.

●江戸時代には単身で赴任する武士が多かった訳で、男所帯では火の始末もぞんざいであったろう。煮炊きするにも暖を取るにも火を熾さなければならない。誰もが災禍を恐れた。幕府は、法度の強制力で防災を目指したのだ。
.
1657年の明暦の大火(後83項)後に出された町触れ法度を見ると、「町々水溜桶の儀 先年より度々相触候処・・ 今後壱町片側に参拾 両側六拾 酒樽にても宜候間 家前差置可申候」とある。「防火桶の設置の件だが、前々から触れている通り・・ 今後は一町当り片側に30個、両側で60個を酒樽でよいから家の前に置きなさい」であり、大変な数量だ。

.
これまで貯水槽を「天水桶」と称してきたが、「天水鉢」と言われることも多い。桶は木へんだから木製、鉢は金へんだから金属製ではあるが、法度では「水溜桶」という言葉が使われていたようだ。「天水」という文字は無いが、「桶」は使われている。今後とも「天水桶」でよかろう。上下の画像は、過日に訪れた江東区白河の深川江戸資料館(後43項)の様子。


.
●また、「酒樽でもよい」と書かれているが、これはキーワードだ。上方からの下り酒(前10項)が、樽廻船で運ばれてきた訳だが、空になった木製桶を天水桶として再利用せよという事だったのだろう。つまり、現在見られる丸型の天水桶のモチーフはここにあったのだ。
.
浮世絵を見てみよう。安政3年(1856)、歌川広重の名所江戸百景「猿若町夜の景」だ。芝居小屋の森田座の前に、ごく普通に、手桶付きの四角い桶が置かれている。大き目な手桶は玄蕃桶(後75項)とも言われているようだが、辞書を見ると「江戸時代、火災の時などに水を入れて運ぶ大きな桶」とあり、わざわざ江戸時代と限定している。玄蕃桶は、今やはぼ死語であろう。

.
同じく東海道五十三次の「鳴海 名物有松絞」だが、2軒の商家の前には、丸い酒樽型の天水桶が置かれている。江戸の町は、明暦の大火後も度々の災禍に見舞われた訳で、桶が設置されている情景はどこでも常態化していたようだ。(前1項参照)

.

●その丸い酒樽だが、空き樽は売却できる商品価値のあるリサイクル品であった。前10項で記述したが、江戸では1年間に、下り酒と地廻り酒を合わせて約100万樽もの酒が消費されていた。大量だ。空き樽が、再利用されて当然と思うが、これを専門に売買する商売もあった。

.

それが明樽問屋だ。空き樽買取り屋が買い集めた空き樽を引き受け、これを酒や醤油などの醸造元に売りさばいたという。イメージ画像は、後117項で登場する、千葉県東金市の不老山布田薬王寺でみる宝船に載った酒樽だ。

.

文政7年(1824)の「江戸買物独案内(後31項後37項後94項)」には、48軒の「明樽問屋」が見られる。何せ100万樽だ、充分に採算が取れた事の証明だ。ここの右から2番目に「十組 鎌倉町 豊島屋十右衛門」とあるのは興味深い。後に移転して、今も都内千代田区神田猿楽町などで酒屋を営む、老舗の(株)豊島屋本店だ。

.

「江戸名所図会(天保5年・1834)」の「鎌倉町 豊島屋酒店 白酒を商ふ図」には、店が大繁盛する様子が描かれている。雛祭り用に売ったという白酒で、「わすれのこり」という天保期の風俗に関する随筆には、「毎年2月25日、一日の間白酒を売り出す・・ 只一日の売高幾千両と云うことを知らず」とある。図の混雑ぶりから推してもさもありなんだが、大変な盛況であったようだ。

.

●豊島屋は、元文元年(1736)頃から格安で酒を販売している。毎日酒を元値で売り、空き樽を20個も出している。1樽は4斗だから約72リットル入りだ。豆腐田楽をも元値近くで売り、とにかく空き樽を発生させるのが目的で、そして、その空き樽を売って儲けにしたというのだ。1樽の売却代金は75文ほどで、1文25円としも、20樽で¥37.500にしかならない。

.

人件費などを考えても、これで商売が成り立ったのかは疑問だが、豊島屋は明樽問屋でもあったのだ。最も、浮世絵に描かれた当時は、白酒は昼頃には売り切れ、1.400樽、560石分が空樽になったという。この数量なら充分に採算が取れたろう。換算すると10.800リットルだが、1升瓶6千本分だ。それが半日で完売とは、これまた恐れ入る量だ。

.

