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●今回は、茨城県で出会った天水桶を10例挙げてみよう。笠間市稲田にある稲田山西念寺は、浄土真宗別格本山の単立寺院で、嘉元2年(1304)に創建している。宗祖の親鸞は、この地で根本聖典である「教行信証」の草稿本を著しているが、ここ稲田の地を拠点とし布教したと考えられるという。

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1対の鋳鉄製天水桶の正面には「稲田 禅坊」とあり、真宗大谷派の「八つ藤紋」がある。一方、向かって左側の正面に見えるのは「下り藤紋」だ。因みに、親鸞聖人ゆかりの紋としては、藤原家の出身ということで「牡丹」、生家の日野家の家紋として「鶴丸」が知られる。

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天水桶の周囲に寄進者名や、住職名などの情報は一切鋳出されていない。鋳造者名の、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部(こたべ)庄右エ門」と、「昭和33年(1958)3月再鋳」銘だけだ。

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●小田部家は、連綿として37代目を数える由緒ある鋳物師で、前21項には同家の作例の全てのリンク先を貼ってあるが、前112項で検証したように、作例に36代目の銘が最後に確認できるのは、平成の初期までであった。ここの昭和の半ばの銘には、何代目の作かは不明だが、「再鋳」と刻まれている。「再鋳」前の先代の桶は35代目の手に依ろうが、この桶は、36代目が初期の頃に手掛けたものではなかろうか。

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鐘楼塔にある梵鐘には、「26世 釈良憲 敬白 昭和27年(1952)4月陽春 茨城県真壁町 御鋳物師 小田部庄右エ門」という銘が入っているが、これはもしかすると、35代目の作かも知れない。いずれにしても、世代交代の節目の頃の作例であろう。

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●北茨城市大津町の佐波波地祇(さわわちぎ)神社は、海抜55mの台地の唐帰(からかい)山に鎮座しているが、12世紀前の天安年間(857~)、清和天皇の御代の創立と伝わる。延喜式内常陸の28座の1社で、古来より海上守護の霊験があらたかだという。別称は大宮大明神で、双方の扁額が掛かっているが、元禄年間(1688~)に徳川光圀が神徳を敬い、神鏡を奉納したことによる。

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ここの5年に1度の御船祭は、国指定の民族文化財だ。驚くことに、神船が海上ではなく、街中の陸上を渡御する勇壮な祭りだが、船底に車輪はなく木枠の上を滑る。数百人の曳き手が前に引っ張る中、数十人の若者が船縁にとりつき左右に揺らしながら前進するという。画像は、平成6年(1994)に境内に奉納された額だが、御船祭の様子が描かれている。

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見たような事を書いたが、市内の漁業歴史資料館「ようそろー」では、機械仕掛けながらその様子が見られるのだ。若衆が勇敢に船に取りつき、船底と木枠が擦れる摩擦熱によって煙が立ち込め壮観だという。不思議なので聞いてみたが、船は船底だけで自立し左右に揺らしても決して倒れないという。

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●拝殿前の鋳鉄製天水桶1対は、「昭和43年(1968)11月吉日」に奉納されていて、口径4尺、1.2mという堂々たるものだ。桶の前にある、火袋に巴紋があしらわれた灯籠も鋳物製だが、「大津機関士組合」の奉納で、裏側には「平成11年(1999)4月吉日」に桶が修理された事が刻まれている。

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堂宇は、享保12年(1727)の建立で損朽著しく、平成2年(1990)8月の台風による被害を機に、「平成の御造営」を起工させている。天水桶の修理もその一環であったが、その際に再塗装されたと思われる。「大津港 船主一同」によって掲げられている額によれば、「鉄甕(かめ)奉納の記」と掲示されていて、明治維新百年を記念し、「海上安全 漁幸満足」を祈願し奉献されたようだ。

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天水桶の石の台座にも「大津港 船主一同」の銘版があり、奉献者の船名とオーナーの氏名が刻まれている。作者は、大きな本体の割には小さく控え目に、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」と陽鋳されているが、これは36代目の手によるものだろう。

