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●今回は、地域的にはあちこちにバラけているが、色々な天水桶をアップしてみる。まずは埼玉県和光市新倉にある新倉氷川八幡神社。弘安年間(1278~1287)に創建したと伝えられ、江戸時代から新倉村の鎮守社として崇められている。元の高麗軍が対馬・壱岐地方に来襲した「弘安の役」の頃だから、歴史は古い。

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「昭和52年(1977)10月」製であるが、作者不明の青銅製の1対だ。「氏子中」の奉納で、「六代宮司 石山利和之代」の時世であった。この年には、読売巨人ジャイアンツのV9に貢献した王貞治が、通算756号の本塁打を打っている。王は生涯で、世界記録となるシーズン通算本塁打868本を記録、15回の本塁打王を達成、2度の三冠王に輝いている。国民栄誉賞受賞者の第1号であり、平成22年(2010)には文化功労者として顕彰されている。

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●大田区池上地域の青銅製桶を3例挙げてみるが、いずれも作者は不明だ。日蓮宗不変山永寿院には、「昭和51年(1976)4月」製の桶がある。「池上の寺めぐりより」によると、寛永19年(1642)以前の開創で、当初は、池上本門寺(前22項)17世の日東聖人の院号にちなみ蓮乗院と呼ばれた。その後、家康の側室のお万の方の孫で、紀州藩初代徳川頼宣の娘の芳心院の帰依を受け改称、宝永5年(1708)に没した芳心院の墓所は「万両塚」と呼ばれている。

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青銅製の1対は「檀信徒一同」の奉納で、「不変山永壽院 廿九(29)世 日廣代」の時世であったが、天水桶の裏側には、20社もの檀信徒の業者の社名が陽鋳造されている。上縁に廻るのは、雷紋様(後116項)だが、中国では魔除けの効果があるとされてきている。雷は、人知の及ばない強大で畏怖な力であり、古代中国の皇帝は、衣服や調度品に使用していて、転じて権力の象徴として昇華されてきたのであろう。神前に供される奉納物には欠かせない紋様が雷紋様なのだ。

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●朗慶山照栄院は、正応4年(1291)に日朗聖人の庵室として開創している。朗慶山と号し日蓮宗に属す池上三院家の一つ。妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は、寛文4年(1664)に、加藤清正の娘瑶林院が、夫の紀州徳川頼宣の「現世安穏後世善処」を祈念して奉納したものという。(池上の寺めぐりより)

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「昭和49年(1974)7月吉辰」銘の青銅製の1対で、作者は不明だが、洒落た金具が装着されている。花崗岩製の台座には、「昭和15年10月」の刻みが見えるので、これは少なくとも2代目の天水桶であろう。菩提の供養と「書院庫裡(くり=寺社の台所)新築記念」、「第113世 日顕代」での奉納であった。

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大きさは口径Φ920、高さは1.050ミリだが、この天水桶の肉厚は、かなり薄い。そのためであろうが、画像に見えるように、縦リブと下の丸い枠で補強されビス止めされている。肉薄なのは、銅素材の節約であろうか。

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●長荘山養源寺は、慶安元年(1648)に、本門寺18世日輝聖人を迎え開山している。享保4年(1719)と同6年には、8代将軍吉宗の鷹狩りの際の御膳所になったという。文化元年(1804)の火災による全焼以降は、智海院日勝尼を初代として、昭和20年(1945)まで尼僧寺であった。池上七福神の1つで、恵比寿さまを祀っている。(池上の寺めぐりより)

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ここの青銅製桶1対は、「平成12年(2000)11月11日」の建立で、大きさは口径Φ1.1m、高さは940ミリだ。何回か見かけたようなデザインだが、バラのあるいは、ツバキの紋様だろうか、濃密な感じの寺紋だ。「本堂山門 書院庫裡 落慶記念」での奉納であった。時の住職は、「第12世 前田利勝代」だ。

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●次は、大田区本羽田の羽田神社。豪勢な作りの社殿が印象的で、拝殿奥には、文化財にもなっている富士塚、通称羽田富士(前14項前18項)がある。天水桶と屋根の緑青色がいいバランスで心地よいが、ここは、小田原北条氏が当地付近を治めていた頃に、領主行方与次郎が牛頭天王社を祀った事に始まっている。

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堂宇前の天水桶は、「平成7年(1995)2月」に、富山県「高岡市 (株)竹中製作所(後68項)」が鋳造した青銅製の1対だ。大きさは口径Φ890、高さは860ミリとなっている。同社は、伝統工芸の高岡銅器から、現代的なオリジナル作品まで一貫した製造販売を手がけているが、銅像や胸像に関しては、2千体以上の実績があると言うから、この道ではスペシャリストだ。

