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●最近出会った天水桶をアップしてみよう。 前回は鋳鉄製であったが、今回は青銅製中心だ。まずは、埼玉県八潮市の二丁目氷川神社。7月の神社祭礼に奉納される獅子舞は、無形文化財に指定されているが、明暦年間(1655~)の頃から始まったと伝わる。

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同市の掲示によれば、『獅子舞は、埼葛南部・足立区・葛飾区に見られる竜頭舞で、仕種は七曲(花・女獅子隠し・笹・橋渡し・神幣・太刀)の掛りがある。舞の間には「千早振る神の斎垣に弓張りて、あたりを固めあらたかに」の拝歌がうたわれる』という。

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作者は不明だが、「昭和62年(1987)7月吉日 二丁目氷川神社」に設置された青銅製の1対で、「氏子中」の奉納となっている。正面に三つ巴紋が据えられ、寸胴型でドンと構えている感じだが、無くてはならない堂宇前の顔となっている。

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●さいたま市浦和区仲町の宝珠山延命寺玉蔵院は、しだれ桜で有名だ。市の説明を要約すれば、創建は平安時代といわれ、室町時代には弘法大師の再来と言われた高僧印融が来りて中興、古くは醍醐三宝院の直末であった。

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徳川家康からは寺領10石が寄進され、江戸時代には、住職が豊山長谷寺から派遣されるという格式の高い寺院となり、歴代の中には、後に江戸の役寺、さらには本山である長谷寺に出世していった僧が少なくないという。

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●境内の地蔵堂は、安永9年(1780)の建立であることが明らかであって、保存価値が極めて高いという。内陣の天井は、花鳥などを描く格天井で、欄間の彫刻など装飾が多い。

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1対の天水桶は、「昭和56年(1981)7月吉日 第39世 秀文代」の設置で、作者は不明だが、川口市内の檀家が奉納している。正面の玉蔵院の大きい「玉」の文字が目を引き、デコボコした表面肌だが、そういう趣向での鋳造のようだ。大きさは口径Φ950ミリほど、高さは1.050ミリとなっている。

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●春日部市大場の真言宗智山派、稲林山光明寺。永正11年(1514)の開山で、阿弥陀如来を本尊としている。旧本堂は寛永7年(1854)に建立され、昭和58年(1983)に現本堂を、昭和60年7月に客殿と庫裡を建築している。

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永正年間は、1504年から1521年までの期間を指すが、この時代は、第104代後柏原天皇、室町幕府将軍は、第10代足利義稙(よしたね)、第11代足利義澄(よしずみ)の時世であった。義稙は、将軍職に2度就いているが、鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で、唯一将軍職を再任している人物でもあった。

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「昭和60年11月3日」の陰刻と共に、「本堂客殿 庫裡(くり)落慶記念」が確認でき、多くの寄進者名が並んでいる。よく見かけるデザインだが、1対は青銅製の量産品のようだ。庫裡は「庫裏」とも書き、また庫院ともいうが、寺院の僧侶の居住する場所や、寺内の時食を調える台所を言う場合が多い。

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●千葉県船橋市金杉の真言宗豊山派の御滝不動尊金蔵寺(こんぞうじ)。創建は応永30年(1423)で、枯れることない竜頭の滝が名の由来だが、「行者滝」と言われ水行の場にもなっている。さらにこの滝は、市内を流れる唯一の川、海老川の源流であり、飲み水や清酒、パンや菓子の製造にも利用されている。なるほど閑静な地だ、野生のシカが出没するという情報にもうなづける。

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大本山奈良県長谷寺の十一面観世音を本尊とする観音堂前には、「神保新田町 楠ケ山町 豊富町 坪井町」が奉納した青銅製の天水桶1対がある。この意匠は、前38項の大田区本羽田・羽田神社で見た「富山県高岡市 (株)竹中製作所」によるものだろう。

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「昭和60年(1985)5月6日 俊弘代」銘で第38世だが、創建の「傑堂能勝阿闍梨」は、応永34年丁未8月7日、73才で還化している。なお境内の、旧本堂であった宗祖弘法大師を祀る大師堂前には、これとは別にハス型の天水桶も1対ある。

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●葛飾区西新小岩の円成寺は、日蓮宗だ。黄金山と号し、天正元年(1573)に日和大徳(天正10年寂)が開山し創建しているが、本尊として、三宝祖師、文殊普賢らを祀っている。余談ながら、福井県敦賀市白木には、原子炉「もんじゅ」と「ふげん」がある。MOX燃料を使用し、消費した量以上の燃料を生み出す高速増殖炉だが、現在は廃炉が決定している。

