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●都内江戸川区一之江に、純正日蓮主義を信奉し、在家仏教の模範教団と謳う宗教法人の国柱会がある。明治17年(1884)、田中智学によって創始され、当初は「立正安国会」と称したが、大正3年(1914)11月に、全国の組織を新たに統合して国柱会に改めている。この名称は日蓮聖人の「開目抄」に記された、三大誓願の一つである「われ日本の柱とならん」の聖語に由来するという。

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ここの一角に、「妙宗大霊廟」がある。ホムペから要約するが、田中先生によれば、「一体人間が生れて来るのは別々に生れて来るのだけれども、それが死んでの後までも矢っ張り別々になって居るといふことは、実は理屈に合はない。ことごとく隔てをとって、永久の眠りに入るという方式でなければならぬといふので、一塔合安という廟塔の新式を発表したのである。」1塔にして万人を合葬、という訳だ。

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「申孝園」と呼ばれる園内の周囲100mほどの池の中島にそびえているが、高さ5mほどの全人に共通の宝塔で、毎日、回向供養されるという。「南無妙法蓮華経」のお題目の裏に「大正15年(1926)夏起工 昭和3年(1928)3月竟工(きょうこう=完成) 国柱会霊廟」とあり、鋳鉄製の塔のようだ。

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●登壇はかなわず、台座の文字は望遠での撮影になった。手前の鉄柵が障害となり、全ての文字は読み切れないが、「鋳造 増田金太郎」、「田中末吉 造之」が読み取れた。共に川口鋳物師で、増田は、幕末に大砲製造家として名を馳せている(前82項など)。

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田中は、当サイトにも度々登場しているが、田中鋳工所(前68項など)の初代だ。前6項では、「港区赤坂・四合稲荷神社 川口市 ○二 田中鋳工所製(印影) 昭和8年(1933)12月吉日」銘の天水桶を見ているが、その他の作例のリンク先をそこに貼ってある。画像は田中家が所蔵する、「田中」と大きく鋳出された末吉製の火鉢で、大正14年(1925)鋳造だという。

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昭和初期の「川口市勢要覧」によれば、末吉は、明治16年(1883)に茨城県太田町に生まれ、13才からの4年間、塩原弥次右衛門(後119項)の徒弟として焼き型を専門に修業している。その後、三州岡崎の木村善助の工場や豊川の中尾十郎の工場(前78項)を遍歴、大正7年(1918)に独立している。

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●では次に、増田製の天水桶を2例見てみよう。まずは、上述の増田と田中の親密性を示す1対で、江戸川区東小岩にある小岩神社に存在する。かつては五社明神社と呼ばれた地域の鎮守であるが、天照大神、八幡、春日、住吉、玉津島の五座を祀っている。天保11年(1840)に、摂社の1つであった現在地へ遷座、明治時代に小岩神社へと改称している。

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天水桶は、堂宇両サイドの小屋の裏側の、正面からは確認しづらい位置にあり、「東京神田旭町」と地元「小岩町」の個人が「昭和4年(1929)4月吉日」に奉納しているが、珍しい角型の鋳鉄製の1対だ。4本の脚は、簡素化された雲脚だろう。大きさは横950、奥行き770、高さは870、額縁部の幅は100ミリとなっている。

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「武州川口町 請負人 (社章)増幸商店」とあるが、実際の鋳造は、「武州川口町 (社章)田中鋳工所製 (角印影)」だ。先の宝塔と同時期であるから、田中鋳工所の代表は、田中末吉だ。請け負った増田は、大正11年(1922)に、鋳物製品と茶器や花器を販売する「増幸商店」を立ち上げた、昭和6年(1929)8月に没した7代目の幸蔵であろう。

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●この「請負人」の意味は、前83項でも見ている。千葉県我孫子市の緑香取神社にある、次の画像の「昭和4年(1929)2月19日」の樽型桶で、「川口町 増幸鋳造部 山寅作」であった。増幸商店で受注し、この時は、天水桶鋳造の大家で名匠の山﨑寅蔵(前20項など)率いる、山﨑鋳工場に鋳造を依頼している。

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両神社で見られる社章も同じだが、増幸商店には、この時期すでに鋳造設備がなかったようで、金物を扱う商社に特化していたのだろう。また、設置された日付から考えると、2ケ月ほどの差異しかない。

