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●最近出会った天水桶を見ていくが、世田谷区太子堂にある太子堂八幡神社の本尊は、不動明王立像(前20項)と二童子像だ。境内の太子堂には聖徳太子像が祀られていて、太子堂の地名は、これに基づいている。旧当社別当の円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(1592~)に創祀されたとあるようだ。
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堂宇前には、「平成7年5月吉日」に奉納されたステンレス製の桶が1基ある。「三つ巴紋」が際立つが、これは銅板から叩き出したものであろう。7名の人が奉納しているが、「宮司 畑中輝也」の時世であった。入り口にある木の祠は何とも奇異で目を引くが、割れ目の中に石仏が祀られている。いわれがあるのだろう、石柱で保護されているし、献花もされている。
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●大江戸線の東中野駅近く、中野区上高田の曹洞宗、松雲山宗清禅寺にある青銅製の天水桶は、「中野白蓮堂(びゃくれんどう) 謹製」だ。中野駅の北側に位置するこのお店は、「祈る、それは想うこと」をキャッチフレーズに、仏壇販売を得意としているようで、昭和35年(1960)6月の創業以来56年を迎えている。
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「為各家先祖代々菩提」供養のための奉納であるが、「昭和46年(1971)3月吉日」、「宗清寺33世 秀峰代」の時世であった。大きさは口径Φ1.1m、高さは1.2mの1対となっている。大きく開花した5葉にスリムな中台、末広がりの反花(前51項)の下の6角形の台座では、獅子達が跳ね回っている。洗練された意匠だが、これは、次の例と全く同じだ。
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●宗清禅寺のすぐ東側にある曹洞宗、曹渓山青原禅寺にも「白蓮堂」が謹製した桶がある。寺は、江戸時代には、播磨龍野藩(現兵庫県たつの市)・脇坂家の菩提寺であった。外様から譜代大名となった同家は、5万1千石を拝し、1672年から1871年の2世紀に亘り統治している。
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また墓地には、江戸後期に活躍した、狂歌師や洒落本作者として知られる「朱楽菅江(あけらかんこう)」の墓がある。江戸に生まれた幕臣であったが、著書には、洒落本「売花新駅」、狂歌撰集に「故混馬鹿集」、「狂歌大体」などがある。その妻も狂歌師で、号は「節松嫁々(ふしまつのかか)」というのだから面白い。
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●1対の青銅製の天水桶の奉納は、「昭和46年(1971)2月吉日 第28世 義英代」、「白蓮堂 謹製」であったが、地元の縁であろうか、先例とはタイトな期間に設置されている。正面の「曹渓山」がここの山号だが、大きさは先例と同じく、口径Φ1.1m、高さは1.2mだ。
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同年には、鉄筋コンクリート製の本堂及ぴ庫裡が完成しているから、それを記念しての奉納であろう。同年5月には、「本堂落慶記念」として梵鐘も掛けられているが、作者銘は「高岡市 鋳物師 老子次右衛門(前86項など)」だ。天水桶の取扱いは白蓮堂だが、フォルムからしても、その実際の鋳造は2ケ寺とも老子社だろう。
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●近くの中野区上高田には、真宗大谷派の金台山源通寺があるが、ここは、慶長15年(1610)に神田に創建、明暦の大火により浅草へ移転、明治41年(1908)に当地へ移転したという。ここには、江戸時代末期から明治期に活躍した劇作家、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の墓地がある。
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掲示板によれば、黙阿弥は、鼠小僧次郎吉を義賊にした作品をはじめ、「三人吉三」や「白波五人男」などの盗賊を主人公とした生世話狂言で、世相を写実的に描く近代演劇への道を開いている。黙阿弥調の例として、「白浪五人男」の中の雪ノ下浜松屋の場、弁天小僧菊之助のセリフ、「知らざあ言ってぇ聞かせやしょう・・」は、耳に覚えがある。
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天水桶1対は、先の2例と同じようなデザインだが、これは鋳鉄製だ。裏側に銘板がビス止めされ、「寄進者芳名」が刻まれているが、「昭和41年(1966)12月」の寄進となっている。大きさは口径Φ1m、高さは880ミリだ。
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●西武池袋線の練馬高野台駅の南側、練馬区南田中に観蔵院曼荼羅寺がある。宝暦12年(1762)造立の筆子塚は、練馬区で最古の史跡であるという。併設の曼荼羅(前27項)美術館は、仏教の教えの発信と地域文化の発展を目指し開館している。例えば、図像は「金剛界曼荼羅」だが、象頭人身で弓を執る姿の「供養会の金剛衣天」や、弓箭の姿で表された「三昧耶会の金剛衣天」が描かれている。
