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●千葉県君津市笹の清水渓流広場にある「亀岩の洞窟」の幻想的な風景が、「ジブリの滝」のようで評判だという。小さな滝の中の岩が、亀に見えることからこう言われるらしいが、元々は江戸期に、水田開発のために川の流れを変えるために掘られた人工的な洞窟のようだ。別称、「濃溝(のうみぞ)の滝」とも言うらしいが、近くの「濃溝温泉 千寿の湯」に由来するのだろう。時節柄、樹木が生い茂り雰囲気が良く判らないが、特に早朝の陽が差す景色が神秘的だという。

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人気が出る前に訪れた事があるのだが、近くには、撞座が大きく張り出した半鐘、「幸運の鐘」が置かれている。『この洞窟は、今から350年位前に1人の住民が、「曲がりくねった川をトンネルで結び、その元河床に土を盛り、ここを田んぼにしよう」と作られました。

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川上と川下の高低差が滝となり、いつからか削り取られた岩肌に、亀に似た岩が現れ、亀岩として見るようになりました』という説明書きがある。350年前なら、万治(まんじ)年間で、江戸幕府将軍は徳川家綱の時代だ。銅鐘については、「幸運の鐘の音が 亀岩の向うから開運福寿を呼びますように」と書き加えられている。

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●半鐘に鋳出し文字がある。「大正十壱年(1922)十月 市川新田」だが、現存する地名で、君津市在住の秋元氏の寄贈だ。鋳造者銘は、「山﨑寅蔵製(前20項など)」であったが、この地でまさかの川口鋳物師との出会いだったので驚いた。半鐘とは、火の見櫓などに取り付けて、火災や洪水の発生を報知するものだ。地域ごとに鐘の打ち方が細かく定められていたが、火災現場のすぐ近くの半鐘は、火元であることを知らせるため、乱打して続けざまに鳴らしたという。

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この鳴らし方を「擦半鐘(すりばんしょう)」、略してスリバンと呼ぶ。また、鎮火の際は2点連打がされるが、これを「おじゃん」といい、転じて今までやって来た事が、全て無駄になることを指すようになっている。現代でも、消防車が鎮火後帰舎する際に、ゆっくり目に2回鳴らすのが通例のようだ。余談ながら、銅鐘の数え方は、「1口」と書いて、「いちこう」と読む。

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●都内青梅市で川口鋳物師が鋳た半鐘を発見したので、ここで見ておこう。大柳町の大柳八坂神社だが、東京都神社名鑑には、「創立不詳。もと牛頭天王と称し、相殿に菅原道真公の霊を祀り、天満宮という」とある。一方地図上で見ると、観音堂ともなっている。ここから東側のすぐ近くの青梅市滝ノ上町に、臨済宗建長寺派、瀑布山常保寺があるが、ここの管理の様で、寺のサイトを見ると「十一面観音堂」と称されている。

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半鐘は、「為先祖代々菩薩 大柳 荒井氏万千女」への奉納のようだが、口径はΦ320ミリだ。鐘身に、「今茲 乙巳夏五月吉日 掛之 白樺堂上以備」、「今ここに、白樺堂上に備えてこれ(この半鐘)を掛ける」と刻まれているが、ここはかつては白樺堂と呼ばれていたようだ。

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●「乙巳(いっし)」は、天明5年(1785)であろうか、1回り後の弘化元年(1845)であろうか。続けて「其銘曰」として、「大鐘幺鐘(小さな鐘) 功徳一如」から始まる難解な漢文が刻まれているが、これは、かつての梵鐘の来歴の銘文であろう。続けて「白瀧山常保寺 十一世 雪洞玄岩誌(記す)」で、「武州多摩郡青梅大柳 白樺堂主 真空」だが、常保寺はかつては「白瀧山」と号していたようだ。

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玄岩は、俳譜を好んだ俳僧で、「とりとめぬ 遊び心や 花ぐもり」の一碑を残している。並んで「青梅 田中八百右清門助」とあるが、すぐ隣で今現在も営業している「田中屋青果店」に関連ある人であろうか。銘文の中に、「天明三癸卯(1783)之夏」と見えるが、かつての大鐘の造立日だろう。

