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●まずは、お盆の話から。正式には「盂蘭盆(うらぼん)」というらしいが、我々が、墓参して祖霊を家にお迎えして供養する夏の一行事だ。「盆と正月が一緒に来たようだ」などと口にするほど馴染み深い慣習だが、お盆の時期が夏であるのは、農作物の収穫を先祖に感謝する、農村の収穫祭の時期と合致した事によるようだ。精霊棚に、キュウリやナスに脚を刺して供えるのは、その意味合いと言う。

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一方、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、寒暖が和らぐ春分と秋分の日辺りにも我々は墓参する。お彼岸だ。この時期には、太陽が真東から昇って真西に沈む。仏教では、西の方に極楽浄土があると説いているが、真西に沈み行く太陽にそれを重ね合わせるという訳だ。この様に、お盆は祖霊をお迎えする日、お彼岸は祖霊を供養しに出向く日なのだ。

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●ところで、多くの宗派が、49日目を死者の忌明けの日としているが、これはどういう意味なのであろうか。これは、死者が来世に行くのが死後49日目とされているからだ。死者の魂は、800里の山を7日間掛けて踏破するという。そうしてたどり着くのが冥府の法廷で、ここで生前の罪を裁かれて、次の輪廻へと進む。仏教におけるこれらの過程は、中国の「十王経」というお経に記されている。

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裁判は合計7回だから、裁判官7人×7日間で49日なのだ。僧侶は、初七日などの7日毎の法事で読経し、死者の罪を消滅させ、次の輪廻が決まる49日目の法要で魂を来世に送り出すという訳だ。

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なお、冥府の裁判官として知られる閻魔大王は、5回目を担当する。俗に、「嘘をついた者は閻魔様に舌を抜かれる」いうが、輪廻の行き先を決定する大きな権限は無いという。画像は後59項で登場する葛飾区東新小岩の八幡山上品寺の閻魔大王様。

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●さて前17項からの続きであるが、釜六や釜七は、明暦の大火(1657年・後83項)で東京・芝からの移転を余儀なくされた時、なぜ次の開業地として、「深川」の地を選択したのか。移転理由について幕府編纂の「御府内備考」には、「芝の店の土地が増上寺拡張の御用地となったため」と記されているが、実際に場所を選択したのは当人であろう。

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この問い、実は難しくない。地図を見れば答えが書いてある。移転先は現在の地図でいえば、都営新宿線の西大島駅の南西側600メートル、江東区大島1丁目辺りである。小名木川と横十間川が交差しているところで、現在は、釜屋堀公園がある。

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「釜屋跡」の碑が立っていて、遠景には開業したスカイツリーが見える。ここから数々の天水桶が、梵鐘が、鍋釜が、世に散って行ったかと思うと感慨深い。なお、万治元年(1658)頃、深川へ先に移転していたのは釜六であった。翌年、釜七も釜六の釜屋の西隣にある土地を買い、移転している。

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●今日、「深川」と称される地名はほんの一部、江東区の清澄公園の真南の一角だけのようだ。が、木場の深川警察著にしろ東陽町の深川郵便局にしろ、「深川」の地には無い。「深川」から小名木川を超え、北東に2.5キロ離れていても江東区立深川第七中学校がある。毛利1丁目だ。従って看板類もこうなる。近辺ならどこでも「深川」なのだ。

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つまり江戸時代には、小名木川を中心にした南北の広い地域を、「深川」と称したのである。小名木川は、徳川家康が、千葉・行徳で産出される塩を江戸城に運ぶために真っ先に開削した、東西に流れる川でまさにライフラインであった。奥に見えるのは、クローバー橋。少々泥臭いが潮の香りも感じられ、川の中にはボラやクラゲの姿も見られる。流れも緩く、穏やかな川だ。

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西側の隅田川への注ぎ口には、安藤広重が「名所江戸百景」の、葛飾北斎が「冨嶽三十六景」の浮世絵の中で描いた萬年橋があり、隅田川を少し南下して日本橋川を西へ行けば、すぐ江戸の中心である。

