.

●街中を散策していると多くのモニュメントやオブジェ(後101項)に出会うが、今回は目を魅かれるそれらの一部から見てみよう。金属製やら岩石製やら材質は様々であるが、思わず足を止め見入ることもしばしばだ。画像は、都内新宿区の京王線の新宿駅構内で見かけた、単なる金属プレートの貼り付けによる装飾だが、それが紋様を成している。

.

良く見ると「巣」だらけのプレートだが、それが逆に味わいとなって、芸術的な領域へと昇華されていることが明らか。これが機械構成部品なら、間違いなく不良品であろう。巣喰い(後121項)とは何か、何故発生するのだろう。

.

まず、溶解した金属(湯)の成分が単一ではなく、不純物混合湯なのだ。水を凍らせると気泡が出来るのと同じ。さらに注湯速度のムラ、製品肉厚の違いによる凝固時のタイムラグなどによって、ガスの排出がうまくいかず、結果、ガスが取り残されて「巣」を形成してしまうのである。

.

●JR新宿駅の東口駅前広場、ルミネエスト前に高さ7mという巨大なモニュメントがある。コンセプトは、都会を意味する「メトロ」、自然を意味する「ワイルド」、当惑を意味する「ビウィルダー」をかけ合わせた「メトロビウィルダー」で、抽象化された「花束を持っている少年」だという。モニュメントの周りには、ぐるりと囲むように63席の椅子が設置され、座って休憩したり待ち合わせしたりする事が出来るようだ。

.

都内千代田区有楽町の日比谷シャンテの広場には、ゴジラスクエアーがある。ここには、全長3mほどという、2016年公開の「シン・ゴジラ」をベースにした新たなゴジラ像が降臨している。昭和56年(1981)まで同地にあった日本劇場は、後に有楽町マリオンとなっている。同館は、昭和29年(1954)公開の「ゴジラ」第1作目で襲われ、1984年の第16作目で再び破壊されている。近隣は、ゴジラの聖地なのだ。

.

●東京都江東区青海、お台場のダイバーシティ東京に、身長19.7m、49トンという機動戦士ガンダムユニコーンが立っている。サイトでは、「夜間に行なわれる演出ではユニコーンモードからデストロイモードへの変身(変形)を可能な限り再現。

.

角の開閉、顔のモード変更、肩・腰・膝パーツの展開などのギミックで、リアルな立像をご覧いただける」という。レストランの窓から、遠景に新交通ゆりかもめを眺めながら、真下にこれを見下ろす光景も中々いい。

.

●鋳物の街、JR川口駅前(後81項後101項後109項)を見てみよう。東西の出入り口に駅名を示すプレートがあるが、鋳物製だ。材質はアルミニウムだろうか、「川口駅 開業日 明治43年(1910)9月10日」と鋳出されている。首都近郊には多くの駅が存在するが、これほど見事な駅名表示プレートには、なかなかお目にかかれない。

.

蒸気機関車をモチーフにし、市の花である「テッポウユリ」と、工都としての象徴である「キューポラ(後68項)」をあしらっている。明治14年(1881)にイギリスから輸入されたこの機関車の愛称は「善光号」だが、旅客用ではなく、資材運搬用であった。

.

大正初期の1915年頃まで、東北本線や高崎線、秋田鉄道、青梅鉄道、東海道本線、湖東線などの線区で活躍したが、明治期の鉄道工事の第一歩は、舟運の要の地、川口であったのだ。

.

駅名プレートの作者については、駅舎の片隅に「川口駅名表示板製作者」の銘板が埋め込まれていて、6つの団体名が陽鋳造で表示されている。川口商工会議所、川口機械工業協同組合、川口木型工業協同組合、川口市商店街連合会、財団法人川口産業振興公社、川口鋳物工業協同組合だ。

.

