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●都心にある天水桶を紹介しているが、この近辺には実に坂が多い。そして丁寧に命名理由やら歴史が説明されている。坂の散策はきついが、その説明文を読みながら思いを巡らせれば、「坂もまた楽し」である。

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赤坂の「弾正坂」は、かつて近くに吉井藩松平氏の屋敷があり、代々が「弾正大弼(だいひつ)」を任せられていたからという。吉井藩は、上野国多胡郡吉井(現在の群馬県高崎市吉井町吉井)に存在した藩だ。これは治安維持役だから、警察官のような努めであろうか。

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こちらの「氷川坂」という棒杭には、「8代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社の、もと正面に当たる坂である」と記されている。この神社は、前17項でも紹介した赤坂氷川神社のことだ。吉宗は、米相場を中心に改革を続行したことから米将軍と呼ばれ、破綻しかけていた財政復興をしたことから中興の祖とされる。

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●赤坂4丁目から7丁目間の「薬研坂」。なるほど、道の真ん中が凹んでいるから薬研台を想像できるが、土地形状から呼び慣わされた坂であった。下って昇る地形で、うねり曲がっているような坂だ。付近の住民の名で何左衛門坂とも呼んだという。

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薬研台とは、こんな形の道具だ。細長い舟形で、中央がV字形にくぼんでいて、主に薬草の粉砕や調合に用いられるが、鋳物製が多いようだ。健康オタクとも言われる徳川家康は、漢方の書物などから本草学を学び、学者顔負けの知識を持っていた。自ら薬研台使い、薬を調合して服用していたといい、家康が調合した薬の古壺が今も残されている。

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●港区赤坂の「三分坂」。命名は区の説明によれば、「あまりの急坂のため、通る車賃を銀3分(さんぷん)増したため。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もある。読みが「さんぶ」では4分の3両になるので誤り」とある。金1両=銀60匁=銅4.000文=¥10万円とするならば、1分は1匁の1/10だから、銀3分は¥500ほどだ。左側の築地塀は、笑柳山報土寺(前8項)だ。

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ここを通る荷車は、大八車の事であったろうか。これは今で言う小型トラックだ。寛文年間(1661~)ごろ創り出されたといい、大人8人分の働きをするから「代八」、転じて「大八」と称するらしい。江戸市中を走っていた大八車は、18世紀初頭の幕府の台数調査では、「2.209車輛」となっている。

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画像は、文化13年(1816)に描かれた「北斎漫画 大八車と車力」だが、引きて3人がかりの大仕事だ。ブレーキも備わっていないだろうから、危険な仕事だろう。割り増しなのもうなづける。この頃には、「立ん棒」という商売が存在したという。大八車が通るのを坂の下で立って待っていて、その後押しをする助っ人であった。

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 ●新宿区須賀町の「闇坂(くらやみざか)」。説明板によれば、「この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。また、松厳寺の俗称が茶の木寺であるため、茶の木坂とも呼ばれた。」今でもこの夜道は通りたくないような感じで、細くて狭い下り坂だ。

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千代田区外神田の「明神男坂」は、神田神社(前10項)へ続く階段だ。「神田文化史」には、天保の初年(1830)、神田の町火消の「い」、「よ」、「は」、「萬」の4組が明神へ献納したと由来が記されている。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標となったという話や、坂からの眺めが良いため毎年1月と7月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名だという。(区の説明による)

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●かつて一番多かった坂の呼び名は、「富士見坂(前1項前11項)」だ。都内各地のいたる所から霊峰の富士山を見る事ができたからで、その数は、18ケ所で第1位であったという。画像は、荒川区西日暮里の富士見坂で見られるパネルだ。都内で最後まで富士山を拝めた坂であったが、平成25年(2013)6月頃に見られなくなったという。

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●次に多いのは、切り通しや新開発で人工的に造られた「新坂」で17ケ所、3位は昼でも暗い「暗闇坂」で14ケ所、さらに薄暗くて気味が悪い坂というので、「幽霊坂」と呼ばれる坂が13ケ所もあった。また、お稲荷さんやお地蔵さんの祠が多かった江戸では、それらが坂の上や麓にあると「稲荷坂」とか「地蔵坂」と呼ばれたようだ。