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山﨑は、前20項で見たように、別に「日本橋茅場町 攝社(しょうしゃ)日枝神社 山寅製 昭和4年4月吉日」の天水桶を受注しており、さらなる緑香取神社分ですでに手一杯だったのであろう。増田は小岩神社分を田中に発注した訳だが、川口という同一地域において、親しく仕事のやり取りが出来るつながりの深さを感じ取れる。

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●続いては、都内文京区本郷5丁目にある曹洞宗、祝峯山長泉寺。僧牧中が、永禄3年(1560)に小石川に創建し、寛永13年(1636)、当地へ移転している。東大赤門の真西、菊坂の北側に位置し、近辺は、昭和の半ばまでは「菊坂町」であったが、菊畑が広がり、菊の花を作る者が多く住んでいたという。

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ここで、久しぶりに古めの鋳鉄製の1対の天水桶に出会った。口径850、高さ630ミリで、両サイドには吊り輪が備わっている。「寄附主 梅崎庄太夫 同妻」で、正面には「圓山長泉寺」とあるが、現在の山号は、「祝峯山」だ。

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●「文政改元林鐘吉旦」の造立だが、「林鐘(りんしょう)」とは、平安時代末期に成立した、いろは引きの日本語辞書としては最古とされる「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」によれば、陰暦6月の異称だ。「吉旦」は、「吉日 吉辰」に等しく、良い日という意味だ。

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この「改元」は、次の元号である「天保」への改元の、「西暦1830年(文政13年)12月10日」という意味であろうか。しかし、「文政13年林鐘6月」の時点で、「半年後に改元する日が来る」とは知る由も無いはずだ。

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●一方、向かって左側の桶の鋳出しには、「文政十一戊子(つちのえね・ぼし)三月吉旦」とある。これは1828年だが、発願日であろうか。この日の時点で、約2年後に文政13年を迎える事は判らない訳だから、この日が鋳造日ではない。

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すべての表記は凸の陽鋳造文字であり、後日に彫り込みが可能な陰刻ではない。本体と同時に鋳造されたはずだが、この2つの時間差がよく判らない。鋳造日は、「文政13年6月」として良いのだろうか。

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●作者名として、「川口釜屋 金太郎」と鋳出されているが、この人は、「増田金太郎」であろう。京都真継家(前40項)の文書に、「天明七年(1787)、永瀬源内別家永瀬金太郎、川口宿増田金太郎、元は永瀬に有之候」とあり、永瀬家とは親戚関係であることが知れるが、これまで見てきたように、なぜか増田姓を記さない鋳造物を散見するのだ。

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ここ長泉寺からほど近い、画像の文京区本郷4丁目の桜木神社(前13項)には、「文政13年(1830)9月 増田金太郎」という天水桶1対も存在するが、長泉寺の桶は、金太郎が手掛けた現在確認できる最古の天水桶かも知れない。

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●ここからは、最近出会った天水桶を見て行こう。山梨県南アルプス市東南湖(なんご)の八幡神社は、御祭神として、譽田別命(ほんだわけのみこと)、つまり、第15代応神天皇を祀っている。保持する、尺五御輿と言われる小型のお御輿と、桃山期である文禄3年(1594)の銘を持つ銅製の神鈴は市の文化財だ。

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片仮名の市町村名はとてもお洒落な感じだが、漢字で書くとすれば、「亜耳伯士」や「亜力伯」になるという。沖縄のコザ市に続いて2番目で、外来語を使用したのは日本初だという。他には、北海道虻田郡のニセコ町があるようだ。殿前の光景も洒落ていて、天水桶が無くてはならない存在になっているが、社殿の格を引き上げていると言えよう。

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神紋も、何の装飾もないシンプルな鋳鉄製の1対で、裏には「昭和53年(1978)10月15日 寄進 古屋逸雄」とだけ鋳出されていて、作者名は見られない。ごく最近の造立であるが、ところで、ここ甲斐の国の鋳物師は、どんな人たちであったのだろうか。

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●同県中央市下三条・富田山歓盛院の梵鐘には、「雨宮長兵衛直政 享保7年(1722)」の銘、笛吹市御坂町・阿弥陀山光国寺の鐘には、「沼上主水正盛 元和5年(1619)」の銘が見られるが、これは現存する最古の例だという。両氏は、当時の甲斐鋳物師の双頭といえ、全国の鋳物師を支配した京都真継家(前40項)から職許状を受け、少なくとも明治期まで存続している。