●その機関車は、さいたま市大宮区大成町の鉄道博物館「てっぱく(後126項)」内に現存する。輸入後、海から陸揚げされ、新橋工場で組み立てられ、艀(はしけ)で荒川をさかのぼり、川口市舟戸町の平等山善光寺(後130項)付近で、さらに陸揚げされている。

.

この際、艀がその重さに耐えきれず沈没してしまい、寺の檀家が総出で引き上げたというエピソードがあるが、何とも長閑と言う外ない。しかし現物の車体を目の当たりにすると、大勢で引っ張れば何とかなりそうだと思えるほど小ぶりだ。当時の運行ダイヤなどから推察すると、走行速度は、およそ33kmだろうという。

.

●車体側面の銘板を見ると、英国のマニング・ワードル社製だ。「形式1290」で、全長は7mだと説明されている。台枠の内側で動力を生み出すインサイドシリンダー式で、振動が少なく小型化に有利、車輪径は914ミリで動輪は3軸だ。線路に掛かる重さは1軸辺り6トンだというが、未だ建設工事中で不完全な線路を走るのに適していたようだ。

.

次の画像は、図書室で見たものだが、小さく「形式1290」とあるその真上の大きな「1292」という番号は、製造ナンバーであろうか。画像では、その銘板の両横に「善光」と書かれている。現在保存されている車両には、この2文字が無いようだが、後年に掻き消されてしまったのだろうか、残念だ。

.

●鉄道関連で、ついでに余談だ。サラリーマンの街、JR新橋駅前(後81項)の「SL広場」には、蒸気機関車が屋外に常設展示されている。機種は「C11 292号」66.05トンで、姫路機関区所属であった昭和20年製(1945)だ。

.

鉄道発足100周年に合わせ、昭和47年(1972)から展示されているが、この情景は、TVニュースや待ち合わせ場所としても有名で、毎日定時には「汽笛一声」として汽笛が鳴るという。

.

●「鉄道唱歌の碑」の脇には、「D51機関車の動輪」も置かれている。D51形機関車は、昭和11年(1936)に誕生し、その後の10年間に、同一形式としては最多の1.115両もが製造されている。

.

主に貨物用として活躍したが、「デゴイチ」の愛称は、蒸気機関車の代名詞ともなっている。この動輪は昭和50年(1975)まで運用され、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地の新橋駅前に設置されている。

.

●次の画像は、港区東新橋にある旧新橋停車場、鉄道歴史展示室の屋外展示物だ。周辺の再開発時に発掘され、礎石や遺構が保存されているが、鉄道記念物に指定された「0哩(マイル)標識」が復元されている。明治3年(1870)4月25日に、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれた訳だが、木製の車留めも忠実に再現されているようだ。

.

これらは、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として、国の指定史跡に認定されている。明治5年の開業(後126項)当時、汽車はこの間を53分で走ったという。この3年前には、新橋と横浜吉田橋間で2頭立ての乗合馬車が営業を開始していたが、その片道の所要時間は約4時間であったと言うから、大幅な短縮だ。しかもその運賃は75銭で、汽車の下等席は50銭というから、乗合馬車が早々と廃止になるのは必然であった。

.

新橋の街中の交差点には、「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」として、「浜離宮前踏切」が保存されている。この信号機は昭和6年(1931)から62年(1987)までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場、築地市場との間の貨物引込み線の踏切用として使用されたと説明されている。往時には1日150両に達する貨物車が通過したという。

.

●栃木県真岡市台町にある真岡鉄道真岡線の真岡駅の駅舎のモチーフは、蒸気機関車だ。関東の駅百選にも選出されているが、真岡市では、真岡市の井頭公園で展示されていた9600形機関車を移設展示し、廃車車両も外観整備し、真岡駅全体をSLキューロク館としてオープンさせている。展示されているデゴイチD51146号は、コンプレッサーの圧縮空気で、キューロク館構内の線路約30mを走っている。

.