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●この舟運に恵まれた、小名木川に近い土地柄という条件が、選択の最大の理由であろう。鍋釜にしろ天水桶にしろ、鋳造品は重いのが宿命。舟を利用できない地域での開業はあり得なかったはずだ。では、鋳造に必須な良質な砂は、どう調達したのだろうか。前述の通り、小名木川は人工河川である。自然砂など無かったはずだ。西へ行き支流の隅田川へ出たとしても、地理的に考えて、そこに自然砂が流れ込む地形にはなっていない。

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では小名木川を東へ行ってみよう。中川を経て荒川に出られるのだ。川口市で鋳造業が栄えた大きな理由の一つに、荒川できめが細かく均質な川砂が採取できたこと、粘性の強い芝川の泥が得られたことが挙げられる。これから鋳造を始めようとする人間がこの条件を考慮しないはずがない。舟運うんぬんよりも先立つ、絶対条件に違いない。

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●ちなみに、隅田川と荒川は、現在の北区赤羽辺りで合流している。荒川が本流で、隅田川が支流と言う感じだ。画像は赤羽岩淵の水門(後41項)で、ここから隅田川が始まっているが、近代に荒川放水路が整備されるまでは、隅田川の方が本流だったという。大島という地区は西廻りも東廻りもできる、舟運の利便性ににおいては扇の要の地だったのだ。

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江戸中を焼き尽くした明暦の大火(後22項後83項)を境に幕府は、隅田川以東への町民の居住を奨励した。鋳造はイコール、火を熾すことである。金属を加熱してドロドロに溶かすのが仕事だ。災禍を考慮して、小名木川河口の萬年橋近くの住民密集地を避け、さらに東へ半里ほどの、大島地区で再始動したのは、当然の流れだったのだと考えられる。

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●天水桶の画像をアップしよう。前14項で釜七製の桶を紹介したが、大田区本羽田の羽田神社(後38項)だ。「東京深川 鋳物師 釜屋七右衛門(花押・前13項) 明治7年(1874)5月」の銘であった。釜六の時と同じく、「深川」の鋳出し文字、花押も確認できるから、釜七もまた名の通った鋳物師であったのだ。ただし釜七は、その鋳造物銘に「藤原姓(前13項)」を名乗っていない。

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享保2年(1717)、徳川将軍家が小名木川を通る際、太田六右衛門釜六と田中七右衛門釜七は炊き出し御用を命ぜられ、これ以降、両家は代々将軍家の「御成先鍋釜御用」を務めている。個人が花押を使用することに特に障害は無かったようだが、ステータスを意識しての鋳出しであったのだろう。

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●東京の真ん中、中央区日本橋茅場町の天台宗智泉院。江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、 寛永12年(1635)に、薬師堂を建立、「茅場町のお薬師様」として江戸庶民の信仰を集めたという。江戸名所図会にも「茅場町薬師堂」として登場し、6月15日の祭礼の様子が描かれている。

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中央奥の銅造地蔵菩薩立像は、本小田原町(現在の日本橋本町・日本橋室町)生まれの彫刻家、戸張孤雁の作例という。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔うため、日本橋魚河岸から依頼を受け、昭和2年(1927)に完成している(掲示板より)。なるほど、石の台座などには、「魚がし」の刻みが見られる。


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●瑠璃殿前にあるここの鋳鉄製天水桶1対は、銅像とともに、区の指定文化財に登録されている。狭い敷地なので目立つ存在だが、口径は980ミリ、高さは950ミリだ。センターには、「坂本町」とあるが、現在の日本橋兜町だ。

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「天保十二年辛丑(1841)四月吉日」の鋳造であるから、先ほどの桶よりも33年ほど早い時期の鋳造だ。「釜七」も代々襲名された名前であるから、代の違う釜七かも知れない。寺の縁起によれば、「天保十二年辛丑 四月より當薬師如来(本尊)開帳」とあり、これを記念しての奉納であった。

