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●いわゆる江戸近郊には一体どれだけの寺社仏閣が存在するのだろうか。全てを廻りきれる訳も無かろう。天水桶が設置されている所へピンポイントで行ければいいのであるが、なかなかそうもいかない。しかし少しは方法はある。ネットにアップされている本殿の画像をチェックするのだ。寺社のホムペや参詣者が撮影した写真だ。

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あるいは、グーグルマップで見られる画像だが、ただそのほとんどは本殿や鳥居が中心で、天水桶を意識して撮影された全体像を見れる事はあまり期待できない。着眼点が違うから仕方ないのだが。1つでも見つけた地域を中心に、気ままに気長に見て歩き、出会った時の喜びに浸りたい。さて、これからは、気になる天水桶をランダムにアップしようと思う。

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●先日、某テレビ番組で川口市鳩ケ谷本町が紹介された中で、鳩ケ谷宿の鎮守、氷川神社の拝殿正面の景観が放映がされた。ここの「鳩ケ谷絵図」は市指定の有形文化財で、市内最古の「御宮地絵図」だ。元禄10年(1697)頃に作製されたという。

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絵図には、日光御成道を中心に鳩ケ谷宿の町割と用水、宿内の神社や寺院などが描かれていて、1軒ずつの屋敷地の間口と奥行きの寸法や居住者名など、69軒分の情報も細かく記録されてる。(市教育委員会による)

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●ほんの一瞬の放映だったが、着目点が違うから、1対の鋳鉄製天水桶が設置されている場面は見逃さない。まだ行っていなかったので、早々に参詣してきたが、予想通りすばらしい桶に出会えた。奉納は、「伊勢太々講」の講員で、氏名が並んでいる。丸い紋章には「鳩」の文字が見えるが、本体の大きさは、口径Φ900、高さは830ミリだ。

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「川口町 業工 永瀬正吉 明治16年(1883)3月27日」とあり、鋳物師を「業工」と表現している。彼は、前15項で紹介の通り、足立区東伊興の常福寺の桶なども手掛けている。正吉の銘は代々世襲されているが、そこのは明治21年(1888)の鋳造だから、時期的に同じ人だ。人物については、後104項などで詳細に解析している。

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伊勢太々講の銘は、境内の石垣や石碑、鳥居など多くの奉納物に見られる。この鳥居の柱は鉄製であるが、鋳造物ではないようだ。「第60回式年遷宮参拝記念」として、昭和49年(1974)10月に改装されているが、柱には「天保11年(1840)12月吉日建立」という銘板がある。礎石には、「當(当)所 氏子中」とあるが、これは天保期のものであろう。

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●さらに、拝殿裏の本殿の囲いの中に1対の天水桶がある。鋳鉄製だが、大きさは2尺、600ミリほどであろうか。サビに覆われ手入れが必要な時期だが、上部の額縁には、三つ巴紋と花紋様が配されている。

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造立日は、「明治三庚午(かのえうま)歳(1870)十月吉日」と鋳出されている。作者名は壁際でうまく確認できなかったが、鳩ケ谷郷土史家の岡田博氏の、「まるはと叢書(そうしょ=シリーズ) 第九集」によれば、「川口鋳物師 永瀬利右衛門(後92項) 献納 当所 松坂屋八五郎」となっている。現存する利右衛門銘の天水桶は、この1対だけであり貴重だ。

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文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」や明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「足立郡川口駅」の項にはこの名前が登場するが、「安政4年(1857)12月 当家並自分継目」となっている。京都真継家(後40項)傘下の勅許鋳物師として、登録を更新したという意味だ。

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●最近また四角い天水桶に出会ったが、主祭神を榊皇大神としている台東区蔵前の第六天榊神社だ。景行天皇40年(110)、日本武尊が東夷征伐の折に創建したというが、全国に奉斎されている第六天神の「総本宮」として、広く崇敬されている。江戸時代には、徳川幕府浅草御蔵の総鎮守として、将軍家より日本第一といわれた大御神輿の奉納もあり、格別な尊崇を受けていた。

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天水桶は鋳鉄製の1対で、前10項の千代田区・神田神社の角型桶を思い出すが、角の丸みなどがそっくりだ。そこのは川口鋳物師の「永瀬源七 弘化4年(1847)」作であったが、それを参考にデザインしたのかも知れない。

