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●最近の週末は割と好天に恵まれている。新たな天水桶との出会いを求めて、新宿から、荒川都電線、さくらトラムの面影橋あたりまでのコースを散策した。早朝の空気は爽快そのもの、始発バスで出発。夜通しで遊んだ人達であろうか、こんな時間でも雑踏している新宿駅から歩くこと5分。

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新宿区新宿の花園稲荷神社に到着。「明治時代に始まった酉の市は、大鳥神社の祭神である日本武尊が東夷征伐の戦勝祈願をし、お礼参りをしたことにちなみ、日本武尊の命日である11月の酉の日に行われるようになりました。商売繁盛の熊手を売る露店商のにぎやかな声は、師走を迎える街に欠かせない風物詩」という。(ホムペより)

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●幕府から拝領した現在地は、徳川御三家、尾張藩下屋敷の庭の一部だ。たくさんの花が咲き乱れていたようで、その花園にちなんだのが社名の由来だと言う。参詣後、御朱印をいただいた。

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境内にある芸能浅間神社には、「藤圭子」、「コロッケ」ら有名芸能人の名前がズラリと列挙されている。同地は、江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲などの芸能関係者の奉納が多いことで有名だ。

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●青銅製の天水桶1対は、「平成2年(1990)11月吉日 御大典記念」に、「浅草 南部屋五郎右衛門」氏が納めているが、鋳造者名は鋳出されていない。正面には、3種類の紋章がある。上にある稲荷社の象徴の「抱き稲」は、あたかも「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のようだ。下の2つは、龍神信仰による防火祈念の水呼び役の「左流れの三つ巴」と、長寿の象徴である「鶴の丸」だ。

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多くの寄進者名が、陽鋳表示で並んでいる。青銅製の場合、かつては、銘は陰刻されるのが普通であった。つまり桶の鋳造後に、職人がノミなどで彫り込む訳で、凹文字となるのだ。この方が、全体のコストとしては安価だったのであろうが、納入までには更に時間を要したであろう。また、陰刻は一発勝負、ミスれば修正は面倒だ。

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この天水桶のように凸文字にするとなると、鋳型に裏返しの鏡文字を彫り込む必要があり、手間が掛かる分コスト高となろう。しかし、現代の技術では、人ではなく工作機械が埋め型(後81項)の文字彫りをする事もあり、逆に安価になるようだ。文字の配列は美麗だし、鋳造終了イコール完成品だから、短納期で納入できるだろう。さらにこの場合、鋳造前に良く確認さえすれば、誤植という事態は避けられる。

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●大江戸線の若松河田駅に向かうが、途中の新宿区新宿に、西向(にしむき)天神社がある。古来より東大久保村の鎮守で、安貞2年(1228)、栂尾明恵上人の創建とされる。社名は、菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したため、そちらへ向け社殿を西向きに造ったために呼び慣らわされてきたらしい。2本の御神木に守られ、灯籠と狛犬各1対を備えているが、バランスの良い風景だ。

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ここの天水桶は、「明治45年(1912)5月」で、ちょうど百歳だがまだまだ現役、威風堂々としていて存在を主張している。程良い感じのサビ具合で、損壊も無く良好な鋳鉄製の1対だが、寺紋は当然、梅紋だ。裏側には、講であろうか、「有信会」の多くの人々の名が並んでいる。

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鋳造者銘は、1基には「川越町 矢澤鑄工所 矢澤弥十郎作」、もう1基には「川越町 矢澤鑄工所 田中喜次郎作」と鮮明に浮き出ている。川越の御用鋳物師と言えば、小川家とこの矢澤家(後46項後64項後92項後98項後118項)が両巨頭だが、その系統であろうか。