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●この半鐘の鋳造者は、「武刕(州)足立郡川口住人 鋳物師 永瀬豊八 豊次作之」銘だが、諸書の人名録には記載が無く不明な人達だ。連名の2人は近しい間柄であろうが、兄弟だろうか。「足立郡」は、明治初期(1868~)まで存在していたが、その後は、北足立郡と南足立郡に分裂している。よって造立は分裂以前であるはずで、先の「乙巳」は、「弘化元年乙巳(1845)夏5月」かも知れない。

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「天明5年乙巳(1785)」の時点では、「足立郡川口」の呼びが果たして存在しただろうか。後131項で見る都内西多摩郡日の出町の瑠璃光山東光院では、「武蔵国下足立郡河口町住 元禄17年(1704)」という銘が登場する。「南北」ではなく「上下」の足立郡だが、少なくともこの当時すでに、仕分けがされていたのだ。しかしここ大柳八坂神社では、それに拘らず一括して「足立郡」としたのかも知れない。

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●時代が違いすぎるが、親が子の名に一字を与えたかも知れないという短絡的思考からすれば、単に通字の「豊」つながりではあるが、昭和3年(1928)の興信録には、「永瀬豊吉」という名が見える。この人は、昭和12年の400社近い登録がある「川口商工人名録」には、「川口市寿町 日の出鋳工所 永瀬豊吉」とあり、「竈(かまど)、諸機械鋳物」を営業品目として挙げている。画像の昭和6年の広告でも同等の内容が見られるようだ。

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297社登録の、昭和60年(1985)の名簿にも記載があるが、今の最新の名簿には登場して来ない。が、永瀬家系統は現代でも折り紙付きの鋳物師だから、突き詰めれば判明するであろう。また、この文字の彫りはかなり稚拙だ。鋳造者本人が、彫師に依頼せずに刻んだのかも知れない。(後132項でも登場)

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●半鐘と言えば有名なのが、寛弘2年(1005)創建という、都内港区芝大門の芝大神宮に現存する「め組の喧嘩の半鐘」だ。例年9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われるが、それらがだらだらと長く続くために、古来より「だらだら祭り」と言われ、また期間中に生姜を授与している事から、別名「生姜祭り」とも称される。

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この喧嘩は、文化2年2月(1805)、境内での花角力開催中に起きた、町火消しの「め組」と力士たちの乱闘事件で、無銭見物が原因だが、火消しがこの半鐘を乱打して仲間を動員、騒ぎを大きくしている。火消し衆は南町奉行、力士側は寺社奉行へと訴え出て事態の収拾をはかったが、火消し側に厳しいものとなった。

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●非常時外での使用を禁じられていた半鐘を、私闘のために使用したため数名が江戸追放、鳴らされた半鐘自体が三宅島への遠島扱いという、この時代ならではのユニークな結末となっている。現在この半鐘は、祭りの開催中に展示されるようで、誰でも自由に見られる。

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吊り輪部分が大き目で細身の本体だが、凝った意匠は一切無く、横帯が数本確認できるのみだ。期待していた作者銘や鋳造日付などの陰刻も存在しない。各所にヒビ割れも見られ、撞座の撞き面も真っ平らだが、長い間乱打された結果なのだろう。遠島になったこの半鐘は、明治初年になってから芝大神宮に戻されたという。

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●都内墨田区横網の江戸東京博物館内(前89項後123項など)には、江戸期の17~18世紀に鋳られたという、一風変わった銅鐘がある。口径1尺ほどのこれはバトルベルだが、「牡丹唐獅子梵字鋳出背負陣鐘」と名付けられている。

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収納箱には、「陣鐘 南紀徳川家」と墨書きされているので、御三家の紀州家に伝来したものだ。陣鐘は、陣中において軍勢の進退など、様々な合図を出すために打ち鳴らされた鐘だ。金具で装飾された木枠に吊り下がっていて、表面には、撞座のような丸い紋様や、牡丹と唐獅子のデザインが陽鋳造されている。

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●ではここからは、冒頭で登場した山崎寅蔵親子の天水桶を見ていこう。まずは、世田谷区経堂の経堂天祖神社。区の説明によれば、『江戸幕府の編纂した地誌、「新編武蔵国風土記稿」(1830)に、 「伊勢宮 除地一段(じょちいったん) 村ノ西ニアリ ワズカナル祠ナリ 当村ノ鎮守タリ 鎮座ノ年代ヲ知ラズ 村内福昌寺持(ふくしょうじもち)」と記されています。(除地は、年貢免除の土地。一段は、一反。約992平米)』という。