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●茨城県つくば市、研究学園駅の南側に、真言宗豊山派の古刹、金剛山無量寿院安福寺がある。鎌倉時代中期に創建されていて、本尊は阿弥陀如来で、寺宝として大般若波羅密多経600巻、弘法大師直筆鼠心経1巻、薬師十二像、円空仏1体などを保持している。

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ここに、口径3尺強という大き目な鋳鉄製の天水桶が1対ある。画像は向かって左側の物で山号である「金剛山」とあり、右側には寺号の「安福寺」が鋳出されていて、「南中妻」の人が奉納している。正面の紋章は、「半菊に一の文字」だが、菊紋は畏れ多いとして半分にしたといわれる紋だ。山門など各所に見られるので、寺紋であろう。

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「昭和55年(1980)春彼岸」の奉納で、「第38世 正哉代」の時世だが、先の画像の左端に写り込んでいる銅像の人物だ。作者銘は鋳出されておらず不明だが、常陸国の鋳物師と言えば、茨城県真壁町の小田部氏であり、本拠地だ。文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」や、文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」を見ると、5、6の人名が記載されているが、全て「小田部」姓だ。

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●次は、栃木県鹿沼市西鹿沼町の曹洞宗、西鹿山雄山寺(おうざんじ)だ。ここは、鹿沼城主の壬生義雄が開基、天文7年(1538)に菊沢村の瑞光寺5世、天芝正道大和尚が開山している。城跡は、今は御殿山公園になっている。義雄は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、下野宇都宮氏、後北条氏の家臣であった。壬生氏5代目の当主で、世嗣が無く絶家しているが、義雄は今もここ雄山寺に眠っている。

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本堂前の堂々たる天水桶1対は鋳鉄製で、大きさは口径Φ1.120、高さは960ミリ、上部の額縁の幅は、150ミリとなっている。正面に据わっているのは、「丸に三つ割り菊紋」だが、壬生家由来の紋章であろうか。実はこの桶にも鋳造者銘が無い。造立年月日も不明で、裏側に奉納した施主名、左の桶に山号、右に寺号が見えるだけだ。

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●ここで、前47項でアップした、埼玉県越谷市荻島の稲荷山玉泉院の鋳鉄製の天水桶を、再度見てみよう。銘は、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和55年(1980)12月吉日建之」であったが、どうであろう。

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山号と院号を左右の桶で鋳出し別けているし、額縁の雷紋様(前116項)の意匠も、全体の雰囲気もほぼ同じようだ。上述の稲田山西念寺の例などを引き合わせても、金剛山安福寺や西鹿山雄山寺の天水桶は小田部製と判断してよかろう。

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●続いても栃木県で、栃木市湊町の天台宗、勝泉院だが、ここの本尊は阿弥陀如来だ。源義家、義経との縁から、源氏の白旗になぞらえて山号を「白旗山」としている。前身は、清和天皇の治世の貞観年中(859~)に慈覚大師円仁により、片柳村弥陀屋敷に開基され「法専寺阿弥陀坊」と称した。その後は、慶長11年(1606)、権大僧都了宣の代に現在に地に移され、今に至っている。

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堂宇前に鋳鉄製の天水桶が置かれている。大きさは口径Φ1.4m近くで、高さは1.1m、5尺弱と大き目だから、迫力ある1対だ。正面に据えられているのは、「三つ集め雀紋」だが、元々は、竹や笹、稲穂の図柄などに描かれていた雀が独立して発生した紋とも言う。

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讃岐地方に雀紋の寺が多いのは、弘法大師を輩出した讃岐国(香川県)の佐伯氏の三雀にあやかったものだ。あるいは、戦国武将の伊達家や上杉家が雀紋を使用している事はよく知られている。竹の輪の周りを笹が囲んでいる「竹に雀紋」や、2羽が対向した「竹に二羽飛び雀紋」だ。

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天水桶は、「昭和52年(1977)2月吉日 第19世隆順代」の時世に、檀徒が「伝教大師得度 壱千弐百年記念」として奉納している。天平神護2年(766)、近江国(滋賀県)に生まれた伝教大師は、宝亀11年(780)11月に、近江国分寺にて得度を受け最澄と名付けられている。弱冠14才ほどであったが、奉納日からすれば、ほぼ1.200年前だ。作者の銘は、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」だ。