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大きさは、1m×740ミリ角で、高さは1mだ。ぐるりには、発起人や奉納者銘がずらりと並んでいる。「埼玉懸川口町 製造人 永瀬庄吉 明治45年(1912)3月吉日」銘とあり、もうすでに、100才の桶だ。

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●台東区竜泉の千束稲荷神社は、寛文年間(1661~)の創建といい、地域の氏神様として崇敬されている。作家、樋口一葉の「たけくらべ」には、ここの祭りの様子が描かれている。一葉は、明治26年(1893)から翌年にかけて、神社近くの現・竜泉1丁目に居住していた。

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そのため小説の中で、14才の少女美登利と鳶頭の子の長吉が喧嘩する場面は、ここの例祭がモデルになっているようだ。当時は、現在と異なり夏の8月に祭りが行われており、俵が積まれただけのシンプルな神輿だったとされている。

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●ここには、「川口市 秋本謹製 昭和33年(1958)5月吉日」と鋳出された鋳鉄製の天水桶1対がある。大きさは口径Φ930、高さは900ミリだ。正面に「奉納」と見え、その中央には稲荷紋が据えられている。

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境内の狐の石灯籠は、同年同月に「龍泉寺中部町会 奉賛会」が奉納、「水鉢工事一式」は、やはり同年同月に「龍泉寺町大鳥町会」が奉納している。大規模な造営が行われたのは、この時期であったようだ。

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作者のデータは画像のこれだけで、「川口市」とあり、「秋本謹製」の文字だけが四角く囲まれている。「竜西町会有志」が、「復興建築落成記念」として奉納している。現在この町会名は見当たらないようだが、竜泉地区の西側の町会という意味であろうか。3本の脚は雲脚のようでもあり、愛らしい独特な形状となっている。

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●また、台東区浅草橋の須賀神社にも「秋本謹製」の桶がある。ここは素盞嗚尊が御祭神で、大洗磯前神社、厳島神社、秋葉神社などの境内社がある。伝承によれば、推古天皇の御代(600)に、武蔵国豊島郡での疫病流行の際、里人らが牛頭天王の祠をたてて創始したという。

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天水桶の上部のカバーにくくられているのは、おみくじだが、きれいな塗装が心地よい。「昭和36年(1961)3月吉日」の設置であったが、これは、関東大震災や戦災被害を受けたあとの、社殿や社務所の完成に合わせた奉納であった。前例もそうだが、縦幅が150ミリもある額縁を廻っている雷紋様(後116項)の存在が秋本製の特徴だ。

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●やはり鋳鉄製の1対だが、「川口市 秋本謹製」と鋳出されている。愛らしい雲脚も前例とほぼ同じで、大きさは口径Φ910、高さは900ミリとなっているが、「奉献」は、「トンボ名刺(株)」らの寄進であった。かつて、川口鋳物師が手掛けたこの神社の天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみよう。

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すると、「文政6年(1823)9月 永瀬源内(前14項など)」製となっているが、「水盤 半双(1基)」という記載だ。「水盤」は、手水盤ではなく天水桶だろう。手水盤ならば、通常は1個であり、「半双」、つまり「対の半分」という表現はおかしい。しかし、なぜ単基であったのだろうか。

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●一方、「川口大百科事典」を見ると、「昭和61年(1986)時点で現存」となっている。しかし過日の神社への聞き取り調査では、その存在を確認できないという。小さな物体では無い、そこそこの場所を占領する鋳造物だ。見落とすはずも無かろうが、この錯綜は一体何であろうか。

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当サイトで見れる秋本製の天水桶は12例で全て鋳鉄製、やはり鋳鉄製の香炉は4例でだ。過去に見た分も含めてここにそのリンク先を貼っておこう。前2項前13項後46項後54項後64項後75項後81項後125項で、昭和5年(1930)10月から昭和40年(1965)10月までの期間だ。また、後103項では、川口市本町通りの電柱も見ている。

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●ところで、おみくじ(御神籤)は、神社仏閣等で吉凶を占うために引くくじだが、その原型は元三慈恵大師良源上人(912~985)の創始とされている。大師が観音菩薩より授かったとされる五言四句の偈文(げぶん)100枚のうちの1枚を引かせ、そこから進むべき道を諭したとされる。

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くじに番号と五言四句が記されているのはこの偈文100枚が由来だが、偈文とは、仏典の中で、仏の教えや菩薩の徳を称えるために書かれた文だ。戦国時代には、戦の日取りや戦い方を決める方法として用いられた例が九州地方に見られるが、現在のくじは、参詣者が個人の吉凶を占うために行われるもので、これは鎌倉時代初期から行われるようになっている。

