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●埼玉県川口市本蓮4丁目に、川口新郷工業団地協同組合(SIP)の新工会館がある。市内唯一の工業専用地域として異業種の工場81社が集積していて、そのキャッチコピーは、「住工共生の都市型工業団地」だ。そろそろ創立50周年を迎えるが、それを記念して平成31年(2019)3月22日、会館前に真っ茶色にサビた(前95項)鋳鉄製の鋳物のモニュメントが出現した。

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その厚みは48cm、横幅は2.35m、総高は2.8m、無垢ではなく中空で重量は2.68トンだという。団地内にも鋳造業者は存在するが、この大きさには対応できず、市内本町の富和鋳造(株)(前73項前82項)が鋳ている。富和は、最大22トンもの鋳物製造が可能な設備を有する工場であり、芸術作品の鋳造も行っているのだ。

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●デザインは、組合員の(株)モリチュウ(前73項)を通じ、作家集団である日展の彫刻家の春山文典氏に依頼したという。モリチュウは、業務用厨房機器の製造や景観材などの製造販売を手掛けているが、一口に鋳造業と言っても得意分野があるのだ。モニュメントのコンセプトは「炎」だが、ジッと見ていると漢字の「光」を彷彿とさせる意匠だ。

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SIPによれば、「火が文明をつくり、人々は火をつなぎ、革命もまた火がもたらした。時代を牽引したのは、いつの時代も鉄であり、熔解であり、炎である。私たちのエネルギーの源、それは炎。炎こそがモノづくりの象徴と考え、この炎のモニュメント『火焔』を、SIP川口設立50周年に建立する」という。そして後日、塗装され重厚感を増している。

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●事務所を訪ねると、かわいらしいミニチュアも存在した。説明書きを読むと、「炎」という漢字にも色々な表記があるのが判る。「類人猿から人類へ、その劇的な進化は炎を手に入れたからである。文明の発祥にはいつも火と水があった。縄文時代を代表する『火焔土器』の燃え上がる炎を象ったかのような形状は、火に対する崇高な畏れや感謝の現れか。」としている。

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なおSIPは、平成2年(1990)5月26日には、「創立20周年記念」として時計のモニュメントを設置している。天空に向けて羽ばたくようなステンドグラス風の扇が美麗で、振り子のようなアーム部分は鋳鉄製のようだ。その根元には新郷の「新」の文字をアレンジした紋章が据えられている。

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●川口市安行慈林の宝厳院は、縁起によれば、第45代聖武天皇(大宝元年・701~天平勝宝8年・756)の勅願による行基の開創で、光明皇后の病気平癒のために伽藍を配し薬師仏を祀ったという。医王山慈林寺と号する理由は、第55代文徳、56代清和天皇より寺領を賜った事などによっている。

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銅造薬師如来像立像、日光菩薩立像を保持、本尊の薬師如来は慈覚大師作という。市内赤井の地名は、慈林寺の閼伽水(あかみず=仏前に供養される功徳水)を汲む井戸を意味し、慈林の地名も当寺に由来するという市内最古の名刹だ。

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市指定有形文化財の八脚仁王門や仁王像は、元禄期(1688~)の、住職尊和の時代の造立といい、寛永19年(1642)には徳川幕府より寺領30石の御朱印を拝している。次の画像が薬師堂だが、川口市領家の天鏧山光音寺、同朝日の瑠璃山薬林寺の薬師と共に川口三薬師だという。

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●屋根に上がる、青銅製だろう相輪は見映えが良い。その各部の名称は、上から、仏舎利を納めるという宝珠(前33項)、天子の乗り物ともいう球形の竜舎、火事を避けるための水煙、9つの輪の宝輪だ。それらが連なり、露盤という土台の伏鉢、蓮華の受花に載っている。輪の1つ1つにも意味があるのだろう。

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逸れるが、間近で見られるのが、都内文京区本郷の東京大学のキャンパス内にある相輪だ。人工池の真ん中に置かれたオブジェで、こちらの宝輪は8つとなっているが、これだけで絵になるアイテムだ。