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●次の茨城県那珂郡東海村の曹洞宗、住吉山長松院吉祥寺は、佐竹家の家臣、石神城主小野崎氏歴代の菩提所だ。寺の開山は、掲示板には530年前とあり、文明の末期の1486年ごろになろうが、曹洞宗の雲渓道端によるという。

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中興者は「42世 潮音禅海大和尚」で、銅像も立っているが、明治36年(1903)12月、ここの住職を務め、昭和20年(1945)4月に遷化(せんげ)している。遷化は、正しくは遷移化滅(せんいけめつ)で、高僧の死亡を婉曲的に、かつ敬って使う言葉だ。

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●石神城は永享4年(1432)の石神合戦の際、小野崎越前三郎がこの地を攻め、その後、城主として統治、慶長7年(1602)、常陸国の戦国武将の佐竹氏の秋田転封に伴い、石神城も廃城になったという。城跡は、県指定の文化財だが、境内には、「石神合戦五輪萬霊供養塔」や「城主歴代霊廟」がある。美麗な1対の天水桶は、口径も高さも1mで青銅製だ。

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「平成6年(1994)2月吉日」の奉納で、「茨城県真壁町 鋳物師三十六代 小田部庄右エ門」と鋳出されている。当サイトでは、小田部製の天水桶を27例見てきたが、そのうち青銅製は6例で全て平成期になってからだ。また、形状としては、全部が樽型であり花弁形のものは1例もない。

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●ここからは常陸太田鋳物師の登場だが、まずは茨城県水戸市緑町の真宗大谷派、三縁山浄安寺だ。この宗派は、親鸞を宗祖とする浄土真宗の1つで、阿弥陀如来を本尊としている。本山は、京都市下京区の東本願寺だ。人々は阿弥陀様の本願によって救われるとするため、「戒め」という考えがなく、従って戒名とは言わず、「法名」という。法名は通常2文字で、「釈○○」とするが、「釈」はお釈迦さまの弟子を意味するという。

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戒名は、本来死後に授かる故人の名前ではなく、生前に仏門に入りもらうものだ。辞書には「戒名は、仏教において、戒を守ることを誓った者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守る証として与えられる。戒名の授与は、上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。

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上座部仏教では、出家後に南伝仏典に残る阿羅漢の名前から付けるため、その意味で法名と呼ぶ。戒律の規定では、初めて沙弥戒(十戒)を受ける時に、師より戒名を授かり、それと同時に従前の俗名を捨てるとされる」とあるが、日本には、仏教伝来と共に戒名が伝わったようだ。

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●正面の赤く彩られた紋は、「抱き柊(ひいらぎ)」であろうか。葉脈の様子から判断するに、「抱き茗荷」ではなさそうだが、少なくとも、この宗派に関連する紋様ではないようだ。肉厚で艶のある柊の葉の周囲には棘があり、攻撃的なものを感じるが、ここのはあくまでも穏やかだ。

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1対の鋳鉄製天水桶の造立は、「昭和31年(1956)3月5日」で、鋳造者は、「常陸太田市 御鋳物師(角印影) 塩原弥次右衛門」、連名で「藤原孝則(丸印影)」となっているが、この鋳物師については、前97項でも3例を見てきている。丸い印影(前13項)はかなり濃密で判読が難しいが、「原」らしき文字があるので、「藤原孝則」であろう。角の印影に刻まれている4文字は、「御鋳物師」のようだ。

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●茨城県ひたちなか市大字稲田の、真言宗智山派、浄妙山徳定院東聖寺(後120項)。本尊は胎蔵界大日如来だが、辞書によれば、胎蔵界は密教で説く世界の1つで、理性が胎児のように包まれ育まれる事を示した曼荼羅(前27項)のことだ。大日如来は、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とも言われ、密教においては、尊厳される教主だという。