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変わったところでは、「ゴミ坂」というのが8ケ所もある。昔からゴミの処理には困ったようで、坂の上から投げ捨てたり、窪地に積み捨てたりしていたという。漢字の表記としては、「芥坂(ごみざか)」、「埃坂(ごみざか)」などが充てられたようだ。都内千代田区には「五味坂」があるが、これは、坂下の「五番町」と坂上の「上二番町」を結ぶ「五二」から来るようで、意味合いが違うようだ。

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●さて前回に引き続き、大都会の中にある天水桶を見ていくが、まずは、青銅製の天水桶を3例だ。港区西麻布の日蓮宗長幸寺は、芝三田の現目黒實相寺を隠居した本樹院日榮(寛文8年・1668年寂)が、寛文2年(1662)に開創しているが、ここの山号は、「本樹山」だ。

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「昭和50年(1975)12月吉日」に、「為宗祖日蓮大菩薩 第七百遠忌」として、「檀徒有志」が奉納しているが、これは、量産品の天水桶だ。

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「浅草 中野三佛屋」さんが提供している蓮弁形の青銅製桶だが、「製作責任者」という事であって、鋳造したという意味ではなさそうだ。同社は、大田区池上で毎月3回発行される、「日蓮宗新聞」に度々広告を出している。「信用第一の専門店」として、「格調高い関東風仏具」の製作を売りにしているようだ。同社については、後34項後59項後105項もご参照いただきたい。

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●港区西麻布の日蓮宗日通山妙善寺は、徳川家康公の側室、養珠院お萬の方ゆかりの寺だ。ホムペを見ると、「今を去る360有余年前、徳川3代将軍家光公の寛永4年(1627)に、紀州藩御附家老三浦長門守為春公が、大本山小湊山誕生寺(後90項)第20世興善院日為上人を開山として創立された寺であります。

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為春公の妹君は家康公のご側室で、紀州藩主徳川頼宣公と水戸藩主徳川頼房公の御母堂である養珠院お萬の方であり、為春公とお萬の方は共に日蓮宗の熱心な御信者で、当山以外にも多くの事蹟を残されております」という。また井上因碩家元の碁会が常設された経緯から、「麻布の碁寺」とも称されている。都会の一等地に構える寺だけに、由緒には注視するものがあるのだ。

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1対の天水桶は、やはり量産品で、異常に高い石の台座の上に載っている。「昭和62年(1987)10月吉日 日通山23世 的場慶雅建之」銘で、「為妙善寺 住職交代記念」での奉納であった。

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●次は、港区虎ノ門の曹洞宗、森川山俊朝寺。僧牛道が開基となり、明暦元年(1655)に創建しているが、次に登場する青松寺の末寺だ。本尊は、釈迦牟尼仏像。ここに、刻まれた彫刻が素晴らしい青銅製の桶が1対ある。

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「平成元年10月吉日」に、「檀信徒一同」が寄進している。正面に寺紋の「片喰紋」が描かれている。どこにでも見られる草だが、地下深く根を下ろすためか駆除に困る雑草だ。その旺盛な繁殖力から、子孫繁栄の願いを込めた紋として、日本十大紋に数えられている。

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龍が優雅に舞っていて見応えがあるが、お寺の方に話を聞けた。前の桶を戦争で金属供出(前3項)したため設置したと言う。先代さんが彫刻に造詣が深い方だったらしく、その思いを込めて製作したらしい。鋳造者は不明だと言う。しかしこの龍や本体の意匠は、後38項で見る「大田区本羽田・羽田神社 富山県高岡市 (株)竹中製作所製」にそっくりだ。ここの天水桶を鋳たのは竹中さんかも知れない。

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●港区愛宕に広大な寺域を持つ、曹洞宗青松寺(後126項)がある。太田道灌(後89項)が雲岡脣徳を招聘して文明8年(1476)に創建したという。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)に位置していた。

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徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転したが、移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称され、長州藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用したという。

