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●全国に名を馳せる工業都市、埼玉県川口市(後100項)。 素材生成産業である鋳物鋳造業中心の街だが、幾多の変遷を経た今、面影は薄れつつある。JR川口駅の話をしてみるが、「♪汽笛一声新橋を~」で知られる鉄道唱歌は、楽しく歌いながら地理を学ぼうとする歌だ。

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明治時代の文学者の大和田建樹の作詞だが、自身が汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録であった。画像は、現在のJR新橋駅(前67項)で見られる「初代 新橋駅 明治5年(1872)」だ。

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明治33年(1900)に埼玉県版が発表されていて、その中に川口市が登場しているが、歌詞は、「荒川岸に煙突の 煙にぎはふ川口は 名高き鉄器の名産地 鳩ケ谷町は北の方」だ。鋳物砂の採取や舟運に恵まれた鋳物の町を簡潔に表現しているが、今や電化によって、煙を吐く煙突などはほぼ見られない。

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ところが、調べてみると唱歌が発表された当時、川口駅(前67項)はまだ存在していなかった。近隣で言えば、県庁所在地の浦和駅の開業は明治16年(1883)、今や要の大宮駅は同18年、蕨駅は同26年で、川口駅は同43年(1910)9月10日だ。蕨駅より17年も遅いのはなぜだろう。

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●画像は、「明治大正昭和 川口・ふるさとの想い出写真集 沼口信一」からの転載であるが、大正時代初期の「川口町駅」の様子だ。小さな売店や8角形の電話ボックスが見られるが、西口が開設されたのは、昭和4年(1929)の事らしい。

川口駅大正初期

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蕨地区の機織り業は、明治初期に、北足立郡塚越村(現蕨市)の高橋新五郎(前50項)が、織機の改良で精巧な織物を産出したのに始まっている。日本の明治期の総工業生産額に占める繊維工業の割合は、なんと5割弱を占めていて、鋳物工業の比ではなかったのだ。

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遡ると、幕末期の日本は米国ペリーの来日により開国、英国は、日本製の良質で安価なお茶葉や生糸を求めた。世界的な蚕の疫病流行もあって生産量は伸び、やがて貿易量の8割が生糸になっている。蕨市の織物業の発展は必然であった。やがて日清日露戦争の勃発によって、重工業の占める割合が急激に上昇したのは、明治時代後期で、これが川口駅開業が遅かった理由であろうが、時代背景に根差していたのだ。

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●さて、川口駅周辺(後101項後109項)を散策してみると、市内幸町のマンション、「コスモ川口幸町」近くの路上にはこんなオブジェがあった。鉄のナットなどを埋め込む事によって町の工業の記憶を留めようという趣向だ。

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説明板には、『以前はこの場所にも鋳物工場がありました。そしてその隣には老舗の鋳材店や計量器専門店、「ふるい」や「パイスケ」の製造販売店、製造を主体としたねじ専門店など、いかにも工都川口市らしいお店が立ち並んでいました』という。パイスケとは、竹を編んで作った浅い鉢形の入れ物で、バスケットの転訛だ。

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銀座商店街に何気なく置かれている花壇も鋳鉄製だ。いつ見ても手入れが行き届いているが、外周には、四季折々の情景が鋳出されている。画像に写るのは、夏の向日葵とカブト虫、冬の雪だるまと枯れ葉だ。

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●一見、樹脂製のようなプランターだが本体は鋳鉄製だ。キャスターが備わっていて、簡単に移動させられる構造になっている。口径はΦ60cmほどだから、花壇というよりは植木用の鉢だろう。正面のマークは、平成18年(2006)4月にオープンした「キュポ・ラ(後132項)」のもので、「川口1丁目1番 第一種市街地再開発事業竣工記念」となっている。

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東口の駅前広場は、さながら鋳物製品の展示場だ。馬車を模したプランターの渦巻き模様は、川口市の「川」の字のイメージだ。平成18年に「川口トラック協同組合」が50周年を記念して寄贈している。右側のプランターの側面の意匠は、雷紋様(後116項)であろうか、「川」の字のアレンジだろうか。

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●これらは平成2年(1990)に川口市が行った、「ニューディール作戦(後103項)」の一環で鋳造されたようだ。昭和末期からの不況打破のために、官民共同で景観材鋳物製品を売り込む作戦であった。三角形のプランターは、上の画像ように背中合わせにすると、600ミリ角になるようにも設計されている。カタログを見ると、重量は1基70kgで、価格は¥162.000となっている。

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時計台は、平成18年(2006)5月に「川口商工会議所」が創立70周年を記念して寄贈している。柱に見える紋様は、「川」と「口」の文字を散りばめられたデザインだが、アルミ製のようだ。

