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●今回は、お寺さんの僧侶、お坊さんの話をしてみよう。まず「お坊さん」、「坊主」という呼びはどういう意味であろうか。「坊」は、僧侶の住居や大寺院に属する小さな寺をいうが、そこを管理する「一坊の主人」が転じたものだ。僧侶に対して敬って呼びかける語が「御坊」、参拝者の宿泊施設は「宿坊」だが、「坊」はその宿の主だ。

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お寺を管理する僧侶を「住職」とも呼ぶが、仏法を守護する人の事で、日蓮宗でいう聖人(上人)も住職を指している。若い僧侶を「小僧」、年配の僧侶を「和尚」と呼ぶのも耳慣れているが、後者は、元々、人に説法する先生・師匠だ。密教系宗派では、高僧を「阿闍梨(あじゃり)」と呼ぶが、現代では修行を終え、宗派が認定する資格を有する職業としての呼称だという。

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●多くの宗派では、僧階のトップは「大僧正」と呼ばれる。僧侶の僧階を見分けるには法衣の色を見ればいい。真言宗で言えば、新人は黄色、律師は浅黄色か水色、僧都は緑色か萌黄色、僧正は紫色、大僧正は緋色だ。緋色は、やや黄色みのある鮮やかな赤色だ。

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ところで僧侶や尼僧は、なぜ剃髪するのだろうか。古代インドの仏道修行者は、剃髪しなければ入門ができなかったという。これは、俗世界から聖世界へ行くための通過儀礼で、坊主頭にする最たる理由は、煩悩の切り捨てであった。日々伸びていく頭髪を、絶え間なく刻々と湧出てくる煩悩の象徴と捉えている。だから剃髪なのだ。

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●さて埼玉県川越市で見た天水桶を見てみよう。観光地が少ないと言われる埼玉県にあって、常に三指に入るところが、小江戸川越だ。人口は35万人で、さいたま市、川口市(前81項後100項など)に次いで第3位となっている。

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地名の由来は、例えば画像の市内元町の曹洞宗、青龍山養寿院(後127項)の、「文応元年(1260)11月」の銅鐘銘(国指定重要文化財)には「武蔵国河肥庄 新日吉山王宮 奉鋳推鐘一口」とあり、「河肥」の呼びは、入間川の氾濫による肥沃な土地柄であったからだという。なおこの銅鐘は、一般には公開されていない。

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都心からも近く、蔵造りの街並みを散策すれば、江戸情緒を堪能できる。歴史ある町だから寺社仏閣も多い訳で、天水桶を見て回る散策も期待一杯だ。案の定、川口鋳物師達の桶にも多く出会えたので、早速見てみよう。なお画像の、この街の象徴たる「時の鐘」に関しては、前65項で解析、あるいは、川越の鋳物師らに関しては、前89項前92項などでも登場している。

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●最初の川越市喜多町の曹洞宗広済寺は、青鷹山慈眼院と号している。河越夜戦の2年後の天文17年(1548)に、後北条氏の川越城代になった大道寺駿河守政繁が建立したという。この夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏の3者の連合軍が、武蔵国河越城付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いだ。境内には、歯痛に霊験あらたかな「あごなし地蔵」があるが、実際、お地蔵さんの「あご」は欠落している。

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1基の鋳鉄製の丸い桶は、現在は、線香の火付け台として利用されている。大きさは口径Φ800、高さは750ミリほどだ。この建屋は元々は井戸場であった様に思えるが、この鋳造物は元天水桶ではなく、井戸の穴を囲う井戸側ではなかろうか。上部が下部より小さい口径であるのがその証左で、最下部には縁取りがあるが、底板は存在しないのだろう。つまり筒抜けのパイプ状の丸い枠だ。

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都内文京区本郷の東京都水道歴史館の井戸端の模型を見ると一目瞭然だが、井戸側とは、人の転落を防止したり、土砂が井戸の中に崩れ落ちるのを防ぐために、地上部分に設けた囲いなのだ。なお井戸側は、前3項前64項前68項前81項後101項後116項でも登場しているので、ご覧いただきたい。