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●同社のホムペから抜粋させていただくと、「高岡地方の銅器生産の歴史は、17世紀に、2代目加賀藩主・前田利長公が高岡城築城に際し、城下の繁栄をはかる産業政策の一環として、金屋町に鋳物工場を開設した事から興っている。(後120項参照)

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脈々と受け継がれてきた銅器生産の歴史の潮流の中で、(株)竹中製作所は、昭和2年(1927)、銅器加工店として高岡市宮川町で産声をあげた」と言う。文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」の「越前敦賀鋳物師村」の項には、3人の竹中姓の鋳物師が記録されている。現社長は竹中伸行氏だが、ご子孫でいらっしゃるのだろう。

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平成2年(1990)4月、同社は、北条氏5代の本拠地であった神奈川県の小田原城(後114項)がある駅前では、「北条早雲公」の銅像を鋳造している。城の石垣を模した台座の上で雄々しく軍配を振るう、見上げるほど大きなブロンズ像だが、早雲が小田原城を乗っ取った「火牛の計(後97項)」の一幕であろう。市制施行50周年を記念しての建立だが、後ろ側の銘版に見られる文字は、「原型 石黒孫七」、「製作 (株)竹中製作所」であった。

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●竹中製をもう1例を挙げてみる。鎌倉市二階堂に、長治元年(1104)創建という荏柄(えがら)天神社がある。鎌倉幕府の鬼門の守護神でもあったといい、福岡の「太宰府天満宮」、京都の「北野天満宮」と並び日本三天神の1つと言う。本殿は国の重文で、正和5年(1316)や元和8年(1622)の鶴岡八幡宮造営での移築とされている。(境内説明文を要約)

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境内に筆の形を模したブロンズ製の「絵筆塚」がある。黄桜酒造のCMの河童で有名な、漫画家の清水崑(こん)の遺志を継いだ横山隆一らが建立していて、著名な漫画家154人の河童のレリーフが張り付いている。デザインと文字の揮毫は横山のようで、高さ3m、直径1m、重さは800Kgという。横山の代表作は「フクちゃん」や「デンスケ」だが、後者は、昭和24年(1949)12月から6年間に亘り、毎日新聞の朝刊に連載されている。

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●奉納は平成元年(1989)10月22日で、「社団法人 日本漫画家協会 理事長 加藤芳郎」が協賛し、横山が建立実行委員会の会長となり、小島功が委員長を務めている。加藤は、4コマ漫画や風刺漫画を得意としたが、代表作の「まっぴら君」は毎日新聞の夕刊に、「オンボロ人生」はサンデー毎日に連載されている。小島は、漫画界一の流麗な線描と評された画風を特徴とし、エロティックな女性が登場するマンガやイラストを数多く発表したが、「ヒゲとボイン」はその代表作だ。

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銘板には、「伝統工芸 高岡銅器振興協同組合 理事長 竹中時造」の名も見えるが、塚の真下に小さい「(株)竹中製作所 鋳造之」という角印がある。

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●筆を担いだ河童の絵が描かれている元々の石の「かっぱ筆塚」は、昭和46年(1971)、清水崑が、愛用した絵筆を供養するために建てたものだ。荏柄天神社では初天神祭の後、筆供養が執り行われている。学問の神の菅原道真に因み、書家や歌人らが持ち寄った愛用の筆や鉛筆を焚き上げて供養する神事だ。

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その際に使用される焼却盤は、梅花の5枚葉の意匠で「筆供養梅鉢」とも言われるようだが、川口鋳物師の鈴木文吾(前3項後71項など)が鋳造している。ネット上で、焚き上げ中の鉢の首元の写真を見ると、鋳出し文字らしきものが存在するようだ。神事に立ち会った事が無くその銘を確認できていないが、鋳造日は昭和46年以降であろうか。

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●各地の天水桶を見ているが、流れで、高岡銅器製の天水桶をもう1例。滋賀県長浜市の竹生島は琵琶湖に浮かんでいるが、巌金山(がんこんさん)宝厳寺(ほうごんじ)はこの島にある。開基は行基とされ、広島県・厳島神社、神奈川県・江島神社と並び、日本三大弁才天の1つだ。江戸では慈眼大師天海が、都内台東区上野公園の不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島を築いている。

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不忍池の弁天堂(後92項)は、ここ宝厳寺のお堂を見立てて建立されたとホムペには書かれている。その堂宇前に青銅製の蓮華型の天水桶が1対ある。奉寄進は「昭和62年(1987)3月吉日」で、「高岡市白金町 謹製 株式会社 蝋半」と陰刻されている。「ろうはん」と読むのだろうか、既に存在しない会社のようで、「謹製」とあるが鋳造設備を持った会社であったのだろうか。