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●さて、昭和50年(1975)に落慶した本堂前にある青銅製の天水桶1対は量産品で、「昭和55年8月吉日 当山27世 泰寿代」だ。その左後方、本殿の軒下に何かが置かれているのが見える。

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これは使用されなくなった先代の香炉だが、大きな損壊はなさそうだ。3脚は、神獣の獅子脚(前33項)となっている。表面には「武州足立郡 慈林寺 什宝」と陽鋳造されていて、「維(持) 文政十亥星(丁亥・1827)五月大吉辰 当山現住 法印仙應代」と線刻されている。「大願主」は「青木山専称寺(前42項) 磯貝喜三郎 松坂政久」だが、作者の銘など他に刻みは無い。

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もう1基あり、外面には多くの奉納者名の線刻が読める。「鳩ケ谷宿 商人組合中」の12名を筆頭に、「古千谷村」は今の足立区、「清右エ門新田」の人は草加市清門町だろうか。上述した「赤井村」や「東新井宿村」、「江戸袋村 磯貝儀左エ門 吉田彦七」らは川口市内だ。

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●「(川口市)江戸袋(後131項)」とは、海無し県の平野部である埼玉県においては奇怪な地名に思えるが、この地に県最南端の貝塚があるように、かつては河川の入り江で、袋状の地形であったという。今となっては内陸地であり大きな河川も無いが、海を連想させる「磯貝」姓は、古代からの土着の家柄であろうか。

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鋳造の時代は不明ながら、作者を示す銘は「川口宿 鋳工 増田金太郎」となっていて、「同工 善八郎」とあるのは、増田の従者であろうか。増田は、前82項など多くの項で天水桶などの作例を見てきたが、幕末の大砲製造家で、京都真継家傘下(前40項)の勅許鋳物師であった。増田姓の刻みが見られる香炉の現存は極めて貴重で、他に例を知らない。

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●次のこちらは、ヒビ割れて損傷したワニ口だが、幅は1尺強だ。「武州足立郡慈林寺 願主 浄観」、「奉納 薬師堂宝前」という線刻だが、作者銘は無いようだ。時は、「安永七戊戌年 七月吉日」と刻まれている。

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西暦1778年製だから、そこそこ古いものでありこれも貴重な文化財だ。これらは、ここに雑然と置いておかれるべき物ではなかろう、散逸は無念だ。「市の文化財センターに連絡した方がいいでしょう」、そう、ご住職に進言申し上げた。

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●次の画像は本堂の軒先に掛かる半鐘だが、これも古い時代のものだ。梵字が彫られ、「武刕(州)足立郡舎人領 医王山慈林寺宝厳院 現住 法印覚眼」とあり、「宝暦九己卯(1759)稔四月廿日(20日) 参宿木曜」となっている。参宿(しんしゅく)は、天球を28のエリア(星宿)に不均等に分割した二十八宿の1つで、中国では天文学や占星術で用いられている。

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前9項では、川口市戸塚の青龍山西光院で、「冶工 武州足立郡 川口住 岩田英重作 明和三丙戌歳(1766)」という半鐘を見たが、現存する川口鋳物師製の最古のものであった。ここ宝厳院の半鐘には、残念ながら作者銘は刻まれていないようだが、記録に残すべき古鐘であろう。

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●続いての、川口市舟戸町の平等山阿弥陀院善光寺(前67項)には、増田が鋳たワニ口がある。寺は、浮世絵師歌川広重が描いた「川口のわたし善光寺」で知られる名刹で、建久6年(1195)の開創だ。

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信濃の定額山善光寺(前122項)と同じ「一光三尊阿弥陀如来」を本尊としている。かつて江戸の住民は、近郊で手軽に善光寺参りができるとしてこぞって参詣したが、昭和43年(1968)3月23日、災禍により焼失、三尊のうち勢至菩薩だけが残っている。

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●天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも描かれている事はよく知られているが、広大な寺域には、観音堂や八幡様、薬師様が祀られ、仁王門や鐘楼塔がある様子が描かれている。