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●紋章はあまり見かけないもので、「丸に釘抜き紋」だ。現代のものではなく、昔の釘抜きの台座をデザインしたものだという。「苦を抜く」に通じ、武家に好まれたようで、戦国時代では、三好長慶、堀秀政らが使用していた。

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鋳出しの銘は、「矢澤四郎右衛門 大正2年(1913)9月」と鋳出されているが、当サイトで同氏の作例に出会うのは6例目で、明治45年(1912)から、昭和5年(1930)の期間だ。川越を代表する鋳物師であるが、人となりについては、前36項前46項前64項前92項後118項でも紹介済み。

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●川越市新富町の浄土宗佛名山西雲寺には、富山県高岡市の巨匠、老子次右衛門(前8項前93項など)の青銅製の天水桶1対がある。「当山檀信徒一同」の寄進で、開山した、「般舟三昧院西雲法師 350年遠忌記念」として、「平成12年(2000)7月吉日 第25世 心誉円道」の時世に奉納されている。逆算すると、慶安3年、西暦1650年頃で、江戸幕府第3代将軍家光の晩年であった。

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すっきりしたデザインだが、浮き出た葉脈がいいアクセントだ。紋章はかなりアレンジされているようで、「半丸に変わり抱き茗荷」とでも呼べようか。家紋は、菊や葵紋など特別なものを除けば、使用に特別な制限は無かったようで、何種類使おうが、創作しようが自由であった。呼称も独自でよかろう。

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●川越市鴨田の天台宗、星光山新善光寺一乗法華教院は、鎌倉時代の永仁4年(1296)に尊海僧正によって開山されている。境内の説明文によれば、本尊は、「一光三尊阿弥陀如来」で、第89代後深草天皇によって48体鋳造された金仏の中の1つで、長野県の善光寺(後122項)と同一だという。

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どこか目を引く1対の青銅製天水桶だが、蓮華の花弁の枚数が3枚で、珍しいデザインなのだ。大きさは口径Φ1.340ミリ、高さは1.1mと大きい。紋章は天台宗紋の「十六菊に三つ星」で、「星」は、三諦星(さんたいせい)とも言われる天台宗の中心教義だが、それが図案化されているのだ。葉脈との構成も見事で、互いが映えている。

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陽鋳造された銘は、「鋳物師 鈴木文吾 平成8年(1996)11月吉日」で、昭和39年(1964)の東京オリンピックの聖火台(前26項後132項など)を鋳造した川口鋳物師だ。「開山七百年記念」で、檀信徒が奉納している。人物などについては、前3項前71項などをご参照いただきたい。

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●川越市南大塚には天台宗、木宮山地蔵院西福寺があるが、室町期以前の創建とされている。掲示板によれば、2、3世紀前から続く「南大塚の餅つき踊り」は地域の無形民俗文化財であるが、そのつき方に合わせた歌や身振り手振りが芸能となった、祝いの行事であるという。

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お洒落なゴミ除けカバーと豪華な台座がお似合いだが、次の画像は本殿に向かって左側にある天水桶で、その下の画像はその反対側。ここも天台宗紋で、先のものに酷似しているが、花びらが塗りつぶされていないから、「陰十六菊に三つ星」とでも言えようか。

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●堂宇前の左右の桶の画像を並べてみた訳だが、それには理由がある。デザインの微妙な違いにお気付きであろうか。宗紋の真上に見られるのは「雲」で、互いに相向き合いぶつかり合うよう、対称に配置されているのだが、何故だろう。

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本来、天水桶は降雨を願うもので、雲を呼ぶべくデザインされる事があるが、左右に向い合わせて対決させる事で、それを表現しているのだ。同じ向きにすれば、手数も少なく、早く安く製造できようが、そこにも作者のこだわりがあったのだ。同じ例は沢山あるが、前5項の最後で見た、川口市金山町の金山神社の桶も全く同じであった。