●画像は、千代田区外神田の神田神社(前10項)の境内に積まれている酒樽だが、(株)豊島屋本店の奉納で、「名聲(声)稀四海 登録商標 金婚」だ。同社は慶長元年(1596)の創業で、白酒の元祖として有名で飛ぶように売れたが、桃の節句に白酒を飲む風習は豊島屋が発祥という。江戸時代には、「山なれば富士 白酒なれば豊島屋」とまで詠われている。

.

江戸時代には白酒以外に自ら酒造は行っていなかった。明治中期(1890年頃)に12代目吉村政次郎が、灘の地で他社と協同で自前の蔵を持ちこの「金婚」を製造している。この「金婚」は明治神宮、神田明神、山王日枝神社という、東京における主要三大神社すべてに御神酒として納まる唯一の清酒だ。

.

平成21年(2009)の全国新酒鑑評会では、大吟醸が金賞を受賞、また、創業者名を冠した「十右衛門」、「屋守(おくのかみ)」という小仕込みの純米酒も醸造している。あるいは、醤油やみりん、「金婚」の酒粕を使った「酒粕ようかん」というお菓子も製造している。

.

●さて、前回に続き青銅製の桶をアップしよう。台東区浅草の金龍山浅草寺(前1項など)の境内に淡島堂がある。元禄年間(1688~1704)に、全国にある淡島神社や粟島神社の総本社である、和歌山県加太(かだ)の淡島明神を勧請したものだ。余談ながら、上述の豊島屋の十右衛門は、夢枕に紙雛が現れ白酒の製法を伝授されたといい、この雛は、ここの淡島明神が変じた姿という。

.

正面に見える、かなりデフォルメされた丸に「金」の紋章は、香川県琴平町の象頭山金刀比羅宮、「こんぴらさん」に由来するものであろうか。淡島明神の詳細を調べても、関連は判らない。大きさは、口径Φ1.160ミリの4尺サイズ、高さは1mとなっている。

.

ここに、「明和7年(1770)」に奉納されたが、「文政4年(1821)」に「再造」されたという、作者不明の青銅製の天水桶が1基だけある(後31項参照)。「再造」がどの程度の作業だったかは不明だが、「明和7年」の表示をもってして、「近郊で最古の天水桶」とする文献も散見するが、これは間違いであろう。

.

●桶の表面には奉納者として、「臨時御用連中」と刻まれている。並んで「御蔵前旅籠町」や「浅草花川戸町」の人の名前が、囲い込まれるように線彫りされているが、その構成員であろう。この臨時御用連中は、二天門脇の手水盤も奉納しているが、明和6年(1769)に設置された浅草寺の消防組織のようだ。

.

手水盤には、「金龍山随身門前 盥漱浄水盤 安永六丁酉之年(1777) 當山 観世音千百五十年法会供養之日 奉寄附之者也 春三月 臨時連中」と陰刻されている。説明文によれば、文化10年(1813)に編纂された「浅草寺志」には、「裏門の外」と記されているから、当時から設置場所を変えずに今に至っているようだ。


.
●さて、画像ではうまく表現されないかも知れないが、この天水桶、そばに寄ってよく見ると、「巣喰い」だらけなのだ。鋳造技術の未熟さが判るが、現代なら「お釈迦」で失敗作であろう。「お釈迦」とは、仏像鋳造の際の失敗から生まれた言葉らしい。熔解湯の温度が低すぎて途中で凝固してしまい、結果、背中の光背にまで廻らず、途中で湯の流れが止まってしまう事だという。

.

よって、発生したガスが上昇排出し切れず、途中で泡状に固まって「巣喰い(後67項後121項)」を形成したのだ。これは水漏れの原因だが、鋳鉄製であったなら致命傷、腐食して穴が開き、とっくにお役御免だ。近年の作例では、表面上巣喰いは見られず、その鋳肌は美しい。
.
なお、このお堂前には、この桶のエピソードが書かれている。「太平洋戦争最中の、昭和18年(1943)11月18日、この天水桶内にご本尊さまをお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに納めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。戦後の昭和22年3月7日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された」という。

.

