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●都内台東区浅草の金龍山浅草寺(前1項前6項後85項など)には、有名な風雷神門、通称雷門や宝蔵門、二天門(前22項)などの山門、五重塔があるので、それらを見てみよう。当初、元和4年(1618)に建立された二天門は、かつてここに存在した東照宮の随身門で矢大神門とも言われた。本瓦葺で、切妻造り木造の朱塗り八脚門だ。額は、明治16年(1883)2月1日、太政大臣・三条実美の筆による。

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寛永19年(1642)に東照宮は焼失し、その後再建はされずに、現在の影向堂前の石橋だけが残っている。石橋は、東照宮造営の際、参詣のための神橋として造られたもので、徳川家康の娘の振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(ながあきら・広島浅野家藩祖)の寄進だ。

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二天門は、慶安2年(1649)に再建され、東照宮は江戸城内紅葉山に家康の廟所として遷座されている。門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重で、国の重要文化財指定となっている史跡だ。説明書きによれば、本小松石の礎石も境内に1個残っている。慶安2年(1649)、第3代将軍の徳川家光による寄進だ。

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●次の画像の宝蔵門の位置は、雷門をくぐり仲見世商店街を抜けた先だ。この最初の門は、天慶5年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建されているが、その後、度重なる火災により焼失、その都度再建されてきている。

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慶安2年(1649)12月には、徳川家光の寄進によって本堂、五重塔とともに再建されたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により、本堂、五重塔、経蔵とともに壊滅的に焼失してしまっている。現在の宝蔵門は、昭和39年(1964)4月に再建された鉄筋コンクリート造で、経蔵を兼ねている。

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かつては、仁王像(金剛力士像)を安置していることから「仁王門」と呼ばれていたが、再建後は、内部に収蔵室が設けられ、浅草寺の什宝物を収蔵していることから「宝蔵門」と呼ばれている。阿形像のモデルは、北海道有珠郡壮瞥町出身の第55代横綱の北の湖敏満、吽形像のモデルは、北海道阿寒町出身の力士の明武谷力伸だという。

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●宝蔵門は、耐震性の向上や軽量化を目的として、耐食性に優れたチタン製(後85項)の成型瓦を、全国ではじめて採用している門であるが、門の背面の左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。その高さは4.5m、幅は1.5mという。

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昭和16年(1941)の奉納を最初として、山形県村山市奉賛会により製作奉納されているもので、人工800人が携わり、わら2.500kgが使用されている。『仁王様のお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている』と説明書きされている。

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●宝蔵門の礎石は、3個が現存し境内の一角に展示保存されている。掲示板を読んでみよう。『この三つの大石は、宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より、昭和37年(1962)2月6日に掘り出された礎石です。旧仁王門には18本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭いひび割れ破損し、原型をとどめる大礎石3個を選び保存しました。

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石材は「本小松石」で、上端の仕上げ面は約1.2m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は、約1.4m角、高さ約1m。この礎石の下部と周囲は、十~十五cm径の玉石と粘土で突き固められていました。江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受け継ぎたいと存じます。浅草寺』だ。

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現在の宝蔵門にも18本もの巨大な柱がある。その直径はΦ760ミリほどだが、人間と比してもその大きさが判る。その脚元に黒い覆い、カバーが巻かれているが、これが根巻きで、高さは680ミリほどだ。本来は木製であろう柱の根元を腐食から保護し、かつ装飾する事を目的としている。現状のものの材質は、磁石に反応しないので青銅製の鋳造品であろう。

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●風雷神門には、高さ4m、幅3.3mで重さは0.7トンあるという大提灯が掛かっている。慶応元年(1866)12月の焼失後、昭和35年(1960)には、松下電器の松下幸之助が、「雷門」と書かれた大提灯を奉納している、などの来歴がある。松下電器は、平成20年(2008)にはパナソニックへと社名変更しているが、下輪の銘板表記は従来通り「松下電器」のままだ。

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この雷門は、浅草寺参詣の入り口にあたる総門として、また、東京浅草の顔として余りにも有名だ。正面から見ると、右に風袋を担いで天空を駆ける風神、左に虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神が祀られている。上の画像は裏側から見た門で、風雷神像の背後に安置されている天龍像と金龍像は、水を司る龍神であり、浅草寺の護法善神だ。