●さて、川口駅のプレートのバックに見えるビルが文化施設「リリア」だが、リリアとは、リリーつまり百合の花が咲く地という意味だ。その玄関には、高さ6m、幅8.5mという壮大なオブジェがある。

.

ステンレス製のアングル材を複雑に切り貼りして溶接、その表面にはウロコ研磨によって独特の表現がなされている。作者の脇田愛二郎は、「川口市の人々の結束と、これによる成果の高まり、そして発展のシンボルとなる事を願っています」としている。

.

駅前には、鋳物の街を象徴するようなオブジェがある。駅構内の2ケ所の窓の装飾は、鋳物製の覆いだ。三角形の板片がランダムに取り付いているが、私の記憶では半世紀前から存在している。駅によれば、詳細は不明だが、川口鋳物工業協同組合(後100項)からの寄贈だという。周年記念の際などでのプレゼントであったろうか。

.

●駅前広場にある、次の銅像のタイトルは「働く歓(よろこ)び」だ。鋳造は、市内の「岡宮美術鋳造研究所」で、今も川口市東領家で営業する、(株) 岡宮美術(後78項)の故富田匠美だ。山梨県の甲府駅前には、高さ3m、重量5トンという、巨大な武田信玄の銅像があるが、同社の作例だ。

.

筋肉隆々の青年が、かれこれ40年もの間ここに立っているが、解説文によると、『この作品は、昭和49年(1974)に・・ 川口を代表する「鋳物」と働く事の素晴らしさを表現したものです。鋳物を造る職人が、キューポラと呼ばれる溶鉱炉で銑鉄を溶かし、「湯汲(ゆくみ)」と呼ばれる柄杓(ひしゃく)で受け、一気に鋳型に注ぎ込む注湯作業を表しています』とある。

.

これは、川口の鋳物産業界を最も象徴するオブジェであるのだろう。当時の川口鋳物工業協同組合は、手のひらサイズの同形の複製品を鋳造し、傘下の組合員に配布している。展示に当たっての主幹は川口青年会議所・JCで、創立10周年の記念事業の一環として、川口在住の富田匠美氏がデザインしている。台座にあるタイトルは、「働く歓び」となっている。

.

●すぐ近くには、溶解炉・キューポラの青銅製の模型もある(後81項)。「伝統のものづくり」と題されたこれは、市制施行80周年を記念し、平成25年(2013)11月10日に建立されているが、裏側には銘板がある。「広くキューポラと呼ばれています。コークスの燃焼熱を利用して鉄を溶かす炉のことです。・・ 鋳物工場では、屋根の上にキューポラの巨大な煙突部が見られます」と説明されている。

.

一度に大量の鉄を溶かす事ができ、量産に向いていたキューポラであったが、高効率で公害の少ない電気炉が主流な現在では、見受けられなくなってきている。画像は、川口市舟戸町の平等山善光寺(後130項)から見えるキューポラだ。

.

●さて、最近見た天水桶のアップであるが、一体、武州川口の鋳物師はどれ程の人数がいたのだろうか。享和年間(1801~)の「川口町村明細帳」には、「鋳物師職9人、小細工職17人」の名が記されている。

.

次の画像の85年後の明治19年(1886)に浅草廣栄堂が発刊した「東京鋳物職一覧鑑」には、吹元13人、唐銅3人、小細工職50人の名があり、同42年の「報知新聞」には、「吹元60余戸、小細工人120余戸」とある。

.

●「吹元」とは、地金の溶解設備(たたらなど)を有する業者で、これを持たずに溶解湯を購入(買湯)して鋳造する人を「小細工人」と呼んだ。氏名を見ると面白い。「小細工人 百姓源太郎」、「同 吉五郎」などとして登場するが、半農半工であったのだ。つまり、農閑期には職工人として生計を立てていたのだ。

.

「川口鋳物工業組合60年の歩み」で鋳造業の経営者数を見ると、明治5年17人、同14年26人、同18年67人、同19年120人、同20年207人となっている。倍々ゲームのように異常なほど飛躍的に増えているが、鋳物製品の膨大な需要があったことが判る。

.

