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●前回に続いて、散策中に出会ったオブジェを見てみよう。JR川口駅東口から歩いてすぐの所に、高層マンション「リビオタワー川口ミドリノ」がある。廃業した「五味鋳工所と朝倉鋳工所」の鋳物工場跡地であり、昭和37年(1962)4月に公開された、吉永小百合主演の映画「キューポラのある街」のロケ地でもあった場所だ。
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ここの一角に公開された空き地があり、それらの工場で使用されていた、溶解炉、甑炉(こしきろ)が置かれている。これで金属を溶解し、型に注湯し、製品を造っていた訳だ。人の背丈ほどの小型の炉だが、廃棄されずに屋外展示されているが、川口鋳造界の歴史を長く語り継いでくれる事だろう。

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●上の甑炉は、溶解量がかなり少なかろうから、メインの炉であったとは思えないが、この大型のものがキューポラ(後81項)であり、上部に煙突を配し、下の画像のように工場の屋根を貫いていた訳だ。炉は鉄製だが、下部に耐火煉瓦が張られていて、底部に溶鉄が溜まるようになっている。

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操業時は、上から燃料のコークス、素材の鉄、石灰岩を交互に投入、下から送風し熔解する訳だが、その温度は、1.500度ほどにも達する。煙突の中には三角錐の陣笠状の部品が吊り下がり、そこに取り付けられた放水ノズルで粉塵の排出を抑えていたのだ。画像は、川口市舟戸町の平等山善光寺(後130項)付近から見えるキューポラだ。

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キューポラは、18世紀の半ばにイギリスで開発されているが、ラテン語で、「桶」とか「樽」という意味だと言う。安政3年(1856)に幕府海軍が創設され、直後の文久元年(1861)に、長崎造船所が開設されている。オランダ将校らの指導を受けて運営されていた訳だが、ここに、キューポラ1基が設置されたのが、我が国初だ。

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●同所には、懐かしのダルマストーブもあったが、これもこの工場内で使用されていたものだろう。石炭ストーブは、かつては川口市内の多くの工場で量産され、全国シェアの約8割をも占める特産品であった。明治から昭和中後期にかけては、鉄道駅舎や列車内、軍需向けにも暖房器具として利用されていた。

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近年では、観光資源としての意味合いでイベント列車などでの復活事例がある。青森県の津軽鉄道の冬の風物詩「ストーブ列車」で使われているストーブは、川口のメーカーであった「福禄」製だ。車内ではスルメ等の乾物が販売され、ストーブの上で焼いて食べることができ観光客に喜ばれている。

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前12項では、「愃六(せんろく)ストーブ」ブランドとして名を馳せ財を成した、「伊藤愃六総本店」の例を見ているが、他項でも多くの企業広告でストーブを紹介している。画像の様に、川口市内では、昭和の40年代(1965~)までは、小中学校の教育現場でも当たり前の存在であった。燃料は主にコークスであったが、先生はヤカンを乗せ湯を沸かし、茶を飲みながら授業をし、生徒らは休み時間にこの周りで歓談したのを思い出す。

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●埼玉県と東京足立区の境界の舎人(とねり)には、毛長川(けながかわ)が流れていて、「新砂子路(しゃごじ)橋」が架かっているが、高さ約1.6メートルの親柱のモチーフは甑炉だ。これは昭和60年度(1985)に行われた、都の事業「文化のデザイン」の一環として採用されたデザインだ。

この鋳鉄製の親柱、どれくらいの製造コストなのだろうか。川口鋳物組合が発行したカタログを見てみると、同じようなものが、定価ベースで1基¥200万円、現場施工費別とある。4本建てれば¥800万円であるから、付帯の欄干などを含めば、軽く¥2千万円オーバーの工事ではなかろうか。

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●こちらは、川口市朝日の新芝川に掛かる「あづま橋」の親柱だが、材質はFCDと呼ばれるダクタイル鋳鉄製だ。FCDは、引張り強さや伸びなどに優れ、粘り強さ、つまり靭性にも優れている事から、強度の必要な自動車部品や水道管(後74項)などのダクタイル鋳鉄管などに多用されている。

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親柱の底辺の面積は1.3m×0.9m、高さは2.3mで、頂上にはオブジェとしての鳥が留まっている。1基220万円だが、先のカタログは30年前の定価だ。最近のこういった親柱の役目は、橋の性能を左右する存在ではなく、単なる目印のようだ。


