.

●平成30年戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)、2018年6月吉日、都内千代田区麹町4丁目の地上に、お稲荷さんが舞い降りてきた。国道20号線、甲州街道、通称新宿通り沿いの住友不動産麹町ファーストビルの1階部分だ。真新しく一新された、正一位豊受稲荷大明神だが、主祭神を宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)としている。

.

説明書きによれば、「当社は、天明年中(1781~)、東京麹町垣見本家の初代、垣見八郎右衛門が、享保元年(1716)、滋賀県(長浜)より江戸に移りし時、豊穣の神である京都伏見稲荷大社より御分霊をいただき、地域とともに栄えることを祈念いたし、現麹町4丁目の地に奉鎮致し、屋敷神としてお祀り致してまいりました」という。

.

●稲荷社は、震災と戦災で焼失後、再建されている。その後の昭和43年(1968)8月3日の泉商事(株)ビル新築に際し、9階の中庭に遷座、そして平成も終盤の年に、再び舞い降りてきたのだ。手水石盤と賽銭箱も、同社によって新たに奉納されているが、そのそばに同年付けの石碑が建っている。

.

「井泉を尊重するは我が国風なり」とあり、大正12年(1923)9月の関東大震災の水道断水に際しては、多くの人命を救った旨、記されている。界隈には沢山の井戸があったようで、泉商事ビルの新築記念として「尚泉水」と命名されているが、社名もそれに由来するのであろう。

.

●垣見家が泉商事を運営しているようだ。免震構造を備え新築となった、冒頭の住友のビル1階に事務所を構えているが、オーナーだろう。滋賀県出身の垣見家は、室町期には戦国武将の浅井長政に仕え、江戸期の忠臣蔵では、大石内蔵助が垣見五郎兵衛の名で江戸入りしたという逸話もある。

.

江戸へ出てきて、酒屋や質屋、両替商を営み、明治4年(1871)、和泉屋という屋号で油脂販売店として創業、垣見油化(株)へと発展している。時代を読む先見性に富んだ家系であったようで、「蝋燭から灯油による照明」になる時代を一早く見越している。

.

「精撰上等香油 君の香」と命名された頭髪油も扱っていたようで、明治14年の第2回内国勧業博覧会(前103項)へも出品、「其製(この製品)善良にして、価格また貴(高)からず販額している。従って頗る嘉す可し(すこぶる良しとすべし)」として、褒状も受けている。時代にあった柔軟な経営手腕も遺憾なく発揮しているが、それは今も同じで、泉商事は不動産業者だ。

.

●さて石碑の隣に、古びてはいるが、黒色に再塗装され甦った鋳鉄製の天水桶が1基ある。口径Φ800ミリ、高さは670ミリで、正面に「垣見」の文字と、「子力」と書かれた家紋らしき扇形の紋章が陽鋳されている。

.

この住友のビルが建つ以前の写真を見ると、地上にこの石碑と桶があって井戸水が注がれていたようだが、この時の鉄桶は受水槽としての役割であった。

.

真裏には、「明治九年子(1876)五月吉日 朝倉三左エ(衛)門」という陽鋳造文字がある。和泉屋の創業後間もなくの造立であったが、この時代に一個人が、高価な鉄製の桶を誂えられるのは富裕層と言える。鋳造者の朝倉は川口鋳物師だ。都会の真ん中で、さらにここまで深くサイトの項が押して初対面の人であったので驚いたが、どうにもこの人の詳細が判らない。

.

●現存しないが、この桶の造立2年後の明治11年(1878)に、川口鋳物師の2代目永瀬庄吉(前104項)が鋳た、川口市の川口神社に奉納された鉄華表(鉄鳥居)の刻銘には名が見える。14人の鉄吹元の1人として、「朝倉三左衛門」とある。吹元は送風装置である「たたら」設備を保有していた訳で、それなりの大きな所帯の工場であったのだ。

.

