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●数年前のこと、主治医に「すぐに運動不足を解消しなさい」と言われ、家の近所を散歩してみたが、見慣れた土地を歩いたって面白くない。経験上、3日坊主であることを自覚しているから、それを踏まえて考えた。第2の別の目的を持てばいい。じゃあ、有名どころの寺社にでも行って江戸情緒にでも浸ってみよう。

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浅草界隈、隅田川周辺を何回か散策した。見知らぬ土地、寺社の由緒を知ることに興味沸騰。書物を読みだし、ネットでの知識獲得に楽しみを見い出し、次週の予定を立てる時のわくわく感にのめり込んだ。五色不動を巡ってみる、徳川家菩提寺の三縁山増上寺や東叡山寛永寺に墓参してみる、浮世絵の中に見られる名所を訪ねる、富士塚に登ってみる・・

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●平気で小一日歩くことなど日常になってきた時、江戸検定なるものの存在を知った。第6回のお題は「江戸の名所~緑あふれる世界有数の都市~」だ。なるほど、今自分が一番興味あることに関する出題ではないか。第3の目的ができた。

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受検日は平成23年(2011)10月30日で、同日に2級と3級を受けた。マークシート方式で、90分で100問中70点以上が合格という。過去の出題本を買いあさり、模擬してみると3級は86点、2級は77点。大いに自信になり、そして合格。3級は97点、2級は88点、上出来だった。

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●では次は1級か?しかし、過去の問題を見てみると40~50点取るのがやっと。聞いたことも無い人名やら古文書がやたら出てくる。ツアコンなど、江戸案内で生計を立てる人が挑戦するような分野だ。難関だな、どうしよう。

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そんな矢先だ。寺社本殿を前にすると、屋根から落ちる雨水を受け止めるために存在する、天水桶の存在が気になり出した。工業都市川口の出身だ、鋳物には自然に興味が向く。桶の裏側に廻ってみる。作者銘として、「武州川口鋳物師 ○○」などとある。

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しかも多彩な鋳造人達。他の地方の人の名前がそこにあっても良さそうなものなのに、多くは「川口製」(後100項)なのだ。調べずにはいられなくなった。かくして1級受検の目的感が薄れ、天水桶の探求に没頭する羽目になった。

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●伝統的な鋳物産地の有名処としては、岩手県水沢市の南部鉄器、富山県高岡市の青銅鋳物、三重県桑名市、広島県広島市の機械鋳物などで、各地に分散している。銅、真鍮(しんちゅう)など、材質による地域の特性、あるいは鋳物師によって大物鋳造が得意だとか、美術品に特化しているとかの個性もある。

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日本の平成15年(2003)ごろの全鋳物製品生産量は約612万トン/年で、全世界の1割弱だ。目的別では、基幹産業である自動車用が6割以上となっている。川口市の近々のデータをみると、30万トン前後で国内の5%ほどだ。

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工業統計によれば、川口鋳物が日本一の生産量を誇ったのは、軍需が多かった戦時中の昭和17年(1942)で、同48年(1973)には、40万7千トンとピークに達している。しかし、現在の川口鋳物業界の底力は量ではない。他の追随を許さない蓄積されたノウハウにこそあろう。

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天水桶の裏側を見ると、産地や鋳物師名、設計者名が鋳出されている事があるが、鋳物製造には木型や、蝋(ろう)型を作る作業も必要。基本的に、これらの人たちがタッグを組んで製品を作ることになるが、製造実績のある地域、鋳物師に発注が偏るのは、当然の流れだろう。

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●ではまた、川口製の天水桶の画像をアップしてみたい。まず、お茶の水駅近くの千代田区神田駿河台にある太田姫稲荷神社だ。長禄元年(1457)、太田道灌(後89項)時代の江戸城本丸内に創建したと伝わる。狭い境内だが、ここに1対の鋳鉄製天水桶がある。大きさは、口径Φ600、高さは530ミリだ。