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●この情景は、歌川広重が安政3年(1856)に、「名所江戸百景 浅草金龍山」の浮世絵の中に描いている。第99図だ。雪景色の中、大提灯の先に見えるのが先の宝蔵門で、その右側には五重塔がそびえている。当初、旧国宝の五重塔は 本堂の向かって右側に位置していたが、昭和20年(1945)の戦災による焼失で、現在は左側に建造されている。高さは地上53mを誇るが、京都東寺に次いでいる。

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かつて本堂の右側に位置していたというその場所には、「旧五重塔跡」という石碑が立っている。説明書きによれば、「朱塗り・碧瓦(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていた」という。またこの場所は、新塔の「眺望地点」として推奨されているようだ。

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こちらの雷門の柱は12本で、根巻きは、直径Φ640ミリで高さは660ミリほどだ。宝蔵門とは違ったデザインで、鋳鉄製鋳物だから磁石に反応する。何かの資料で見かけたが、川口市内で鋳造されたという説もある。実は後78項では、この作者について判明しているのでご参照いただきたい。

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●こちらが現在の五重塔だが、宝蔵門と同じく、天慶5年(942)に平公雅によって創建されたのを初めとしている。慶安元年(1648)に徳川家光が再建した高さ33mという木造の塔は焼失しているが、それは「上野寛永寺 谷中天王寺 芝増上寺」と共に「江戸四塔」として親しまれたという。今に見られるのは、昭和48年(1973)の再建だ。最上層には、スリランカ国の王立寺院から勧請した「聖仏舎利」が奉安されている。

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あるいは後127項で見るように、ここには相模国の鋳物師が鋳たという銅鐘も保存されている。「本銅鐘を制作した和泉守経宏(つねひろ)は、相模国毛利荘で活躍した毛利・森姓の鋳物師のひとり」であったが、至徳4年(1387)の鋳造で区内最古という。

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●さて、各地で見た天水桶を見ていこう。まずは中野区南台の多田神社。由緒は、境内の石碑を要約すれば、「寛治6年(1092)、源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、当地に先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられる。」ウィキペディアから抜粋すると、「多田満仲は、源 満仲(みなもとの みつなか)とも呼ばれる平安時代中期の武将で、清和源氏、六孫王経基の嫡男にして、多田源氏の祖である。」

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1対の鋳鉄製天水桶は、「中野消防十番組」の奉納で、多くの関係者の名が並んでいる。塗装したばかりなのだろう、鮮やかな緑色が映えているが、内部にはコンクリートが詰められていて、水溜めとしての機能はない。直径Φ310ミリの三つ巴紋が正面に据わっているが、柱に掛かる提灯には、「笹竜胆紋」が見える。これは、源氏の武将が多用した紋であり、神奈川県鎌倉市の市章でもある。

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大きさは口径Φ920、高さは1.220ミリとなっているが、縦長なイメージの天水桶だ。下部の紋様は、ぶつかり合う荒波のイメージであろう。作者の銘は「武州川口町 芝川鋳鉄所製作(後93項) 昭和7年(1932)12月吉日」だが、手入れが良いので、古いながらも文字の鮮明な輪郭が心地よい。

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●JR常磐線の三河島駅に近い、荒川区荒川の三河島稲荷神社は、天正7年(1579)の創建らしいが、境内には、安永8年(1779)に新吉原から奉納された「二月初午」銘の手水鉢がある。

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棟札には、「弘治3年丁巳(1557)8月 武蔵国豊島郡三河島総鎮守」とあったという。別名は「宮地稲荷」だが、近辺の地名を由来としていよう。特に脚気に効き目があるとされ、参詣者が多いと説明されているが、それにしても現在はかなり狭い境内だ。
 

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●1対の鋳鉄製天水桶は、「三河島稲荷神社総代」の奉納で、氏名が並んでいる。やはり、この呼称の方が一般的なのであろう。正面に見えるのは、稲荷社の象徴の「稲荷抱き稲紋」だ。大きさは、口径Φ720、高さは660ミリとなっている。