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私見ながら、鋳造という事と蝋燭の「蝋」には関連がある。通常の砂型に変わる蝋型(後55項)だ。蝋型は、鋳型から中子型を取り出す必要が無く、流し込む溶鉄が型の中の蝋を溶かし、形状に置換される鋳造法で、量産は出来ないが、細密で複雑精緻な工芸品向きの鋳金技法だ。「蝋半」はそんな意味合いを持ったネーミングの会社であるかも知れない。「半」は、氏名の一部であろうか。

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●「東京さくらトラム」が愛称の都電荒川線、宮ノ前駅近くの荒川区西尾久には、曹洞宗の霊明山大林院がある。寛永20年(1643)に、港区三田の功雲寺内に開創していて、駒込の大林寺末寺だ。正和5年(1316)銘の板碑は、区登録の文化財となっている。

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「平成19年(2007)7月 五世昭孝代」銘で、花崗岩製(前11項)の変わった水受けだが、裏側に「霊明山」と彫られているのは、この寺の山号だ。木魚のイメージなのであろう、豪快に雨水を飲み込み続ける様を拝見したいものである。

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ウィキペディアによれば、「木魚は、読経をするときに打ち鳴らすことで、リズムを整える。また、眠気覚ましの意味もあり、木魚が魚を模しているのは、眠るときも目を閉じない魚が、かつて眠らないものだと信じられていたことに由来する」という。

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●荒川区東尾久にある真言宗豊山派、大悲山観音寺華蔵院は、開創は未詳だが、中世に建てられた板碑を所蔵する。「光明遍照十万世界 念仏衆生摂取不捨」の光明遍照偈(へんじょうげ)が、阿弥陀の種子(しゅじ=梵字)を月輪のように取り囲む形態のもので、他に例を見ない。(区教育委員会掲示板による)

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表通りに面した山門前の両側に、1対の鋳鉄製の天水桶がある。勿論、本殿はこの奥にあるが、その新築に際して、今の場所に移動されたのであろう。

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銘は、「埼玉県川口町 山﨑寅蔵善末作 大正13年(1924)10月 本堂改築記念」であるが、ここのはかなり鮮明な鋳出し文字だ。山寅(前20項)の作例に出会ったのは、本サイトでは33例だが、その内青銅製は2例、半鐘1例で、大正時代初期(1912~)から昭和11年(1936)までとなっている。

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●埼玉県川口市本町の、宝珠山錫杖寺の境内にある七福神の福禄寿尊を訪ねた。福は幸運、禄は安定生活、寿は長寿をあらわすと言われ、三徳を具現化した神だ。

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ここの本堂には前3項で登場の通り、川口鋳物師・鈴木文吾作の青銅製の桶があるが、境内の地蔵堂前(後128項)には、ハス型の鋳鉄製天水桶が1対ある。台座も鋳鉄製だが、本体の大きさは、口径Φ930、高さは960ミリだ。

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●胴部が長めの蓮弁形の桶で、「御宝前」への奉納であった。銘は、「丸榮鋳造所 永井榮造製 昭和37年(1962)7月吉日」であるが、詳細は不明だ。台座には、「創業30周年記念」と見えるから、昭和7年(1932)創業の会社だ。

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「永井」姓から、川口市内の鋳造業者を連想するが、500社前後が名を連ねる、昭和12年(1937)と昭和16年刊の川口の鋳造業名簿には、「風呂釜 ガスバーナー製造」、「本町 永井鑄工所 永井榮造」とあり、社長は同姓同名のようだ。後年、社名変更したのだろうか。

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昭和60年(1985)の300社の名簿には、「丸栄鋳造(株) 本庄謙二」が登録されているが、現在でも、同じ住所で「丸栄鋳造(株)」の名が見える。ただ、賛助会員となっているので、鋳造営業はしていないようだ。ここの天水桶は、代は変われど、昭和の時代に鋳造していたこの会社によるものだろう。

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●なお、ここに設置されている賽銭箱は木製であるが、横に刻まれている銘は、「嘉永7年(1854)12月25日 当所 願主 増田安次郎(後82項など)」となっている。幕末の大砲製造で名を馳せた鋳物師で、安政5年(1858)7月没であったが、これも今や貴重な文化財だ。