●青銅鋳物と言えば、富山県高岡市の老舗、(株)老子(おいご)製作所だ(前8項)。何例かを見てみよう。品川区北品川の真宗大谷派、日夜山正徳寺では「平成17年(2005)12月」に、「老子次右衛門」が1対を鋳造している。ここでは、定朝の作という阿弥陀立像を本尊としているが、定朝は、平安時代後期に活躍した仏師で、寄木造技法の完成者とされている。

.
「日夜山」がここの山号だが、山号とは何であろうか。寺院は元来修行道場であり、山中に建立されたので、その山の名前で呼ばれた訳で、別称と考えて差し支えなかろう。山を神聖なものとして崇拝崇敬する山岳信仰の一端でもある(後46項)。例えば、千葉県の成田山は新勝寺(後52項)であるが、山号の方が馴染み深い。

.
誇らしい鋳出し文字で、金光りしているが、老子さんが自信を持って世に送り出したのが判る。が、老子製の多くに見られる梨地肌ではないようで、変わった趣向だ。現在の会長の「老子次右衛門」氏は12代目で、代々世襲されている名前だ。

.
●世田谷区北烏山の浄土宗、一心山極楽寺称往院にも真新しい天水桶がある。掲示板によれば、『寺内の道光庵庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られたが、修行の妨げになるとして天明6年(1786)に「そば禁制」の碑が当寺住職により建てられた。この碑は、俳人宝井其角の墓とともに現在、当寺に残されている。其角は、芭蕉の門人で、堂前には、「夕立や法華かけこむ阿弥陀堂」の句碑がある。』

.
1対は「平成20年(2008)秋彼岸」製だから、まだ4才だ。銘は、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」作で、寺紋は、日本十代紋の一つの「抱き茗荷」となっている。大きさは口径Φ1.060、高さは1.150ミリだ。

.
この鋳肌の表現が、梨地肌だ。最近道路でよく見かける、吸水性の良いアスファルトの表面のようだ。芸術的で美しいが、一番目につく表面の鋳肌にこだわったのが明白で、技術の高さが見てとれる。作者銘は、目立たない位置に、実に謙虚に小さく鋳出されている。

.
●ハスの花弁形の天水桶も鋳造している。台東区谷中の日蓮宗長光山龍泉寺で、ここは、禅智院日感上人(寛永6年・1629年寂)が開山となり、上野下谷に元和7年(1622)に創建している。千葉県市川市の真間山弘法寺末だが、弘法寺に関しては後64項をご参照いただきたい。

.
まさにハスの花が開花しているようで、ふっくら感が艶めかしい。1対の正面には「葵紋」があり、菩提の「第五拾回忌報恩 妙祐院日養聖人僧円妙道」の命日での奉納であった。親寺の弘法寺は、天正19年(1591)に徳川家康より寺領30石の御朱印状を拝領しているが、葵紋はその関連であろうか。

.
大きさは口径Φ1.100、高さは1.050ミリとなっているが、やっぱりきれいな梨地調の地肌だ、一味違う。銘は、「平成元年(1989)12月1日 高岡市 株式会社 老子製作所 謹製」だ。その下側には排水用のドレンコックがあるが、老子社製の多くの作例に存在する。

.
●ここにもある、新宿区若葉の真言宗豊山派、独鈷山愛染院(前8項)だ。ここには、盲目の国学者・塙保己一(はなわほきいち)の墓がある。7才で失明したが、優れた記憶力を認められ、国学、漢学、和歌、医学などを学び、水戸藩の「大日本史」の校正も手がけている。米国の教育家で、視聴覚の重複障害者ヘレン・ケラーは、幼少時から「塙保己一を手本にしろ」と教育されていたという。

.
開口部がΦ900ミリある天水桶1対で、下方部が、先ほどの桶よりも細身でスッキリしている感じだ。銘は「昭和57年(1988)春彼岸 高岡市 (株)老子製作所 謹製」で、「第28世 純二代」であった。

.

因みに、資料によれば、ここにはかつて「嘉永五壬生年(1852)春三月 江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾(花押)」銘の鋳鉄製の樽型の天水桶があった。藤原正次を名乗った釜六(前17項など)だが、正面には、「日護摩講」とあったようだ。

.
●続いては、横浜市青葉区恩田町の曹洞宗、天龍山福昌禅寺。國抽太山(慶安4年・1651年寂)が開山したといい、本尊を釈迦牟尼像としている。荘厳な社殿だが、1対の青銅製天水桶は色合い的なマッチングも抜群で、情景に溶け込んでいる。

.