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「鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門(花押)」銘だ。地べたに直置きされているので、サビが発生し損壊が始まっているが、塗装するなど早急に対処すべき時期だ。行く末は、後33項で見る状況になるだろう。早めにリニューアルすれば、後79項で見るような天水桶達のように立派に甦るのだ。これは、再生不可能な貴重な登録文化財なのだ。

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●茗荷谷駅近くの文京区小日向にある清水山松林院深光寺(じんこうじ)には、画像に見える滝沢馬琴の墓がある。江戸時代後期の戯作者で、「南総里見八犬伝」、「椿説弓張月」など、多数の作品を残している。晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。墓の後方には、晩年失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた嫁の路女が眠っている。

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堂宇の左端に、鋳鉄製の天水桶が1基だけある。陽鋳造された銘によれば、「小日向水道町 施主 丸屋平助」の奉納であった。水道町は、東京都新宿区の町名だが、神田上水に沿った地であった事によるようだ。

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●天水桶は、「文政九戌年(1826)八月吉日」の設置だから、先ほどの茅場町・智泉院の桶よりも15年ほど前の鋳造だ。輪郭が鮮明な鋳出し文字であり心地が良い。

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銘は「江戸深川 鋳物師 釜屋七右エ門(花押)」で、鋳出し文字の感じがそっくりだ。同じ世代の釜七であろう。大きさは口径Φ830、高さは730ミリとなっている。

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●ここの鐘楼塔に掛かる銅鐘は、文化財登録されるべき注視すべき1口(こう)だ。大正3年(1914)刊行の香取秀眞の「日本鋳工史稿」(後116項)は、江戸期の鋳工の作例を知る上で頼りになる史料だが、ここにも記載が無い知られざる梵鐘だ。陰刻は「龍集(後23項など)寶永(宝永)甲申(元年・1704)十一月十五日」であり、度重なる大震災や戦時の金属供出(前3項)を逃れた保護されるべき古鐘なのだ。

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鋳造者は、「鑄物御大工 椎名伊豫(伊予)重林作」だ。「重林」という鋳物師は諸書の史料には見い出せないので、「重休」の刻み違いであろう。後19項では「重体」という刻みを見るが、先の史料により「重休」の誤りである事が判っている。この当時は、「次郎」を「治郎」としたり「浅右衛門」を「朝右衛門」するなど、人名でも軽々しく書き違える事が多かったのだ。

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椎名家の初代は、「椎名伊予守吉次」だ。「伊予守」の受領は、慶長19年(1614)4月、京都東山の大仏殿の鐘鋳造の棟梁であった時に、片桐且元の肝煎りによって賜ったとされる。且元は、豊臣家の直参家臣で、賤ケ岳の七本槍のひとりだ。重休は、2、3代後の鋳物師だが、後68項後89項後126項などで多くの作例に出会っているので、ご参照いただきたい。

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●次の2件は、最後の代の釜七製だろう。まず、大田区羽田の鷗(かもめ)稲荷神社。『羽田道は、旧東海道(三原通り)の内川橋際から分岐し、大森東・南、東糀谷を通って羽田(弁天橋)に至る。江戸時代には羽田弁財天等への参詣に利用され、また羽田でとれた魚などを江戸に運ぶ道でもあった。

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鷗稲荷神社前は、羽田道の「羽田七曲り」の一つで、多摩川寄りの地域は漁業専業の「羽田猟師町」であった。この付近には鷗が多く、大漁の兆しとして祀られたものという。』(境内説明板による)

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●1対の鋳鉄製天水桶は真っ赤に塗装され、赤い鳥居と共に映えている。フタがされていて貯水は出来ずもはやオブジェだが、小さい社にお似合いで、なくてはならない存在になっている。

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裏側に「明治32年(1899)1月吉日」とある。丸の中に「七」の文字の紋章を確認できるが、この時期になると花押ではない、社章だ。会社など、組織化された形態を感じ取れる。