「川口鋳物工業組合員名簿」に登録されている企業数を見ると、昭和12年(1937)には400社、同16年には540社、平成28年(2016)現在では、盛時の4分の1の132社となっている。この数字だけでも、時代の流れに沿った鋳造業の栄枯盛衰が判るが、では、新たに出会った作者も含めて天水桶を見ていこう。

.

●港区南麻布の高級住宅街の一角に、広尾稲荷神社がある。慶長年間(1596~)に、徳川秀忠が鷹狩りの際に稲荷社を勧請、麻布御花畠富士見御殿の鎮守だったという。廻りの景観と比すると場違いな感がするが、こういった神がかり的な建築物は、余程の事があっても排除されずに残っているので興味深い。

.

拝殿の天井には水墨の線と濃淡のボカシを巧みに駆使した、龍の姿が描かれている。境内の掲示によると、近代日本洋画界初の画家として評価されている高橋由一(1828~1894)の作だが、彼が落款を残すのは稀だという。

.

この神社は、弘化2年(1845)1月24日に発生した「青山火事」によって社殿を焼失したというが、同4年に再建されている。現存する天水桶には、「文久二戌年(1862)9月吉日 町内 若者中」と鋳出されているが、若年層の集まりが奉納したという事になろうか。火事から17年後の事であった。

.

●鋳鉄製の1対で、銘は「武州川口鋳工 吹屋 市右衛門(花押・前13項)」であるが、誰であろうか。「吹屋」は鋳造業社を意味する呼称であって、苗字では無く、上述の「吹元」と同等の意味だ。画像の川口市金山町・川口神社内(前35項)の文久元年(1861)銘の狛犬に、「海老原市右衛門」の名が見られるが、この人だ。

.

やたらとは苗字を鋳出さない一方、花押を使用しているが、鋳物師総括の京都真継家(前40項)から職状を受けた勅許鋳物師ではない。文久元年の「諸国鋳物師控帳」をはじめ、前後の時代の文献には、この人の名の記載は見られない。

.

また、戦時中に金属供出(前3項)してしまったが、同神社の鋳鉄製鳥居にもこの人の名が見られたという。さらに、先の「東京鋳物職一覧」には、「川口鋳物職一覧之部 吹元」の欄に13人の記載があるが、ここにも、「鍋 蛯原(海老原)市右衛門」が登場している。

.

前43項でアップしたが、品川区小山の芳荷山長応寺には、「文久4年(1864)春 鋳物師 武州川口住人 海老原市右衛門忠義」という天水桶があった。東京の高尾山の奥の院(前35項)には、これもアップ済みだが、「鋳物師 川口住 市右衛門 萬延2年(1861)2月」という桶が現存している。また、後94項の中央区日本橋浜町・清正公寺の天水桶も関連しているのでご参照いただきたい。

.

●都営地下鉄泉岳寺駅から徒歩5分、港区三田にある御田八幡神社は、東京大空襲により、江戸時代の社殿を焼失したが、昭和29年(1954)に、本殿権現造、拝殿、神楽殿などを再建している。

.

ホムペによれば、「和銅2年(709)に神様をお祀りしてより、1300年を超える神社です。江戸時代に現在の三田の地に遷座され、以来三田をはじめ芝、芝浦、高輪の氏神様として崇敬されています」という。

.

●一方「江戸名所図会」によれば、後一条帝、寛仁年間(1017~)に、御田郷薭田(ひえた)神社として草創されたとなっている。右下に「海辺」と書かれている通り、「後ろは山林にして、前は東海に臨む」とあり、風光明媚な土地柄であった事が判る。門前には、帯刀した武士や天秤担ぎ、牛車が行き交っていて、当時の賑わいを見て取れる。

.