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ゴミ除けカバーが掛けられた2尺ほどの鋳鉄製の天水桶だが、正面には三つ巴紋と「奉納」の文字があるが、他には人名などは見られない。厳かな堂宇前に座するに相応しい、いい雰囲気だ。

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「川口 山寅作 昭和8年(1933)9月吉日」、山﨑寅蔵製で、戦時の金属供出(前3項)を逃れた貴重な1対であった。印影(前13項)のようなこの表示については、前20項で解析している。

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●埼玉県川口市にも未紹介の桶があった。飯塚の飯塚氷川神社で、境内の由緒書によれば、往時の別当は同じ飯塚の薬王山最勝院(前87項)で、永正13年(1528)に、宥光法師により創建されたと伝えられる。明治6(1673)年に村社に列し、同40年には近隣の6社を合祀している。

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1対の鋳鉄製天水桶の正面には、三つ巴紋が大きく鋳出され、額縁の全周にも連続している。「氏子中」の奉納だが人名ではなく、「飯塚町」と「錦町」の町名が見られる。大きさは口径Φ760、高さは670ミリだ。

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「昭和26年(1951)10月吉日」の造立だが、角印に刻まれた文字は、「武刕川口 山﨑寅蔵作」で、簡潔な表示となっている。しかし後113項では、寅蔵没後という辻褄が合わないこの日付と、鋳造者銘が意味するからくりを知る事になる。

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●次は、越谷市西新井の石神井(いしがみい)神社。創建の時期は不明だが、明治時代には、地元西新井村の鎮守として祀られていたようで、祭神は日本武尊だ。境内には富士塚があり、頂上には、「浅間大神」(あさまのおおかみ)の石碑がある。堂宇前に存在感がある鋳鉄製の天水桶1対がある。大きさは口径Φ980、高さは900ミリだ。

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天水桶の奉納は「御大典記念 氏子中」で、境内にある、「平成3年(1991)9月吉日」付の「御神域環境整備記念碑」にその詳細が記されている。「御大典を寿ぎ 先人より受け継がれた神域を子孫に伝えるべく 鳥居改修 天水桶新設 御神池改修 参道拡張整備と一連の整備事業完遂を以て 氏子の安泰と弥栄(いやさか)を祈念するものである 宮司 高梨佳樹」だ。

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別の石碑には、「工事概要」として、鳥居改修に161万円、境内整備に472万円ほどかかった事が刻まれている。天水桶の設置は、少し早かったようで、「平成2年(1990)11月吉日 川口市 山崎甚五兵衛(前41項など)」銘であったが、新設費として、「金 壱百参拾八萬四阡円也(1.384.000円)」を計上している。

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●続いては、栃木市平柳町にある星宮神社。永享2年(1430)に現在地に遷座され、家内安全・五穀豊穣・国土鎮護の神として広く崇敬されてきているが、拝殿前には、祭神は、「磐裂命」、「根裂命」、「経津主命」であると記されている。一方、明治期の神仏分離以前は、「虚空蔵菩薩」を祀っていたという。

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それを証明するオブジェが境内にあった。ブロンズ製の「なでうなぎ」だ。由来を読むと、「当神社の御祭神の御遣いであるうなぎは 水を求めてどんな困難や障害も乗り越え前進する強い生命力を持っています。うなぎとご自身の干支をなでて 身体健全、家内安全、事業繁栄をお祈りください」とある。3匹のうなぎが悠々と泳いでいて、外周にあるボッチが十二支を示している。虚空蔵とうなぎの関係はどんなものなのだろうか。

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●関東三大虚空蔵尊を謳い彦倉虚空蔵尊を祀る、埼玉県三郷市彦倉の明星山延命院のページを要約させていただくと、「うなぎは虚空蔵さまの使者であり、化身である」という理由から、虚空蔵を祀る地域および丑・寅年生まれの人はうなぎを食べない風習があるという。その不可思議な生態から畏怖の対象となり、水神の使者として崇められてきたと考えられる。


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うなぎの水神的性格、特にうなぎが洪水の際にあらわれることから洪水の権化と考えられてきた民衆の信仰と、虚空蔵菩薩の災害消除的性格の2つを、時代は定かではないが鎌倉・室町時代あたりに真言系僧侶・修験らが結びつけ、それが虚空蔵信仰の1つの形としてあらわれたという。
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現在同院では、うなぎに親しみを込め、「うなぎに関わりのある方、大好きな方、丑・寅年生まれの方」に呼びかけ、「うなぎ供養会」を催し、うなぎに感謝し敬意を表している。なるほど、ここ星宮神社社殿の左手奥には、「白山神社」、「山神社」、「神明社」などと並んで、水の流れを司るとされる女神の、水波能売命(みづはのめのみこと)を祀る「水神社」がある。