また、昭和54年(1979)に刊行された、内田三郎(前65項)の「鋳物師」を見ると、「明治初期の川口」の項に、「各文献から得た資料を整理して当時の情況を復元すると、明治以前にも活躍し、明治に入って工場を持ったとみられるところ」として、朝倉三左衛門ほか7人の名が挙がっている。

.

「増田金太郎、永瀬九兵衛(源内)、海老原市右衛門、永瀬留十郎」らそうそうたるメンバーで、当サイトに登場する常連さんばかりだが、巻末の出典根拠の文献があやふやで、詳細に検討できないのが残念だ。

.

●しかし、明治19年(1886)10月18日に浅草廣栄堂の廣瀬光太郎が刊行した、「東京鋳物職一覧鑑」の中の川口鋳物職一覧には朝倉の名が見えない。鉄吹元や銅吹元、小細工人らが合計66人も登場しているのにもかかわらずだ。

.

また60年後ではあるが、昭和12年(1937)の400社近い登録がある「川口商工人名録」には、「浅倉姓」が8件登録されているが、「朝倉姓」は1件だけだ。川口市寿町で鉄瓶や五徳を鋳造していたという「朝倉鋳工所 朝倉松之助」だが、ここは、昭和初期ごろの創業のようだ。これだけでは、三左衛門との関連は不明だ。

.

●栃木県の佐野正田家(前66項)が所蔵する、文久元年(1861)5月付けの「諸国鋳物師控帳」には、延べ27名の川口鋳物師の名が見えるが、「小川三左衛門」となっている。この控帳は、川口市の増田家も所蔵しているが、全く同じ内容だ。

.

またこの18年後の、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」でも「アサクラ姓」は見られず、「小川三左衛門」となっている。単に「三左衛門」つながりだけだが、小川家(前53項)は、先の永瀬庄吉の親戚筋で、青銅鋳物の吹元であったが、この家系であろうか。

.

●一方で、昭和9年(1934)に編まれた川口市勢要覧の「明治以前の川口鋳工品一覧表」には、それらしき記載がある。「弘化2年(1845)4月 浅倉三左衛門 水盤(天水桶) 一双(2基) 入谷鬼子母神」とあり、かなり不鮮明ながら、その68ページ目には正面からの写真も掲載されている。

.

その石台座には、「佛立山」と写っているから、都内台東区下谷の法華宗本門流・真源寺だ。現地へ行ってみたが間違いない、「佛立山」だ。しかし、住職に尋ねても資料が残っておらず全く不明という。既に現存しない桶なので現物での銘の確認ができないのだ。なお正面の紋様は、はじける柘榴(ざくろ)の実だろう。前2項前68項の鬼子母神系の寺社では、同じ意匠のものを見ている。

.

●要覧の一覧表にはさらに並んで、やはり弘化2年だから、麹町のお稲荷さんの桶の31年前だが、「浅倉三左衛門 ワニ口 川口錫杖寺地蔵尊(前38項) 大正改鋳」が記録されている。改鋳とは、ワニ口が割れてしまったのだろう、その素材を溶解して再度鋳造し直したという意味だ。かつて鋳たのが浅倉であり、改鋳した人の銘はここには刻まれていないようだ。

.

苗字が同音異字の「アサクラ三左衛門」がいたのだろうか、刻み間違えであろうか、ここでも朝倉姓ではない。次の画像が川口市本町の地蔵堂だが、ホムペによれば、堂内には厨子に納められた、江戸期以前の開眼と推定される半跏の延命地蔵尊、石彫の坐姿地蔵尊をはじめ諸尊像が安置されているという。堂宇の軒下にワニ口は現存し、今も現役だ。

.

●ワニ口の裏側に「弘化2年(1845) 当所 浅倉三左衛門 大正13年(1924)8月13日再鋳 錫杖寺地蔵堂」と陰刻されている。右から左への縦書きだが、この順序だ。「当所」とあるから、三左衛門は、川口鋳物師だろう。要覧の記録と現物の刻みはほぼ同じ内容だ。

.

昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、上述の小川家の子孫だが、「大正12年 錫丈寺地蔵堂 ワニ口1個 小川次郎吉」、「浅倉三左衛門 弘化2年作を改鋳」となっている。年表では、改鋳時期に1年の差異があるようだ。なお、この年表では、「嘉永3年(1850)増田安次郎(前83項など) ワニ口1個」という記載もあるが、これは錫丈寺本堂宛てであろう。

.

●以上のように、「三左衛門」つながりで文献やら現存する刻銘を漁ってみたが、これらの錯綜というか、相違は一体何なのであろうか。結局のところ、この人の詳細が判らない。しかし、「浅倉三左衛門」はともかく、川口鋳物師「朝倉三左衛門」が明治時代の初期に実在した事だけは確かだ。

.

なぜなら、今回出会った麹町のお稲荷さんの桶に作者本人がそう明記しているからで、まさか本当は「浅倉」であるのに、自分の名を間違えて「朝倉」にしてしまったとは考えられまい。また、近しい2年後の鳥居にも「朝倉」とあった訳で、その補足と言えよう。

.

●まとめてみたが・・、「弘化2年(1845) 入谷鬼子母神・真源寺 天水桶銘 浅倉三左衛門」、「弘化2年 川口市・錫杖寺 ワニ口銘 浅倉三左衛門 大正13年再鋳」、「文久元年(1861) 資料・諸国鋳物師控帳 名前の記載 小川三左衛門」、「明治初期(1868~) 資料・鋳物師 名前の記載 朝倉三左衛門」。

.

「明治9年(1876) 麹町・豊受稲荷 天水桶銘 朝倉三左衛門」、「明治11年 川口市・川口神社 鳥居銘 朝倉三左衛門」、「明治12年 資料・由緒鋳物師人名録 名前の記載 小川三左衛門」だが、3人の「三左衛門」が居たという事だろうか、やはりよく判らない川口鋳物師だ。

.

●ところで、ワニ口の話が出たが、川口市内に現存する最古のものは、川口市坂下町の曹洞宗鳩井山千手院に保管されている。この寺は、戦国時代の永禄3年(1560)に、川口市桜町の龍王山法性寺の4世が開山し創建している。江戸時代に、近くにあった富士山の神を祀る浅間神社を所管していたが、その社頭に掲げられていた、弘治2年(1556)に作られたワニ口が最古のものだろう。

.

説明書きによれば、『表に「富士浅間鰐口 鳩ケ谷地 弘治二年丙辰五月 鈴木春済」とあり、裏に「江戸鋳物師 宇田川信重」と刻まれている』という。鈴木が奉納した、室町時代の工芸品として貴重であるとし、昭和37年(1962)3月に市の文化財に指定されている。

.

この鋳物師は、前68項の文京区大塚の護国寺では、「天和2年(1682)9月吉祥日 宇田川藤四郎 藤原次重」という銘の梵鐘を、また、前127項の鎌倉市山ノ内の円覚寺では、「寛永3年(1626)稔8月3日 冶工 宇田川藤四郎 藤原重次」という銘の梵鐘を見ている。ここ千手院のワニ口は、名乗りの「重」という通字つながりでもあり、数世代前の宇田川家系統の作例であろう。

.

●さて前項では、神奈川県鎌倉の地で川口鋳物師が手掛けた天水桶を見た。今回は、他所で出会った川口鋳物師の作例を挙げてみよう。まずは、茨城県つくば市小田の曹洞宗、萬松山香華院龍勝寺だ。朱色が鮮やかな八脚楼門は、棟札によれば、文化13年(1816)5月6日の落成という。

.

樹木の陰に1対の青銅製の天水桶がある。正面に見えるのは、戦国武将・佐竹氏の家紋、佐竹扇だ。これは、鎌倉将軍の源頼朝から賜った扇を図案化したものともいう。佐竹家は、清和源氏の中でも名門中の名門だが、戦国時代の佐竹義重は18代目で、「鬼佐竹」とあだ名された戦上手な武将であった。ここ常陸の国、茨城県では、その版図を大きく広げている。

.

