とある。

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高さは2.71mで、時期的には前例の次に鋳られた六地蔵だ。先の香取の史料には、エピソードが記されている。「吉原の大火の時にスッカリ火で囲まれて、真赤になつて居つたといふ・・ 能(よ)く鎔けずに居たものであります」という地蔵さんだ。

江東区・東禅寺

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●江東区白河の浄土宗、道本山東海院霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで、老中首座として寛政の改革を行った陸奥国白河藩3代藩主、松平定信の墓がある。六地蔵の総高は、全てが2.7m前後だが、造立時には鍍金や赤色顔料であるベンガラ色の漆塗りが施されていたという。

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ここは、水戸街道の入り口という。六地蔵には、合計で7万2千人もの氏名が陰刻されているが、この画像を見ても判るように、台座は勿論、背中に至るまでビッシリで、まるで「耳なし芳一」だ。ここの地蔵だけでも約1万人分の名があるといい、5代将軍徳川綱吉(常憲院)、6代家宣(文昭院)、綱吉の生母の桂昌院ら高貴な人名も含まれるようだ。また体内には、小型の地蔵菩薩も収まっていたという。

江東区白河・霊巌寺

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現存する5体は全て、東京都指定有形文化財となっている。背骨の部分に、「享保2稔(年)(1717)4月大吉祥日開眼 勧化沙門 深川 地蔵坊正元 神田鍋町 御鋳物師 太田駿河守 藤原正儀」とある。勧化沙門(かんげしゃもん)は、仏像などの寄付を集める僧侶のことだ。

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●豊島区巣鴨の真言宗豊山派、医王山東光院真性寺は、旧中山道の江戸への出入り口に当たり、かつて8代将軍吉宗が度々鷹狩に訪れ、ここが御膳所にされたという。「おばあちゃんの原宿」で知られる地蔵通り商店街の入り口にあり、混雑が絶えない場所だ。

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地蔵は高さ2m68cmで、右手に錫杖、左手には宝珠を持って蓮華座に趺座している。この様子は、天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも、「江戸六地蔵の一員なり」として描かれているが、何故か立像となっている。

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●ここにも、1万人を超える寄進者名がある。刻銘は「奉納 六地蔵菩薩蒙 免許 武州豊島郡巣鴨村 真性寺 第七世住法印 意正者也」、「奉造立 金銅丈六 江戸六地蔵大菩薩 勧化沙門 深川 地蔵坊正元」だ。

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「ここに鎮座する事を認められた菩薩像」だが、「丈六」は「1丈6尺」であり、像の高さを意味している。1丈は10尺で1尺は約30cmだから、計算上は4.8mもの高さになるが、これは座像であるので半分の2.4mという事になる。だから上述の「2m68cm」と大体辻褄が合う訳だ。

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背面に、「正徳四甲午(1714)稔九月大吉祥月 神田鍋町 御鋳物師 太田駿河守 藤原正儀」と刻まれている。刻みの場所は、やはり背骨の上の方、傘のすぐ下であり一番目立つ場所だ。この周囲には寄進者名は無く、鋳造者だけが名前を刻める聖域だ。

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●最後の江東区富岡の永代寺は千葉街道(元佐倉道)への入り口で、地蔵像は、明治期の廃仏毀釈(前63項)で現存しないが、享保5年(1720)製であったという。その代仏が、台東区上野桜木の寛永寺三十六坊の1つの東叡山浄名院(後124項)に祀られている。これは、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39年(1906)に新たに建立されたもので、少し意味合いが違うようだ。

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●以上が六地蔵だが、なぜか例外とされる「銅造地蔵菩薩坐像」がある。港区赤坂の平河山源照院浄土寺に現存する指定文化財だ。先の江戸名所図会によれば、「本尊、阿弥陀如来は、座像四尺余り。開山は、教誉聖公上人と号す」とある。菩薩像には、同じく「勧進僧 地蔵坊正元」の名があり、「地蔵大菩薩萬人講中」として、945名の信者名が所狭しと線刻されている。

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寺の「20世住持 観誉」の名があり、「維持 享保4年(1719)2月24日」の造立で、「御鋳物師大工 太田駿河守正儀」と刻まれている。しかし、先の日本鋳工史稿などにも存在の記載がない。像高は1.5mほどであるが、六地蔵に比べると2廻りほど小さ目なのがカウントされない理由であろうか。

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●この12年間に作られた六地蔵のお顔立ちは全て同じではないようだ。通常、像の製作には仏師の関わりが不可欠で、仏師が彫り出した木型を基に、鋳物師が鋳型をおこしこの世に現出させる。仏師の感性が重要であり、顔が命の像に直接反映される。

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木型が1個あれば、同じ鋳物像は何個でも製作可能だ。それはコスト削減につながり、鋳造することの1つの大きなメリットだが、それをしていないようだ。多くの寄進者の願念をくみ、1つ1つに個性ある命を吹き込み鋳造されたのが判る。