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奉納は、那珂町堤の一族の方々で、「第55世 和美代」の時世であった。正面には、「五三桐紋」が見える。桐は、鳳凰が止まり鳴くとされるめでたい木で、今の500円玉にも描かれているが、皇室の副紋は「五七桐(前98項)」で高貴な紋とされる。江戸時代、庶民は名字帯刀を許されなかったが、家紋の使用には特に制限がなかったという。とは言え、桐紋の使用は畏れ多かったはずで、簡素化された五三桐がもてはやされたのであろう。

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作者は、「常陸太田市 御鋳物師(角印影) 塩原弥次右衛門 藤原孝則(丸印影)」で先例と同じだ。鋳鉄製の1対の造立は、「昭和31年(1956)4月8日」となっていて、「佛紀二千五百年紀念」での奉納であった。「佛紀」は「仏暦」であろうが、仏教の開祖であるお釈迦さまが入滅した紀元前544年を「仏滅紀元元年」とするから、計算するとちょうど2.500年目だ。

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●茨城県常陸太田市真弓町の、海抜329mの陣ケ峯頂上に鎮座する真弓神社を参拝したが、ちょっとしたハイキングとなった。156号線沿いの画像の「真弓神社入口」の石碑を目印に、石灰石製品を生産する旭鉱末(株)の脇を抜け、西参道の鳥居を目指す。ここまでは車で行ける。

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鬱蒼とした森の中に鳥居が佇んでいる。ここは、「高齢県立自然公園特別地域」で、人影は一切なく不安で一杯だ。神徳無窮 ( しんとくむきゅう=神の徳は永遠)なる石碑が建ち、祠の中には不動明王(前20項)が祀られているが、恐ろし気な忿怒のお顔立ちがなお一層不安をあおる。

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すれ違えないほど細い道を登ること20分。未舗装でぬかるんだ道は、緩やかではあるが一息では無理だ、何度もの休憩を挟んで登頂する事となった。遠景を展望できるでもなく、到着するまでは、本当に天水桶が存在するのか心配であったが、社殿を目にしたときは感無量であった。最も、冷静に考えれば、裏参道など車で行ける別ルートがあったのだろうと思う。

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●この神社は、神威赫赫 ( しんいかくかく=神の威光が光り輝く)という石碑によれば、平城天皇の大同2年(807)、坂上田村麿、大伴乙麿の2人が北征のおり奉祀。その後、八幡太郎源義家が厄除戦勝祈願し陸奥を平定して凱旋の際、弓八張を奉納しているが、この事から、真弓八所権現と称するという。

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後に、常陸国守護の佐竹氏が社殿を造営、徳川幕府より、25石の朱印地寄進を受けている。明治元年(1868)12月に真弓神社と改められ、昭和29年(1954)10月に権現造の社殿に改築されているが、東日本大震災で多大な被害を受けたようで、1.098万円の寄付を集め復興している。

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●大己貴命、少彦名命を祭神とするようで、特に農業、漁業関係者に厚い崇敬層を持つようだ。屋根に見られる、「月に五本骨扇」の紋は「佐竹扇」と呼ばれるもので、これは、源頼朝から賜った扇を図案化したものという。それにしても狭い境内だ、周囲に廻っている赤い鉄柵の向こうは崖なのだ。

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1対の鋳鉄製天水桶は、「伊勢参拝記念」での奉納で、多くの人名が並んでいて、「宮司 斎藤茂」の時世であった。鋳造は「常陸太田市 御鋳物師(角印影) 塩原弥次右衛門 藤原孝則(丸印影) 昭和32年(1957)2月15日」銘となっていて、文字、印影ともやはり先例と同じだ。

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●茨城県那珂郡東海村の真言宗、村松山日高寺は、虚空蔵尊と称せられるが、伊勢朝熊町の勝峰山金剛証寺、会津柳津町の霊厳山円蔵寺とともに、日本三大虚空蔵であるという。本尊の虚空蔵菩薩は無限の福徳智能の光をもつ仏様で、地球の姉妹惑星である明けの明星、金星は、その化身であり象徴であるとされるが、身近で親近感のある菩薩様だ。