施主が、菩提供養のため奉納しているが、「平成9年(1997)7月吉祥日 当山25世代 鋳物師 鈴木文吾」と鋳出されている。スタンダードな文吾(前71項)のデザインだが、文字の上に見える紋様は、雨を呼び込むべく描かれた雲のイメージとなっている。

.

●埼玉県戸田市美女木(びじょぎ)の美女木八幡社。入り口にある市の掲示によれば、「創建を鎌倉時代と伝える古社で、祭神は仲哀天皇と応神天皇の二柱です。伝承によると、後鳥羽院の御代、文治5年(1189)、源頼朝が奥州下向の時、当地に立ち寄った際に神のお告げがあり、相州鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと伝えられています」とある。

.

天水桶の中心にある「八幡宮」の文字は、向かい合った鳩のデザインだ。鎌倉武将にとっては、戦の勝運を呼び込む鳥として崇められたし、一方では、平和の象徴として尊重されている。ノアの箱舟伝説では、鳩がオリーブの葉をくわえて戻って来ているし、日本の殺生を戒める放生会では鳩が放たれている。祝いの結婚式や、かつての東京オリンピックで放たれたのも、白い鳩だ。

.

口径3尺弱、900ミリほどの鋳鉄製の1対だが、銘は「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一(前26項) 昭和60年(1985)9月吉日」となっている。

.

●なおこの神社には、不思議な銅鐘がある。今は同市新曽の市立郷土博物館が保存管理しているが、県指定の有形文化財だ。撮影許可書を受理していただいたので画像をアップしたが、説明によれば、「銅鐘は、聖釜(早瀬にあった池)の水中より掘り出され、鐘をつくと大水が出るという伝説があります。

.

 銅鐘には銘文はありませんが、総高111cm、口径が59cmで全体的にすっきりとした姿をしており、撞座の蓮華文様や下帯の忍冬唐草文様に雄健で精巧な表現が見られます。これらの作風から、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて製作されたものといわれています」という。なるほど、吊具下の肩にはなだらかな丸みが無く、角ばっていて、近世の和鐘の印象ではない。いわゆる朝鮮鐘(前109項)と言われるタイプだ。

.

●伝説によれば、『池からの引き上げの際、信心深い人々は、「きっと龍宮の乙姫様から八幡さまへの贈り物なのだろう」と、早速これを美女木の八幡さまへ納めました。ところが不思議なことに、その後、この鐘を撞きますとその度に大水が出て、人々が困りましたので、それからは「水鐘」といって恐れ、誰も撞くことをしなくなりました』という。

.

実際の撞座を見ると、上述のように蓮華紋様が確認できるが、これは現代の銅鐘でも一般的な意匠であり、永く継承されてきた文化であることが判る。ただ、その摩耗具合からして、かなり打鐘されてきたであろうと思われる。仏霊を礼拝するために存在するのが銅鐘であるとすれば、どこかの寺社に所属していた什物であったかも知れない。(前53項参照)

.

●都内府中市宮西町の時宗、諸法山称名寺。「天慶3年(941)に起立され、寛元3年(1245)、道阿一光上人により開山」とホムペにあ1る。説明板によれば、「境内の地蔵堂は日限子地蔵尊をまつり、近隣の信仰が厚い当山五十世廓蓮社忍誉上人他阿万的大和尚が念持仏として木造の地蔵尊二体をつくり、石地蔵の台座の中にお納めしてある」という。

.

1対の鋳鉄製の天水桶は、口径Φ1.2m、高さは95cmの存在感ある4尺サイズで、正面には、「隅切り角に三文字」の紋が据えられている。時宗の開祖は一遍上人だが、これを宗紋としている。戦国武将では、美濃の古豪で春日局の養祖父としても知られる稲葉一鉄の家系でも使われている。三文字は、三木あるいは算木と称されることもあるようだ。

.