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●さらに六地蔵ではないが、同時期の釜六が鋳た「銅造阿弥陀如来坐像」も1例見ておこう。それは、都内墨田区両国の回向院にある。浄土宗の寺院で、諸宗山無縁寺が正式名だが、明暦の大火(1657年)の焼死者11万人を、4代将軍・徳川家綱の命によって葬った万人塚が始まりだ。のちに安政大地震の被災者をはじめ、水死者や刑死者などの宗派を問わない無縁仏も埋葬、また生ある動物全てを供養するという理念で、正に諸宗山無縁寺なのだ。

回向院・銅造阿弥陀如来坐像

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本尊の阿弥陀如来像は、かつては露天に鎮座、つまり濡仏であったが、今はお堂の中に安置されている。ふくよかなお顔立ちで、身の丈は、6尺5分というから、2mほどだ。間近への立ち入りは出来ず、刻銘の確認は出来なかったが、先の「日本鋳工史稿」によれば、「宝永2年(1705)4月15日」の鋳造で、明暦の大火からすれば、50回忌頃だ。

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●記録には「大仏師 原田左京定宅」とあるが、彼が原型のデザイナーだ。幕府の御用仏師で、史料には「承応2年(1653)に3代家光のお姿、寛文4年(1664)に家綱の母のお楽の方・宝樹院の像、天和元年(1681)に家綱・厳有院の尊像を造り、銀百枚を賜った」と記されている。

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作者は、「鋳工 太田近江正次 及 小工九人等作」となっていて、大掛かりな鋳造であった事が判る。由緒深さからして畏れも多く、戦時の金属供出も免れたのであろうが、これからも永遠に万人を供養していただける事だろう。なお前11項では、目黒区下目黒の泰叡山瀧泉寺、目黒不動でも正義が鋳た銅像が登場しているのでご参照いただきたい。

回向院・銅造阿弥陀如来坐像

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●これらの仏像の鋳造は、元禄期の経済成長の余波の中でという時代背景があった。この後の享保9年(1724)、8代将軍吉宗は享保の改革の一環として倹約令を出している。仏具に関しても、「唐銅を以って仏像、撞鐘、鳥居、灯籠の類を造り、町中往還へ出し置いて勧進してはならぬ」とある。

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「大造之儀は一切停止」であり、銅像、石像、木像にしろ、3尺、約90cm以上の仏像を造る時は、奉行所へ届けよというのだが、もし届けても許可されなかったかも知れない。鋳物師らの仕事量は大幅に減ったと思われ、事実として、この後しばらくは大きな仏像の鋳造は見られない。

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●以上一部ではあるが、現存する太田家の色々な作例を見てきた訳だが、宗家と分家の少なくとも2家が存在したようで、名乗りは「正儀(義)」と「正次」だ。本項に出てきた18世紀初頭前後の作例を、名前別、時系列順にまとめて書き出しておこう。

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まず正儀は、「品川区南品川・品川寺・地蔵 宝永5年(1708) 藤原正儀」、「台東区東浅草・東禅寺・地蔵 宝永7年(1710) 藤原正儀」、「新宿区新宿・太宗寺・地蔵 正徳2年(1712) 藤原正儀」、「豊島区巣鴨・真性寺・地蔵 正徳4年(1714) 藤原正儀」、「江東区白河・霊巌寺・地蔵 享保2年(1717) 藤原正儀」、「港区赤坂・浄土寺・地蔵 享保4年(1719) 太田駿河守正儀」だ。

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●正儀は、銅像という複雑な形状の美術的な鋳物の鋳造を得意としたようだ。正徳2年には、港区芝公園の三縁山増上寺(前52項後126項)宛てに銅灯籠数基も鋳ている。徳川将軍家宣、文昭院の薨去に伴うもので、「笠間城主 井上正岑」らの献納であった。あるいは、後127項では、鎌倉市長谷・獅子吼山高徳院の鎌倉大仏前でも、画像の銅灯籠2基を見るが、これらや六地蔵以後の1世紀ほどは活動の痕跡が無い。

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19世紀初頭前後では、上述の「台東区元浅草・唯念寺・梵鐘 寛政10年(1798) 藤原正儀」、「江東区富岡・富岡八幡宮・銅水盤 享和3年(1803) 藤原正義」で、数代あとに世襲した後継者だが、この享和年間以降の、正儀(義)銘の現存鋳造物は確認できない。

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●一方、正次銘は、「台東区浅草・弁天堂・時の鐘 元禄5年(1692) 太田近江正次」、「江戸川区一之江・感応寺・梵鐘 元禄11年(1698) 藤原正次」、「世田谷区北烏山・妙寿寺・梵鐘 享保4年(1719) 藤原正次」、「墨田区両国・回向院・地蔵 宝永2年(1705) 太田近江正次」となるが、現存する中のほんの一部だ。

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正次は梵鐘に特化した感があり、製造法でいえば丸い形状に有利な挽き型法(前33項)であり、住み分けがなされている。当サイトの他項では、1世紀後の文化年間(1804~)頃から明治時代(1868~)までの、鋳鉄製の丸い天水桶を20例ほどを見られるが、正儀製の天水桶は1例も無い(後96項参照)。生活必需品であった羽釜や鍋も基本的に丸形状だ。タイトルでは「釜六作」としたが、通称「釜六」と呼ばれたのは、正次の方であろう。つづく。