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嘉永7年(1854)の「諸国御鋳物師姓名記」(真壁市・小田部氏蔵)や、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」を見ると、甲斐国新青沼町の項には、「雨宮十左衛門、沼上治左衛門」ら2家の系統の鋳物師しか記載されていない。

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この沼上氏は、伊豆国三島河原谷の鋳物師の系統で、慶長期(1596~)前後における甲府城普請に際して招聘されたという。その時の鋳物師が沼上主水正盛であり、甲斐沼上家の初代となっている。先の人名録の「君沢郡三島河原谷」の項には、確かに「沼上忠左衛門」の名が見られ、その裏付けとなっているのだ。

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●その沼上が鋳た銅鐘を2例見てみよう。まず静岡県三島市沢地にある臨済宗妙心寺派の禅寺、円通山龍澤寺だ。堂宇に掛かる龍の彫刻は今にも動き出しそうな躍動感を感じさせるが、鐘楼塔は六角形になっていて、豪華な東屋といった感じで、一風変わった造りだ。

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辞書によれば、東屋は「四阿(あずまや、しあ)」とも言うが、庭園などに、眺望や休憩などの目的で設置される簡素な建屋だ。「四阿」の「阿」は棟の意味で、四方に軒を下ろした寄棟、宝形造などの屋根を持つ建造物を意味するようだ。

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ウィキペディアによれば、近世以前の寺史は判然としないが、平安時代初期、弘法大師空海が今の東京都港区愛宕に創建したとされる。龍澤寺の実質的な開山は、近世臨済禅中興の祖と言われる白隠慧鶴(はくいん えかく)だ。宝暦10年(1760)4月には、白隠の高弟の東嶺円慈(とうれい えんじ)が入山したことにより、現在地に伽藍が創建されたという。

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●しかし梵鐘の銘によれば、「時宝暦三(1753)癸酉(みずのととり・きゆう)盂夏(お盆) 佛生日」の造立で、「山主 小衲(しょうのう)円慈 謹誌」となっている。刻まれている漢文調の銘を草したようで、龍澤寺入山の7年も前の鋳造であった。

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円慈は、享保6年(1721)に江州小幡駅出町、今の東近江市五個荘小幡町に生まれ、寛政4年(1792)に享年72才で寂している。寛延2年(1749)、29才の時、慧鶴より印可、つまり師よりお墨付きを受け、宝暦5年、35才の時に京都花園の妙心寺に登り、初めて「東嶺」を号している。

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●「小衲」は、僧侶が自分を謙遜する自称語で、小生や小職と同義で「老衲」とも言うようだが、「衲」の文字には、僧衣、袈裟などの意味があるようだ。造立の2年後だから、ここの鐘の線刻には「東嶺」の文字が無い。しかし既に「山主」、住職を名乗っていて、先の情報とは錯綜がみられる。文字は全てが陰刻であるが、情報の一部は後の追刻であろうか。

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作者名は陰刻で記されていて、「冶工 豆州河原谷住 沼上忠左衛門祐重 嫡子 忠右衛門信祐」だ。甲斐沼上家の4、5代後と思われる鋳物師で、継承者も居たことが判る。河原谷は、今の三島市川原ケ谷だろう。安永5年(1776)、円慈56才の時には火災に見舞われているが、災禍を逃れた貴重な1口(こう)だ。

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●銅鐘の2例目は、埼玉県行田市長野の、真言宗智山派五智山成就院。開創は天正年間(1573~)で、不動明王(前20項)を本尊としている。本堂前の青銅製天水桶1対は、富山県の名匠「高岡市(後120項) 鋳物師 老子次右衛門(前8項)」によるもので、「本堂建立記念」として「平成11年(1999)4月吉日」に造立されている。

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享保14年(1729)建立の三重塔は、総高11.18mで、塔内には、忍城主阿部豊後守忠秋公の帰依仏といわれる葉衣観音が安置されている。県内に現存する江戸期の三重塔は、比企郡吉見町の岩殿山安楽寺と川口市西立野の補陀落山西福寺との3例のみで、いずれも県指定文化財になっている。