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「本堂には阿弥陀如来、観音、勢至一光三尊を安ず」との記載があるが、「示現によって、十方に勧進し財施を集め、金銅をもって中尊阿弥陀を鋳奉る・・ 脇士(きょうじ)観音、勢至の二尊を鋳奉る」となっている。鋳物の町川口だけに、これらが全て鋳造物であったという記録は実に興味深い。

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●ここに現在天水桶は置かれていないが、史料を基にその来歴を記しておこう。「文政8年(1825)8月 永瀬源内(前14項) 藤原富廣 天水鉢1対」、「嘉永7年(1854)7月 海老原市右衛門 同」だ。また別欄に、製作年月は不祥ながら、「海老原市右衛門(前35項) 天水鉢1対」という同じ記録が残っている。海老原は延べ4基を鋳たようだ。

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ここで川口鋳物師が手掛けた、天水桶以外の鋳造物を記しておくと、次の2例は現存しないが、「寛政2年(1790)3月 擬宝珠1揃」は、「永瀬文左衛門(前108項など) 永瀬源内 永瀬嘉右衛門(前15項など) 永瀬治郎右衛門(前59項) 増田勝右衛門」の連名だ。

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次に「弘化2年(1845)2月 灯籠1対 大西定泉(前32項前33項) 永瀬源七(前10項など)」、そして存在は不祥ながら、「安政3年(1856)2月 磬(けい)1個 増田金太郎」だ。磬は、雲板(前122項)の事であろうか。画像は、焼失前の本堂の様子。

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●また現在ここに梵鐘は無いが、その履歴を見てみると、まず「寛永元年(1624)2月22日 長瀬治兵衛盛久(前108項)」だが、これは、「宝暦14年(1764)4月 岩田嘉右衛門 永瀬忠左衛門」に改鋳されている。昭和54年(1979)に刊行された、内田三郎(前65項)の「鋳物師」によれば、実際の鋳造者であろう岩田と永瀬は「鐘匠」と刻まれ、他に9名の川口鋳物師の名があったという。

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その名を列挙しておくと、「永瀬源内 永瀬文左衛門 永瀬利右衛門(前21項) 永瀬次郎衛門 永瀬市三郎 小川義左衛門(後131項) 増田勝右衛門 矢沢利助 永瀬重次郎」だが、彼らは奉納者としての資金提供者であろうとしている。これらの刻みは、さながら当時の川口鋳物師の名簿のようでもあり、大変貴重だ。

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●さてワニ口は、左右の耳の面間が112cmもある大きな物で、撞座は直径24cmで内輪条線があるが、市指定の文化財だ。本堂普請の時の鋳造だが、その史料によれば、正面に「弘化元年(1844) 奉納 當所 増田金太郎」と陽鋳されているようだ。

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肩部には、「奉納再鋳 鰐口 施主 増田金太郎栄相 家内安全 寸法三尺九寸余」と陰刻されているという。金太郎は、勅許鋳物師として「藤原栄相」を名乗っていたのだ。なお、金太郎は、翌弘化2年にもワニ口1個を鋳たようだ。

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●なお、前12項前14項で登場した、画像の足立区関原の関原山不動院大聖寺にも増田製のワニ口があるという。現在それは、堂宇前には掛かっていないが、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」や「川口大百科事典」には、記録が残っている。銘は、「天保11年(1840)9月 増田安次郎」であるというが、現存しているようだ。

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●埼玉県秩父市桜木町に、曹洞宗の実正山定林寺がある。秩父34ケ所札所の第17番観音だ。創建年代は不詳ながら、境内掲示の縁起書きによれば、「壬生の良門の忠臣林太郎定元は、主の無道を諌めかえって家財を没収され、当地に来て没しました。その遺子空然はこの地に養われ成人の後、父の菩提のため当寺を建立したとあります。昭和40年(1965)1月25日 秩父市教育委員会」という。

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ここに掛かる県指定有形文化財(第191号・昭和39年3月27日)の銅鐘は、高さ138cm、直径77cmで、鐘の周囲全体に西国・坂東・秩父の霊場百観世音の本尊を浮き彫りに鋳出し、各寺の御詠歌を刻み付けた見事な梵鐘だ。御詠歌とは、鈴と鉦の澄んだ響きに乗せて歌う仏讃歌だ。