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●さて、天水桶を見ていくが、最初は、千葉県浦安市当代島の当代島稲荷神社で、ここは浦安三社(前57項)の1つだ。元禄2年(1689)の創建と伝わり、拝殿の横には浅間神社(せんげんじんじゃ)を祀った富士塚がある。古くから疱瘡に霊験があるとされ、病気平癒や厄除の神徳も知られている。その他、商売繁盛、家内安全の守護、産業繁栄、心願成就などの御利益があるという。

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「昭和59年(1984)1月吉日」の造立であるが、桶正面には、稲穂紋があしらわれていて、実りの神を思わせる。この年、地盤沈下のため大規模な地盛りや社殿の立替がなされているが、その完成を記念しての奉納であった。天水桶は青銅製で、作者不明の1対だ。

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作者銘が無いから作者不明なのだが、この意匠は、次の画像の天水桶に近しく思えて仕方ない。大田区本羽田・羽田神社(前38項)の「富山県高岡市 (株)竹中製作所」銘の1対だ。上部で対面している龍の紋様は酷似しているし、その下に廻る同様の1本の輪の存在も気になる。

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●続いては江戸川区中央で、区役所近くの新小岩厄除香取神社。經津主命(ふつぬしのみこと)を祀っていて、元和3年(1617)に再興されているが、現在の本殿は、宮大工八郎次が10年の歳月をかけて、天保3年(1832)に完成させたという。境内の説明板には、小松菜についての命名由来が記されている。
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享保4年(1719)の事、時の将軍徳川吉宗が鷹狩の際の食事場所としてここを選んだが、神主は餅のすまし汁に青菜をあしらって差し出すと大いに喜ばれ、この地に因んで「小松菜」と命名した。百年後の文政元年(1818)の「新編武蔵風土記稿」には、「菜、東葛西領小松川辺の産を佳品とす。世に小松菜と称せり」とある。そして、命名から3世紀を経た今日でも近隣の特産野菜だ。


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1対の天水桶は、「明治29年(1896)2月」の造立で鋳鉄製だが、裏側には寄進者や宮司の銘さえ無く、作者も不明だ。正面には、「奉」と「納」の字がそれぞれに1文字づつ配されていて、大きさは口径Φ760、高さは650ミリとなっている。この時代なら川口鋳物師の作例かも知れないが、シンプルなこのデザインから思い浮かぶ鋳物師は居ない。

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●足立区伊興にある寿福山長勝寺は、万治2年(1659)の開山だ。 境内掲示によれば、ここには下総の国(現在の千葉北部、埼玉と東京の東辺など)を拠点とした、豪族であり戦国大名であった千葉次郎勝胤(かつたね)の首塚とされる墓がある。足立区にある「千住」の地名は、「千葉氏が住する」に由来するともいう。 

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天水桶1対は、「針供養」のために「昭和53年(1978)8月」に奉納されているが、作者不明の鋳鉄製だ。大きさは口径Φ900、高さも900ミリとなっている。辞書によれば、針供養とは、折れ、曲がり、サビなどによって使えなくなった縫い針を供養し、近くの神社に納める行事だ。起源としては、中国に「土地神の祭日に、針線(針と糸、針仕事)を止む」という古い慣わしがあったとされ、それが日本に伝わったとされるという。

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●首都高の護国寺ランプのすぐ近く、文京区目白台には、日蓮宗寺院の清土鬼子母神出現所があり、雑司ケ谷七福神の吉祥天に充てられている。鬼子母神を母に持つという吉祥天は、仏教では毘沙門天の妃ともいわれ、福徳安楽を与え、仏法を護持する天女でもある。鬼子母神堂(前2項)と言えば豊島区雑司ケ谷だが、そこは、この出現所から北西へ700メートルほどの所にある。この石碑に刻まれている「鬼子母尊神出現所」とは何であろうか。

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「雑司谷鬼子母神略縁起」によれば、永禄4年(1561)1月16日に、山村丹右衛門によって鬼子母神像が掘り出された事が、安産信仰の始まりだ。像を境内にある三角井戸で清め、法明寺鬼子母神堂へ納めたのだが、その井戸も現存してる。星影が水面に不思議な光を宿して尊像の存在を知らせたと言われる「星の井」だ。今はコンクリートで覆われているが、現存する井戸は何故か三角形であった。