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●参考までに、次の画像が川口市西立野の真言宗豊山派の西福寺で、補陀落山と号している。西福寺観音堂の創建は不詳ながら、元禄3年(1690)に再興されていて、百体観音として知られている。三重塔は徳川家光の長女千代姫が元禄6年に建立したもので、埼玉県では一番高い木造建造物だが、その高さは23mという。

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●ここ成就院に現存するのは半鐘だが、その銘は、「于時(うじ=時は・前28項) 正徳二壬辰歳(1712)正月日」の日付で、「府中横沢住 冶工 沼上次左衛門吉晶」と刻まれている。

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上述の「治左衛門」ではなく、「次」になっているが、この時代、音が合っていれば、人名であっても表記はおざなりであったようだ。時期的に2世代ほど前の沼上で、活動拠点まで判る貴重な半鐘だが、文化財にも指定されていないようで、知られざる1口(こう)かも知れない。

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●さて天水桶だが、次は栃木市大平町牛久の医王山光明院牛来寺(ごらいじ)だ。天台宗の寺院紹介のサイトによれば、『嘉祥3年(850)に、慈覚大師円仁によって開基した古寺である。伝説によれば、慈覚大師が蓮華まだらの牛に乗って諸国を巡行していた折、この地で悪病が流行し人々が苦しんでいたのを見て、沐浴して祈ったところ人々が快癒したという。

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大師は寺を建立し薬師如来を安置した。これが牛来寺の始まりと伝えられている。この地が「牛久」と呼ばれ、寺が牛来寺という名前であるのも、大師が牛に乗って訪れ、苦しんでいる人々を救った、さまざまな伝説に関わりがあると考えられる。』

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●堂宇前に、鮮やかな朱色に彩られた1対の鋳鉄製の天水桶があるが、大きさは、口径、高さ共に、850ミリだ。額縁に雷紋様(前116項)が廻り、正面に卍紋が配されているが、外周部には文字の鋳出しは一切無い。よって奉納者も鋳造業社も不明だ。

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ここの鐘楼塔に掛かる梵鐘は、「昭和55年(1980)4月 茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ(衛)門(前112項など)」銘だ。当サイトでは、多くの天水桶も登場(前21項)するが、ここのは小田部製の意匠ではない。

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●続いての愛知県犬山市には博物館明治村(前99項前103項後123項)があるが、重要文化財11件をはじめ、67件もの建造物が移築展示されている。明治期は、日本が門戸を世界に開いて欧米の文物や制度を取り入れ、近代化の基盤を築いた時代であった。消滅していく一方の、その時代の象徴たる建築物が保護されているのは誠に有り難い限りだ。

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敷地内では、古の蒸気機関車や京都市電も実際に運行されていて終日を楽しめるが、都内からのものとしては、帝国ホテル中央玄関、皇居正門石橋飾電燈(前99項)、隅田川新大橋などがあり、大掛かりな移設がなされたことが判る。画像は、明治18年(1885)に建設されたという、山梨県にあった「東山梨郡役所」だ。

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●向かって右端に、ちょっとお粗末で寸足らずの石の台座の上に載っている、1基の鋳鉄製の天水桶が見える。口径はΦ1.3m、高さは1mだから、そこそこ目立つ大きさだが、これ見たさにここを訪れる人は少なかろう。

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大きく横書きで、「外務省」と見え、「明治10年(1877)12月」の鋳造のようだが、公の官庁に設置されていたものであるから、作者名などの個人名は見られない。ここは地方の役所であり、外務省は中央政庁であるから、経緯は不明ながら、役所とは別ルートでここに落ち着いているのであろう。

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●また、鉄道局の工場内で鋳型を見つけた。滋賀県栗東町辻の太田順造氏が寄贈しているが、昭和の半ばまでその辻村で営業していた、太田鋳造所(前35項前91項)で使われていたと思われる型だ。これは、粘土を焼き固めた「焼型」であるが、大鍋を鋳造するために使われたと説明されている。補強のために巻かれているのは竹製のタガだが、時代が偲ばれて興味深い。