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ウィキペディアから要約すると、賽銭とは、祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭のことで、「賽」は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味だ。散銭ともいうが、金銭を供えるようになったのは後世であり、古くは米が神仏に供えられている。その形態は、神前や仏前に米を撒く「散米」、「散供・御散供・打撒」や、洗った米を紙に包んで供える「おひねり」だったようだ。現在のように賽銭箱が置かれるようになったのは近世以降という。

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●文京区千石の小石川植物園近くに、簸川(ひかわ)神社があるが、「氷川」をこう表示するのは珍しい。ウィキペディアによると、江戸時代は氷川大明神と称し、江戸七氷川に数えられた。明治期に入り氷川神社へ改称したが、大正時代に「氷川」は出雲国「簸川」に由来するという説から、簸川へ改めた』という。

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社伝によれば創建は古く、第5代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素盞嗚尊だ。もとは植物園の地にあったが白山御殿造営のため、元禄12年(1699)にこの地に移された。社殿は、関東大震災と昭和20年(1945)の空襲にあい全焼失したが、昭和33年(1958)に、当時神社としては珍しかったコンクリートによって再建されている。(区教育委員会掲示などによる)

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●堂宇前の1対の鋳鉄製天水桶は、「東京市小石川區(区)林町」の市川氏が奉納している。正面に三つ巴紋が見えるだけで、ごく単純な意匠となっている。大きさは口径Φ900の3尺サイズで、高さは850ミリほどだ。

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銘は、「埼玉懸川口町 (そ=社章)永井惣次郎鋳造 昭和5年(1930)9月吉日」という鮮明な陽鋳文字だ。同氏の名が入った桶とは、初対面である。前20で解析したが、左下に「山寅作」とあるのも興味深い。同郷の川口鋳物師の山﨑寅蔵だが、永井氏とは相互にビジネスパートナーであったようだ。

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●昭和8年頃の同社の広告を見てみると、顔写真入りで、多彩な製造品目で営業展開していたようだ。特に練炭ストーブや風呂釜は、「宝印」ブランドと銘打ち、横文字も配されていて、当時としては先進的な広告であったろう。さらに、上述の昭和12年と16年刊の名簿には、「本町 永井鋳造所 永井惣次郎」と記載されている。名簿は「本町」であったが、広告では「栄町」となっていて、この数年の間に移転していた事が判る。

永井鋳造

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こちらはその2年前の広告だが、「薪炭両用今呂(コンロ) 消火装置付竃(かまど) 練炭ストーブ」が写真入りで載っていて、主力製品であったろう事が知れる。他にも「マンホール 金庫枠 倉庫扉 諸機械建築用一式鋳物製造」と多彩にラインナップされている。

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惣次郎は、前出の「川口市錫杖寺・地蔵堂前 永井鑄工所 永井榮造」や、前19項の「都内文京区根津・根津神社 川口町 鋳物師 永井文治郎 明治29年(1896)11月」とも関連があるかも知れない。

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●惣次郎は、明治38(1905)年8月11日に創立した川口鋳物工業(協)の第14代理事長を務めていて、任期は昭和7年から8年であった。また、鋳物師であった弟の徳次郎の子が永井政一(前6項)だが、同氏は「川口機械工業(協)」の理事長を歴任している。

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惣次郎の、文政7年(1824)生まれの祖父・善兵衛は味噌醸造業を営み、安政3年(1856)生まれの父・善兵衛(旧姓清次郎)の長男・幸太郎が28才にして早世したため、次男の惣次郎が家系を後継している。惣次郎は、永井家4代目だという。

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永井鋳造所の創業は明治43年で、惣次郎が初代社長のようだ。社章として、惣次郎の「そ」の字が折り込まれているが、広告にもここの天水桶にも見られる。よって、同社が受注し、天水桶鋳造の専門メーカーの「山寅」こと、山﨑寅蔵に発注したのに間違いない。

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●ここ簸川神社の先代の天水桶は、「川口大百科事典」によれば、「口径92cm、高さ78cm 文政9年(1826)9月吉日 武州川口鋳物師 永瀬文左衛門(後108項) 藤原富次 天水鉢1個」であったと記録されている。1対2基では無いようだ。桶の全体写真も掲載されていて、同じく三つ巴紋が見られるが、やはり、川口鋳物師の作例であった。

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そして発見と言うか発掘だが、この天水桶が、境内に鎮座する五社神社の左脇に現存するのだ。幸いにもその三つ巴紋が正面を向いている。底板が抜け天地逆に置かれ保存されているが、先に記述した災禍による損壊であろうか、歴史を物語っている。前30項では、川口市本町の川口市立文化財センターを訪問しているが、そこには元川口市長の故永瀬洋治の高祖父、「永瀬文左衛門光次」作の「天保10年(1839)10月吉日」銘の天水桶1基が保存されている。