お茶の水・太田姫稲荷神社

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裏には、多くの奉納者名が鋳出されている。この神紋は「丸に細桜」であろうか。通常、桜紋は5枚葉で、どんなにアレンジされていても葉の先端がV字形だ。しかしこれは違うようだ。「桔梗紋」なら葉がかなり幅広いのであるが、ここのは、「細桔梗」と呼ぶべきものかも知れない。

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「鋳造人 武州川口町 (山笠に亀の社章) 田中亀太郎 昭和4年(1929)」銘であるが、企業名を特定できない。昭和12年(1937)11月に調査された、「川口商工人名録」の中の、400社近くある「鋳物製造」部門にもこの氏名は登場してこない。なお、後79項でもここへ参詣しているのでご覧いただきたい。

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●川口の秋本鋳工場の作例は、豊島区雑司ケ谷の鬼子母神堂前に設置されている。ここは近くの威光山法明寺(後31項)の境外仏堂で、台東区下谷の鬼子母神佛立山真源寺(後128項)、千葉県市川市中山の正中山法華経寺(後55項)とともに江戸三大鬼子母神として多くの崇敬を集めている。1対のこれは凝った作品で、羽釜形状の桶の上に鋳物製の手桶が10個載っている。

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手桶は左右1対で合計20個だが、1個づつ個別に鋳造してタワー化されている(後12項)。サビを落として塗装を施すと見栄えが良くなる訳だが、逆に浮いてしまい、廻りの景色とのバランスが悪いのかも知れない。正面に配されている紋様は、はじける柘榴(ざくろ)の実の意匠だが、鬼子母神系統の寺社では、この紋様がよく見られる。

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後68項後128項でも柘榴の紋様が登場しているが、上部が広がっているのは、実がはぜている様の表現であろう。柘榴には、たくさんの小さな実が詰まっているが、そこに子孫繁栄を当てはめ縁起のよい果物とされる。これは世界共通であり、子宝のシンボルだ。そんな意味でここの「安産信仰」へとつながるのだろうが、何気ない紋章にも深い意味があるのだ。

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羽釜は、「施工者 川口市 秋本鋳工場 昭和40年(1965)10月10日」の設置だが、石製の台座や銅製の銘板には、「文化元年(1804)9月吉日奉納」とあり初期の奉納の歴史が知れる。戦時の金属供出後(後3項)、「明治通算100年」の記念に、「総鋳鉄製として、旧態以上のものを建設奉献するものなり」とある。

マハルコターツのブログ-鬼子母神2

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●同じく、「川口市 秋本光造 謹製」銘の桶は、足立区千住の千住氷川神社に鎮座している。ここは元禄4年(1691)の創建といい、文化財として、文化14年(1817)の亀田鵬斎筆の幟を保持している。亀田は、三井親和(後17項)を師とした書家で、文政9年(1826)に75才で没しているので、66才の時の書による幟だ。

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1対の鋳鉄製天水桶は、口径も高さも900ミリほどだ。額縁の縦幅が150ミリほどと広く、雷紋様(後116項)が廻っている。この幅広の紋様が、秋本製の特徴だ。本堂の改修記念に設置されたようで、「川口市 山一商店 調達」であったが、「昭和39年(1964)8月吉日」の造立であり、半世紀前だ。

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この年を時系列でみると、1月に日本麦酒がサッポロビールに社名変更、3月にシャープが電卓を発表、6月には、新潟地震が発生、9月に東京モノレールが開業、そして10月には アジア初開催となる第18回東京五輪が開催されている。目まぐるしい年であった。

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●なお、川口鋳物師がここで手掛けた天水桶の来歴を、昭和初期の「川口市勢要覧」で見てみると、「嘉永七年寅歳(1854)九月 永瀬長右衛門(前24項など) 水盤(天水桶) 一双(2基) 千住氷川神社」となっている。先代と思われるこの1対は、戦時に金属供出(前3項)してしまったのだろうか。