でっぷり感があるが、やはり梨地調で、葉脈まではっきり見える。センターには、宗紋の笹竜胆や五七の桐ではなく、四大姓の源平藤橘の橘氏の代表紋である「丸に三つ足橘」が見え、裏側には、「丸に剣片喰(かたばみ)紋」がある。檀家が「平成4年(1992)11月3日」に奉納しているが、「株式会社 老子製作所 謹製」銘だ。

.

●青銅鋳物の聖地、富山の鋳物師は老子さんだけではない。足立区島根の国土安穏寺は、第2代将軍秀忠や家光の当所巡遊の折の御膳所となり、寛永元年(1624)には、徳川家祈願所位牌安置所となっていて、葵紋の使用を許されている。山号は、「天下長久山」と厳めしい。

.

寺宝として、日蓮聖人の断簡、将軍家使用の膳わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正等の書軸などがある。境内には家光の「御手植え之松」があるが、「五街道分間延絵図」に描かれている樹木だという。(掲示板を要約)

.
●寸胴形状の天水桶1対は、直径1.2mの4尺サイズ、高さは1.300ミリ近いから、圧倒される大きさだ。堂々たる金色の葵の御紋が誇らしく、濃緑の地肌に映えている。存在感抜群な天水桶だ。

.
鋳造者銘は、「越中高岡住 五代目 幸山敏治作」だ。「維持 平成22年(2010)11月18日」で、「開創六百周年慶讃記念」での奉納だが、文字は陰刻ではなく、凸の陽鋳であるのが特徴で、見目麗しく金光りしている。

.
●鋳造者は、富山県高岡市横田町に本社を構える、(株)梶原製作所だ。由緒があるのだろう、現社長は、号として「幸山」を使用している梶原敏治氏だ。従って先の鋳出しの、「幸山敏治作」であった。ホムペを見ると、銅像や仏像などの大型美術銅器、灯籠や水鉢、梵鐘などの寺社仏閣用具の鋳造を得意としている。

.

北海道にある横綱・北の湖敏満像や札幌五輪の聖火台、上下の画像の都内台東区の金龍山浅草寺(後85項)や川崎大師平間寺(後24項など)の吊灯籠などにも名が見られる会社だ。

.

これは「昭和48年(1973)10月28日」に「魚河岸講」が奉納しているが、「浅草寺 第廿四(24)世貫主 大僧正 清水谷恭順代」の時世であった。製作者は、「五代目 浜のや謹書(前16項)」、「日本橋 関徳謹製(前16項)」、「高岡市 梶原製作所」だが、金具部分の鋳造などを担当したのであろうか。

.

●一方、信州長野市善光寺(後122項など)で、先代と思われる幸山作の常香炉を見た。ここは寺町を中心とした観光地で、多くの参拝者で賑わいが絶えない。本堂前に巨大な金色の常香炉があるが、獅子が口から線香の煙を吐き出していて、ついつい見惚れてしまう。

.

寄進者は、「仙台市 三馬弘進護謨工業(株) 社長西井康祐」で、昭和10年(1935)6月創業の、ゴムの長靴などを製造するメーカーだ。現在は仙台市に本社を置く弘進ゴム(株)で、西井英正社長だ。香炉には、各地の支社の「三馬弘進会」のメンバー名が並んでいる。

.

鋳造者は、「昭和31年(1956)7月 富山県高岡市 高岡鋳芸社 堺幸山 謹製」銘となっている。ホムペによれば、「美術鋳造委請負工房」の高岡鋳芸社は、弘化5年(1848)創業の高岡銅器の老舗だ。各地の銅山から原鉱石を採掘、精錬し、各地の鋳造工場へ供給すると共に、美術鋳造工場を開いたことに始まっている。先の梶原製作所は、ここからの独立ではなかろうか。

.

●善光寺の境内には他にも幸山作の香炉がある。文殊菩薩が安置されている山門前には、濡れ仏と六地蔵が並んでいるが、その前にある。正面には、立葵紋と卍が見え、「特別賛助員」が奉納している。

.

「維持 昭和29年(1954)6月6日 謹作者 高岡市 高岡鋳芸社 堺幸山」という銘になっている。

.