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「武州川口 芝川鋳鉄所製 昭和11年(1936)1月吉日」銘で、厚塗りの塗装のせいで文字が太っているが、かろうじてそう読み取れる。先例と同じく社名は四角い枠に囲まれていて、「川口町」であったが、こちらは「川口」となっている、川口市の市制施行は、昭和8年4月1日であったから、これは「川口市」の時代の天水桶だ。

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●同社系統の天水桶は、上記の2例の他にすでにアップ済みの「春日部市粕壁東・成田山真蔵院(前43項) 武州川口町 芝川鋳鉄製造所 昭和6年(1931)6月吉日」や、「秩父市三峰・三峯神社(前44項) 芝川鋳造株式会社製 昭和31年(1956)5月復元」、画像の「川口市元郷・元郷氷川神社(前12項) 芝川鋳造株式会社 昭和30年10月吉辰」がある。

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その三峯神社や氷川神社の場合、鋳造場所の提供という意味で会社名が鋳出されているようで、実際の鋳造者は「川口市元郷町 鈴木萬之助(前44項)」だ。同氏は、国立競技場の聖火台を作った鈴木文吾(前3項)の師匠にして実父であった。

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●では最近出会った、文吾作の天水桶を5例ほど見ていくが、全てが青銅製である。因みに、本サイトでは、酒樽型と蓮葉型を合わせ25例ほどを紹介してきている。まずは、千葉県松戸市小金原の茂侶神社だ。

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境内の石碑には、この社が黄門様・徳川光圀に式内社と認められ、水戸家から祭典料を供せられたことなどが記されている。式内社とは、延喜式の巻9、10の神名帳(全国神社の登録台帳)に記載されている神社のことで、簡単に言えば、由緒正しき神社ということになる。

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●普通は対になっていることが多い天水桶だが、ここには1基のみしか無い。大きさは口径Φ970、高さは980ミリだ。上部には流れる雲の紋様があるが、これは左右で相向き合い、1対でぶつかり合う意匠になっているはず。

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この桶は、本来社殿に向かって左側に置かれるべきものだ。境内整備など、設置スペースの関係であろうか、何らかの理由で右側の桶が失われている。文吾は片方だけを鋳るという中途半端はしないだろうと思われるからだ。

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「鋳物師 鈴木文吾 平成9年(1997)1月吉日」の鋳出し文字を確認できる。奉納は、「氏子中」であった。境内の石碑によれば、ここの拝殿は、「昭和46年(1971)10月17日」に、総工費「¥8.771.600」をかけて改築が行われている。また「平成4年(1992)10月吉日 神官 友野俊政」の代に、社務所の新築が成っているが、天水桶は何を記念しての奉納であったのだろうか。

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●埼玉県蕨市錦町にある御嶽山。正式名は「神習教光徳支教会」と言うらしいが、なぜ教会なのか不明。入口には鳥居がかかり、看板は「神習教 御嶽山」となっている。明治31年(1898)8月付の扁額は「御嶽山」となっているが、由緒を示す案内文などの設置は無い。両側は信者の集会所の様でもあるが、あるいは一般の民家なのだろうか。

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かなり狭い境内に、2尺、60cmほどの1対の天水桶が設置されている。センターの紋は、御嶽山系統の神社でよく見る紋章だし、御嶽山の講元らが「志納為一同」として奉納しているから、御嶽講の信仰教会という事だろう。文字は、「四代目 原田徳行 謹書」であるが、講員であると思われる。

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●「鋳物師 鈴木文吾 常夫 平成18年(2006)12月吉日」銘で、後継者である長男との合作だ。実はこの桶、見映えが良くない。手入れの問題ではなく、鋳造時の成分配合の不手際だろうか、白っ茶けている。

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文吾は平成20年に行年86才で没しているので、合作となってはいるが、常夫氏単独の作だろう。この桶は、平成10年(1998)以来、8年振りに受注した青銅製の1対だ。文吾は、没する10年ほど前からほぼ引退し、たまに現場に出ては、後継者である常夫氏にアドバイスする程度であったと言う。