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全ての詠歌に目を通すとなると、かなりの時間が必要だが、必見の価値ある1口(こう)だ。当初の梵鐘は江戸時代初期の火災で焼失したが、今の鐘は、「維 宝暦八戊寅(1758)正月十有六日」、「武州比企郡上小用村 清水武左衛門清長 作」の鋳造と線刻されている。

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●小用村は今の埼玉県鳩山町だが、かつてこの地域にも真継家傘下(前40項)の勅許鋳物師が居たようで、文政11年(1828)からの「諸国鋳物師名寄記」には記載がある。「比企 上小用郷大豆戸村 宮崎柳七(保周)」の1名で、天明3年(1783)に鋳た鐘とワニ口の記録があり、宮崎家の名は、幕末まで続いたという。

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比企郡ときがわ町西平の慈光寺念仏堂には、「天明3年4月25日 武州上小用村 清水武左衛門全盈」銘の鐘があるらしいが、武左衛門清長とは親子関係であろうか。しかしこの年代以降、清水家の銘は途絶えたようで、従って、名寄記に清水家の登録は見られない。

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当然ここ定林寺の詠歌も刻まれている。撞座の脇に本尊の十一面観世音菩薩がおわし、「秩父第十七番 林寺」、「あらましを 思い定めし (定)林寺 かね(鐘)ききあへず 夢ぞさめける」とある。音色が素晴らしく秩父三名鐘らしいが、この見事なデザインこそ注目に値すると言えよう。

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●次も梵鐘だ。江戸川区鹿骨(ししぼね)に妙高山本城寺がある。本尊は、十界大曼荼羅だ。千葉県松戸市の長谷山本土寺(前70項)の12世貫主日暁聖人が開山となり、隠居寺として弘治元年(1555)8月8日に創建されているが、この地は、下総国や江戸に向かう道の分岐点であったようだ。

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引退した銅鐘が地上に置かれているが、「東京都江戸川区鹿骨町 妙高山本城寺 第28世 日淳代 昭和36年(1961)11月」の鋳造となっている。美麗な緑青に覆われ、肩の部分の曲線が実に艶めかしい1口(こう)だ。一方、鐘楼塔に掛かる現役の梵鐘は、「平成21年(2009)8月吉日 第31世 日英代 高岡市 鋳匠 老子次右衛門(前8項など)」製だ。

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●老子製の鐘の池の間にはこの寺の梵鐘の履歴が記されている。「安永6年(1777)、17世住職の折に江戸大門通 鋳物師、矢島定七氏に委嘱した梵鐘が始まり」であり、「その後、元治元年(1864)、23世住職の折に再鋳」、それを大東亜戦争の勃発で金属供出(前3項)し、そして上述の鐘が、3代目、4代目であるようだ。

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矢島は、諸書に見られず不詳な鋳物師だが、前37項前110項などで登場した「東都大門通 鋳工 伊勢屋彦助」や「大門通 鋳工 伊勢屋長兵衛」のように、職人の肩書を名乗った銅鉄物扱いの商人であろうか。

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地上の3代目の銅鐘の作者は、「岐阜市 岡本太右衛門尉 藤原定篤 鑄造」銘だが、4代目の老子製の鐘銘には、「老朽化のため」世代交代した旨、刻まれている。岡本は、真継家傘下の勅許鋳物師だ。上述の「諸国鋳物師名寄記」や、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」を見ても、「美濃地方 岐阜小熊村」には、岡本姓の鋳物師だけが7人いる。

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●皆、同族だが、宗家岡本伊右衛門は、永禄3年(1560)、岐阜城下で鋳造業を創業している。禁裏御用達鋳物師として朝廷や幕府に抱えられ、あるいは、戦国武将の斎藤義龍や織田信長の庇護のもと活動していたのであろう。この年、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破し、三河の領主・徳川家康と同盟を結んでいる。そんな中での創業だ。