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●引いた後のおみくじを、境内の木の枝などに結ぶ習慣があるが、「結ぶ」が恋愛の「縁を結ぶ」に通じることから江戸時代から行われてきたといい、その後、神様との「縁を結ぶ」として木に結び付けられるようになっている。

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近年は、木に結ぶとその生育が悪くなるため、おみくじを結ぶために、画像の様に、2本の柱の間に棒や縄を渡した専用のみくじ掛けを設置している寺社も多い。ここの須賀神社のように、天水桶の防護用の金網に結ばれるのは例外で、誰かがひと度結んだ事が恒例となってしまったのだろう。しかし否定はしていないようで、この風習もここの個性だ。

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●続いては青銅製の天水桶だ。豊島区南池袋の日蓮宗平等山観静院は、元禄年間(1688~)に眞光坊日眞が創立していて、日蓮座像が本尊だ。雑司ケ谷七福神の弁財天を祀っているが、これは町おこしのために平成22年(2010)に結成された出来立ての七福神会だ。

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ここに、「昭和50年(1975)5月吉日」の鋳造で、「川口市 池田砲金鋳造所(後81項など) 謹製」銘の青銅製天水桶が1対ある。大きさは口径Φ980、高さは1.020ミリで、井桁に橘の宗紋が、大きく鮮明に浮き出ている。

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池田社製の天水桶は、過去に3点(前4項)ほど紹介しているが、昭和50年前後製が多く、その後のものを見かけない。当サイトで存在を確認できるのは、天水桶で5例、香炉で1例だ。現在は、美術系鋳物の製作に特化しているようで、もう天水桶の鋳造はしていないようだ。

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●天水桶は雨水の受け皿けとして使用される仏具だが、ここでは常香炉として使用されている。文京区向丘の浄土宗の浄心寺で、湯嶋山常光院と号しているが、江戸三十三観音霊場10番、上野王子駒込辺三十三ケ所観音霊場17番の札所だ。前者は、寛永18年(1641)頃に開創された霊場を基に、昭和51年(1976)に制定、後者は、安永年間(1772~)に成立した霊場巡りだという。

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本殿への階段の途中に置かれているが、大き目な3尺サイズの常香炉だ。迫力ある龍が来訪者を睨みつけているが、なるほど、使い勝手は自由自在でいい訳だ。設置は、「大本堂新築落慶記念」で、「昭和48年(1973)」のことであった。

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こういった青銅製の桶は、どれくらいの値段で購入できるのであろうか。今や仏具関連もネットで通販できる時代であるが、とあるサイトには定価が載っているので調べてみると、3尺の桶1対で約300万円もする。台座や運搬設置費用、桶に鋳出される文字や、屋根、龍の飾りは別途である。結構高価なイメージだ。最も、マーケットも狭かろうから仕方ないのかも知れない。

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●もう1例は、茨城県龍ケ崎市下町の龍ケ崎観音、天台宗の東福山水天院龍泉寺だ。ここは8世紀初頭に、蓮雪法印が開祖となって創建していて、聖観世音菩薩を本尊としている。安産や子育ての観音様だ。

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常香炉は、通常天水桶として使われるハス型の青銅製だ。「昭和49年(1974)11月10日 本堂落慶記念」での設置であったが、堂宇は、明治16年(1883)の龍ケ崎町の大火に遭い焼失、 昭和50年、第26世の沙門晃詮の時世に本堂が落成されている。

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●大きさは口径Φ900ミリの3尺サイズ、高さは730ミリで、正面に見える紋章は、「鎹山紋(後34項)」だ。鎹(かすがい)は、金属製の「山」の字形状の金具で、尖った先端部を、接続させる木材に打ち込む部材だが、成句にある「子は鎹」の鎹だ。

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陰刻は、「東京浅草 浜田商店納(後63項)」となっていて、「滋賀県湖東町 黄地佐平」と見える。黄地は、湖東平野の中央に位置する東近江市長(おさ)町の鋳物師で、梵鐘造りでは700余年という老舗だが、黄地の(株)金寿堂は大正6年(1917)の創業だ。後111項などでは、多くの作例を見ているので、是非ご覧いただきたい。