●本堂裏の日本忠霊殿前にもある。ここは、戊辰戦争から第二次世界大戦までの、国難に殉した240万柱の英霊を祀る仏式霊廟で、明治39年(1906)に創建されている。

.

都内新宿区の個人の奉納で、「昭和45年(1970)秋 富山県高岡市 高岡鋳芸社 堺幸山 謹造」だ。建屋はこの年に改築されているので、それを記念しての設置であろう。上に載っている獅子や神獣は、先の香炉と同じ大きさ、同じ意匠のようだ。

.

●あるいは、富山県高岡市伏木古国府の雲龍山勝興寺(後121項)。文明3年(1471)、本願寺8世蓮如が北陸布教の途中、砺波(となみ)郡土山(現福光町土山)に一寺を建て土山御坊と称したのが始まりだ。桁行11間の入母屋造の本堂や、洛中洛外図屏風は重要文化財だ。画像は、明和6年(1769)の建立で、明治26年(1893)に京都・興正寺より移されたという唐門。

.

屋根を支える猿の彫刻や水の枯れない池など七不思議の逸話を持ち、興味の絶えない寺だ。ここに、1対の青銅製の灯籠が奉納されている。6角形の基台の上に蓮弁状の台座が載り、唐草紋様の透かし彫りの火袋には寺紋がある。笠からは蕨手が伸びていて、天には擬宝珠を冠しているが、すっきりした1本柱からして春日型(後33項)の灯籠であろうか、あるいは角形の火袋からして、東大寺型と呼ぶべきものであろうか。

.

多くの寄進者名が陰刻されていて、「高岡鋳芸社 堺幸山作」と草書体で陽鋳されている。造立の年月日は不明だが、様相からしてごく近年のものであろう。幸山は、個性ある諸々の仏具を鋳造しているが、芸術肌を持ち合わせた鋳物師のようだ。

.

●さらに先代の幸山作と思われる作品は、後48項で登場するが、横須賀市緑が丘の曹洞宗龍谷山良長院で見られる。ここには「埼玉懸川口町 請負鋳造所 永瀬留十郎之作(後68項) 明治三十五年(1902)七月吉日」銘の天水桶1対がある。その手前に青銅製の灯籠が2基立っている。

.

節を伴ったほっそりとした竿で、蓮弁が描かれ反花(後51項)の上に載っているが、天にはやはり水煙を発する擬宝珠を冠している。台座に陽鋳文字がある。「製作者 高岡市 梶原幸山」とあり、その下の角の印影(前13項)は「幸山」と読める。「昭和十二年(1937)十月八日」付けでの檀家の奉納だが、時代差からして先代の幸山であろう。

.

●ところで、ここ国土安穏寺の梵鐘は注視するに相応しい鐘だ。「維持 昭和30年(1955)3月吉祥 高岡市鋳物師 七十八叟(そう・才) 老子次右衛門」という陽鋳文字だが、中興の7代目次右衛門(後86項)の作例だ。関東近郊では、戦後に鋳られた老子製最古の部類と言える梵鐘なのだ。

.

縦帯(前8項)には、「世界平和 正法興隆 万邦共栄」という願が込められている。当時の住職日湛は、「尚献納ノ鐘ハ 二百五貫目ノ大鐘 ソノ代価ハ 六八一円十四銭ノ 国債デアッタ」と記している。戦後の復興も一段落した頃だろうが、この時期に梵鐘を鋳ようという底力のある寺は、特に関東近郊にはそう多くは無い。

.

●さて大きさで言えば、これまでに出会った中で最大級の青銅製天水桶は、大田区池上にある、日蓮宗大本山にして、日蓮聖人入滅の地である長栄山大国院池上本門寺(後52項後85項)の桶だ。

.

区教育委員会の掲示によれば、「慶長年間(1596~1615)には徳川家康から寺領100石をうけるなど、徳川家や諸大名の信仰を集めました。全国に旧末寺約200ケ寺を持つ大寺院で、境内には、加藤清正の供養塔や徳川家墓所、幸田露伴や力道山の墓などがあります。

.
●小堀遠州の築園と伝えられている松涛園は、西郷隆盛(後100項)と勝海舟が会見した場所といわれ、都の指定旧跡となっています。また、国の重要文化財の五重塔は、慶長12年(1607)に、2代将軍秀忠が、乳母正心院の願いで建立したもので、高さは29.8mで関東では最古のものです」という。

.