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また、千葉県成田山新勝寺(後53項)では、同社が寄進した玉垣が見られる。刻みは、「川口市本町四丁目 秋本鋳工場 秋本光造」だ。ここの天水桶の銘からして、昭和半ばの設置であろう。この後、当サイトでは、続々と秋本製の香炉や天水桶が登場するが、後21項後81項などに全てのリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●最後は、「武州川口 増田安次郎」作で、足立区千住宮元町の千住神社(後28項)にある天水桶だ。略誌によれば、「ここは江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社がありましたが、明治6年(1873)6月、両社を合祀して西森神社と改め、更に、大正4年(1915)12月15日以来、千住神社と改めた」という。千住七福神の恵比寿さまを祀り、浅間神社、八幡神、道祖神など多くの境内社がある。

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鋳鉄製の天水桶は1対で、正面には、一体鋳造された「奉献」という文字がかなり大きく鋳出されているが、凝ったデザインもなく至ってシンプルだ。大きさは口径Φ840、高さは670ミリで、900ミリ角の石の台座に乗っている。背丈が短いようだが、安定化のため下部の何割かが台座に埋め込まれているのだろう。願主は、「千住壱丁目 広瀬屋幸五郎 同 き勢」だ。

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●銘は、「武州川口 御鋳物師 増田安次郎 安政五戊午歳(1858)正月日」と鮮明に鋳出されている。ご存知でしょうか、この人。江戸オタクの人なら、名前は聞いたことあるなんて方もいらっしゃるかも知れません。後述するように、増田家は幕末の大砲(後118項など)の鋳造家で、多忙を極めていた頃の貴重な作例だ。

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「安次郎」銘が見られる、現存する鋳造物は今や稀有だ。当サイトでは、台東区上野桜木・東叡山寛永寺(後13項)、川口市本町・川口市立文化財センター(後30項)、大田区北嶺町・御嶽神社後43項)で数例が登場するのみだ。

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一方、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、現存しないが作例の記録が残っている。「明治13年(1880)1月 東京都港区芝公園 芝東照宮 増田安次郎 天水鉢2個」だ。

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●なお、年表によれば、ここの先代の天水桶は、「弘化4年(1847)9月 永瀬喜市郎(後28項) 天水鉢1対」となっている。永瀬も川口鋳物師だが、たった11年後に再度鋳られたというのは、火災などによる焼損であったろうか。神社の「現存する再建修復の記録」という石盤を見てみると、「弘化2年 造営落成」と刻まれているが、これを記念しての鋳造であったに違いない。

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境内には神輿庫があるが、現在その前には、コンクリート製の天水桶が1対ある。先の石盤には「昭和20年(1945)戦災焼失」と見え、境内の「由緒」という石碑には「昭和20年4月、戦災にあい、全ての建物は焼失した」とある。あるいは、焼失前には、増田製と永瀬製の2対4基が同時に存在したのかも知れない。いずれにしても、災禍を逃れ無傷で現存する天水桶は貴重だ。

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●増田安次郎は、現在も川口市本町に立地する「増幸産業(株)」の初代の方で、160年ほど前に18ポンドカノン砲を造っている。現在は、超精密粉砕機などの製造で名を馳せている。

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同社のホムペによると、『この大砲は、幕末の嘉永5年(1852)に津軽藩(現青森県)の依頼により、川口の鋳物師として名にあった増田安次郎(当社代表の増田家初代)と、後の砲術奉行となった高島秋帆とが協力して、当時不可能とされていた大型砲の鋳造を可能にした。

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●嘉永5年から安政5年(1858)までに、213門の大砲と41.323発の砲弾が作られ全国各地に供給された。鍋、釜などの日用品鋳物から大砲の鋳造へ乗り出すことは想像に余りある大冒険だったに違いないが、当時のチャレンジ精神は現在も粉砕機の開発に受け継がれている。』