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●ここのも天水桶での使用では無い。両毛線の足利駅の北側にある、栃木県足利市助戸の、曹洞宗虎嘯山定年寺(ていねんじ)だ。小高い丘の上に在していて、境内には見応えのある白梅がある。本尊は釈迦如来だといい、両野三十三観音霊場の第26番札所、足利坂東観音霊場の第2番札所となっている。

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量産された青銅製の手水桶だが、そこにトッピングのように龍のオブジェが載ると見応えのある光景となる。口から水を吐き手水盤として利用されているが、花弁の各フチが水の落下口なのだ。紋章は、「丸に五本骨扇」のようだ。この龍は「龍蛇口」と呼ばれるようだが、後120項では、高岡市美幸町の高岡銅器(有)が、この蛇口を専門に取り扱っているのを見ている。

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●鐘楼塔にある「慈悲の鐘」と掲げられた梵鐘は、「維持昭和40年(1965)12月11日」に檀信徒一同が奉納している。乳の間(前8項)に見られるのは、白梅の紋様だ。鋳造は、後88項の太田市金山町・大光院新田寺の梵鐘でも見た、鋳金工芸家で人間国宝の香取正彦製だが、間近で見られるので感激だ。後116項では、正彦銘の多くの個性的な銅鐘が登場しているので、是非ご覧いただきたい。

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●品川区南品川の顕本法華宗、鳳凰山天妙国寺は、寺領10石の御朱印寺だ。天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸入府の前日に天妙国寺を宿所としたことから、徳川将軍家との所縁が生まれ、寺域や門前町が拝領地となっている。顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)とは、日蓮を宗祖とし、日什を開祖とする法華宗系の宗派だ。

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保持する指定文化財の「日什筆曼荼羅(後27項)」は、掲示によれば、紙本墨書の軸仕立で、中央に南無妙法蓮華経の7字を大書し、その左右および下に、多宝・釈迦・四菩薩・日蓮など多数の諸尊名が梵字の種子で書かれている。中央下には日什の署名と年記及び受者名が記してあるという。

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●1対の青銅製の天水桶は、仏具のチェーン店、「日本堂(後59項) 謹製」で、「平成14年(2002)11月吉日 住職 平田浄応代」製の、ハスの花弁形だ。大きさは口径Φ1.060、高さは960ミリとなっている。日本堂は鋳造メーカーではないと思われるが、どこで製造しているのだろうか。

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その陽鋳造の凸文字が面白い。まるでタイプライターで打ったようだ。これは、パソコンなどで編集した文字データを、同調させた工作機械に送信し埋め型(後81項)を加工し製作したのであろう。昔の鋳物師が見たら驚くに違いない。

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●ここに掛かる梵鐘も、人間国宝の香取正彦製だ。口径Φ900ミリの3尺サイズで、大きな撞座(前8項)の存在が目を引くが、その真上にある銘は、「昭和40年(1965)春吉辰 天妙国寺大僧正 日史(花押)」、「鋳匠 香取正彦」となっている。

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通常108個という乳の数、池の間や草の間、縦横の紐帯の区割りと言う古来からの和鐘の固定観念を超えた意匠が、香取の真骨頂だ。鐘身には、薄っすらと陽鋳造された、ここの山号をモチーフとした鳳凰が舞っているが、この薄っすら感も香取ならではの手法だ。

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●天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」には、中央にここの鐘楼塔が描かれている。図会によれば、今の銅鐘は少なくとも3代目で、初代の鐘には、「大日本国武州荏原郡品川郷 妙国寺 住持 法印日叡」、「文安三年丙寅(1446)季冬中旬第三天 鋳師 和泉権守貞吉」銘と刻まれていた事が記録に遺されているようだ。

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2代目の鐘は、「寛永18年(1641)8月下旬 江戸住冶工 長谷川豊前守 藤原重次」銘となっている。この事は、大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」にもそのまま記載されている。秀眞は、正彦の父君だが、1世紀前の行き届いた抜かり無い調査に感服しきりだ。なお後55項には、当サイトで知れる他の「長谷川姓」の鋳物師が登場する項番を記してある。

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●続いては、大田区大森中の真言宗智山派、海光山大森寺密乗院。鎌倉時代に真栄が開創し、本尊の不動明王像(前20項)を安置したという。江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領、玉川八十八ケ所霊場の77番札所となっている。区の説明板によると、緑泥片岩で作った板碑、卒塔婆16基が保存されていて、銘は、延慶3年(1310)から文明6年(1474)だ。