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その後は、初代岡本太郎右衛門がその業を受け継ぎ、嘉永7年(1854)、太郎右衛門家が9代で途絶えたため、分家の第4代岡本太右衛門に合家し、第10代として家業を継いでいる。全て、先の史料に名前の記載がある鋳物師達だ。

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●現在の岐阜市畷町(なわてまち)の(株)サンアイ岡本は、住宅設備機器、業務用厨房設備機器を扱うエリアナンバーワンの会社だが、平成7年10月就任の現会長は、昭和48年(1973)6月に第15代岡本太右衛門を襲名、平成24年(2012)3月には、岐阜市民栄誉賞を受賞している。

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この会社の傘下に、「鍋屋バイテック会社」、NBKがあるが、この「鍋屋」こそ歴史を継ぐ言葉だろう。元来、鋳物師らは、生活必需品の鍋や釜、農機具の鋤や鍬を鋳る事を生業としてきた訳であり、「鍋屋さん」であったのだ。(前108項参照)

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本堂に掛かる半鐘も、「昭和36年(1961)11月 岐阜市 岡本太右衛門定篤」の作であり、セットで鋳造、納入されたようだ。現会長は、かつて昭和37年10月に第15代社長に就任していたので、ここ本城寺の梵鐘と半鐘は、藤原姓(前13項)を拝し定篤を名乗った先代、第14代の手によるものであった。

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●岡本家は多くの梵鐘を鋳てきたに違いないが、もう2例を見てみよう。愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山大須観音だ。日本三大観音の1つとも言われる観音霊場で、なごや七福神の布袋像を安置している。寺内には、国宝である古事記の最古写本をはじめとする、貴重な書籍を多数所蔵する「真福寺文庫」がある。

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鐘楼塔に掛かる梵鐘は、女人梵鐘と呼ばれる華精の鐘で、高さ2m、直径1m、重量1.5トン、音韻持続2分と説明されている。「女人梵鐘鳴り渡る 和む響きが身をつつむ 万の人が助け合う 仏の教えの鐘が鳴る」とされ、毎朝6時、妙なる音韻を響かせているという。

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『昭和41年(1966)、よい子たちの成長を祈る「母の愛」の鐘として、地元婦人会を中心に、女人のみの寄進で女人梵鐘の銘のもと鋳造、四面の池の間には杉本健吉画伯により、四季の花、梅、牡丹、蓮、菊(インド、中国、日本の代表的な花で仏教東漸を表す)の中心に、華の精の姿を描く。「一打即滅無量罪(一つ撞けば限りなく罪がなくなる)」、「一打即生無尽蔵(永遠に楽しく生きる)」を願い、万民豊楽を祈念するものなり』との立て札がある。

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●縦帯(前8項)にある陽鋳造銘は、「岐阜市 岡本太右衛門尉 藤原定篤 鑄造」で、並んで、「岡谷鋼機株式会社」とある。同社は、寛文9年(1669)、初代岡谷總助宗治が、名古屋の鉄砲町で金物商「笹屋」を創業した事に始まっている。

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初代は、もと美濃加納藩7万石の戸田丹波守光重に仕えていたが、創業当初の取扱い商品は、農具の鋤や鍬、草鎌、工匠具、家庭用品、刀剣類などであったという。この梵鐘は、同社が受注し、岡本が鋳造したものであろう。

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●もう1例は、川口市青木の願生山西方寺(前42項)だ。同市本町の人の寄進で、縦帯には「南無阿弥陀仏」のお題目と、山号寺号が陽鋳造されている。「昭和36年(1961)6月」の日付で、「高誉達雄代」の時世だが、先の妙高山本城寺の直前に鋳られた銅鐘のようだ。銘は、「岐阜市 岡本太右衛門尉 藤原定篤 鑄造」とあり、前例と全く同じとなっている。鋳物師岡本は、遠いこの地にどんな縁があったのだろうか。