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との事だが、ここで 砲術師「高島秋帆(後55項)」の名前が出てくることに興味津々だ。安政6年、大砲の鋳造に成功し、安次郎は高島から「独自の大砲を開発し、国家の干城(かんじょう=楯となり城となり、国家を守護する人)である」と褒め称えられている。増田家は、幕末の武器鋳造の御用達鋳物師だったのだ。画像は、同社の前にある大砲のレプリカだ。

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●砲身にある鋳出し銘は、「嘉永5年(1852)仲春」と読める。材質は青銅製で、弾丸は炸裂弾であったという。辞書によれば、炸裂弾とは、破裂して爆風および破片を飛び散らせることによって高い殺傷能力を発生させる砲弾のことだ。

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「武州足立郡川口 鋳物師 増田安次郎」と誇らしく浮き出ているが、性能は、全長3.5m、口径15cm、重量3トンで、射程距離は、2.5kmという。

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●川口鋳物工業協同組合には、手のひらサイズのレプリカも存在する。川口キャスティー内だ。砲身には、同じく「武州川口 嘉永5年仲春」と陽鋳されていて、小さいながら味わいがあるオブジェだ。説明板によれば、「18封度(ポンド)カノン砲(後82項)」だ。

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図面は、川口市立の中央図書館に存在した。先端は、「廻3尺4寸7分」とある。外回りの円周の長さだが、それから計算すると外側の直径は33cm強だから、先の数字「口径15cm」が内径、つまり砲弾の外径だ。移動用の車輪付きの架台は、「車工 井上七兵衛」によるという。

大砲図面

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●さらに続けて、『数ケ月前に大砲の歴史を研究している方から、増田安次郎(当家の初代)が幕末に造った大砲の実物がパリに有るという衝撃的な話を聞き、是が非でも確認しなければ!と、訪仏した。

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この大砲は、1863年に長州藩が馬関海峡(現関門海峡)を航行する米仏蘭の黒船を砲撃した事件(下関戦争)の際、敗北した長州藩の大砲を戦利品として英仏軍が持ち去ったもの。そのうちの1門がフランスはパリのアンバリッド軍事博物館にあるというのだ。

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地下鉄Varenne駅で降りると目の前がアンバリッド軍事博物館。正面玄関に回り込むと前庭に数十門の大砲が展示されている。吸い寄せられるように近づくと、そこにあった。長州藩の家紋がくっきり!「十八封度砲 嘉永七年春 於江都葛飾別処墅鋳之」と刻印されている。嘉永7年(1854)・・ 今から156年前に我が先祖が心血注いで造り上げた大砲だ。

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まるで引き寄せられるが如くいとも簡単にたどり着いたのは不思議な力を感じた。日本国内には存在しない実物が、遙か地球の裏側にあったとは、まさに歴史のなせる技としか言いようがない。先祖の魂を受け継ぐことができた、そんな気持ちになれた最高の旅だった。I shall return ・・ 近い将来、再びこの地を訪れることを心に誓った』とある。

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●史実として、当時、幕府の大砲鋳造所指南役であった安次郎は、高島秋帆の指示により、長州藩の鋳物師の郡司喜平次に鋳造の手ほどきをしている。その現物が、フランスのパリに存在するのだ。

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なお、同鋳物師に関しては、後82項後103項などでも詳細に解析しているのでご参照いただきたい。画像は、後90項で見る、千葉県茂原市高師・市立郷土資料館蔵の「天保十五(1844)辰八月吉辰 鋳工 増田安治郎 藤原重益」銘の大砲。

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幕末から戦争時代への流れは、特に川口の鋳物業界にとっては産業維新の時。まさにウナギ登りの隆興の時代であったろう。天水桶の裏側の鋳出し文字からいろんな事が見えてくる訳で興味は尽きない。次回は、全国に名を知られる川口鋳物師を紹介しよう。つづく。