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この命名は、仏教の文殊菩薩に由来している。若狭湾に面する天橋立の南側にある天橋山智恩寺の本尊だ。文殊と普賢の両菩薩は、知慧と慈悲を象徴する菩薩で、獅子と象に乗っている。原子炉は、巨獣の強大なパワーもこのように制御され、人類の幸福に役立つものでなければならないという願いを込めての命名であった。


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青銅製の天水桶1対は、「昭和55年(1980)5月吉日 宗祖第七百遠忌報恩 35世日舜代」銘だが、額縁には唐草紋様が廻っている。また境内の七面大明神社前にも、「七曜紋」が見られるハス型の天水桶が1対ある。

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●都内北区上中里の真言宗豊山派、平塚山安楽院城官寺は、近くの平塚神社の別当寺にあたる。当寺によれば、3代将軍徳川家光の信頼が厚かった山川城官貞久がこの寺に入り、この近くの平塚神社ともども再興したとされるが、それが寺名の由来のようだ。

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貞久は、江戸幕府に仕えていた鍼灸師であったが、家光の病回復を日々祈願し、治癒した際には、平塚神社と当寺院の社領として50石、さらに貞久に知行地として200石を与え、寺号を平塚山城官寺とするように命じたとされている。

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堂宇の正面には何の文字も紋章も無い珍しい青銅製の天水桶が1対ある。大きさは口径Φ900、高さは970ミリとなっている。裏には、「弘法大師千百五十年 御遠忌記念年」とあるが、造立設置の年月日は記されていない。空海は、承和2年、835年に寂しているから、計算すれば、1985年、昭和60年の奉納という事になろう。

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●台東区谷中の日蓮宗、慈雲山瑞輪寺の創建は天正19年(1591)で、身延山久遠寺末(後121項)にして旧法華宗の江戸三大触頭(ふれがしら)の1つだ。久遠寺17代住職の慈雲院日新上人の開山であったが、これが山号の由来だ。触頭とは、江戸幕府や藩の寺社奉行の下、各宗派ごとに任命された特定の寺院の事で、本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。

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大久保主水忠行の墓は、都指定の文化財だが、徳川家康に仕えた300石取りの三河武士だ。天正18年、江戸の町造りを始めた家康から用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源泉として、江戸城や市中の引水に成功した。この神田上水が江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。(掲示板を要約)

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●境内には絵が展示されているが、それによれば、同上人は、徳川家康が幼少の頃の学問教育の師範であった。天正10年、家康はそれに対して謝儀を表し、本堂創建の約束をしている。従って瑞輪寺では、寺を開く基になった開基者は、神君徳川家康公であるとしている。
 

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堂宇前に、1対の青銅製天水桶がある。大きさは、口径Φ930、高さは820ミリだ。「平成11年(1999)1月1日」付けで、めでたくもゾロ目の日に奉献されている。「第56世 寄進者 内野日總」、「身延山特別大本願人 内野章子」の奉納であった。正面には葵紋が見られ、徳川家との縁を裏付けていよう。画像後ろの獅子口瓦は高さ2.8mもあり、かつては地上21mの高さの仏殿納牌堂の屋根に存在したという。(境内の説明書きによる)

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●大田区本羽田の日蓮宗、朗長山本住寺は、京浜急行線の糀谷駅から徒歩15分に位置する。本尊は「十界大曼陀羅」だが、これは南無妙法蓮華経という題目を中心に、十界の諸菩薩などの名を記した日蓮宗の曼荼羅だ。十界とは、仏界、菩薩界、天上界、畜生界、餓鬼界などで、曼荼羅とは、仏像を多数配列するなどして仏教の世界を幾何学的に表した絵だ。

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黒色の青銅製の天水桶は、「昭和54年(1979)3月吉日 第38世 日生代」の設置だが、樹木に遮られて全体画像が撮影できない。量産品のようだが、作者は不明だ。

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●大田区矢口の福田山蓮花寺花光院は、真言宗智山派だが、「けこういん」と読むようだ。快智(延宝2年・1674年寂)が開山となり創建していて、玉川八十八ケ所の第62番札所だ。これは、多摩川を挟んで東京、神奈川に点在する霊場巡りで、全て真言宗の寺院という。なお、第1番札所は、川崎大師平間寺(前24項)だ。


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ここには、「平成10年(1998)春彼岸 為報恩謝徳」として設置された青銅製の桶が1対ある。大きさは口径Φ770、高さは840ミリだ。寺紋は「桔梗紋」だが、戦国武将、明智光秀が常用していた事で知られる。

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余談ながら、桶の右奥の建物に見られるのは、「火頭窓」とか「花頭窓」といわれる上部がアーチ状の窓だ。鎌倉期の禅宗寺院建築と共に伝来し、唐風建築に多く用いられている。寺社や茶室、城などでよく目にするが、現在は主に装飾目的だという。