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ここの雨水受けは退役した羽釜1対の代用だが、鋳造者は不明だ。この釜には、竈(かまど)に架けるための鍔(つば)があるが、それを羽根に例えて羽釜と呼んでいる。当サイトでは多くの項で羽釜が登場しているが、主な項番を記しておこう。前38項、前61項、前66項、前72項、前78項、前85項、後96項、後97項、後108項、後122項などだ。
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●羽釜は調理器具だ。それで思い出すのは、JR信越本線横川駅の日本随一の人気駅弁「峠の釜めし」だ。製造する(株)荻野屋(おぎのや)は、明治18年(1885)10月の創業で、横川駅で駅弁「おむすび」を販売した事に始まっている。横川-軽井沢駅間は、北陸新幹線開通前までは、碓氷峠越えという険難の地であった。補助機関車連結のため全ての列車が横川駅に長時間停車したので、駅弁販売に適した駅であったのだ。
本社所在地は、上の画像の群馬県安中市松井田町横川で、昭和32年(1958)に「峠の釜めし」を発売してヒットした事により、脚光を浴びている。昭和42年には、当時の同社経営者をモデルとしたドラマ「釜めし夫婦」がフジテレビ系列で放映されているが、この作品が「峠の釜めし」と「おぎのや」の存在を全国に知らしめている。平成21年(2009)10月には、累計販売個数1億5千万個を突破したようだ。
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●横川駅近くの国道18号線沿いに、「峠の釜めし本舗 おぎのや横川店」という釜めしや土産物の販売店がある。そのすぐ隣りが、荻野屋の「横川製造工場」で、さらにその横にあるのが、画像の今は閉鎖されたかつての販売所だ。ここに大きな鋳鉄製の羽釜が置かれている。
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釜めしの容器の色合いに合わせ丁寧にツートンに塗装され、石組みの上に据えられているが、中には炭も置かれていて、客の目を惹かんとするその意気込みが見てとれる。かつて釜めしの調理に使われていた退役した羽釜だろうが、荻野屋の象徴的な遺産だ。この羽釜の鋳造社銘が、「山サ(後97項)」と鋳出されている。
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ここは、愛知県岡崎市に現存する厨房機器の製造販売メーカー、服部工業(株)で、「三州」という文字と並列して表示される事も多いが、ここでは見られない。さらに注視すべきはその位置で、羽の下側なのだ。山サ製の羽釜は、他項でも沢山登場するが、その銘の多くは羽の上側に表示されている。何故なら下側だと竈(かまど)に架けてしまうと見えなくなるからであり、ここの例は特異と言える。
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●中央線の市ケ谷駅のすぐ北側は江戸城の外堀であるが、都心では珍しかろう、駅の真ん前で釣り堀店が営業している。新宿区市谷八幡町の「市ケ谷フィッシュセンター」だが、総合観賞魚センターと謳っている通り、熱帯魚はもちろん、水草や爬虫類まで販売している。
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その北西側の階段を昇っていくと市谷亀岡八幡宮(後126項)がある。防衛省の東側だ。江戸城を築城した太田道灌(後89項)が、文明11年(1479)に、市谷御門内に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したが、その「鶴」に対して、「亀」ケ岡八幡宮と称したという。
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太田道灌は、ここに軍配団扇を残しているが、区登録の有形文化財だ。一般的に「軍配」は、文字通り、軍陣を適切に配置する事を意味している。武将が合戦を前に天文を読んで用いた指揮具であり、通常、太陽や月の図柄や吉凶の日取り表などが描かれているという。ここの軍配の柄は木製で、団扇の部分は、和紙を芯にして幅1センチほどの短冊状の竹板を並べて、黒漆を塗って仕上げられている。
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●他にも寛政6年(1794)銘を最古とする、百貫目(375Kg)もあるという合計7個の力石や、文化元年(1804)12月に鋳造された区内唯一の銅造明神鳥居は、区指定の有形文化財だ。高さは4.6m、根石55cm、柱の最大径は、Φ440mmとなっている。鳥居は、ここの別当寺であった東円寺の第7世住職の智光の発願により建立され、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。
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鳥居の柱には、「惣町 氏子中」とあるが、惣町は、町の集合体である町組が、更に広範囲になったくくりで、自治組織のようなものだが、大勢の寄進者の裏付けでもあろう。「八幡宮」とある扁額は、播磨姫路藩第3代藩主で、雅楽頭系酒井家16代の酒井忠道の筆によっている。