「称名寺60世 長島孝道 僧正御代」の「昭和38年(1963)4月8日」に、檀信徒一同が奉納しているが、作者は、「川口市 設計 山下誠一 仝(同)鈴木文吾」となっている。時宗の総本山は、次に見る神奈川県藤沢市の藤沢山遊行寺だ。

.

●では、藤沢市西富の時宗総本山、藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺だ。正中2年(1325)、4代呑海上人の開山以来、遊行上人が住まわれる寺として、遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られる。朝廷や足利幕府の庇護を受け、天正19年(1591)、徳川家康の関東入国に際しては寺領100石の御朱印状を受領している。本尊は、玉眼寄木造の阿弥陀如来坐像で、像高は141cmだ。

.

ここは、歌川広重の東海道五拾三次の「藤澤」にも描かれている。この浮世絵は、奥に見える遊行寺を背景に江の島一ノ鳥居を構図にしていて、大鋸橋(現遊行寺橋)付近が大山詣や江の島詣の参詣者で賑わった様子を描いている。藤沢宿は宿泊客で大変な賑わいを見せたが、遊行寺は、江戸期の参勤交代では大名の宿泊所として利用され、明治時代には天皇のお旅所ともなっている。

.

●「時也 延文元年(1356)7月5日」鋳造の梵鐘は、県指定の重要文化財で、総高168cm、口径92cmだ。鋳工銘が陽鋳されているが、662年前の鋳造物であり、摩滅が激しくうまく読み取れない。ホムペによれば、遊行寺8代渡船上人の時にあたり、「冶工 大和権守 光連」銘のようだ。

.

前127項で見てきたが、鎌倉市の円覚寺では「大和権守 物部国光 正安3年(1301)」、建長寺では「大和権守 物部重光 建長7年(1255)」が梵鐘を鋳ていた。同じ国名(前99項)を拝し、名の「光」が共通の通字だ。ここ遊行寺の鐘には苗字の表示が無いようだが、「光連」は、物部氏一族であろう。

.

●長い銘文が、タガネで彫られた陰刻ではなく陽鋳造文字である事にも注目したいが、同市による掲示板を読んでも「物部光連」の作例と断定されてはいない。「この他の光連の遺作には、伊勢原市日向宝城坊の暦応3年(1340)銘梵鐘、鎌倉市東慶寺蔵の観応元年(1350)銘梵鐘がある」という。

.

続けて「銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、中世の時宗の姿や遊行寺を有する当時の藤沢の様子をつたえる貴重な史料である。この銅鐘は、永正10年(1513)に後北条氏によって小田原へ持ち去られ、陣鐘として使用された。さらに足柄下郡の寿昌寺に移転されたが、江戸時代初めの寛永3年(1626)、遊行寺の檀徒の手により取り戻され、再びここに設置されたものである」と説明されている。

.

●本堂前の鋳鉄製の天水桶1対は、「宇佐美興行(株)」によって寄進されている。同社は、鉱油の宇佐美ではなく、神奈川県川崎市に本拠を置く会社のようだ。正面には、五七の桐紋が据えられていて、向かって左側の桶では皇室の八重菊紋となっているが、格式の高貴さがうかがえる。

.

大きさは、上部の開口部が1.7m、高さは1.4mだ。作者は、「昭和40年(1965)8月吉日 鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一」で、仲の良いいつものコンビとなっている。

.

昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」で、ここの天水桶鋳造の来歴を見ると、「天保10年(1839)3月吉日 金太郎(前13項など) 天水鉢1対」となっている。戦時に金属供出(前3項)してしまったのであろうか、今は存在しないが、いずれも川口鋳物師の作例であった。

.

●境内に登録文化財の手水舎があり、ここに一風変わった鋳鉄製の手水盤がある。大きさは、口径Φ1.5m、高さは800ミリだ。現存する金属製の手水盤は稀有だが、丸い蓮華形状のものは、ここだけだ。他の類例は角型や舟型であったが、前7項にそれらのリンクを張ってあるのでご参照いただきたい。

.