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●続いての、埼玉県草加市金明町の旭氷川神社は、明治時代後期に36社を合祀している。市指定文化財の算額があるが、市教育委員会の説明板によると、「算額とは江戸時代から昭和にかけての数学者が掲げた絵馬であり、問題が解けるよう祈願したのが始まりで、解ければそのお礼の意味でまた奉納している。

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全国に数百面現存し、埼玉県内にも九十面近くあり、この氷川(旭)神社の額は七番目に古い(寛政11年・1799)貴重な額である。草加地方での江戸期の数学者、いわゆる和算家で、今までに知られた人物を列記すれば、昼間要助義高、吉岡佐兵衛信好、大川図書、近藤重次郎直信、谷塚茂左衛門良慶となるであろう。

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このように、この算額は市唯一の算額であり、古いながらも保存よく、しかも、奉納者の系統も明らかで県下で所沢に一面しかない宮城流という珍しい貴重な文化遺産である。草加市にとっても、誠に貴重なものであるといわざるを得ない。昭和五十四年(1979)三月」とある。

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平成2年(1990)に改築された真新しい社殿前には、それにお似合いの青銅製の天水桶が1対ある。大きさは口径、高さ共に770ミリだ。刻まれた銘は、「平成20年(2008)4月吉日 草加市制50周年記念」で、草加市金明町々会長の山﨑清氏や、駒﨑昌紀氏の「寄贈」となっている。駒﨑氏は野菜のクワイ栽培で知られる農業家で、平成17年には藍綬褒章を、また山﨑氏も同20年に瑞宝単光章を受章しており、それを記念しての奉納でもあった。

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●ところでこの桶の色は、毒々しいほどの濃緑色であるが、これは塗装ではない。表面を腐食させたり、薬品で化学反応を起こさせて発色させているのだ。青銅器の聖地、富山県高岡市の伝統工芸士によれば、青でも赤でも茶色にでも染められるという。
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伝統的な着色例をあげれば、日本酒や食酢に鉄くずを入れて焼き付け染める、徳色と呼ばれる「おはぐろ色」、硫酸銅や緑青の溶液で煮込み発色させる「煮色」、銅に糠味噌を塗って焼き、塩化アンモニウムなどで緑青を発色させる「糠焼青銅色」などがあるという。

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緑青は、銅が酸化することで生成される青緑色の一種のサビだが、表面に皮膜を作り内部の腐食を防ぐ効果や抗菌力がある。緑青は、銅葺屋根や銅像においては、むしろ地のままの独特の色合いを、手を加える事なくそのまま生かしている。

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●次は、東武野田線、愛宕駅近くの勝軍地蔵尊だ。住所は千葉県野田市野田で、野田愛宕神社(前61項)の境内にある。この地蔵は、コトバンクによれば、「地蔵菩薩の1つ。これに念ずれば戦いに勝ち、宿業、飢饉などを免れるといわれ、鎌倉時代以降に武家に信仰された。甲冑を身につけ、武器を持った姿で表す」とある。

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天水桶の奉納は、「昭和59年(1984)8月30日 功徳主2世 茂木啓三郎」の造立で作者は不明だ。同氏は、後述のキッコーマン醤油に所縁ある人であろうか。直径Φ560ミリだから2尺弱で、高さは520ミリの木製の樽をデザインした青銅製の1対だが、タガの部分もリアルに表現されている。天水桶を設置すると言う慣習が芽生えた19世紀初頭には、漬物樽や酒樽が再利用されたが(前22項)、その場面を彷彿とさせるかのような情景だ。

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その外側には、菊葉型の大きい石製の天水桶も1対ある。大きさは口径、高さ共に800ミリだが、これは「蹲踞(つくばい・前11項)」だ。堂宇を囲う周囲の玉垣には、「日本橋区駿河町 三越呉服店」、「京橋区銀座 日本火災保険」の銘も見られるが、大店も「商売に勝つ」ために、ここのご利益にあやかっているいるようだ。

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●さらに同じ敷地内には、真言宗豊山派の愛宕山西光院がある。本尊を観音菩薩としているが、延長元年(923)に創建、江戸前期の寛永20年(1643)10月5日、中興の祐賢法印の開山となっている。明治維新時の神仏分離までは、野田愛宕神社の別当寺を務めたという。ここに掛かる梵鐘は、「南無勝軍 地蔵菩薩」と題されている。「昭和38年(1963)5月吉日 当山28世 勝田光宥」の時世で、多くの世話人や総代の人名が陽鋳造されている。

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堂宇前の青銅製の天水桶1対には、「宗祖 弘法大師 一千百五十年御遠忌」、「本堂改修完成記念 当山29世 光文代」銘が見られる。造立年月は刻まれていないが、昭和59年(1984)10月頃だろう。境内の石碑には、「本堂屋根改修 本堂向拝増築 落慶記念」とあり、「金89.955.000円」の浄財が集まった旨、記されている。