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●余談かも知れないが、この天水桶鋳造の19年後の広告がある。昭和6年(1931)だが、ただし、住所は「埼玉県北足立郡川口町」だ。「矢澤鑄工所」だから、桶の銘と同名の会社で、「販売所 矢澤商店 東京市浅草區(区)蔵前片町」とも記載されている。「農具機・玩具鑄物製造」を謳い、製品として「六大学マーク入ボールベイ 英字ベイ」とあるが、ベーゴマ(前30項)の事だろう。

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また、写真入りで「大形川口ピストル 大爆弾 昭和チン独楽」ともあり、鋳鉄製の玩具の鋳造を売りにしていたようだ。昭和12年の、400社近い登録がある「川口商工人名録」を見ると、「川口町本町三丁目 矢澤鑄工所 矢澤龍吉郎」で、「煙草機械 切断機 諸機械」を営業品目に挙げている。

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●更に2年後の昭和8年の次の広告は、市制施行後だから「川口市栄町三丁目」で、「合資会社 矢澤鑄工所 代表者 矢澤茂左衛門」だ。名簿にもこの通りの記載があり、別会社だが同名の会社だ。両社の関係は不明だが、同じく、「農具・玩具類鑄物」を取り扱っていたようだし、本家分家の関係だろうか。しかし、いずれも川越町では無い。桶の鋳造後、約20年の間に、矢澤家は隆盛を極めていた川口の地に移転したのであろうか。

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しかし昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」によれば、「矢澤鑄工所 矢澤茂左衛門」の項に、「通称蔵屋敷、野崎長太郎氏の三男が分家し矢澤家を起こせる・・ その子長次郎氏襲名して現主となる。創業は、本町三丁目にて・・」とある。

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野崎氏の出自は不明だが、川越の矢澤鑄工所と川口の矢澤鑄工所は、全く無関係かも知れない。なお茂左衛門は、「工場建物420坪を有し、従業員40余名にして、年生産能力7、8万円以上を数へて居る」からそこそこ大きな企業であった。

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●同じく新宿区新宿だが、すぐ近くに日蓮宗春時山法善寺がある。ここには「新宿山之手七福神」の1つで、寿老人が安置されている。また、像高30cmの木造「七面明神像」は区指定の文化財だが、日蓮宗の守護神の1つだ。これは、大田区池上の長栄山池上本門寺(前22項)に帰依していた鳥取城主の松平(池田)伯耆守綱清から献上されたもので、法華宗独特の七面信仰江戸進出の最初のものだという。

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綱清は、因幡鳥取藩の第2代藩主で、鳥取藩池田家宗家4代目だ。姫路城を今に見る姿に修築したことで知られる池田輝政より1字を取って、当初は輝高(てるたか)を名乗っている。明暦3年(1657)、第4代将軍徳川家綱に御目見し、寛文元年(1661)には将軍の面前で元服を行い、そして家綱の「綱」の1字の偏諱を受けて綱清に改名している。

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天水桶は、ちょっと派手で手の込んだ導水パイプが目を引くが、「宗祖第七百遠忌記念事業協賛」として「檀家中」が奉納している。鋳肌は梨地基調で味わいがある。この1対は、「昭和56年(1981) 川口市 山崎甚五兵衛」鋳造の青銅製だが、散策中に出会える頻度ナンバー1の桶だ。この鋳物師については、前1項後41項後84項などもご参照いただきたい。

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●さらに若松河田駅に近づくと、新宿区余丁町に、出世稲荷神社がある。長禄元年(1457)に、江戸城築城で知られる太田道潅(後89項)が創建したといわれるが、通常は、東向きか南向きに建てられる社殿が、なぜか北向きに立てられている。

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ここの1対は、「埼玉県川口町 山﨑寅蔵作 昭和6年(1931)4月吉日」銘だ。丁寧な塗装と凝ったフタを見れば、かなり大切に扱われているのが判る。神社は、昭和20年(1945)の戦災で、社殿その他の一切を全焼させているが、この鋳鉄製天水桶は逃れ永らえている。貴重な天水桶なのだ。