山梨県・身延山久遠寺(後121項)、千葉県・正中山法華経寺(後55項)と共に三頭と称され、神奈川県・長興山妙本寺(後127項)、千葉県・長谷山本土寺(後70項)と共に三長三本山と称される日蓮宗四大本山の一山だ。

.

●寺域の大坊本行寺が日蓮聖人入滅の旧跡だ。弘安5年(1282)の入滅後間もなく、大檀越の池上右衛門太夫宗仲公が館を寄進して本行寺が開創されている。区によれば、指定有形文化財の日蓮聖人坐像は、高さ56.7cmの木像寄木造りという。

.

日蓮は、鎌倉中期の僧で日蓮宗の開祖だが、安房国に生まれ、若くして天台宗を学んでいる。長じてからは、仏法の真髄が「法華経」にあるとし、きびしく他宗を排撃したため、諸宗や為政者から圧迫を受けている。世に言う「日蓮聖人四大法難」だ。晩年は甲斐身延山久遠寺(後121項)に隠棲し弟子や信者の指導にあたっていたが、病の悪化とともに身延山を出発、この池上の地で示寂している。

.

ここには、聖人が最後の説話をした時の「お寄り掛かりの柱」や、使用した霊水の「御硯井戸」、亡くなるとき一斉に花が咲いたと伝えられる「お会式桜」がある。お会式の万灯に桜の花を飾るのは、この故事に由来している。現在も旧暦10月頃には花を咲かせるというから、時節に訪れたが、本当に数輪が開花していた。

.
●本門寺大堂前の天水桶1対は、「昭和42年(1967)9月吉辰」銘で、大本堂完成に伴い奉納されている。仰ぎ見上げる大きさで、Φ1.75m、高さは1.8mほどもある。その上に手桶と屋根があるから、全高は4mはあろう。山のように雄大な社殿の風格に合致した見事な桶で、いいバランスだ。

.
川崎大師平間寺(後24項)の天水桶は、Φ1.600×1.700くらいであったが、それよりも高さがある。日蓮宗紋がそれぞれに浮き出た6個の手桶も精緻で、手抜きが無く感心しきりだ。直接測定できないから目測ではあるが、手桶の大きさは、Φ500、高さは400ミリほどだ。

.
●本堂裏にも同じデザインの天水桶が1対あるが、手桶は無く、Φ1.570、高さ1.450ミリと一回り小さい。奉納は、本堂正面の2対と共に「近在結社」で、「長栄山本門寺 第80世 日成代」であった。この裏面には、「大堂完成に伴い近在結社は 仏祖三宝の報恩と落成記念の為 天水桶の献納を発願致しました・・」と刻まれている。

.
さらに裏側にはその世話人や無数の寄進者、役員の名前が陽鋳(凸文字)されていて、立錐の余地もない。台東区元浅草の(株)翠雲堂の提供だが、これだけ巨大な美品を鋳造できるノウハウを持った鋳物師はそう多くは無い。翠雲堂は現在、木型は製作しているが、それを使っての鋳込みは行っていない(後59項)。察するに、実際の鋳造は、先の老子さんか梶原さんであるかも知れない。

.
寄進額は、最高25万円から300円までと幅広く、8角形の台座にまで刻まれている。通常、青銅製の桶の表面にこれだけ多くの人名が陽鋳されることは余り無く、タガネで刻み込む陰刻が普通だ。ここ本門寺の文字成形には、どれだけの手間暇を掛けたのだろうか。一切の省略を許さないこだわりが認められる極上の天水桶だ。

.

●なお、ここの古い絵葉書を見ると、鋳鉄製らしき天水桶が写り込んでいるが、人の背丈に比しても、大きい事が知れる。見える範囲ではあるが、寄進者などの文字情報の存在は確認できない。天水桶を奉納するという文化は、19世紀初頭から芽生えているし、人物は月代(さかやき)を剃っているから、江戸時代であろう。

.

川口鋳物師が手掛けたここでの天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「文政9年(1826)10月 永瀬嘉右衛門(前15項など) 水盤(天水桶) 半双(1基)」、「天保8年(1837)10月 増田金太郎(前13項など) 水盤 一双(2基)」。

.

さらに年代不明ながら、「川口鋳物師 (永瀬)宇之七(後68項など) 鋳工 加田屋三郎兵衛(後39項) 水盤 一双」となっている。この絵葉書に写っている天水桶は、この内の何れかなのであろうか。つづく。