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●続いては、深川鋳物師の釜六釜七製(前17項など)の天水桶を4例。墨田区東墨田の東墨田白髭神社は、石碑によれば、天台宗木下川薬師浄光寺の守護神として、貞観2年(806)3月に創建したという。猿田彦命を祭神とし、旧社号は白髭明神であった。近年では、昭和期の戦火で社殿を焼失、昭和46年(1971)5月に再建されている。

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その石碑の陰に、口径2尺ほどの1対の鋳鉄製の天水桶がある。シンプルな意匠で、正面には三つ巴紋が据えられているが、石の台座は、社殿再建後に鳥居や水屋、玉垣などと共に更新されている。「願主 橋本町二町目 南澤正兵衛」の奉献だ。

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●鋳造者は、「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾(花押)」で、「藤原正次」の銘は略されているが、太田氏釜屋六右衛門、通称釜六だ。「嘉永三年(1850)庚戌(かのえいぬ)九月吉日」での造立となっている。幕末のこの頃は、前年のイギリス軍艦マリナー号の来航などで、尊王攘夷思想が大きく高まった時代だ。

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松代藩の砲術家佐久間象山が、西洋式大砲を鋳造し江戸に五月塾を開き、伊豆韮山代官の江川英龍(前118項)や佐賀藩、薩摩藩が反射炉(前90項)を構築し始めている。前82項で見たように、川口鋳物師の永瀬文左衛門光次や永瀬九兵衛こと永瀬源内、増田安次郎が盛んに大砲を鋳造した時期であったが、釜六は同時期に活動した鋳物師であった。

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●静岡県沼津市戸田(へだ)に重要文化財の松城家住宅がある。明治6年(1873)に松城兵作が建てた擬洋風の建築物だ。漆喰で作られた見せかけの鎧窓や、オイルランプ式シャンデリアに畳敷き、というように和洋折衷なのだ。写真のように2階は洋風、1階は破風もある和様で、入江長八作(前37項)と伝わる鏝絵も残されている。

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松城家は、安政の東海地震(1854)の津波で、ロシアの軍艦ディアナ号(前118項)が戸田沖で沈没した際に、造船の御用掛を務めたようだ。ロシア人が住宅に来訪、交流を図った事もあったという。立地する戸田港は西伊豆の良港だ。同家は、江戸後期から廻船業を営んでいて、江戸の深川に出店を持っていたという。1基だけだが、玄関先に置かれた鋳鉄製の天水桶は、そこから船で運ばれてきたものに違いない。

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●口径はΦ900ミリで、見られる銘は、「弘化三年(1846)丙午十一月吉日 鋳物師 江戸深川 釜屋七右衛門」だけだ。住宅が建つ27年ほど前の鋳造だが、深川(前18項)と言えば、鋳物師は田中七右衛門、釜七だ。そこで鍋釜を鋳ていた釜屋と、それを各地へ運んで商っていた松城家というビジネスの関係だろう。

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作者銘が手前に見えるこの設置方法には違和感がある。実は桶の真裏はサビによる損壊が激しいが、そこにかつては、家紋か社章か、あるいは「松城」などの文字があったかも知れない。前面にすべきは主人や商店の銘であり、作者銘ではない。

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現在、この住宅は全面的な修復工事の最中だ。重文の対象は建築物だけであり、付属物のこの桶は外されている。サビは重傷で、修復保存しようにももう手遅れだ、石の台座から取り外し移動させるだけで崩れるだろう。保護すべく助言を求められたが、そう申し上げるしかなかった。残念ながら、行く末は、前33項で見た状況になるだろう。

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●当サイトでは、手の施しようがなく、崩れ落ちた桶もたくさん見てきた。そんな中、前53項の千葉県成田山新勝寺では、画像の様な青銅製の天水桶を見た。「文化11年(1814) 釜七製」の完璧なレプリカだ。そしてお堂の裏側では、水漏れする御老体がひっそりと、しかし、しっかりと現役を続けていた。先代が崩れ落ちても、2世が永劫に遺るという訳だ。

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一方で、損壊前に辛うじてリニューアル出来た天水桶を何例か見てきた。前79項では、千代田区神田駿河台の太田姫稲荷神社と港区高輪の佛日山東禅寺、そして大田区大森北の磐井神社、前96項では、画像の大田区萩中の高輪山善永寺の例で、釜六製であった。崩壊前の手助けの時期を見誤ると、取り返しがつかない事になるのだ。