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「余丁町々会」の世話人4人が奉納していて、山﨑寅蔵は先の山崎甚五兵衛の実父にして先代さんだが、人物の詳細などは前20項などを、また、後69項後70項では特集を組んでいるのでご参照いただきたい。

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●駅を超え荒川都電の面影橋駅方面に向かうが、近辺には早大の戸山キャンパスがあるため、休日でもやたらと学生が多い。夏目坂通を北上するが、坂の名の由来は画像のとおり、ここは、夏目漱石(慶応3年・1867~大正5年・1916)誕生の地なのだ。

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漱石は、日本の小説家、英文学者、俳人で、俳号は愚陀仏だ。近代日本文学の頂点に立つ作家の1人で、代表作は「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」、「三四郎」などだ。明治の文豪として、千円紙幣の肖像にもなっているので馴染み深い。

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坂といっても緩やかだが、途中に日蓮宗、本妙山感通寺がある。新宿区喜久井町だが、この地は、松平越後守の下屋敷高田御殿の跡という。寂陽院日建上人が開山となり、寛永7年(1630)に創建していて、安房国の千葉県鴨川市小湊の小湊山誕生寺(後90項)の末寺だ。

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●鋳鉄製の天水桶1対の内の1基は、本堂前にある。植込みの中だが、導水パイプが備わっていて、現役を続行中だ。大きさは、高さは丁度1メートル、口径Φ1.060ミリの3.5尺サイズであり存在感がある。檀家による「両親菩提」供養のための奉納であったが、白い塗装で浮き出た日蓮宗の井桁に橘紋が印象的だ。この紋は、本体と一体では無く、別鋳造品を鋳ぐるみしたようだ。

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この1対も、川口鋳物師の作だ。銘は、「御鋳物師 川口住 永瀬源内 藤原富廣 天保八丁酉歳(1837)七月廿八日(28日)納之」とある。江戸期の名工、源内作の桶に出会うのはここで12例目だ。人物については、前14項には全てのリンク先を貼ってあるが、前28項後55項などもご参照いただきたい。

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●もう1基は、毘沙門天堂の前にある。寺によれば、「当寺安置の毘沙門天の霊像は、越後上杉謙信公が深くこの霊像を尊敬し相伝され、謙信公が天正六年(1578)に卒すると共に奥州米沢の城に遷座されました。

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徳川将軍の時代となり、髙田様入府の折、かの霊像を越後少将松平忠輝公・その御母君により当寺に勧請したとされています」という。銘には人為的に削ぎ落された様な痕跡があるが、「天保八丁酉歳(1837)九月二十一日」のようだ。この約2ケ月の時間差は、鋳損じなどによる再鋳であろうか。

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ここ宛てに鋳造された天水桶の履歴を見てみると、「大正11年(1922)10月 磐城平町 工藤源吉 造」という天水桶が存在したようだ。磐城平町は、現在の福島県いわき市だ。明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「陸奥 磐前」の欄を見ても、記載されている鋳物師は「椎名浅右衛門」だけで、工藤姓は登場しない。不明な鋳物師だが、遠いこの地に何かの縁があったのだろうか。

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●早稲田通りを北西に向かうと、新宿区西早稲田に穴八幡宮がある。ここは前13項前19項で紹介したが、2名による2対4基の川口鋳物師作の天水桶がある。鮮やかな朱色の山門を見ながら今回は通過だ。

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面影橋駅の近くの新宿区西早稲田に、水稲荷神社がある。元禄15年(1702)に、 神木のムクの木の根元より霊水が湧きだし、それが眼病に利くとして評判となり、火難退散の神託が下ったことからこの名称に改名したという。眼病のほか水商売、および消防の神様としても有名なようだ。

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●社殿の正面からは確認できないが、横側の左右に1基づつ、1対の鋳鉄製天水桶があり、「南葛飾郡金町」の人が奉納している。大きさは口径Φ980、高さは820ミリだが、額縁を廻っている文字は、石の台座にある「三番組」であろうか。