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●大きさは口径Φ940ミリ、高さは1mほどとなっていて、銘は「鋳物師 鈴木文吾 昭和63年(1988)8月吉祥日」、「23世 円準代」の時世で檀家の奉納だ。同氏作の、青銅製で樽型の天水桶は、当サイトでは17例を見ている。先ほど見た、青銅製の蓮の花弁型は8例だから、樽型の方が多いのだ。

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ところで、文吾は、桶の口径を「1」としたとき、高さを「0.8」の比率で成型している。調和のとれた美しい、いわゆる、黄金比的な意味合いを意識していたのだ。なるほど、重心位置が下目に感じられ、安定している。

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また、中央の丸い紋様は、横長になるよう、わずかに楕円に鋳造されており、製品になった時の安定感に寄与していて、ここにもこだわりがあったのだ。文吾にとって、天水桶は主役ではないが、堂宇の顔の一部なのだ。
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●次の川越市小仙波町の緇田山光西寺は、浄土真宗本願寺派だ。掲示板によれば、寺は、永禄9年(1566)に石州浜田(島根県浜田市)に建立された事に始まっている。天保7年(1836)には、日本海の竹島を根拠地とした密貿易が発覚した。

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徳川家の親藩の故をもって重臣の切腹などで減刑、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるに留まっている。その後、明治維新に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明さを重視し、老中職に任じ川越城主に転封、慶応2年(1866)10月、光西寺も家臣と共に川越に転地している。

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●センターのこれは、「五七桐」と言われる寺紋だ。紋の上側両サイドには5枚、真ん中には7枚の花が描かれているからこの呼称がある。桐は、古代中国の神話に出てくる鳳凰が止まる神聖な木とされ、皇室のみが使用できる格式ある紋章であった。

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戦国期に豊臣秀吉らも使用していたが、ここは本願寺派だ、第8世蓮如法主や11世顕如法主が使用していた事との関連であろう。ネットで「内閣官房内閣広報室」のサイトをご覧いただくと、左上の目立つ位置に日の丸の国旗とこの五七桐紋が見られる。

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皇室を表す「十六八重菊」に準じる副紋として、パスポートなどの書類や硬貨、賞杯や官邸の備品などの装飾にも使われているが、日本国憲法下の日本政府はこの紋章を用いているのだ。テレビで日々目にする総理の演台にも見られるが、お気付きであろうか。(前50項も参照)


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●もう1基のこちらは「下り藤」の紋章となっている。藤原北家の嫡流、九条家が使用した「九条藤」そのものだが、浜田藩の家紋ではなさそうだ。元来、本願寺派の宗紋はその時代によって違い、「下り藤」であったり、「五七桐」であったりするのだが、その流れであろう。

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天水桶の大きさは口径Φ1.070、本体の高さは980、台座の高さは290ミリとなっている。鋳出し銘は、「昭和48年(1973)8月吉日 川口市 山崎甚五兵衛(前1項前41項後132項など)」で、「檀徒一同 住職 近藤鉄城」の時世での奉納だ。鮮明な鋳出し文字だが、これは青銅製の1対で、当サイトで見る同氏作の蓮華型は珍しく5例目、樽型などは11例だ。

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●川越市連雀町の孤峰山宝池院蓮馨寺(れんけいじ)は、市の案内板によれば、「天文18年(1549)、時の川越城主大導寺駿河守政繁が母の蓮馨尼を追福するために、感誉上人を招いて開山した浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来である。慶長7年(1602)、浄土宗関東十八檀林の制が設けられると、この寺もその一つに列せられ、葵の紋所が許されるなど檀林(僧侶の大学)として栄えた」という。

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確かに、入口の石柱にも「壇林」とあるが、寺領20石を拝領した御朱印寺だ。近くには茶屋などもあり、一観光地内にあってどこかにぎやかな堂宇前だが、鐘楼塔に掛かる銅鐘は、市指定の文化財で江戸期のものだ。かつて境内にあった浴場は、「八つ(午後3時)の鐘」を合図に庶民に解放していたというが、この鐘は「元禄時代の梵鐘」として今も時を告げている。