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●堂宇前の鋳鉄製の天水桶1対は、「昭和46年(1971)10月13日」の奉納だが、醜くてひどいサビだ、近々の修繕を願いたい。裏側には、ビス止めされた銘板に寄進者名がびっしり並んでいる。

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作者銘は、「川口市 山崎甚五兵衛」であったが、その大きな体躯に似合わず、下の方に実に謙虚に小さく鋳出されている。

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 ●続いての、埼玉県東松山市箭弓(やきゅう)町の箭弓稲荷神社は、和銅5年(712)の創建と伝えられ、日本五大稲荷の一つとされることもある。ウィキペディアによれば、その頃は小さな祠だったようだが、長元3年(1030)に下総国の城主平忠常の討伐に出かけた源頼信がこの周辺に一泊した。
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その際、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納すると、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝し、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」と称えたと伝えられる。

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「やきゅう」という音との関係で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られているが、これに因んで「バット絵馬」や「ベース絵馬」等が頒布されている。お守りもバットの形でユニークだ。

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●拝殿は、天保6年(1835)に領主松平大和守が造営しているが、平成26年(2014)の夏ごろは、大改修の真っ最中であった。目的の天水桶鑑賞もままならず、後日、再度参詣した。鋳鉄製の天水桶は、同時に修繕されたのであろう、塗装されて美麗な1対となっている。鋳造は、「昭和31年(1956)3月16日 川口市 製作人 山崎甚五兵衛」だ。五穀豊穣の食の象徴である「抱き稲紋」が正面に据えられ、額縁部全周にも連続している。

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奉納は、「川口箭弓稲荷講」で、ぐるりには多くの川口市の名士の名が連なっている。「講元 浅倉市五郎」、「(第4代)川口市長 高石幸三郎」、「埼玉縣教育委員 大野元美(後年の第7代川口市長・後127項)」らだ。この他にも境内の玉垣には、「川口親睦講」の名も見られるが、現在もこの稲荷社には、大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全を願うという。

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前58項前87項にも全てのリンク先を貼ってあるが、川口市の人々が組んだ「講」は、寺社に天水桶を奉納する慣習がある。前24項では、大田区羽田・穴守稲荷神社で「青木穴守稲荷奉賛会 安行植木講 川口穴守稲荷講」、前45項後115項の茨城県笠間市・笠間稲荷神社で「川口市一力講 川口平和講」、埼玉県長瀞町・宝登山(ほどさん)神社で「川口福重講 川口福心講」銘。

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前46項では、さいたま市岩槻区大戸の武蔵第六天神社で「川口講中」、前58項の千葉県成田市・鳴鐘山宗吾霊堂で「川口宗吾講」、後87項の高崎市鼻高町・少林山達磨寺では、「川口開運達磨講 川口市達磨講」だが、いずれも現在の活動状況は不明だ。

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●ここに戦前の同稲荷社の古写真があるが、現在の建物は、ほぼそのままの意匠のまま改修されたのが判る。賽銭箱もほぼ同じ、天水桶の石の台座も、形状とシミのような紋様から判断するに恐らく同じだ。しかし天水桶だけは違う。

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戦時に金属供出(前3項)されているのだ。前任の桶は、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」によれば、「文政9年(1826)9月 1対 (増田)金太郎(前82項など)」か、「年代不詳 永瀬源内(前14項など)」の鋳造で、いずれも川口鋳物師によるものであった。

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●最後は、市川市原木にある日蓮宗系単立寺院の原木山妙行寺。掲示によれば、ここは円増院日進上人が天文7年(1538)に開創している。宝物の一つに、日法上人作「日蓮大菩薩板御影」があるが、これは、宝暦12年(1762)、正中山法華経寺(前55項)の頭塔安世院が火災のとき、原木村の平田武右衛門によって火中から取り出され、ここに奉納されたものと伝わる。以来、「火中出現防火日蓮大師の像」として知られるという。
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ここで、壮観な「山崎甚五兵衛ワールド」をみた。画像は本堂で、本尊の十界曼荼羅、日蓮像が祀られている。木鼻や欄間の彫刻も見事だが、柱にも写実的な竹の紋様が彫り込まれていて手が込んでいる。鋳鉄製の天水桶1対も、堂宇前の顔となって情景に溶け込んでいる。