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銘は「川口町 中島鋳工所 昭和3年(1928)9月吉日」とあるが、輪郭がかなり鮮明だ。中島銘の桶とは初対面だが、企業の概要や現況などは不明。昭和12年(1937)刊行の「川口商工人名録」の「鋳物製造」部門は、400社近い登録がある名簿だが、ここにも登場しない。なお、後46項後64項にも中島銘が登場しているので、ご参照いただきたい。

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●同駅のすぐ南側、新宿区西早稲田には、亮朝院(りょうちょういん)の七面大明神堂があるが、「七面大明神」とは、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(後121項)の守り神だ。山梨県南巨摩郡早川町には、標高1.982mの七面山があり、ここが信仰の本地という。

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画像のこれが七面大明神尊像で七面天女とも呼ばれ、日蓮宗系においては、法華経を守護するとされる女神だ。伝説によれば、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297)9月19日朝に七面大明神を勧請したと言われている。(ウィキペディアより)

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天保7年(1836)に出版された「江戸名所図会」を見てみると、左に本堂、真ん中に七面堂がある。右は朝日堂で、身延山久遠寺(後121項)11世の日朝上人(1422~1500)の像を安置している。12世の日意、13世の日伝と共に身延山中興の三師といわれる上人だ。

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●この単層入母屋造りの七面堂は、享保3年(1718)建立に建立され、 天保5年(1834)には屋根瓦の葺き替えが行われている。また、この堂宇と、嘉永3年(1850)建立の単層寄棟造りの本堂は、昭和2年(1927)に修復がなされているが、天水桶は、それを記念しての奉納であった。

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鋳鉄製の1対には、「昭和2年8月吉日」と鋳出されているが、作者は不明だ。表面には、その工事に関わった方々であろう、ペンキ職や鳶職、石工職や左官職(前15項)、材木商ら多くの職工の名前が見られる。

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●すぐ左隣が、日蓮宗で如意山栄亮寺と号する本堂だが、江戸時代初期から将軍家の祈祷所として、崇敬を集めていた。亮朝院文書、梵鐘、金剛力士像1対は、区指定の文化財だ。梵鐘には興味があるのだが、山門の上の高所に位置していて、登壇もできず、刻まれている銘を読む事は出来ない。

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区教育委員会の掲示板を読むしかないが、「江戸鋳物師の鋳造技術が極めて高かった元禄15年(1702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5cm。銘文により、浅草権兵衛が発起人となり、市谷田町講・関口講などの講中のほか、506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることが判る」というが、作者銘の情報は不明であり残念だ。

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カラーだから昭和期のものと思われるが、古写真は存在する。一時的に地上に降ろされているが、山門修復などの時であろうか。これは肩の部分がなだらかな和鐘だ。江戸鋳物師の作例に違いなかろう。

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●ここにも1対の鋳鉄製天水桶があるが、手入れが良く清々しく、金色塗りの日蓮宗の宗紋が際立っている。先の桶とは、ラーメンの丼ぶりによく見られる渦巻きの雷紋様(後116項)が無いなどシンプルで、デザインが違う。

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銘は「鋳物師 永瀬長右衛門(前24項後131項) 安政三丙辰年(1856)二月吉日」とあり、川口の永瀬家系統の鋳物師だが、この方もお初だ。京都真継家(前40項)蔵で、文政11年(1828)に記された「諸国鋳物師名寄記」の武蔵国川口宿の項には、この名が登場しているから、営業権を保護された勅許鋳物師であった。

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大正期半ばの川口市金山町の古地図をみると、川口神社(前1項)のすぐ真西に「永磯」という工場があったが、ここでの鋳造のようだ。一方、先の「川口商工人名録」にはこの登録がない。盛衰の激しいこの業界にあって、淘汰されたのであろうか。今回もまた多くの川口鋳物師の作や、お初の桶にも出会え、有意義な1日を過ごした。次回の散策も楽しみでならない。つづく。