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現在の本堂の大魔尼殿は大正6年(1917)の再建だが、平城天皇の勅額を贈り、平安初期の大同2年(807)に弘法大師によって創建されている。本尊は、大師が「天下泰平 万民豊楽」の願いを込め、一刀三拝の礼をつくして刻んだもので、鐘楼塔にある梵鐘にもその文字が陽鋳されている。一刀三拝は一刀三礼とも言うが、仏像などを彫刻する時に、一刻みするごとに三度礼拝することだが、大変な願念の込めようだ。

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●1対の鋳鉄製天水桶には、東京都豊島区の方々の名が連なっているが、「昭和36年(1961)3月13日」の奉納であった。正面の「五七の桐」は天皇家の高貴な紋章で、「村松山中興 第三世 原隆泰代」とある。

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「製作者 常陸太田市金井町 塩原鋳物工場」とあるが、代表者らしき名前や印影は見られない。常陸太田市は、近世初頭まで豪族佐竹氏の本拠地として発展、近世には徳川家康公より朱印地50石を寄進され、のちに水戸藩領となり、徳川光圀公の庇護のもと栄えてきている。

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●境内の丘を登ると、高さ21mという三重塔があるが、ここには大日如来が安置されている。この近くに奥之院があり、大満虚空蔵尊が安置されている多宝塔が見える。ここは、菩薩の50年に1度の開帳記念として、昭和9年(1934)に建立されている。

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狭い敷地に1対の鋳鉄製の天水桶が並んでいるが、 降雨を受け止められる場所には置かれていない。 近年に再塗装されたようで照り輝いていて、ここにも「五七の桐」紋があるが、本堂前のものより1回り小さく、水戸市の佐藤家一族らが奉納している。

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作者は、「常陸太田市木崎町 塩原友鋳工場(丸印影) 藤原篤泰(角印影) 昭和31年(1956)10月造之」と鋳出されている。上述のように、前97項では水戸市の常陸三之宮の吉田神社で、「常陸太田市木崎町 鋳造 塩原友鋳工所(丸印影) 藤原篤泰(角印影) 昭和39年(1964)10月吉日」という桶を見ているが、「鋳工所」と「鋳工場」の違いがあり、9年の間に社名の変更があったようだ。

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●虚空蔵尊のすぐ隣の村松大神宮は、茨城県の一之宮で、「茨城のお伊勢さま」として知られるが、この辺りの地名の「村松」は、ここに由来している。鳥居の先から始まる参道には、「出世開運記念参道」として記念碑が建っているが、高校時代に米国大統領になるという夢を実現させた、第42代ビル・クリントンが平成14年(2002)に来県したことに因んでいる。

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和銅元年(708)の創建で、御祭神として皇室のご先祖の天照皇大神を祀っているが、伊勢神宮の分霊を奉齋する由緒ある御分所だ。平安時代、源頼義と子の八幡太郎源義家は、戦勝を祈願し社殿を造営、江戸期には、水戸藩主・徳川光圀公が新たに社殿を造営、改めて分霊を奉遷している。

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●天皇の先祖を祀っている訳で、十六菊の紋章があちこちに見られる。寄進は、「動力炉・核燃料開発事業団」で、「昭和50年(1975)4月吉日」だ。昭和の半ばから、神池「阿漕浦」の水を日本原子力研究所へ分水し論争となっているが、「自然の湧水にして、池水清澄、未だ嘗て枯渇したることなく、其水深を知らず。古来殺生禁断にして魚族甚多く、水一升に魚八合の称あり」という神聖な池だ。

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1対の鋳鉄製天水桶の作者は、「鋳造者 常陸太田市 塩原鋳物工場(角印影) 藤原篤泰(丸印影)」となっていて、やはり工場の名称に変遷が見られる。一方、角と丸の印影は継承されていて、かたくななこだわりが感じ取れるが、これについては後程考察しよう。

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●このように、茨城県には6例の天水桶があって、鋳物師・塩原ワールドを堪能できた訳だが、では、常陸太田鋳物師について考察してみよう。前97項では、水戸鋳物師・長谷善四郎の説明に終始してしまった感があるが、今回は、昭和50年(1975)刊行の、雑誌「金属」に掲載された「鋳物師の里 両角宗和」を参考にする。