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天保期(1830~)の「江戸名所図会」には、「往古、鬼子母神出現の頃、この井に星の影を顕現せしことありしゆゑに、名づくるといへり。その井桁の形三稜なるゆゑに、土俗、三角井とも字(あざな)せり」と記されている。「七本杉といへるは、一根にして七つにわかれたり」として描かれている杉の木は、今は存在しないようだ。


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●鋳鉄製の天水桶の奉納は「信徒一同 納之」であったが、「大正14年(1925)9月吉日」製だ。石の台座には、多くの寄進者名が刻まれているが、本体の大きさは口径Φ770、高さは680ミリとなっている。

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黒サビ(後95項)で安定しているとは言えひどいサビだ、手入れが必要な時期に来ていよう。銘が無く作者不明の1対だが、私見ながら、造立時期や額縁の雷紋様(後116項)などのデザインからして、この天水桶は、川口鋳物師・山﨑寅蔵(前20項など)の作例ではなかろうか。

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正面の紋章は柘榴(ざくろ)の実の意匠だ。上部が広がっているのは、実がはぜている様の表現であろう。柘榴には、たくさんの小さな実が詰まっているが、そこに子孫繁栄を当てはめ縁起のよい果物とされる。その意味でここの「安産信仰」へとつながるのだろうが、何気ない紋章にも深い意味があるのだ。鬼子母神系統の寺社では、この紋様がよく見られるが、前2項後128項もご覧いただきたい。

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●千葉県柏市柏の、曹洞宗戸張山長全寺。天正3年(1575)に曹洞宗寺院として開山したあと、15世紀以来この地で勢力を誇っていた戸張氏の菩提寺として栄えてきた。本堂前には青銅製の天水桶があり、「昭和49年(1974) 新盆供養」に奉納されているが、この時同時に、開創4百年を記念して仁王門が落慶されている。仁王尊像と四天王尊像は、東京浅草の翠雲堂さん(前59項)の謹製であったが、この天水桶も同社によるものかも知れない。

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境内には、昭和43年(1968)10月27日に落慶した、この寺の鎮守である金毘羅大権現さまが祀られていて、そこに六角形の天水桶1対がある。珍しい形状ではあるが、モチーフは蓮華であろう。「昭和40年(1965)5月吉日 奉納 立澤平吉」銘で、鋳鉄製だ。

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堂の大きさに比して大きめな天水桶だが、菊の紋章が重厚感に華を添えていよう。しかし、落慶前の日付である事や金毘羅様と菊紋が不釣り合いな事から、本来は、昭和41年(1966)に竣工された本堂前にあったのかも知れない。他に刻まれた文字はなく、鋳造者は不明だ。

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●文京区大塚の神齢山悉地院大聖護国寺は、5代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院によって天和元年(1681)に創建されている。寺領1200石の御朱印状を拝領した、真言宗豊山派の大本山だ。ここには、桂昌院が乗っていた駕籠も現存する。仁王門や奉納された絵馬の日付も、多くは元禄時代(1688~)のものだが、時の権威者に庇護されてきた寺だけに、戦時の金属供出(前3項)を逃れた鋳造物も多い。


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堂宇前の2基の青銅製灯籠は、「貞享2年(1685)初夏吉祥日 鋳工師 西宮四郎兵衛」銘だ。香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」によれば、この人は神田鍛冶町2丁目住で「常重」を名乗っていたが、「新宿区河田町・正覚山月桂寺(後126項) 梵鐘 元禄3年(1690)」など3例の作品しか記載されておらず、1代限りの鋳物師であったかも知れない。

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なお、後129項では、「埼玉県熊谷市三ケ尻・少間山龍泉寺」で、「正徳3年(1713)季春穀旦 江戸神田住 西宮大和 同 武兵衛金廣作」銘の梵鐘を見ている。西宮家と同系統の鋳物師と思われる鋳造物だ。

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●階段の銅製擬宝珠は、「元禄10年(1697)6月吉日 御錺師 松井弥七郎」作だが、創建後間もない時期の鋳造物が普通に遺っている。銘は達筆な文字で刻まれているが、直径Φ280、高さは650ミリとなっている。