「明治百年記念」として設置されているが、ホムペによれば、「住古より、余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ、文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い、資源不足のためにやむなく供出され(前3項)、茲に25年後、篤志家の御賛同を得て復元いたしました」という。旧鉢はよほど見事な出来映えであったのだろう、残念だ。

.

ここには、宗紋の「隅切り角に三文字」が据えられている。「昭和43年(1968)9月吉日 遊行71世 他阿隆宝上人御代」であったが、「藤沢市長 金子小一郎」ら多くの発起人の名が陽鋳造されている。金子は、市長を通算6期務めた名誉市民だ。作者はここでも、「設計者 山下誠一 鋳物師 鈴木文吾」のコンビだが、山下の名が先順のようだ。

.

●続いて、川口鋳物師の山崎甚五兵衛が手掛けた天水桶を見てみよう。まずは、静岡市清水区三保の御穂神社だ。境内の由緒略記では、「創建の時は不明であるが、千古の昔より三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、国土開発の神と崇められると共に、天から天女が舞い降りた羽衣伝説ゆかりの社としても名高く、朝野の崇敬をあつめた延喜式内社である」という。

.

殿前に奉納された「美醸酒 臥龍梅」は、当地の三和酒造(株)の醸造だ。「戦国時代末期、人質時代の徳川家康は、一時期、近隣の清見寺に暮らし、庭の一隅に一枝の梅を接木したと伝えられています。諸葛孔明の故事どおり、家康はこの地にひそみ隠れておりましたが、その後、龍が天にのぼるがごとく天下人となりました。

.

梅は大木に成長し、今も、毎年春三月には凛とした風情で花を咲かせております。さながら龍が臥したような見事な枝振りもあいまってか、何時の頃からか臥龍梅と呼ばれるようになりました。当社では故事に習い、やがては天下の美酒と謳われることを願って臥龍梅と命名いたしました」という。ホムペからの要約だ。

.

●多くの奉納者名と並んで、「昭和46年(1971)11月1日 川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されている。ごくスタンダードな意匠の、鋳鉄製の1対だ。上述の史料「鋳物師」を見ると、ここにあった以前の天水桶は、川口鋳物師の「天保4年(1833)8月 永瀬源内(前14項)」作であったと記載されている。昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」の記載も同等で、「水盤(天水桶) 一双(2基)」となっている。

.

川口市から海沿いの当地までは、直線距離にして150km弱の位置関係だ。天保時代のこの当時、重い製品は舟で運ばれたのだろうか、出吹き、出張鋳造であったのだろうか。あるいは当時どんな縁があって、遠い遠州の地での鋳造となったのか興味津々だが、今となっては知る由もない。残念ながら戦時に金属供出(前3項)したというが、現在の2代目の天水桶も川口製であった。

.

●次は、茨城県取手市白山の浄土宗、大鹿山弘経寺。応永21年(1414)、嘆誉良肇上人の開創で、木造立像の阿弥陀三尊が祀られている。ホムペには、「天正18年(1590)、徳川家康が当地に遊猟の際、案内した住職の宣誉上人が有徳の僧であったことから、特に境内外三十石の御朱印を授かるに至り」とある。

.

また、「歴代住職の中から学徳兼備の照誉了学上人は、徳川家の菩提寺である芝増上寺の住職に上任されています」ともある。鋳鉄製の桶の正面に葵紋が見られるが、徳川家との浅からぬ縁の証左となっている。

.

寺は、昭和22年(1947)10月、不慮の災禍により本堂ほかを消失、その後は仮本堂での運営であったが、第29世精誉明進の時世に再建となっている。「昭和47年(1972)3月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されている1対の天水桶は、それを記念しての造立であった。

.

●横浜市泉区上飯田町の日蓮宗本山、法華山本興寺。弘和2年(1382)、顕本法華宗の開祖・日什(にちじゅう)上人が事実上の開祖というが、市のサイトによれば、鎌倉の本興寺が幕府の弾圧に遭い、万治3年(1660)、日蓮ゆかりのこの地に移転したと言う。

.