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●草加市谷塚町にある、真言宗豊山派、長久山宝持院。江戸時代初期の創建だが、本尊は大和の長谷寺の十一面観音を模した 御丈8尺有余の金色に輝く観音様だという。山門の彫刻は秀逸で見入ること必至で、境内には、「谷塚小学校発祥の地」という石碑がある。

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武蔵国八十八ケ所霊場6番となっているが、これは旧武蔵国足立郡域の南部や中部の足立区・草加市・川口市・さいたま市・越谷市、及び南埼玉郡(さいたま市岩槻区)にある弘法大師像を参詣する霊場だ。

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●ここには、院号の「宝」の文字が正面に据えられたハス型の天水桶が1対あった。大きさは口径Φ1.340、高さは1.050ミリの4尺強のサイズで大き目だ。地名にもなっている、草加市瀬崎町の名士「谷古宇一族(前26項前45項)」の奉納で、住所と長男夫妻の名前、それに3人の孫の名まで鋳出されている。

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文字の輪郭も鮮明で、きれいな青銅製の鋳造物だ。「長久山宝持院 中興第14世 (田澤)友海代」、作者の銘は「鋳物師 鈴木文吾 仝 常夫 平成6年(1994)12月吉日」で、これも合作だが、文吾が主導で鋳造したのが明らかだ。

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●同じく草加市弁天の恵光山観正院。市教育委員会によれば、「新義真言宗豊山派に属する寺で、民を日の如く恵み光り照らし給うことを願い、山号を恵日山、院号を妙音院、寺号を東照寺と称し、慶長10年(1605)法印俊賢の開山と伝えられている。元和3年(1617)徳川家康が、東照大権と称されたことにより、東正寺と改称した」という。今の山号は、明治時代に光明山阿弥陀院観音寺と合併した事によっている。

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これも同じく谷古宇氏の奉納だ。地元では「谷古宇グループ」を形成している一族で、宣伝の意味合いもあったのだろうか。甚三郎夫妻を筆頭に、長男夫妻、お孫さん1名の名前まで鋳出されているが、ご長男は現在、県議としてご活躍中だ。

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1対の青銅製天水桶は、「観正院 第18世 光昭代」、「鋳物師 鈴木文吾 仝 常夫 平成3年(1991)7月吉日」銘で、これも合作だ。なお、前例の桶は平成6年の奉納であって、お孫さんの名前が3人だった。ここのはその3年前の奉納であって、2人増えている事が判る。大きさは口径Φ1.100、高さは1.020ミリで4尺弱のサイズだ。

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●加須市騎西の玉敷神社は、文武(もんむ)天皇の大宝3年(703)に創建された延喜式内の由緒ある古社だ。埼玉県の元荒川流域を中心に数多く分布する久伊豆神社の総本社的存在で、江戸時代までは「久伊豆大明神(後130項)」とも称され、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていたという。(掲示板による)

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境内には樹齢500年の大イチョウが2本あり、町の天然記念物だ。この天水桶の上部の外周には、その葉があしらわれている。奉納は、「東京都千代田区東神田 (株)カインドウェア」であった。同社は明治27年(1894)、浅草鳥越で古着商から興こり、日本独自のフォーマルウェア文化を創ってきた。昭和43年(1968)には、「宮内庁御用達」を拝命している。

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●因みに、後ろに控えている酒樽は、埼玉県加須市騎西にある(株)釜屋の看板商品の「力士」だ。ホムペによれば同社は、『寛延元年(1748)の創業で、近江商人であった釜屋新八が、中山道の宿場町のあった現在の地で酒造業を始める。

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新八著家法書には「商品の仕入れをおろそかにすることなく、良質の品を薄利で売ること、そしてお得意様の信用を得ることが家業を永続きさせるゆえんである」と残されている。』銘酒力士の命名は、天明5年(1785)、2代目小森久左衛門の時代であった。

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凛として立ちバランスも良く、美しい鋳肌の青銅製の天水桶だ。1対の大きさは口径Φ920、高さは970ミリとなっている。鋳出し文字は「鋳物師 鈴木文吾 仝 常夫 平成元年(1989)12月吉日」で、またも合作であった。つづく。