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こちらは、川口駅前の西口公園の時計だが、やはり「川口商工会議所」が創立80周年を記念して寄贈している。「平成28年(2016)9月吉日」だ。これのモチーフは、渋谷区神南の国立代々木競技場にある川口鋳物師・鈴木文吾(前3項など)が手掛けた聖火台(前71項後132項など)で青銅製だ。表面に青海波が見られ、両端の柱の頂上では炎が燃え盛っている。

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●以前の前67項にもアップしたのが、平成25年(2013)に市制80周年を記念して建てられた溶解炉・キューポラ(前68項)のブロンズ製オブジェで、東口の駅前広場に展示されている。製作は、「川口鋳物工業協同組合」となっているが、組合は実際の鋳造をどこの業者に発注したのであろうか。

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調べてみると、市内元郷で鋳造している池田美術(株)の代表取締役、池田東央であった(前4項)。今は美術鋳物に特化しているようだが、都内江東区富岡の富岡八幡宮(前77項)の境内にある伊能忠敬像などを作っている。あるいは後100項で見るが、
都内台東区上野駅では、アヒルが天を仰いで羽を広げている「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)発祥の地」の記念碑も手掛けている。

富岡・伊能

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また、日本橋(前32項など)に設置されている「日本国道路元標(後89項)」なども手掛けていて、多岐に亘っている。この元票の裏側には、鉄道官僚と言われた、当時の内閣総理大臣、佐藤栄作の名前が刻まれているという。

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前4項前21項で、4例ほどを紹介したが、池田さんは天水桶の鋳造も手掛けている。ここ川口市元郷の真言宗智山派、光明山随泉寺(ずいせんじ)は、菩提寺であろうか、5例目だ。権律師頼誓(天文11年・1542年寂)が開山となり創建したと伝わる。本尊を地蔵菩薩像とし、北足立八十八ケ所霊場の35番札所となっている。

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落ち着いた鶯色の安定感がある青銅製天水桶の1対で、当時の社名は、「池田砲金鋳造所」であった。前面には、大きな「片喰紋」が目立つが、大きさは、口径Φ970、高さは1.020ミリだ。

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「昭和五拾年(1975)参月吉日」に、「施主 池田甚兵衛(前71項)」さんが奉納している。住職は、「第35世 智雄代」の時世であった。

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●香炉の奉納も池田さんだ。美しく見栄えが良く、こちらは渋めの茶色でいい光沢を放っている。

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「平成16年(2004)12月吉日 池田美術株式会社 謹製」と現在の社名になっていて、施主は池田嘉明夫妻で元市議であったが、若くして他界されている。文字を鋳出すという慣習によって、いみじくもここに名を残されている訳で、ご冥福を祈りたい。

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●さて最近出会った天水桶をさらに見ていくが、まずは前例の随泉寺の近くにある、川口市元郷の曹洞宗永喜山正覚寺だ。下総国府台の合戦で戦死した平柳蔵人(永禄7年・1564寂)が開基となり、都内港区愛宕の萬年山青松寺(前29項)6世の久室玄長が開山創建したという。また、武州川口七福神の布袋尊が安置されている。

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岩槻城主太田氏の家臣平柳蔵人は、近隣15ケ村の領主であったが、その生涯については、昭和の半ばに建った境内の石碑に詳細に刻まれている。墓地は災禍で罹災したが位牌はここにあるようだ。また居館跡を示す石碑は、市指定の史跡となっている。

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●本堂前に口径3尺、Φ900ミリほどの鋳鉄製の天水桶が1対ある。正面に据えられている紋は、丸に二つ引き両だ。奉納は「昭和56年(1981)3月吉日 正覚寺26世 澤口剛雄代」の時世であった。

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作者銘は、「川口市 山崎甚五兵衛」だが、デザイン的にも洗練された同氏の後期の作例だ。当サイトでは、この後の平成4年(1992)5月に鋳造を終えるまで(後84項)の期間に134例ほどを見ている。その内、青銅製の天水桶は16例だから、約12%だ。

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最盛期の昭和46年(1971)には、年間9対18基もの天水桶を鋳ていたが、以降は減り続けている。鋳鉄製の天水桶を奉納するという慣習自体が消えつつあるという実態も見えてくる訳だ。なお、川口鋳物師・山崎甚五兵衛を特集した項番は、後114項などにリンクを貼ってあるのでご覧いただきたい。

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●また、この天水桶の裏側には、興味深い文字が鋳出されている。銘は「鋳物師名工 喜道 智峯院悟宗浄亥居士」、「同(鋳物師名工)二代喜道  徳峯院智岳常圓居士」、「同三代喜道 華光院道山繁藤居士」だ。ここ正覚寺は、3代に亘って火鉢や鉄瓶、壺といった美術工芸鋳物を得意とした川口鋳物師、高木喜道(前53項)の菩提寺であった。