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●埼玉県越谷市相模町に、真言宗豊山派、真大山大聖寺はある。掲示によれば、天平勝宝2年(750)の開基とされていて、中世には、岩槻城主太田資正や北条氏繁の尊信を受けて栄えている。天正19年(1591)には、鷹狩りの巡遊でここに泊った徳川家康から寺領60石を下賜されていて、その際に使用したという寝具などが残されているという。

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慶長5年(1600)には、家康が下野国小山から引き返して関ヶ原へ向う途中、戦勝を祈願して太刀一振を寄進したことが寺伝にみられる。また市指定文化財の、鎌倉建築風の山門に掲げられている「真大山」の額文字は、寛政(1789~)の改革で名高い、老中松平定信による筆といわれている。

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●天水桶は、真っ赤に塗られた鋳鉄製の1対だ。白文字で、「大聖寺 不動明王 御宝前」とあり、不動明王(前20項)への崇敬が2名の願主の奉納理由だ。1人は、「江戸堺町横通 菊井平次郎 母ちよ」だが、「堺町」は、江戸歌舞伎の始祖の中村勘三郎が、寛永元年(1624)に創立した猿若座が、芝居小屋を設けていた町だ。

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もう1人は、「江戸住吉町裏河岸 上州屋喜右衛門 同いち」だが、「住吉町」は、今の中央区日本橋人形町二丁目辺りで、地下鉄人形町駅周辺だ。注視すべきは、人名が真正面に鋳出されている事で、天水桶奉納という慣習が流行り始めた当初、最も主張したいのは、寄付寄進した己の名声誇示であった。

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●作者は、「鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門(花押)」となっているが、先の釜六と共に釜屋を運営していた田中七右衛門、通称釜七だ。造立は、「文化八辛未(かのとひつじ)年(1811)三月吉辰」だが、これは、実に記念すべき年月日だ。当サイトでこれまでに出会った天水桶の中で最古品なのだ。

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これまでは、千代田区外神田の神田神社内にある小舟町八雲神社(前13項)の釜六製で、「江戸深川 太田近江大掾 藤原正次 文化8年6月」であったから、3ケ月の更新となった。釜七に限れば、千葉県成田山新勝寺光明堂(前53項)の、「鋳物師 釜屋七右エ門 文化11(1814)年」が最古の作例であった。

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なお、川口鋳物師が手掛けたここでの天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「嘉永3年(1850)9月 岩田庄助 大相模不動尊 水盤(天水桶) 一双(2基)」となっている。岩田は、前13項前35項などでも登場しているが、一時期は、川口鋳物師らの頭領格として活躍していた人物だ。この記録の天水桶は釜七製よりも新しいが、現存しないようだ。

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●同じく越谷市越ケ谷の久伊豆(ひさいず)神社。当地域の総鎮守で、社伝では、平安末期の創建という。「古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(1467)に、伊豆国(静岡県)宇佐見の領主宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる」と案内板にある。

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祭神を大己貴命(大国主)とする久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布しているが、越谷市内には7社が鎮座している。この分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党や私市党の勢力範囲とほぼ一致するという。埼玉県加須市の玉敷神社(たましきじんじゃ・前76項)は、かつて「久伊豆明神」と称しており、久伊豆神社の総本社とされている。

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画像の第三鳥居は、伊勢神宮の第61回式年遷宮の折に拝領した、内宮の旧板垣南御門の古材を使い、平成7年5月に建立されている。神社では、「夢想だにせず、その願いすら畏れ多き極みでありましたが、天照大御神と久伊豆大明神の御神意であったと考えております」としている。

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●堂宇の裏に、現役を降りた1対の鋳鉄製の天水桶が、それぞれに小屋を誂えられ保存されている。鋳出し文字に見える奉納者は、「氏子中 別当 神宮寺21世現住 法印本秀代」で、大勢の世話人の名前が並んでいる。明治の神仏分離令までは、越谷市宮本町の新義真言宗越谷山神宮寺迎摂院が神社の別当を務めていたのだ。