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さらに後108項では、文化財センターの鋳物資料室で、「佐野天明 大川文左衛門」と鋳出された5尺ほどの羽釜を見ている。その鋳造は、「宝暦13年(1763)から、安永4年(1775)の期間」としたが、この鋳物師は、「永瀬文左衛門」だ。

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画像が簸川神社内の五社神社だ。以上に依り、これで、文左衛門製の現存する3例を確認できた訳だが、損壊しているとはいえ、人知れず現存する貴重な1基なのだ。なお参考までに記しておくと、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、現存しないが、「天保5年(1834)10月 東京都台東区東上野 (月峰山)宗源寺 天水鉢1対 永瀬文左衛門」という記録が残っている。

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●最後の目黒区中目黒にある日蓮宗の実相山正覚寺は、掲示板によれば、元和5年(1619)に日栄上人によって開かれている。仙台伊達家との所縁が深く、4代藩主綱村の生母である三沢初子が住職4世日猷、5世日登両上人に深く帰依、諸堂の寄進を受けた他、初子の墓もここにある。

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初子は、綱村の父の3代綱宗の側室であったが、境内には、打ち掛けを羽織った初子の銅像がある。父の隠居謹慎により、わずか2才で藩主となってしまった我が子の安全を、鬼子母神像へ深く祈念したという。

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本殿前にあるのは、直径1.6m、高さ950ミリの巨大な羽釜(後94項)だ。「昭和2年(1927)」に、「荏原郡品川町南品川宿」の人が奉納しているが、何の煮炊きに使用されていたのであろうか、今は天水桶として有効利用されている。羽の上部に「上」と鋳出されているのは、メーカー名であろうか。(後61項参照)

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●同じ境内の隣りにあるのが鬼子母神堂で、額に「開運殿」とある建物だ。サイトによれば、「祈祷本尊として祀られている鬼子母神像は、伊達家三代目藩主綱宗の側室である三沢初子が、我が子の無事を祈念した伝教大師作開運子安鬼子母神様のご尊像。元々は“鬼子母”という言葉の通り、人間の子を食べてしまう鬼として恐れられていた存在でした。

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しかし、悪事を見兼ねたお釈迦様が鬼子母の子を壺に隠して説法したことで、鬼子母は我が子を失う親の悲しみを悟り、お釈迦様に帰依して人の子を守る善神になったと言われています。また、そうした由来から、種が多く子孫繁栄の意が込められている吉祥果「ざくろ」が鬼子母神様の好物とされており、境内に植えられているほか、正覚寺を象徴する寺紋として今でも大切に扱われています」とある。

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●ここに「実相山 17世日騰代」の時世で、「武川口住 鋳物師 金太郎(花押) 嘉永四辛亥(1851)五月吉日」という鋳鉄製の天水桶1対があるが、たまに、「武州」の「州」が略されている桶に出会う事がある。鋳出されてはいないが、苗字は「増田」だ。金太郎製の桶との出会いも、本サイトでは12例だが、前13項などでも紹介済みだ。

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鋳物師の取締元、京都の真継家(後40項)文書を見ると、「天明7年(1787)、川口宿鋳物師増田金太郎、元は、永瀬源内別家永瀬金太郎に有之候」とある。元締めに対し、跡目相続の届け出をしたのでこの文書が残されているのだが、これで鋳造業継続の保障がなされた訳だ。増田家に継嗣が無かったのか、事業継承しなかったのか、金太郎が婿養子に入ったのだろう。どうやら、血のつながりは無いようだ。

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この源内と金太郎は、いずれも初代は同時期の人のようだが、文字列の中に「釘屋 彌(弥)兵衛改」と見えるように、「金太郎」はこの天水桶鋳造に際し、釘屋、つまり金物商から転身(改)、2代目を襲名したようだ。名字の表示が無いのは、未だ、「永瀬姓」にこだわりがあったのだろうか。鋳出し遺された文字が歴史を語っていて今日に伝えているが、重要な文化だ。

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●実はここへは、平成24年(2012)7月に参詣している。天水桶のリニューアル(後79項)前だが、現在の石製の台座はそのまま手入れされず、のようだ。台座1対に「青山 金屋中」とあり、天水桶の裏側には奉納者名がビッシリと陽鋳造されている。桶の大きさは、口径Φ910、高さは740ミリだ。

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そして文字列が追加されている。「開山四百年記念 鬼子母神堂改修」、「令和元年(2019)十一月 三十一世 真華院日祥(花押)」だ。鋳造後168年の時を経て、天水桶に再び魂が注入されたかのようだ。つづく。