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川口市立文化財センター分館に展示されている喜道の2基の火鉢には、「明治35年(1902)1月 喜道造」という銘があるが、市の指定有形文化財となっている。川口市教育委員会所蔵だ。そして天水桶は、「為右先祖三名工菩提寄進 施主四代高木家中興 高木力男 妻初枝」の寄進だ。この銘は永劫に遺る訳で、鋳出し文字には重要な意味があるのだ。

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●お初にお目にかかった川口鋳物師がいる。東京浅草、台東区今戸の今戸神社は縁結びの神としてあまりにも高名で、観光バスが乗りつけるほど、若い女性の参詣で賑わいが絶えない。境内には「今戸橋開橋記念」や「沖田総司終焉之地」の石碑もある。素焼の陶磁器である、当所発祥を自負する今戸焼の招き猫は名物であるが、ウィキペディアで調べてみると、その発祥由来は冷ややかだ。

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「平成の招き猫ブームと、縁結びパワースポットのブームに乗り、自ら招き猫発祥の地として看板を掲げるようになり多くの招き猫が奉られるようになった。本殿や境内に安置されている招き猫の形状は、江戸明治由来の今戸焼の招き猫とは何ら関係のないものであり、考証的には伝統的なものとは全く関わりのない平成の産物として見る必要がある」という。
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●1基のみの鋳造物は、社務所脇の庭の土中に、下側の1/3程が埋没した状態で放置されていて、もはや、忘れ去られていると思われる状況だ。表面に「石屋 駿河屋 佐野屋 中村屋」などの奉納者名が見える。「八幡山 松林院」とあるが、ここは、後冷泉天皇の康平6年(1063)に、京都の石清水八幡を勧請し「今戸八幡」を創建しているのでこの呼称だ。

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口径は83cm、高さは72cmほどだが、三つ巴の紋の横に、「鋳物師 大西周八 萬延元年(1860)8月吉祥日」と鋳出してある。文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」を見ると、武蔵足立郡川口宿の項でこの人物の名前を確認できるから川口鋳物師だ。後129項の品川区南品川の海照山普門院品川寺では、銅鐘の「明暦3年(1657) 大西五郎左衛門尉 藤原村長」銘を見るが、この人は周八の始祖であろうか。

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●同人は、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」にも登場してくるから、少なくともこの20年ほどの間には活躍していたことが判る。鋳物師元締めの京都真継家(前40項)から許状を得ていた勅許鋳物師であったが、関東近郊で現存する大西の作例はこの1基だけのようであり貴重な存在だ。

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●川口鋳物師が手掛けたここでの天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「安政5年(1858)5月 永瀬宇之七(前68項など) 水盤(天水桶) 一双(2基)」となっているが、現存はしていない。

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なお、「川口鋳物師の近世作品一覧」を見ると、この鋳造物は天水桶ではなく、「鉄井戸側(前3項前64項前68項後98項後101項後116項)」、つまり井戸の囲いであると記載されている。とすると、底板が無い円筒形状なのであろうか。画像は、都内文京区本郷の東京都水道歴史館で見た井戸端の情景の模型。


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●続いての画像は、新宿区下落合にある、医王寺薬王院の社務所前だ。鎌倉時代に相模国大山寺(前63項)を中興した願行上人による開山という。奈良長谷寺の末寺で、「東長谷寺」とも称され、そこから移植されたボタンが人気で、牡丹寺とも呼ばれる。

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ここに、古びた1対の鋳鉄製の天水桶がある。鋳出された「瑠璃山」はここの山号だ。表面の一部は火災で焼けただれた傷跡であろう、痛々しい。いつの被災であるのかは不明だが、奇しくも寺の歴史を語る物証となっている。

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鋳造者銘は、「川口町 秋本謹製 昭和9年(1934)3月」とある。秋本製は、当サイトでは香炉も含めこれで15例目だが、作者銘はいつも通りで、印影の様な簡潔な表現だ。実は、この「川口町」という表記は少しおかしい。川口市の市制施行は、昭和8年4月1日であったから、本来は「川口市」でなければならないはずだ。造立とは、ほぼ1年の差異があるので、施行に間に合わなかったという訳でもなかろう。

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●大きさは、口径Φ760、高さは730ミリだ。「薬王院」とも鋳出され、デザインされている花は名物の牡丹に違いあるまいが、にぎやかな前面だ。上部に廻っているのは、幅広な雷紋様(後116項)だが、これが秋本製の個性だ。

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高低差のある獅子の陽鋳も見事で、踊り出さんばかりだ。これも秋本製の真骨頂であるが、後125項などでも数例を見ている。また、前21項には秋本製の作例全てを見れるリンクを貼ってあるので、ご参照いただきたい。