また、釜鳴神事で知られる神社だが、それは、釜の響きで吉凶を予想する神事だという。昔は、釜の鳴り響き方によって農作物の実りの吉凶を占うというものだったが、現在では、その音によって今後の景気の行方を予想するようだ。堂宇の両側に、古めかしくサビついた鋳鉄製の天水桶が1対ある。

.

●裏側には、「寄附者連名」があり、10名ほどの「氏子中」の人の名が見られる。台座に見える「通新」は、旧地名の「港区芝通新町」だ。大きさは口径Φ1m、高さは680ミリだが、銘は「武州川口製造人 蒲山久吉 明治42年(1909)11月吉日」で、お初にお目にかかる川口鋳物師だ。

.

川口市金山町の川口神社(前1項)の「明治39年(1906)碑」には、「蒲山久吉」の名前を確認できる。あるいは、昭和初期の頃の市内金山町の古地図(前5項)を見ると、川口神社の南西側に「蒲山」という家を確認できるが、そこでの鋳造によるものだろう。蒲山銘の天水桶の現存は知る限りこの1対だけであり、大変貴重だ。

.

川口市舟戸町の平等山善光寺(後130項など)には、同家の墓があったので、過日謹んで墓参申し上げた。墓碑には、「昭和3年(1928)5月16日 行年62才 俗名 初代久吉」とある。2代目も「久吉」を襲名したようだが、天水桶にしろ墓碑にしろ、後世に残る刻まれた文字には、重要な意味があった。

.

●江戸川大杉の大杉天祖神社は、旧西一之江村の鎮守だ。ここの創建年代は不詳だが、将軍徳川家康が鷹狩の際、休憩した腰掛石が境内にあり、社殿のすぐ隣には、同社が提供した公立大杉公園がある。

.

ここは、天照大神を祀る葛西御厨の1つで、元禄10年(1697)の検地帳には「神明社」と記されているという。現在、「天祖神社 大杉神明幼稚園」が併設されているが、「神明」の呼びは、ここに継承されていた。

.

●拝殿前の1対の鋳鉄製の天水桶の大きさは口径Φ940、高さは880ミリだ。裏側には、「宮司 亀井瑞雄」と氏子総代、氏子有志の名が連なっている。額縁にあるこの紋は、「雷紋様」あるいは、「稲妻紋」と言われ(後116項)、豊作の兆しともされた稲妻を幾何学的に表現している。水を呼び込む事がコンセプトの天水桶には欠かせない紋様なのだ。

.

「合資会社 林鋳造所 謹製 林邦之 昭和33年(1958)8月吉日建立」という銘の桶だ。ここは昭和57年(1982)3月に、東京鋳物工業(協)が発刊した名簿にも登録されている企業だ。住所は、この神社の北側の江戸川区本一色町となっていて、産業機械器具の製造をし、往時はキューポラも設備していたようだ。現在の会員数は10社のようだが、今この中にこの社名は見られない。

.

●千葉県市川市周辺では同じ型の鋳鉄製桶が多数見られる。みな作者不明で、製作時期は昭和時代だが、4例を見てみよう。まずは、市川市新井の曹洞宗、秋葉山新井(しんせい)寺。元和2年(1616)の開山だが、山号が秋葉山であるから、火防の守護神「秋葉三尺坊大権現」を祀っていて、関東地区の本山であるという。(境内説明板による)

.

ハスの花弁型、作者不明の鋳鉄製で、浦安の魚河岸関係の人達が奉納しているが、最前面に奉納者名があるのは珍しい。センターの紋章は、「魚がし」のようだ。

.

●次は、市川市本行徳の塩場山長松禅寺。天文年間(1532~)に渓山和尚により開山されたが、当時このあたりは塩田であり、山号はこれに由来する。行徳での製塩は、戦国時代に後北条氏に年貢として納められたのが始まりと言われる。

.