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●「開宗 七百年記念」での設置で、「納主」は富津町の人だが、「当山39世 日勇代」の時世であった。外径はΦ1.200で4尺、高さは1.100、台座は井桁状になっていて、1辺は1.400ミリで、社殿に相応しい大きさだ。

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デザインは寸胴型だが、山崎製としては異風だ。ここの定紋は、「丸に笹竜胆(りんどう)」で各所に見られるが、天水桶の額縁全周にもある。平家物語でお馴染みの源義経や木曾義仲のほか、清和源氏の血統の武将はこの紋を用いた者が多い。

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造立は、「昭和29年(1954)4月28日 川口市 製作人 山崎甚五兵衛」であったが、同氏作の天水桶の中でも5番目に古い時代の物だ。最も古いのは、「藤沢市片瀬・寂光山龍口寺(後114項) 昭和22年(1947)8月15日」であった。ちなみに、千葉県・成田山新勝寺(前52項)の桶は、ここ妙行寺のものと日付けまで全く同じ造立日だが、山崎は、2対4基を同時進行させながら鋳造したのだ。多忙を極めたろう。

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●同じ敷地内だが、こちらは高祖日蓮上人を祀る祖師堂だ。口径3尺、Φ900ミリほどの鋳鉄製天水桶が、階段脇に1対ある。こちらは、ごくスタンダードなデザインと大きさで、最も目にする形状だ。大き目の安定的なベースメントも備わっている。

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「日蓮大聖人 御誕生七百五十年報恩 当山39世 日勇代」での造立であったが、「善根主」として10人ほどが名を連ねている。「善根」とは、辞書によれば、「仏教用語。善本、徳本ともいう。種々の善を生じる根本のことで、よい報いを受ける原因となる行い」で、この桶の奉納という行為が善根なのであろう。

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銘は「昭和47年(1972)5月吉日 川口市製作人 山崎甚五兵衛」であった。この当時は山崎の最盛期で、前後の数年は、月に1対のハイペースで天水桶を鋳造し納品していて、トップメーカーであった。

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●800坪余りという広い境内の、さらに道路を挟んだ所に、鬼子母尊神を祀る「原木山行学道場 大荒行堂」がある。入り口両側の板額は正中山浄光院47世、緑谷日正上人による揮亳だ。この桶にも「日勇」の名があるが、鐘楼堂やこの荒行堂を創設したのもこの人のようだ。

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1対の鋳鉄製天水桶は、外径Φ1.1、高さ1.0メートル で、湯飲み茶碗を連想させる形状だが、これは異風で山崎製の中では類が無いデザインだ。境内の6基の桶すべては、最近、同色に再塗装されているが、新品同様に甦っている。奉納は、「善根主 富津町 友栄丸船主」であった。

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宗紋の「井筒の橘」が大きく張り出しているが、中央のその橘の紋様には凹凸があり、こだわりが見られる。井戸の地上に出ている木組みが井筒だが、井戸は水をたたえた清廉な場所であり、生活に欠かせないことから、家紋として用いられるようになったという。

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●宗紋の両サイドには見事な「龍」の装飾があり、これも異例だがいいアクセントになっている。祖師堂前と同様に、転倒防止用の丸いベースメントがある。奇異なのは、本体に3本の脚が存在する事だが、本来不要なはずで、直接ベースに載っているべきだろう。このスタイルも他に類例がない。

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この鋳造も、「昭和37年(1962)11月19日 川口市 製作人 山崎甚五兵衛」銘であった。山崎はここ原木山妙行寺で、約10年ごとに天水桶の鋳造を手掛けていたが、その技術手腕の変遷やデザインの変移が見られ、実に楽しい。正に山崎ワールドであった。

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●今回特集した川口鋳物師・山崎甚五兵衛は、昭和期を代表する天水桶鋳造のトップメーカーとして君臨していた。当サイトでは、山崎の作例が、終項までに延べ20項ほどで登場しているが、特集を組んだ項をここに記しておこう。前1項前24項前27項前41項前50項前56項前57項前84項前102項後114項後128項後132項だ。つづく。