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堂宇の前には、青銅製の天水桶1対が置かれている。大きさは口径Φ900、高さは1.050ミリで、額縁には唐草の紋様が廻り、中央に据わっているのは桔梗紋だ。「昭和50年(1975)7月吉日」 当山40世 知行代」で、37年前の造立だが真新しく見える。本殿は近年に改築されたのであろうが、この桶も同時にクリーニングされたのであろう。扱いは「東京 翠雲堂(後34項後59項) 謹製」だ。

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堂宇前の顔として存在感充分で重厚感があり、相当な重量物と思われがちだがそれは違う。中を覗き込むと、肉薄の板金物が組み合わされている様で、ボルト止めされた構造なのだ。厚みがあるかのような額縁の部分も、薄い板が内側に折り込まれ構成されている。2人でなら持ち上げられそうな気がするほど軽量な天水桶なのだ。

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●江戸川区新堀の真言宗豊山派、九品山勝曼寺は、本尊を登録有形文化財の木造阿弥陀如来立像としているが、像高約35cmの寄木造りであるという。像の胎内の文書には、開山の専芸和尚の菩提供養のために寄進した旨記されている。近くの山王権現の別当をつとめたので山王院という院号となっていて、秀翁和尚が元禄年間(1688~)に中興、将軍鷹狩りの際の御膳所としても利用されたという。

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正面には「輪違い紋」が配されていて、「平成5年(1993)6月吉日」に檀家が奉納している。30年を経ようという量産品の天水桶だが、色褪せる事も無く凛として構えている姿が清々しい。

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●鋳物師は、武州川口出身者だけじゃない。台東区根岸の浄土真宗本願寺派、長久山永称寺(前3項)には、平成20年(2008)4月27日鋳造の真新しい1対の天水桶がある。寺にある江戸時代後期の画家、酒井抱一(1761~1828)筆の俳書などは、ここの寺宝であり、区の有形文化財だ。

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抱一は、絵師にして俳人で、尾形光琳に私淑し、琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し、江戸琳派の祖となっている。代表作としては「光琳百図」、「四季花鳥図屏風」、「夏秋草図屏風」などだ。文政11年(1828)、享年68才で下谷根岸の庵居、雨華庵で死去。墓所は中央区築地の築地本願寺(後95項など)で、墓石には「等覚院文詮墓」と刻まれている。

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1対の天水桶には洒落た導水パイプも設置されているが、屋根の上に居る逆立ちした獅子が水を落とすという構図になっている。額縁には雷紋様(後116項)ではなく、7本の鉢巻の輪が廻っている。大きさは口径Φ1.150、高さは900ミリの青銅製だが、これは煮出した色(後62項)だろうか。銘を読むと、「茨城県真壁町 御鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」による鋳造だが、37代とは随分と歴史ある家系の鋳物師だ。

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●同社のホムペによると、「関東の名山、筑波山の麓、真壁町に勅許御鋳物師の称号を持つ小田部家(こたべ)が、河内国(現在の大阪府)から、源頼朝によって開かれた鎌倉幕府の新興武家政治の兵備の一端を担うべく馳せ参じたのは、実に800年の昔、建久年間の事でありました。鋳造には欠くべからざる良質の砂と粘土を、筑波山麓に発見して、真壁の在に居を定めたと言われております。」

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「寺院の梵鐘を鋳るのが家業でしたが、幕末の頃には黒船撃退のための大砲の鋳造を、昼夜兼行で行った事も記録に残っております。戦時中は金属類の強制供出(前3項)によって、多くの由緒ある梵鐘が地金として徴発融解され、その中には多くの小田部鋳造の梵鐘がありました。

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戦後35代目庄右衛門は、梵鐘と共に家庭用品、工業用品等も製造しておりました。現在では、関東地方唯一の梵鐘、半鐘、天水鉢製造元になり、37代目庄右衛門によって家業が引継がれております」とある。連綿として続いてきた家系なのだ。

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●次の画像は小田部さんの工場(後111項)前に置かれている天水桶だが、ホムペでは、勅許御鋳物師、つまり京都の真継家傘下(後40項)の御用達鋳物師であったことも謳われている。

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当サイトでは、この後続々と小田部家の天水桶や梵鐘の作例が登場するので、その全ての項番をここに記しておこう。後45項後47項後70項後83項後111項後112項後114項後117項後119項後124項後130項だ。つづく。