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神宮寺は、天正19年(1591)11月には徳川家康より寺領5石の朱印状を拝領している。その「寺領寄進朱印状」は市の指定有形文化財だが、以来ここには、将軍の代替りごとに交付された朱印状全12通が現存するという。

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●神紋は、丸で囲まれているので本多系の「丸に立ち葵」だ。参道入口前を流れる元荒川対岸には、かつて越ケ谷御殿と呼ばれた館があり、家康や秀忠らが鷹狩りなどの際に、休息所や宿所としていた。この神社にも参拝したのだろう、その縁から使用を許されたようだ。

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高さは1m、口径は1.2mと大きく、迫力ある4尺サイズだ。作者銘は、「鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門(花押) 天保十二辛丑年(1841)九月吉日」であった。今は人目に付かない位置にあるが、整備され堂宇前へ再登板する事を願って止まない。

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●東京都町田市原町田の法要山浄運寺。ウィキペディアによれば、「天正5年(1577)、日明を開山に矢部淡路(法善院日証)を開基として建立された草庵が起源。寛永14年(1637)、浄運院日徳(武藤佐次右衛門)と法用院日運(日徳の母)が草庵を寺とした」という。

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1対の鋳鉄製天水桶は、口径970ミリ、高さは800ミリだ。額縁に雷紋様(前116項)が廻り、正面には大き目な日蓮宗紋が据えられている。檀家が先祖代々の菩提供養のために奉納しているが、「法要山29世 日芳代」の時世であった。

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作者の鋳出し銘は、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和35年(1960)9月」となっている。鋳鉄製の桶に限れば、当サイトでは、前47項前119項などで多くの作例が登場しているし、前111項では鋳造所の様子も見てきたが、それらとほぼ同じ意匠だ。なお、前21項には、同家の全ての作例の全てのリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●鐘楼塔に掛かる梵鐘も小田部製で、銘は、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 于時(うじ=時は・前28項)昭和30年(1955)9月吉辰」だ。前112項では同氏が手掛けた多くの梵鐘を見てきたが、旧字の「縣」を使用している事からも、35代目による鋳造であろう。

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●神奈川県茅ケ崎市柳島の柳島八幡宮でも小田部製の梵鐘を見た。ここの創立年代や由緒は不詳というが、御祭神は誉田別命だ。鐘身に彫られた銘によれば、「寛政4年(1792)11月 神田 西村和泉守作(前110項)」の梵鐘は、戦時に金属供出(前3項)したという。この人は、寛政10年(1798)に没している5代目の西村政平だ。

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縦帯(前8項)に「天下泰平 五穀豊穣」、「奉納 八幡宮 昭和33年(1958)12月」と鋳出されている。多くの氏子の指名が刻まれているが、ここは寺ではなく、神社だ。作者は、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」で、この銘は、鐘の内側に陰刻されている。

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なお関東近郊で知る得る限り、同家の戦後最古の梵鐘は、前119項で見た茨城県笠間市稲田の稲田山西念寺の「茨城縣真壁町 御鋳物師 小田部庄右エ門 昭和27年(1952)4月陽春」銘であった。

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●次の天水桶は、神奈川県伊勢原市上粕屋の太田神社だ。新興宗教系の神社であろうか、開祖は岡部眞直氏で、その銅像が境内に存在する。

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狭い境内に、口径2尺弱の1対の鋳鉄製の天水桶がある。造立は、「昭和43(1968)年4月吉日」だが、これは、裏側のビス止めされた銘版に陰刻されている。同時に多くの寄進者名が見られるが、「信盛講一同」の講員だ。

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鋳造者は、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」銘で、鋳鉄製に限れば、出会いはこれで12ケ所目、25基となった。鋳鉄製の工芸品は、サビからくるその見た目の悪さからであろうか、敬遠され処分されてしまう事も多いようだ。現存数が少ない、由緒ある鋳物師の作例だ、永劫に遺して欲しいものだ。つづく。