その後江戸に入府した徳川家康は、江戸城における籠城を想定し、自領内での塩の安定供給に尽力、行徳を御手浜として製塩業を保護している。1対の天水桶の奉納は、「檀家一同 昭和57年(1982)5月吉日」だ。

.

●同じく市川市本行徳の日蓮宗、正覚山妙覚寺。正中山法華経寺(前55項)の末寺であり、天正14年(1586)に創建され、開基は心了院日通上人であった。天水桶は、「昭和55年(1980)5月吉辰 本堂新築之砌(みぎり)」での奉納となっている。大きさは開口部の口径がΦ1m、高さは840ミリだ。

.

そして同じく、「火防日蓮大菩薩」を安置する真光山妙頂寺。日蓮聖人生存中の弘安元年(1278)、日妙上人により創建され、永禄4年(1561)に日忍上人により、現在地に移されている。天水桶は、檀家の菩提供養のための寄進だ。これらはどれも同じような大きさと材質、形状であるが、同一人による鋳造であろうか。

.

●この項の最後は中野区本町にある、曹洞宗、多宝山成願寺の天水桶の話だ。ここは、永享10年(1438)の創建で、徳川将軍家から5石の朱印状を受けた御朱印寺であった。東京三十三観音霊場の18番札所だ。

.

ここには、肥前蓮池藩(佐賀県東部)鍋島家の墓所がある。初代藩主直澄(元和元年・1616~寛文9年・1669)が、寛永19年(1642)に、5万2600石を与えられ分家したことから始まる家系だ。

.

●地図の地名を見ていて思った。首都高中央環状線には「中野長者橋ランプ」があるが、「長者橋」の由来とは一体何であろうか。それはどうやら、この成願寺の存在によるものらしい。応永年間(1400頃)にこの地に住んでいた、貧しい馬飼いの鈴木九郎(前16項)は、ある日馬市に出かけた。

.

「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝(当時、中国で流通していた)が混ざっていたら、それはぜんぶ、観音さまにさしあげます。」

.

思ったより高く売れたその代金を見ると、それは全て大観通宝だった。「これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってしまった・・、それでは一銭も残らない」、「やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れることだけ願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと、観音さまが教えてくださったのだろう。」

.

翌日から九郎は大いに働いて財を成し、中野長者と呼ばれるようになったが、一人娘を亡くした悲しみからこの寺を創建したという。これはいただいたパンフレットからの抜粋、要約だ。なお、娘の戒名は「正観(しょうかん)」であり、それが「正願」から江戸時代になって「成願寺(じょうがんじ)」になったと言う。

.

●ホムペにはこうある。「数年前修復が施された成願寺のご開山さまのお像のなかから、古い小さな骨片がたくさん出てきました。これを東京大学名誉教授鈴木尚先生に鑑定していただいたところ、中年の男性とからだの弱い娘の骨ということがわかりました。鈴木九郎と夭折(ようせつ=幼くして他界すること)した小笹の遺骨にまちがいないでしょう。」

.

鎮座する天水桶は、「平成6年(1994)3月吉日」の造立で、フォルムからして老子社製(前8項など)と思われる青銅製であるが、いわれを知ると、正面に据わる「大観通宝」の紋様には深い意味がある事が判る。現住職の小林貢人氏が、ご自分の戦争体験をもとに、小冊子にして社会見学に訪れる中学生らに配布しているが、その終わりのページには次のように書かれている。

.

●『仏教というものは一体何だろう。チーンとやって拝むだけだろうか。そのもとは先祖供養。非常に大事です。その時縦の因縁というもの、横の因縁というもの、その乾坤(けんこん=運命)のつながりを省み、感謝し、「私はこの縁を活用させて頂き、後世に伝えます。」と自問自答したい。

.

この先祖供養ということから報謝の生活を考えましょう』と説いている。ここ成願寺のシンボルたる「大観通宝」の紋様を見るにつけ、我々は、「鈴木九郎」の教えを、先祖代々の労苦を常に思い返さなければならない。つづく。