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●天水桶には、簡易的な木製の屋根が備わっているが、正面の「萬年山」がここの山号だ。奉納銘は「青松四十三世 省吾代」の時世だが、43世は、堂宇の建築など戦後の復興に尽力したのであろう、鐘楼塔に掛かる梵鐘の鋳造銘にもその名が残っている。

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その銘は、「昭和三十一年(1956)丙申歳一月吉旦 当山四十三世代」だ。かつては「寛文5年(1665)4月」に鋳た銅鐘があったようで、当時の「沙門玄光 銘焉」による漢文調の銘文が刻まれ再現されている。銘は最後に「永鎮萬年」で結ばれているが、万年に亘って永く鎮まって欲しいという願念がこもっているようだ。

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●一方新たに、堂宇などが戦時に罹災した事や寺伝が長文で刻まれている。銅鐘は、戦後約10年後での鋳造だが、この事が重要で、まだまだ復興冷めやらぬ慌ただしかっただろうこの時期に、梵鐘を設置できる底力のある寺なのだ。同様の事例はそう多くは無い。参詣すれば判るが、ここの清廉な境内や風格ある山門、荘厳な堂宇にそれを感じるはずだ。

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なお鋳造者銘は、「京都寺町 高橋鐘聲堂 謹鋳」と、鐘の内面に陽鋳造されているが、同社は事情により平成23年(2011)11月に廃業している。この工場は、後84項で見るが、後の「京都本町 高橋鋳工場」のようだ。

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●天水桶は、丸い石の台座が小さ過ぎるのが心配な設置法で、3本脚が少しでもズレれば転倒しそうだ。塗装色のせいで青銅製に見えるが、これは鋳鉄製の1対だ。鋳造された銘は、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」で、設置は、「昭和35年(1960)5月吉日」となっている。

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なるほど、額縁には象徴たる貝塚の「貝」の紋様が連続しているので、「貝塚の青松寺」に違いない。この紋様は、寺の軒瓦や門扉などの各所でも見られる。

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●東京タワーの真南、港区東麻布にあるのが浄土宗心光教院で、山号は無いようだ。寝転ぶようにして撮影したが、タワーがあまりに近すぎてフレーム内に収まりきらない。惠照律院光阿上人が開山し、宝暦11年(1761)の淳信院殿廟堂造営に際して、港区芝公園の三縁山増上寺内(後52項後126項など)から当地へ移転している。

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このすぐ真裏には、観光客がウジャウジャいるが、ここの静けさがウソのようだ。建造物は、「文化庁 第13-0118号」で、国の登録有形文化財だ。堂宇前の天水桶は、口径980ミリで、高さは800ミリだ。

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●黒サビ(後95項)に保護されているので劣化も少なく、良好な鋳鉄製の1対で、「南鍋町 伊勢屋勘兵衛 瀧山町 亀屋治助」らの寄進だ。紋様は、「九曜」の変形であろうか、「九曜に月」だ。この紋は、桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた、「千葉氏」が多用している。

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「御鋳物師 江戸深川 太田近江大掾 藤原正次 弘化三丙午(ひのえうま)歳(1846)十月吉日」と鋳出されているが、釜六(前17項)による鋳造であった。また、右下に「正樹龍眠」という人名が見られる。実はこれは重要な情報だ。この書体の書家だが、この人物に関しては、前3項後95項をご参照いただきたい。

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●港区白金に、区内最古という白金氷川神社が鎮座している。ウィキペディアによれば、「日本武尊が東征の折に大宮氷川神社を遥拝した当地に、白鳳時代(661~)に創建されたと伝えられている。江戸時代中期の明和の大火(1772)により焼亡し、江戸後期に社殿が再建された。太平洋戦争末期の昭和20年(1945)、空襲によって社殿が焼亡、現在の社殿は昭和33年に竣工したものである。」

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木柵に囲まれた本殿の真裏では、つがいの狛犬が睨みを利かしているが、その外側に1対の鋳鉄製の天水桶が置かれている。かつては拝殿前に置かれていたと思われるが、今は現役を引退し保管されている状態なのだろう。正面に「永松町 世話人 若者中」と陽鋳造されている。現在の港区三田の一部は、明治5年(1872)頃まで「麻布永松町」と称されていたようで、そこの住民による奉納だ。