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●ここで、昭和初期に出された同社の広告を見てみよう。「埼玉県川口市駅前 秋本鋳工所 販売部 秋本島太郎」だが、火鉢や天水桶の鋳造に特化していたことが判る。火鉢にも色々な形や呼称があるようで、「山形くづし 瓶形火鉢 石垣火鉢」などの呼び名が写真入りで掲載されている。そして、「独特ノ技術 優美ト高尚」と謳っていて自信のほどがうかがえる。

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当時の社章は、社長の島太郎の「島」の字がモチーフのようだ。昭和初期の「川口市勢要覧」を見ると、秋本は、埼玉県北足立郡尾間木村(現さいたま市)の出身で、明治19年(1886)に生まれている。日立製作所や室蘭製鋼所、芝浦製作所などの大工場で8年間修行、その後、昭和の初期に独立起業している。敷地500坪、工場建物220坪、従業員30余名で「火鉢、鉄瓶に独特の技能を現し、年生産能力67万円に上がって居る」と記載されている。

秋本社章
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●続いては北区赤羽西の、獅子吼山専稱院善徳寺。享徳2年(1453)、江戸城坪根沢(吹上御苑は、天正時代以前には局沢と称された)に創建されている。大伝馬町の伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があるが、名字帯刀を許され、町名主筆頭として年頭には将軍への御目見が許されていたという。(説明板による)

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ここには、ハスの花弁形の鋳鉄製の天水桶があるが、「善徳寺 檀徒総代 下谷區御徒士町 芝區琴平町 本郷區湯島天神町」らの人が奉納している。大きさは口径Φ1.120、高さは850ミリだ。四角い台座も鋳鉄製で、1辺は890ミリとなっている。

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サビついて塗装の劣化も激しいが、「武州川口町 田中鋳工所製 印影」で、「大正15年(1926)11月」と読める。「○に二」が、同社の社章だ(前68項参照)。この当時の同社の社長は、「田中末吉」であったが、昭和16年(1941)当時の川口鋳物組合の名簿によれば、社長は、「田中敬一」となっている。

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●後年、川口市本町の市立文化財センター(前30項後108項など)に、田中鋳工所の後継の田中博氏が木型を寄贈している。「奉納」という装飾された文字だが、同じデザインだ。これを使用して鋳造されたものであろう。

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その使い方の写真がある。予め作成しておいた、「埋め型」と呼ばれる文字や紋章の木型を、天水桶本体の外型の内側にこれを埋め込むのだ。写真に見える側は凹になっていて、そこに溶鉄が流れ込み、文字などを表現するという訳だ。

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●田中製は、9例目のアップだが、ここでも昭和8年(1933)頃の同社の広告を見てみよう。美術火鉢や水盤、風呂釜などを手掛けていたようだが、よく見てみると、右下の「蓮花形水盤」と称している天水桶はここ善徳寺の物で、設置して8年後の広告に登場している。

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こちらには、「埼玉県川口市本町二丁目 主 田中末吉(後117項)」と記されていて、「萬栄竃(かまど) ヒョットコ風呂釜」が写真入りで載っている。風呂釜は、「実用新案登録10347号」であった。

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こちらにも、営業品目として竃や火鉢、風呂釜や日用品類が挙げられているが、どの広告にも「美術天水鉢」とあり、主力製品の1つであった事が知れる。現存する田中製の天水桶もそう多くは無い。願わくば、再塗装などのメンテを施していただいて、末永く保存していただきたいと心底思う。

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●ここに掛かる梵鐘を見ておこう。縦帯(前8項)のお題目は「南無阿弥陀仏」で、「当山開基上人 歴代諸上人」、「太平洋戦争 戦没諸精霊」供養などでの奉納だ。池の間には、奉納者名がビッシリと陽鋳造されていて、銘文には、寛文11年(1671)製の旧鐘が、戦時に金属供出(前3項)された事が刻まれ、さらに「鐘聲(声)響流 群魔退散 萬善聚集 度脱人天」という願念が込められている。

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銅鐘は、「浄土宗別格 獅子吼山専稱院善徳寺 第三十世 壤譽英穂代」の時世の、「昭和42年(1967)春」に鋳られている。鋳造者名はどこにも見られないが、鐘身の内側に「立会人」として、住職と総代の氏名がある。

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そして並んで「請負人 真如堂 小菅金治」と鋳出されているが、ここは、前7項前37項で登場した浅草仏壇神具通り(前34項前59項)の都内台東区寿の(有)真如堂小菅商店だ。鋳造工場を保持しない商店のようなので、鋳造自体は、由縁ある同業者に依頼したのであろう。つづく。