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梵鐘は、「天和2年(1682)9月吉祥日 宇田川藤四郎 藤原次重」作(後127項)で、やはり江戸鋳物師だが、「従四位下 備前守 源性牧野氏成貞 朝臣」の奉納だ。成貞は、5代綱吉の治世下の天和元年(1681)、幕府初の側用人に任じられている。その後、下総関宿藩に移封され5万3千石を領し、この官位を下賜されている。

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●不老門への階段の下にあるハス型の「手洗水盤」には陰刻が一切無いが、先の日本鋳工史稿によれば、「元禄10年 音羽護国寺 蓮葉水盤1対 椎名伊豫(いよ)作」だ。伊豫は、「予州」だが愛媛県全域にあたる。椎名家の初代は「伊予守 吉次(後107項)」で、その作例から16世紀後期以降に活動した鋳物師であった。造立時期からすると、ここの椎名伊豫は「伊予守 良寛」であろうか。

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直径は1.5m、高さは1.1mほどでかなり大きな手水盤だが、これが2基1対もある。説明板によれば、「桂昌院殿一位尼公」の寄進という。よく見ると本体にカバーが被さっていて、その底部から水が湧き出ている。現在は水道水のようだが、かつては境内の湧水を利用した自噴式であったという。

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天保期(1830~)の「江戸名所図会」を見ると、本堂前には、手桶を載せた巨大そうな木製と思われる天水桶もあったようだ。広大な境内の中には、上述の銅灯籠やこの手水舎が存在し描かれているのを確認できる。造立後300年以上を経た今でもそれらを見ることができるのは、実に感慨深い。

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●境内にある大師堂は、区指定の文化財だが、堂宇前の説明板によれば、高祖弘法大師、宗祖興教大師、派祖本覚大師の三尊が安置されている。元禄14年(1701)に建立された旧薬師堂を、大正15年(1926)に修理して移建したものだ。祖師尊像前には護摩壇が築かれ、護摩法が修されるという。

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ここに、鋳出し文字や絵柄が鮮明な鋳鉄製の天水桶1対があるが、裏側には奉納者銘として、「護国寺 大師講」と大きく陽鋳造されている。センターにある紋様は、密教で用いる仏具の一種の三鈷杵(さんこしょ)だが、ここでは2つが十字形に描かれている。先端の刃がフォークのように3本に分かれているこの法具は金剛杵の内の1種だが、仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心(悟りを求める心)を表す様を、インド神話上の武器に譬えて法具としたものだ。

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●銘は「武州川口町 ○二(社章) 田中鋳工所製 印影 大正15年(1926)7月吉日」で、鮮明な文字が心地いい。田中製の天水桶は、本サイトでは8例ほどをアップしているが、前6項に全てのリンクを貼ってある。

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年代的には、この他には「北区赤羽西・獅子吼山善徳寺 武州川口町 ○二 田中鋳工所製(印影) 大正15年11月」から「荒川区荒川・清瀧山観音寺 川口市 ○二 田中鋳工所(印影) 昭和10年(1935)2月」までで、ほぼ全てに社章や印影が鋳出されていたが、ここのは最古のものだ。

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●昭和16年(1941)当時の、川口鋳物工業組合員名簿を見てみよう。一番右だが、○で囲まれた「二」という同じ社章を確認できるので、ここでの鋳造だ。当時の代表者は、「川口市栄町一丁目 田中敬一」であった。

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さらに、当時の同社の広告を見てみよう。同じ社章があるし、「水盤」という呼び方をしているが、天水桶の鋳造も行っていた。大々的に、角型と花弁形の2枚の写真を載せているあたりからして、主力の製品でもあったようだ。あるいは、風呂釜や火鉢の写真も見えるが、後81項では、他にも同社の広告を見ているのでご参照いただきたい。

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●東武線北千住駅の南側にある、足立区千住仲町の仲町氷川神社に、興味深い天水桶が存在した。ここは、スサノオノミコトを祭神とし、社伝によれば、元和2年(1616)の遷座という。背面に青海波とトンボの紋様が鋳出されている、天保9年(1838)銘の四神文鏡など、多くの有形文化財を寺宝としている。