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下方には、「御鋳物師 西村和泉 藤原政平作(前3項、前89項、後110項など)」と陰刻されている。その左側には、「同 嘉助 久兵衛 傳右エ門 平吉 音吉」と、苗字のない5人の名があるが、これに関わった政平の従者に間違いなかろう。
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●政平は、寛政10年(1798)に没している西村家の5代目であったが、ここの鳥居の造立日とは辻褄が合わない。「発願者 寛政七乙卯年(1795)」とあるのがその解明のヒントだろう。5代目の存命中に手掛け始めたが、完成させた政寿(後107項)と名乗ったと思われる6代目が、「政平」として刻み込んだのだろう。発願者が惣町に寄進を募り始めてから、実に9年後の完成であったようだ。
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画像は天保年間(1830~)に斎藤月岑(げっしん)が刊行した「江戸名所図会」だが、真ん中やや上、階段の途中にはこの鳥居が描かれている。鳥居は神社の門というイメージだが、本来は神様との世界を隔てる象徴で、その空間に「通り入る」ことが転じて鳥居と称されるともいう。
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鳥居に飾られる注連縄(しめなわ)も、神様の世界との結界を張る意味がある。注連縄の「しめ」とは「占める」ことを指し、「注連縄」と書いた時の注連(ちゅうれん)とは、中国において死者が出た家の門に張る縄のことで、故人の霊が再び帰ってこないようにした風習であるという。なお、銅製の鳥居に関しては、前3項や後129項にリンクを貼ってあるのでご参照いただきたい。
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●次の画像は、主が不在の天水桶の台座で、参道に2基が放置されているが、これだって立派な文化財であろう。大きさは800角、高さは350ミリだ。「田町一丁目」の人々の奉納で、「武蔵屋巳之助 大橋屋吉右衛門」、「惣町 十七人鳶中」ら多くの人名があり、「石工 関長右衛門」の陰刻も見える。そして社殿を背にして市ケ谷駅方向を見ると、左側に植込みがある。
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その中に、忘れ去られ放置された台座の、かつての主の天水桶2基が存在する。底が抜け、ほぼ全壊している1対だ。「御宝前」への奉納であったが、個人名は一切鋳出されていない。大きさは、口径Φ750、高さは750ミリほどだ。
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●よく見るとかなりの肉薄で、シーズニングも適当であったろうから、鋳造後の応力で設置後の早い時期に割れてしまったのかも知れない。シーズニングは「乾燥」だが、鋳鉄物の場合、高温に晒して枯らし、分子を均す必要があるのだ。ひどい損壊であり、もう2度と日の目を見ることは無かろうと思うと空しい。
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逆さではあるが、「文政4年(1821)2月吉日」というはっきりした鋳出し文字は確認できる。ぐるりを見ても、残念ながら鋳造者は特定できず、大正3年(1914)刊行の香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」を見ても、この年月での鋳造記録は無い。
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画像は、神紋部を切り取って拡大したものだが、これは、炎に包まれた宝珠を模した「焔玉(ほむらだま)如意宝珠(前11項、前33項)」のようだ。1つであるのが通常だが、ここでは「三つ盛り」になっている。龍神が抱えていたり、狛犬や楽太鼓にもこれがデザインされているのを見かけるが、ここでは勧請した八幡大神と所縁のある紋章なのだろうか。
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●ここ市谷亀岡八幡宮へ向かう階段の途中に、摂社の茶ノ木稲荷神社がある。ここの由緒書きを読んでみよう。「現在の境内地は、今を去る事1.200年以上前に弘法大師が開山し、稲嶺山(いなりやま)と申しました。市谷亀岡八幡宮は、江戸の初期に遷座するまでは、この茶ノ木稲荷神社が、約700年に亘りこの山の本社だったのです」という。実は、上記の天水桶は、ここの堂宇前に置かれていたのだ。
昭和49年(1974)ごろの古写真にこの天水桶が写っている。この頃には損壊の様子も見られず、現役として役目を全うしている。正面には焔玉宝珠があり、デザインも石の台座も同じものだ。裏側の銘は、「文政四年辛巳(1821)二月吉日」であり、これも同じだ。どうやらこの後に損壊が始まり、今日の姿に変わってしまったようだ。
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●お次だが、中央区日本橋浜町の浜町公園に隣接して、清正公寺がある。敷地は、江戸時代には熊本藩細川氏の下屋敷であったが、公園は、昭和4年(1929)年に整備され開園している。寺は、名の通り、戦国武将の加藤清正を祀っていて、文久元年(1861)に創建している。