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●刻まれている銘は、「元禄八乙亥年(1695)夏五月十八日 鋳工 木村将監」だが、前52項後105項でも登場している「木村将監安継」だ。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」をみてみよう。

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すると、現存しないようだが、「浅草蔵前八幡宮 銅鐘 元禄2年(1689)12月」など5例の記載がある。活動拠点地の「紀州粉河住」を刻み、肩書としては「御鋳物師 冶工」などを名乗っている。多くの作例に出身地に因んだ「粉川姓」を刻んでいるが、本名の「木村姓」を名乗っている例の現存は貴重だ。

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●天水桶は、載っている屋根とのバランスも良くいい見映えで、充分に目を引く鋳鉄製の1対だ。御朱印寺だけに、徳川家の「三つ葉葵」の存在にもうなづける。「蓮馨寺47世 諦誉上人代」の時世に檀家が奉納しているが、鉄輪のタガで絞められた1尺ほどの手桶は木製で、「川越中央商店振興会」が奉納している。

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大きさは口径Φ980、高さは1.150ミリほどとなっていて、鋳出しの銘は「平成4年(1992)5月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」で、同氏の晩年の作例だ。同じ年月に鋳造された桶は、埼玉県戸田市の笹目神社にあって、前84項で登場しているが、同じ木型を使用しているのであろう、全く同じデザインだ。明治44年(1911)1月10日生まれの甚五兵衛は、翌平成5年5月12日午前4時16分、肺炎のため82才で急逝している。

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●川越市小仙波町にあるのが、星野山無量寿寺だが、川越大師喜多院(前53項)と呼ぶ方が一般的だ。慶長17年(1612)に天海僧正が住職となり、寺領4.8万坪、500石を拝領した御朱印寺だ。

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寛永15年(1638)におきた川越大火後の再興に際し、江戸城から客殿や書院を移築していて、「家光誕生の間」、「春日局化粧の間」が現存し、見学できる。慈恵堂の横には御神木が見えるが、徳川家康のブレーンであった天海僧正お手植えの槇(まき)の木で、樹齢は350年という。天海は、慶長4年(1599)に、第27世住職として入寺している。

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前53項では、川口市立文化財センター分館の郷土資料館で、ここの国指定重要文化財である梵鐘のレプリカを見ている。本物は、ここ喜多院の本堂に掛かっているが、除夜の鐘を撞く日にのみ、その音色を聞く事ができるという。

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その拓本は、「正安二年(1300)庚子三月十八日 沙弥慶願 大工 源景恒」、「武蔵国足立郡鳩井郷(川口市鳩ケ谷) 筥崎山(はこ・箱崎山) 依悲母命奉鋳之」だ。「慈悲深い母の命により、これを鋳て奉納する」だが、川口市との由緒が垣間見られる。

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●堂宇右側の階段の脇に、1基の鋳鉄製の桶が存在する。これには鋳出し文字が無いが、元は天水桶であろうか。大きさは口径Φ770、高さは680ミリで、肉厚は薄く大きなバケツという印象を受けるが、現役で活躍中だ。古びてはいるが、ペンキで書かれたような文字は、「昭和2年(1928)3月」と読める。どうやら戦時の金属供出(前3項)を逃れたようだ。

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堂宇の両サイドには1対の青銅製の天水桶がある。大きさは口径Φ880、高さは1.140ミリだが、ここの大きな社殿にしては少し小さ目で、どうにも不釣り合いだ。「昭和50年(1975)11月吉祥 東京 翠雲堂(前59項) 謹製 本堂大修繕記念」での奉納であった。

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正面に大きな「丸に二つ引き両」の紋章が際立っているが、これがここの寺紋だ。建屋の瓦や賽銭箱、香炉など、いたるところに表示されているが、この紋は、足利家の家紋として知られている。源氏の流れをくむとされる家康だが、そのブレーンであった天海僧正は、一説には足利家の末裔であったともいう。つづく。