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作者銘は、「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾 藤原正次 文政九丙戌(ひのえいぬ)歳(1826)九月」となっている。明瞭な輪郭が清々しい鋳出し文字だが、同じく釜六製だ。この書体も上述の「正樹龍眠」によるものだと想像している。

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●最後だが、東京タワーの北西方向、港区虎ノ門には、西久保八幡神社がある。江戸名所図会の説明文の中では、「西窪地区の鎮守」となっているが、源頼信の祈願により寛弘年中(1004頃)に、霞ケ関で創建したという。

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明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、台東区上野桜木の徳川将軍家の菩提寺、東叡山寛永寺(前13項)の末寺であった。後126項で詳細に検討するが、実はこの徳川幕府とのつながりが重要な意味を持っていた。

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●ホムペによれば、江戸八所八幡の1つに数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わったという。江戸期には15里ほどの範囲内にある、次の8社の八幡様を1日でお参りして廻ったのだ。富岡八幡宮、市谷亀岡八幡宮、穴八幡宮、大宮八幡宮、鳩森八幡神社、金王八幡宮、御田八幡神社、そしてここ西久保八幡神社だ。

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また、「明和3年(1770)、文化12年(1815)、文化13年(1816)には境内で大相撲が行われ、落語や講談で有名な阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)も相撲を取っている。」今は鬱蒼としていて、ここは本当に都心なのか錯覚に陥る空間で、往時の喧騒は偲ぶべくもない。境内には、「御鎮座 壱千年 奉祝記念之碑」があるが、10世紀前の創社に間違いない。

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●ここに、釜七(前18項)作の鋳鉄製の天水桶1対がある。口径Φ1.070、高さ880ミリで3尺半という大きさだ。「奉納」と鋳出され、中央に三つ巴紋が据えられているが、外には何の紋様も見られずシンプルだ。サビが目立ち始めているが、逆に情景にとけこんでいて、いいマッチングかも知れない。

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「現住 慧存代」の時世のようだが、「えそん」と読むのだろうか。「現住」は、現在の住職という意味で、かつては寛永寺の末寺であったのだ。現代ならば、神社なので神職、宮司であろう。周囲には奉納に際して奔走したであろう、「武蔵屋金八 市野屋伊之吉 高砂長兵衛」ら、世話人の氏名が並んでいる。

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銘は、「天保四癸巳(みずのとみ・1833)六月吉日」の造立で、「鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門」、そして、花押も確認できる。釜六釜七の両者は、幕府の「御成先鍋釜御用」を命じられていたので、はばかる事無く花押を鋳出せたものと思われる。

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●後年の2024年、令和6年3月現在、寺観は一新されている。鬱蒼とした樹木は取り払われ、遠景にはビル群の林立が露わだ。美麗に整備された境内にはベンチも備わり、今は散策途上の心地よい休憩所になっている。

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狛犬や石垣にしろ石灯籠や石碑にしろ、かつての奉納物は、そのほとんどがそのまま残されている。鋳鉄製の天水桶1対も、その設置スパンを広げられ威容を誇って置かれているが、クリーニングされなかったのは、少々残念だ。

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●なお、この地域一帯は、縄文時代の西久保八幡貝塚として都指定の文化財となっている。貝塚は神社境内にあったため、都心部にしては良い保存状態で残されている。貝殻の出土量に比べて、土器や石器、牙骨製品、あるいは獣骨が多く見られるので、ここに人が住まい、そのゴミ捨て場であったのだろうという。画像のように、ここの断層には、江戸時代の神社の礎石が埋もれて残っていた。当時の人々も、ここが貝塚だと認知していたと思われる。

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江戸近郊のどこにどんな天水桶が残っているかなどという、一覧できるような資料は見当たらない。地道に自分の脚で探すしかあるまい。都会の中の天水桶探訪の項は次回も続けよう。つづく。