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階段の両脇の隠れたところに、1対の鋳鉄製の天水桶があるが、下方の紋様が樽を締め付けるタガを連想させ、一見、漬物樽を思わせる。外径はΦ870mm、高さは680mmだ。正面に丸く囲まれて据えられている紋章は、清正の「正」の意味合いだろう。
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●桶の裏側にはうまく廻り込めず、全体画を撮影できない。作者は、おぼろげな文字だが、「江戸小網町三丁目 鋳之扱 釜屋浅右エ門(花押) 安政5年(1858)5月吉日」と読める。寺の創建前の設置というのも不可思議だが、「鋳之扱」は、「鋳工扱」であろうか、あやふやだ。先の「日本鋳工史稿」にもこの人物の名前は出てこない。
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この人は、太田釜屋六右衛門(釜六)、あるいは田中釜屋七右衛門(釜七)系統の方であろうか(前17項、18項)。同じ「釜屋」で、花押(前13項)を鋳出していることからしても、近しい人だろう。通常、「釜屋」は鍋釜を扱う問屋であるから、銅鉄製品を扱う商人かも知れない。商人とすれば、「鋳之扱」が正しかろう。
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●前37項では、品川区北品川の荏原神社で、「東都大門通 鋳工 伊勢屋彦助 天保6年(1823)」という桶を見た。「伊勢屋」は「鋳工」と自称しているのに、銅鉄物扱いの商人であり、鋳物師ではない。OEM、つまり、「伊勢屋」商標による委託製造だが、これと同じ意味合いの天水桶であろうか。さらに気になることがある。前67項で見た、画像の港区南麻布の広尾稲荷神社の天水桶だ。
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「武州川口鋳工 吹屋市右衛門(花押) 文久2年(1862)9月吉日」の銘であったが、この鋳出し文字のすぐ右下に、申し訳なさそうに小さく、別の文字が見られるのだ。拡大してみると、「小網町三丁目 釜屋浅右エ門 鋳造之」となっている。
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鋳造年も近いし、清正公寺のものと同じ住所、名前ではないか。しかし、「吹屋市右衛門」の文字は、「釜屋浅右エ門」より2回りも大きい。よって実際の鋳造は、市右衛門であると判断してよかろう。
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●また、前35項の、東京高尾山の奥の院で見たのは、下の画像の右側の「鋳物師 川口住 市右衛門 萬延2年(1861)2月」という天水桶であったが、「市右衛門」は、「吹屋市右衛門」こと海老原市右衛門の事だ。
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この裏側には、「小網町三丁目 釜屋浅右エ門和長(花押)」とあるが、これも鋳造年も近いし、清正公寺のものと同じ住所、名前だ。今度は、「市右衛門」よりも逆に1回り大きな文字だが、果たして「釜屋浅右エ門」は鋳造技術を持った鋳物師だったのだろうか。
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●調べてみると、上述の釜六の名跡は11代を数え、明治維新後に途絶えている。また、釜七の系統は、一族であったこの浅右衛門に暖簾分けされ、「釜屋浅右衛門商店」として、明治末期まで存続している。本店の釜七の「○七」に対し、「山七」が社章であったようで、支店的な位置付けであったと思われる。
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前18項では墨田区押上の高木神社で、また後117項では江戸川区一之江の白鬚神社で、「東京深川 釜七本店鋳造 明治35年(1902)10月」という全く同じ陽鋳文字を見るが、釜七製の天水桶には、「本店」と明記されていたのである。なお、「釜七」と鋳出された天水桶としては、この2例が確認できている最後の作例なので、この後に鋳造業からは撤退したのであろう。
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●さて、ここ清正公寺の天水桶の「釜屋浅右エ門」は、釜七傘下であれば鋳造技術を身に着けていたはずであろうが、先に確認したように1860年前後は、川口鋳物師の吹屋市右衛門による鋳造であった。川口鋳物師と江戸小網町の銅鉄商人につながりがあったようで興味深いが、なぜ自ら、あるいは親方筋の釜七の鋳造ではなかったのだろうか。
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商人に特化していたとも言えようが、滋賀県栗東市小野の栗東歴史民俗博物館蔵の「店卸之儀二付一札(文化4年1807)」を読むと、「浅右衛門店の勘定がなされていないため、店卸を行い、今後は本店へ店卸と帳面を預け、本店より支配人を付ける」とある。分店は毎年本店への勘定報告の義務があり、怠ると店の支配権を本店が持つことができたのだ。