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ここの天水桶は、2基共に3個の鋳鉄製の手桶が載っていて、「鋳物師 永瀬清秀 明治8年(1875)9月 雪江敬書」と鋳出されている。鋳鉄製の1対だが、口径はΦ1.050、高さは900ミリだ。初めて出会う、この「鋳物師 永瀬清秀」は誰であろう。

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●過去に見てきたように、川口鋳物師の中に、寛政13年(1801)生まれの本家4代目の永瀬宇之七がいた。これまでに出会った天水桶は、「品川区南品川・普海山心海寺(前15項) 安政2年(1855)年4月」、「品川区東品川・寄木神社(前37項) 元治元年(1864)5月」であった。

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次の画像は、4代目が受けたと思われる「鋳物師職之事以由緒」だが、「武蔵国足立郡川口宿 鋳物師 永瀬卯之七」宛てだ。「天保4年(1833)11月」付であったが、彼は、「藤原政吉」を拝命していたようだ。

永瀬卯之七・許可状

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●宇之七の5男は、弘化3年(1846)生まれの永瀬留十郎であるが、父親死後の明治4年(1871)に分家して、現代にまで続く「(株)永瀬留十郎工場」を興している。当時、親元が「信屋(しんや)」という屋号であったため、「信留(しんとめ)さん」と呼ばれたという。

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昭和16年(1941)当時の社章は下の画像の意匠で、社長は「永瀬政夫」として記載されている。現会長までは、「留十郎」を襲名したようで、今は「人が鋳物を作り、鋳物が人を造ります」を社のキャッチコピーとして、山形県鶴岡市でも第2工場を展開している。

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本家5代目は、長男の宇之助が「宇之七」を襲名したが、勅許鋳物師として、藤原姓(前13項)を賜り「藤原清秀」名を名乗っている。京都の鋳物師総括の真継家(前40項)傘下において、鋳造営業権を保障されていた訳だ。従ってこの天水桶は、4代目宇之七の没後の6年後に、「5代目 永瀬宇之七 藤原清秀」が鋳造したのだ。貴重な1対に出会えて感激である。

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●明治時代には、豪華な鋳鉄製の柵で屋敷を囲うことで、そのステータスを誇ったという話を聞いたことがあるが、ここの社殿のぐるりを取り巻く門柱や鉄柵もそんな趣向だろうか。かつてこの工場では、明治以降の建築の西洋化に伴い、門扉や鉄柵鋳造を主流にしていた時期があったようで、明治23年(1890)の第3回内国博覧会にそれらを出品し、褒状を受けている。この門柱や鉄柵も、あるいは永瀬家の鋳造かも知れない。(後103項参照)

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手桶は苔むしていて味わい深いが、大きさは口径も高さも300ミリほどの1尺サイズだ。これを保護する三角形の屋根が無いのが残念だが、正面には三つ巴紋が座っている。「若田正浩 内田幸介 高松理一」らが奉納者だが、本体と同時期に鋳造されたのであろう。

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●さらにここの境内で、興味津々な鋳鉄製の1基に出会った。木の根元で、地中深く埋没した鉄枠を発掘したのだ。最もこの存在は、少なくとも昭和50年ごろ(1975)には、既に知られていたようだ。露出している上部の直径はΦ950ミリ、3尺なので、高さもそれくらいはあろうから、6割近くが見えていない。

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あるいは、下部は損壊し存在しないのかも知れないが、正面のかなり上の位置で読める文字は「御供水・・」だ。これは本体の下方部分が土中に埋められる運命にある井戸側(前3項前64項後81項後98項後101項後116項)のようだ。画像は、都内文京区本郷の東京都水道歴史館で見た井戸端の情景の模型。

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●しかし今は、焼却炉として利用されているようで、中には燃えカスが残っている。裏に廻って可能な限り掘り下げてみると、読める文字は、「鳥・・」と「明治13年(1880)」だけだ。しかし、全ての鋳出し文字が上部に集中している。その事が、これが井戸側である証左だ。

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そして、有り難いことに「川口・・」だけは鮮明だ。上の額縁から10cm下の位置で、その下にも文字が続いているようだが、摩滅していて判読不能だ。川口鋳物師が手掛けた井戸側に違いあるまいが、全体を掘り出したい衝動に駆られる鋳物だ。いつの日にか確認したくて仕方ない。つづく。