明治2年(1869)に落成の本堂には、武州伊奈(五日市町)の彫師、小川長恒による七福神を始めとする見事な彫刻があるが、非公開だ。1対の天水桶は、蓮華型で正面に寺紋の「丸に二つ引き両」を据えている。鋳鉄製なので、サビ汁が台座まで流れていて見苦しいが、そろそろリニューアル(前79項)すべき時期だ。

.

「昭和52年(1977)10月吉日 第66世 日勇代」の時世に、「川口市 山崎甚五兵衛」が鋳ている。同氏による青銅製でのハス型形状の桶は、これまでに5例ほどを見てきているが、鋳鉄製としては3例目であり希少だ。この他は、前24項で見た、港区高輪にある曹洞宗、龍渓山源昌寺のハス型鋳鉄製の1基と、後132項の横浜市神奈川区子安通・密厳山不動寺、通称踏切寺の1対であった。

.

●横浜市保土ケ谷区神戸町の日蓮宗、妙栄山大蓮寺には、「日蓮大聖人帷子之里御霊場」という石碑が建っている。掲示板によれば、「仁治3年(1242)、日蓮聖人が比叡山へ遊学の途次、保土ヶ谷宿にて淨土宗の一民家に宿泊、釋迦尊像を玩弄しているを見たまい、その本末の誤れるを教示したので、後年家主は改宗、自ら開眼感得せられる釋迦尊像を安置す」という。開山は江戸時代初期で、日蓮聖人が泊まった家を法華堂に改修したのが寺の始まりという。

.

本堂の檀上にある鋳鉄製の天水桶は、口径1mで大きめのサイズだ。柵が障害となって全体を写し込めないが、堂々たる1対だ。「妙栄山31世 田島海義日静」が陽鋳文字で「謹誌」しているが、「当山本堂大改築 並ビニ境内石垣総工事ノ 浄業円満ニ竣工ス」とある。これが天水桶奉納の記録だ。

.

「昭和38年(1963)10月吉日」の造立で、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」であった。半世紀を経ているが、最近再塗装が施されたようで、新品同様に甦っている。かつては、階段下の地上での設置でサビ付いていたようだが、完璧な再生だ。一手間加えるだけで見違える好例と言える。

.

●川崎市多摩区登戸の真言宗智豊山派、稲荷山光明院。室町時代末期に、源空法印(永禄9年・1566年寂)が開山したという。掲示によれば、所蔵の木造不動明王(前20項)は、火焔光背を背負っていて、左右に二童子立像を従える不動三尊形式の像で、市の重要歴史記念物だ。20cmに満たない小像だが、光背裏の墨書銘によって天文22年(1553)に造立した像であることが判るという。

.

山門も含め、豪奢な殿前の光景だが、梁の金具は新調され、彫刻物は丁寧に彩色されている。登り龍も獅子の木鼻も躍動感一杯だ。正面に五七桐紋を据えた鋳鉄製の天水桶1対も、心地よく再塗装され甦っている。

.

●中の水が抜かれていて、観察できるので見てみよう。底部には排水コック用の穴が開いている。肉厚は場所によって違うようだが、概ね10~12ミリほどのようだ。下すぼまりで、3段形状になっているが、本体の重量は、200kg程度なのであろうか。

.

安定感抜群の台座の上に収まっていて、額縁には卍紋が連続している。檀家の奉納だが、鋳造は、「昭和44年(1969)10月吉日 光明院興道代」の時世で、「川口市 山崎甚五兵衛」銘だ。

.

●福島県白河市菅生舘にある南湖神社は、日本最古の公園と言われ、農林水産省の「ため池百選」でもある南湖公園のそばに鎮座している。祭神は松平定信だ。定信は、江戸時代中期の大名で老中も務めているが、陸奥白河藩第3代藩主だ。第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たり、寛政の改革を行った事で知られ、今は都内江東区白河の霊巌寺に眠っている。

.