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水戸市の真北20Kmほどに位置する常陸太田には、小さいながら鋳物師の集団があって、幕末の水戸藩(前83項)の鋳砲事業では、目覚ましい活躍をしている。死後に「烈公」という諡号(贈り名)を受けた第9代藩主徳川斉昭の存在が、この集団の存在意義を大いに高めたと言っていい。

烈公・徳川斉昭

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●鋳物師集団の起源としては、関東七名城の太田城を居城とした佐竹氏に伴って移住したという説がある。だとすると佐竹隆義の時代と思われるが、元永元年(1118)生まれで寿永2年(1183)没の武将だから、平安末期だ。なお同家は、関ケ原の合戦後、出羽国久保田藩に減封されるまで、ここで19代を数えている。

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両角氏によれば、塩原家の創業は、鎌倉期の建武2年(1335)というから、佐竹氏入城から2世紀後だ。塩原家の先祖は、代々が藤原姓(前13項)を名乗っていたというが、先の天水桶で見た「藤原孝則 藤原篤泰」はこれを世襲してきた人達なのであろう。画像の印影は、村松大神宮で見られるものだ。

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●明和5年(1768)には、太田村の小沢九郎兵衛が、木崎町の銭座で寛永通宝の鋳造をしている。水戸藩に1年間で5千両もの冥加金を納めたというからかなりの大事業であったろう。明治初期(1868~)には、頭領格の斉藤家が3軒、塩原家、小田部家、飲村家、小泉家の7軒が散在していたようだ。

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いずれも京都真継家(前40項)傘下には属していなかったようで、水戸藩の庇護のもと、御用達鋳物師として活動していたようだ。しかし、太田鋳物師らは太平洋戦争後に、塩原家を除いて廃業あるいは断絶してしまっている。

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●塩原家も、昭和44年(1969)に18代塩原弥次右衛門を継承した慶一郎氏が他界すると同時に廃業している。17代目の弥次右衛門から分家した塩原友次郎は、昭和29年(1954)に「塩原友鋳工所」を創業している。先に見た天水桶に鋳出されていた社名だ。この地域は、日立製作所の勢力下にあって、久慈工場からの下請け鋳物が売り上げのほとんどであったという。

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また、水戸藩の鋳砲事業で活躍したのは、14代目弥次右衛門を名乗った作衛門(安政2年・1855・59才没)と、15代目弥市(明治9年・1876)の2代に亘っている。16代目の寅之助(大正13年・1924・61才没)は、大釜の鋳造で巨万の富を築いたようだ。

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水戸市常磐の常磐神社(前83項前97項前104項)には、彼らが使っていたという甑炉(こしきろ)が現存している。高さ2m、直径1mという大きな炉で、説明板には、「溶解炉 斉昭が市内神崎に大砲製造所を設け、太田村の鋳物師を召して大砲を鋳造した際使用したもの」となっている。

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●太田鋳物師は、漁業用や醤油醸造用の大釜の生産を得意としたようだが、これを有名にしたのは、歴代水戸藩主の数度にわたる鋳造場の見学であった。天下の副将軍、中納言の殿様が一介の町工場を訪れることは異例な破格の行動であり、PR効果もこれ以上のものは得られまい。

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塩原家を訪れた藩主は、元禄2年(1689)に2代光圀、安永7年(1778)に6代治保、寛政12年(1800)に7代治紀、9代の烈公斉昭は、天保4年(1833)8月28日に見学している。そして翌年10月2日、「御釜師」という四角い銅印を下賜しているのだ。

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●ここまでに見てきた天水桶には、「御鋳物師」と読める角印影が鋳出されていた。上の画像は、両角氏の著書から転載したもので、不鮮明で判読しづらいが、鋳物師塩原は、御用達鋳物師としてのプライドを持ち続け、その鋳造物に表示していたのだ。

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次の画像の印影は、前97項の茨城県那珂市菅谷の菅谷鹿島神社で見たものだが、「御鋳物師」と彫られた角の印影が丸の印影が、太田鋳物師のかつての栄枯盛衰の歴史を現代に伝え遺している。つづく。