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●千葉県野田市は、御用蔵のキッコーマン(前61項)やキノエネなど醤油会社の所在地として知られている。この地域に琴平神社があるが、キッコーマンの企業内神社であるので、一般人が奉拝できるのは年に1回だけだ。メーカーに問い合わせてみると、今年は11月の9日と10日だと言うので、それに合わせて訪問した。
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かなり小さめの社だが、大事にされているのであろう、手入れは行き届いている。寛政元年(1789)に、創業家の一人、柏屋2代当主茂木七郎衛門が讃岐の金刀比羅宮に参拝し、創業一族の茂木家、高梨家と野田町民の安全繁栄を祈願し、敷地内に勧請された社だ。

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天水桶の奉献者は当然、「昭和31年(1956)11月吉日 野田醤油株式会社」だ。金刀比羅宮の紋章は、「○」の中に「金」だが、正面に見られる「天狗の羽団扇」は陰紋で、ヤツデの葉だ。同社の社章は六角形の亀の甲羅の中に「萬」の文字で、「亀甲」の読みは「きっこう」であろうが、現在の正式商号は、「キッコーマン(株)」だ。「キッコウ」ではない。

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作者不明だが、青銅製の四角形の天水桶は珍しい。台東区上野公園の五条天神社(前34項)など、数例にしか出会っていない。そこのは「山寅(山﨑寅蔵)作(前20項) 昭和3年(1928)9月改鋳」の青銅製であったが、デザインも時代も違う。山寅は、昭和初期までに活躍した川口鋳物師であった。

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●ところで、日本の大企業は、事業繁栄や社員団結やらを請い願って企業内神社を祀っているところがあるが、それは、会社が歩んできた歴史を振り返り、企業を継承していく事の再認識をする神事であろう。役員らが、事ある毎に企業内神社を詣でて軌を一にする情景は、日本ならではの文化ではあるまいか。
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有名企業の企業内神社の例を挙げてみると、世界のトヨタの豊興(ほうこう)神社、画像の三井グループの三囲(みめぐり)神社(前16項)、三菱グループは土佐稲荷神社、日立製作所の熊野神社に、東芝の出雲神社。さらに、出光興産は宗像神社、東京証券取引所の兜神社、資生堂の成功稲荷、ワコールの和江神社、竹中工務店の竹中稲荷などなどだ。

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●こんな神社もある。埼玉県所沢市くすのき台のグランエミオ所沢内にある、プロ野球の埼玉西武ライオンズが公認しているレオ神社だ。鳥居の柱には、主要な選手らの名前が書かれたお札が貼られている。「願いごとや選手へのメッセージを絵馬に書いてチームに声援を送りましょう」、「勝利の想いを込めて願えばチームの力となります」などと記されているが、ご神体として祀られているのは、漫画家の手塚治虫がデザインした球団のマスコット、レオだ。

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因みに、西部ライオンズが開幕前に必勝祈願をするのは、所沢市上山口の狭山山不動寺(後86項)、球団の多くが参拝するのが、埼玉県東松山市の箭弓(やきゅう)稲荷神社(後106項)だ。勝敗は時の運とも言うが、こういった慣習は正に日本ならではではあるまいか。

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●サッポロビールの恵比寿神社は、都内渋谷区恵比寿に鎮座している。恵比寿ガーデンプレイスの北側だ。「当神社は、明治二十七年(1894)、日本麦酒醸造会社(現サッポロビール株式会社)が、兵庫県西宮神社から商売繁盛の神、恵比寿大神を勧請し工場内にお祀りしたことに始まります。平成六年(1994)、恵比寿ガーデンプレイス竣工に伴い、新殿を建立し今日に至っています」と説明されている。

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●最後は、都内台東区上野の松坂屋の屋上に鎮座する靏護(かくご)稲荷神社だが、「靏」は「鶴」の異体字だ。もともとは、文化12年(1815)2月の午の日に、山城伏見(現京都府)の本宮に願い出て、江戸の根岸(現荒川区東日暮里)の里に建てられたものだという。倉稲魂命を祭神としているが、火防の神として付近の多くの難を救ったと伝わるようだ。説明書きを読んでみよう。

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「昭和四年(1929)巳巳の春、上野松坂屋の巨館、その工を竣り、目出たく開店せんとするに先立ち、二月十八日二の午の吉辰を卜し、王子神社社司に請ふて神霊を分霊し、地上百尺の本館屋上に奉安して、茲に遷座の式を行ふ所以なり」だ。この様に最先端を行く大企業でも神に拠り所を求めている訳で、実に日本的な文化だ。つづく。