1対の天水桶には、神紋の「星梅鉢」が据えられている。松平家は、徳川家康に由来する久松松平家であり、遠祖は菅原道真公という事からの縁だ。平成23年(2011)の東日本大震災では、神社も甚大な被害を被り、灯籠や社務所、宝物館や本殿の基礎などが損壊している。桶の台座も半壊していて、位置ずれもしているようだ。

.

鋳鉄製の桶だからサビが目立つが、サンドブラストし塗装すれば、殿前の脇役として間違いなく甦るはずで、早期の修復が待たれる。作者は、「昭和59年(1984)7月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されている。

.

●次は、都内青梅市成木の成木熊野神社。掲示板によれば、元亀2年(1571)、小田原北条氏に属していた在地の武士の木崎美作が、紀州熊野権現を勧請したことに始まるという。棟札から寛永17年(1640)建立と判る本殿は、都指定有形文化財となっている。

.

天明元年(1781)に石灰石で造られたという、画像右側の長い石段を登ると、南面の山頂から麓にかけてが神域で都の指定史跡になっている。不思議なのは、拝殿へのアクセス法がこの石段しかないようなのだ。自動車はもちろん、リアカーでさえ近づく道が無い。

.

●この青銅製の重い天水桶や、石灯籠や狛犬、石手水盤はどうやって運び入れたのだろうか。毎年の獅子舞奉納は、近年の少子高齢化で多難のようで、町内会館から境内への荷物上げのボランティアを募集している。「階段は184段ありますので体力に自信がある方は是非」と言っているのだ。腑に落ちず、再度狭い境内を歩いてみたが、やはり石段しか道は無く、車両は通れそうにない。

.

梨地調の肌が目を引くが、1対の奉納は「成木熊野神社 氏子中」で、「昭和57年(1982)10月 川口市 山崎甚五兵衛」の造立だが、この年に本殿の修理が行われたようで、それを記念しての設置だろう。

.

●最後は、茨城県日立市水木町の泉神社。平安期の延喜式神名帳にも記載されている、この地方最古の神社で、天速玉姫命が祭神という。一帯の泉が森は茨城百景となっていて、「平成の名水百選」にも認定されている湧水池がある。周囲は50mほどで、水温は夏冬ともに約13度というが、泉大明神とも称される根源となる泉だ。

.

堂宇前に1対の青銅製の天水桶が置かれている。「泉神社 氏子一同」の奉納だが、「延喜式内 常陸二十八社」と陽鋳造されている。先の神名帳には、大社7座7社と小社21座20社の計28座27社が記載されているが、その内の1社なのだ。作者は、「昭和61年(1986)3月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」だ。

.

●青銅製に限れば、本項に至るまでに、同氏が手掛けた天水桶を16例32基、紹介してきた。「昭和33年4月 豊島区巣鴨・萬頂山高岩寺(前102項)」から、「昭和62年4月 埼玉県戸田市・長誓山妙顕寺(前50項)」までの29年間の作例であった。

.

一方、鋳鉄製の天水桶は、「昭和22年(1947)8月 神奈川県藤沢市・寂光山龍口寺(前114項)」から、「平成4年(1992)5月吉日 戸田市・笹目神社(前84項)」、「同年同月 川越市・孤峰山蓮馨寺(前98項)」までの45年間で、118例、235基だ。

.

●ところで、山崎が手掛けた天水桶の設置場所であるが、鋳造の地、埼玉県川口市金山町から最も遠い所はどこであろうか。ここ茨城県日立市の泉神社は、カーナビ計測によれば113kmだ。前87項の時点では、群馬県沼田市榛名町の榛名神社が最も遠くて、116kmであった。先ほど登場した静岡市の御穂神社が148km、白河市の南湖神社が182kmで、ここが出会った中では最も遠隔地だ。

.

今回特集した川口鋳物師・山崎甚五兵衛は、昭和期を代表する天水桶鋳造のトップメーカーとして君臨していた。当サイトでは、延べ20項ほどで登場しているが、特集を組んだ項をここに記しておこう。前1項前24項前27項前41項前50項前56項前57項前84項前102項前106項前114項後132項だ。つづく。