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●では次に、辻村出身の太田釜六、田中釜七作(前18項)などの2例を見てみよう。江戸川区一之江の白鬚神社は、江戸中期に猿田彦大神を祭神として創建している。「ひげ」という漢字は、「髭」は口ひげ、「髯」は頬ひげだが、ここのは「鬚」だから、あごひげを指している。白鬚神社の総本社は、滋賀県高島市鵜川にあるが、本流、亜流という意味合いなのだろうか、神社によって使い分けられているようだ。

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1対の鋳鉄製天水桶は、茶色の賽銭箱との調和が心地よく、正面には、総本社と同じ「左流れ三つ巴紋」がある。奉納は、「南庭 若者中」と鋳出されているが、大きさは口径Φ770、高さは840ミリだ。

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「明治35年(1902)10月 東京深川 釜七本店鋳造」銘と共に、「○七」の社章が確認できる。組織化された会社であるが、これまで前94項後125項など多項で見たように、明治23年(1890)8月以降の天水桶に見られ、当サイトでは合計8例だ。

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●最後は、千葉県東金市の不老山布田薬王寺だ。境内の由緒書きやホムペによれば、寛永年間(1624~)、中山法華経寺(前55項)開山1世の日常上人の開基という。3世の日正上人が霊薬目薬の創製者で、「布田の目薬」として知られるが、「是好良薬 今留在此 病即消滅 不老不死」の妙文を感得して調剤したと伝わり、昭和の半ばには、境内に製造工場が建設されるほどであった。

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かつては関東一の施餓鬼祭と言われるほどの賑わいで、観光バスが乗り付け専用の臨時電車が出たほどで、JR総武本線の日向駅からの4Kmの参道には数百軒の露天商が並んだと言う。境内のいたるところで演芸の舞台が設けられたり、花火大会が開催されたというが、張り出されているポスターを見ると、それらは今なお継続されているようだ。

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現在も大本山薬王寺として、顕本法華宗の僧侶が、大寒の時期に毎年行われる寒行の際は必ず訪れるという。境内には4基の鋳鉄製天水桶が奉納設置されているが、口径3尺、高さも3尺ほどのスクエアーな桶で、どれの正面にも「水溜」と記されている。画像のこの1対は本堂前にある。

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●七福神と6つの酒樽(前10項前22項など)が載った宝船の裏にも1基ある。辞書には、宝船は、「米俵や宝貨、七福神を乗せた帆かけ船の模型および絵。絵は正月2日の夜、初夢をみるために枕の下に敷く縁起物として使われる」とある。ここの船は、正にそれを再現している。

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積まれた酒樽の銘柄は「長命泉」で、蔵元は、明治5年(1872)創業、千葉県成田市の(株)滝沢本店だが、成田山新勝寺(前52項)の参道にある酒蔵だ。ホムペによれば、「初代滝沢栄蔵が、江戸末期に成田山を参詣宿泊した折に、夢の中で不動様からお告げを受けて、成田に留まり酒造りを始めたことが始まりとなります。

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蔵元の井戸水が大変おいしい良水であると評判が広まり、不動尊参詣者がこの井戸水を汲んで帰り、「病気が治った」、「長生きした」など百薬の長であるとの話が殺到したといいます。長命延命霊力の酒といった意味を込めて、「長命泉」と名付けられ、代表銘柄として現在にも伝えられているのです」という。

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●「平和の鐘」と題された大き目な半鐘の脇にも1基ある。この鐘は、「弘化2年(1845)5月吉日 25世日叙」の時世に「再鋳」されている。「冶工 西村和泉守 藤原政時(前110項)」による鋳造だが、線刻によれば初鋳は、「享保6年(1721)6月」だったようだ。これはかつては、鐘楼塔にあった本鐘だと思われるが、現在は、高岡市の「平成28年(2016)5月 老子次右衛門」製だ。

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大きく「水溜」と鋳出され、菊紋と寺紋らしきものが並んでいる。この寺紋の由来は判然としないが、「布田の目薬」の包装紙にも見られる。世話人として、地元の猪野家の名が見られ、先の「大僧都 日叙」の時世であったが、大僧都とは、僧侶階級の最上位を意味している。

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作者銘は、「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾 藤原正次 嘉永6年(1853)11月吉日」と鋳出されている。釜六だ。これらは4基もの鉄の塊だが、運搬するトラックが無い時代だ、深川からはるかこの地まで運ぶには無理がある。鋳造は、当地での出吹き(前10項)であったろうか。つづく。