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さらに「為取替一札之事(嘉永6年1853)」では、 文化4年に釜七預りとなった浅右衛門店を、与惣左衛門(後継者か)持ちとする旨を本店が認めた書状だが、元に戻るまでに46年という長い歳月を費やししている。どうやら一悶着あったようで、これが吹屋市右衛門との縁を結んだ理由ではなかろうか。
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●一族の事業に関連した店舗を、文政7年(1824)刊行の名店紹介本の「江戸買物独案内(前31項、前37項))」で見てみると、太田釜屋六右衛門、釜六は、江戸小網町2丁目に「鍋釜問屋」と深川上大島町に「釘鉄銅物問屋」を、田中釜屋七右衛門、釜七は、深川上大島町に「釘鉄銅物問屋」を展開していた事が掲載されている。
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また釜屋浅右衛門は、小網町3丁目で、「釘鉄銅物問屋」と「鍋釜問屋」を運営していた。さらに江戸買物独案内には、「小網町3丁目 醤油酢問屋 釜屋浅右衛門」の記載もある。全ての社章は「山に七」だが、これは釜七のものと同等だ。清正公寺の天水桶1対は、この店舗での取り扱いであった。この様に、当時から多角化し、製造と販売を分業化していた事が判るのだ。
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●そして現在、都内中央区日本橋小網町6丁目には、「釜屋もぐさ本舗」がある。万治2年(1659)創業という360年の老舗で、初代は、富士治左衛門だが、現社長も昭和62年(1987)に同名を世襲し、12代目を数えている。
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開業地は、「小網町3丁目」であったというから、清正公寺の天水桶に鋳出されていた住所と同じだ。釜屋浅右衛門商店も、釜六の鍋釜問屋も釜屋もぐさ本舗も、「小網町」という同一地域で色々な事業を展開していたようだ。
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初代は、近江国(滋賀県)栗太郡辻村から出職した、田中七右衛門・釜七のいとこで、田中次左衛門を名乗っていたという。当初は、鋳物師の補佐役という立ち位置であったのだろうか、鍋釜の運搬業として廻船問屋を始め、鍋釜問屋を開業している。
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●現当主の談話を要約すると、3代目のころから、品質が良い滋賀県伊吹山のもぐさを扱い、旅の携帯用の「切りもぐさ」として売り出したところ評判となり、今に続くという。商品の「極上晒散艾(ちらしもぐさ)」の包装紙には、羽釜のマークと「登録商標 元祖釜屋艾」、「富士謹製」とあり、歴史を感じる。俳諧の松尾芭蕉も顧客であったというが、なろほど「奥の細道」の冒頭に「(膝下の)三里(というツボ)に灸をすゆる」と書き記している。
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江戸買物独案内にも登場している。右端の絵は「本家立看板御目印」で、「本家 小網町三丁目 かまやもぐさ 釜屋治左衛門(印章)」と書かれている。上述した万治2年(1659)創業という社歴が長々と記され、「桐箱千挺入 小袋百挺入」などの商品内容や、取次所の住所までが紹介されている。
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●中央区の有形民俗文化財として登録されているのが、同社ゆかりの「鉄製大釜残欠」だ。区の説明によれば、「釜屋の由来を銘文に鋳出した大釜は、江戸以来、看板兼天水桶として店先に置かれ、また釜屋の商標としても、人々によく知られていました。大釜は、関東大震災による亀裂や太平洋戦争での金属供出(前3項)などの影響を受けて、銘文部分を残すのみとなりましたが、江戸の商家の歴史を今日に伝えています」という。
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因みに、ここ清正公寺で川口鋳物師が手掛けた天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「天保5年(1834)6月 永瀬嘉右衛門(前15項、後121項など) 水盤(天水桶) 一双(2基) 芝白金 清正公」という記載がある。現存は、「安政5年(1858)5月」であったから、この2代目は24年後という早い時期に誕生したようだ。火災焼失などの災禍に見舞われたのであろうか。
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●総じて、鋳物師の中には、鍋釜類の製造販売を止め、製薬業や醤油造、酒造など別の職種へ転業しても、「釜屋」や「鍋屋」という屋号を残すことが多々あった。例えば後130項では、鋳物師・岡本太郎右衛門を祖とする岐阜の「鍋屋バイテック会社」の例をみている。
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往年の鋳物師らは、朝廷や時の権力者の御用達を命ぜられるなど、特殊技能職であった。鋳造設備を失っても「釜屋」を冠することはステータスであり、「釜屋もぐさ本舗」の屋号もしかりであった。つづく。