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回想されるのは、前17項で紹介した江東区北砂の亀高神社の釜六製の天水桶で、「大正9年(1920)9月」製の銘だ。もう一度アップしてみよう。「釜六製」とあるが、どこか変だ、おかしい。釜六は明治維新後に廃業したとされるが、大正時代のこの桶、あるいは釜七の系統の鋳物師が釜六銘で製造したものではあるまいか。

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●最後は、墨田区押上の高木神社。境内の説明文によれば、応仁2年(1468)、第六天社として創建、旧寺島村新田の鎮守であった。「御祭神は高皇産霊神(高木神)と言い、古事記や日本書紀によれば、天孫降臨の際の国護り伝承や仲武東征などに度々登場し、天照大御神に助言するなど政治的な手腕を振るってきた」という。

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拝殿前には、1対の鋳鉄製天水桶が鎮座しているが、大きさは口径Φ915、高さは860ミリとなっている。モスグリーン色に塗装され寿命を永らえているが、正面には「七陽紋」が見える。

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「東京深川 ○七 釜七本店鋳造 明治35年(1902)10月」と記され、「○七」の社章もある。この「本店」の文字から想像できるが、これは会社的な形態であり支店も存在したようだ。後94項で知るが、釜七の系統は、一族であった浅右衛門に暖簾分けされ、「釜屋浅右衛門商店」として、明治末期まで存続している。本店の釜七の「○七」に対し、「山七」が社章であったようで、支店的な位置付けであったと思われる。

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●また後117項では、江戸川区一之江の白鬚神社で、「東京深川 ○七 釜七本店鋳造 明治35年10月」という全く同じ時代の陽鋳文字を見るが、「○七」の社章が鋳出された天水桶としては、この2例が確認できている最後の作例なので、この後に鋳造業からは撤退したのであろう。

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さらに言えば、○七の社章の存在が確認できているのは、知る限りこの他には8例、合計9例で、そのうちの2例は羽釜だ。羽釜の鋳造年月日は不詳ながら、後125項で見る「静岡県三島市大宮町・三嶋大社 東京釜屋堀 釜七製 明治23年(1890)8月」銘の、「○七」の社章入りの天水桶が初見だ。この頃に暖簾分けしたのであろうか。

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●なお前12項で見たが、釜七は川口鋳物師ともつながっていた。「埼玉県川口町 芝川鋳造所 吉川鍋太郎」で、同氏は、明治12年(1879)生まれで、東京市大島町の出身だ。その地の縁で13才から19才までを、釜七の徒弟として修業している。あるいは、吉川の実弟の田中虎吉(後19項後114項)も、兄弟で釜七の工場で働いていた時期があったようだ。

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この後も続々と釜七の作例が登場するが、その項番をここに挙げておこう。前4項前14項後26項後29項後30項後51項後53項後55項後58項後107項後117項後125項後130項などだが、全て鋳鉄製の天水桶だ。文化8年(1811)から明治35年(1902)までの、本項分も含む26例だ。

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●上述の通り、藤原姓を鋳出した桶は1つも無いが、花押が最後に見られるのは、冒頭の「大田区本羽田・羽田神社 東京深川 鋳物師 釜屋七右エ門(花押) 明治7年(1874)5月吉日」であった。

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また、後108項では2例の羽釜を、後35項後67項後94項では、「釜屋浅右エ門(花押)」銘が入った3例を見ている。これも興味深い天水桶で、例えば銘は「港区南麻布・広尾稲荷神社 小網町三丁目  釜屋浅右エ門  鋳造之 文久2年(1862)9月吉日」、「武州川口 鋳工 吹屋市右衛門(花押)」だが、銅鉄商人の浅右エ門の取り扱いながら、実際の鋳造は川口鋳物師の(海老原)市右衛門であり、ここでも川口鋳物師とのつながりが確認できたのだ。つづく。