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●今回は、川口鋳物師が手掛けた鋳造物を中心に見ていこう。都内台東区浅草に、安政元年(1854)創業の和菓子屋、梅園(うめぞの)本店がある。浅草寺へ続く仲見世通りのすぐ脇に位置するが、かつて庭に梅の木がたくさんあったという別院の梅園院(ばいおんいん))の一隅に茶屋を開いたのが始まりで、屋号もその所縁という。

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初代は元祖あわぜんざいで好評を博し、以来、甘味専門店として伝統を継承している。入っている餅は、あわではなく餅きびを使っている。それを半搗きし煉りあげ、蒸した餅とじっくり炊いたこしあんを、椀で合わせただけの贅沢な菓子で、この一膳が梅園の歴史そのものという。(ここまでホムペより編集)

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●ここの店舗脇に鋳鉄製の水甕(かめ)が、1基置かれているが、底面は損壊し割れていて、現在、その機能は果たせない。正面には、 5枚葉の梅花紋様の中に「園」の文字が据えられた家紋が見え、真裏には、「清水」と陽鋳造されている。

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左右に別鋳造した取っ手が固定され、吊り輪が備わっている。肩部には雷紋様(前116項)が天空に向けて廻り、3本の猫脚(前33項)に支えられている。大きさは、口径も高さも650ミリほどだが、実はこの家紋と吊り輪は青銅製だ。青味がかっているし磁石に反応しないのだ。

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水漏れしては困る気密性が必要な水甕であるが、本体に穴が開けられ、それぞれが内側からビスで固定されているのだ。わざわざ、であるが、サビない材質にこだわった様で、お陰で1世紀を経た今も「園」の文字がクッキリしている。それにしても使えない壊れた水甕が、なぜ今ここに置かれているのだろう。

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●備え付けの「梅園を見守り続ける水甕」と題された説明文を読んでみよう。「大空襲の際に焼け野原になった一帯に鉄製の水甕が唯一残っており、当店があった場所を教えてくれた貴重な財産です」とある。割れた原因は火災熱であろうか、水甕は、戦争の生き証人であったのだ。

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この空襲は、死者数が10万人以上と言われる、昭和20年(1945)3月10日の夜間の下町空襲、東京大空襲であろうか。古写真には、空襲前の大正時代に改装開店した店の角に、この水甕が置かれている様子が写り込んでいる。赤く丸で囲まれた部分だ。

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●店の改装は、大正12年(1923)9月の関東大震災での罹災によるものであろうか。水甕の造立は、「明治四十四年(1911)五月」と本体の裏側に鋳出されているが、幾多もの災禍を逃れて現存する貴重な遺産なのだ。

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作者銘として、「川口永亀製作」と、角印のように浮き出ている。「永」は永瀬姓で、「亀」は代表者の名前の一部だろうか。あるいは、「永亀」という屋号だろうか、不明だ。手元にある最も古い「川口商工人名録」は、昭和12年11月付けだから、水甕の鋳造から26年後だ。

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●人名録には400社近い鋳造業者名の登録があるが、この業界が隆盛を極めた頃のものだ。この中に、永瀬姓かつ、亀の文字が含まれる名前が4社もあるので書き出してみよう。「〇に亀の社章 川口市栄町2丁目 鑄工所 永瀬亀吉」、「川口市幸町1丁目 合資会社 増永鑄工所 永瀬亀吉」の2社は別会社のようだが、同姓同名の代表者だ。

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一方、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」によれば、この栄町の「鑄工所」は、「丸亀鑄工所 永瀬亀吉」として人物紹介されている。これは名簿より3年ほど前の情報だが、永瀬長右衛門(前36項)の3男の駒吉の長男であるという。

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明治25年(1892)の生まれで、大正12年(1923)に同社を創業している。営業品目としては、「丸K印井戸ポンプ 其他日用品鋳物を以て堅実なる地歩を占むるに至って居る」と記されている。

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●また昭和8年の広告がある。「〇に亀の社章」が見えるが、「丸K印」の意味であろうか、同じ会社なのだろう。営業課目は、「井戸ポンプ 金庫枠 瓦斯(ガス)器具 建築金物」を謳っている。「埼玉県川口市栄町二丁目 永瀬鋳工所 主 永瀬亀吉」とあり、ここでも社名が変わっている。

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更に、千葉県成田市の成田山新勝寺(前53項)の境内では、奉納された玉垣を見た。「川口市栄町2丁目 丸亀鑄造株式会社 社長 永瀬亀吉」と陰刻されている。同じ住所で同名の社長、そして組織化された会社だ。奉納時期は不明だが、亀吉の会社は、この時期は目まぐるしく変動していたようだ。

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●名簿に見える残りの3社目は、「川口市元郷町2丁目 合資会社 永和鋳工所 永瀬亀太郎」で、亀太郎は、前12項で登場した川口鋳物業組合の初代理事長、永瀬和吉の後継者だ。

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4社目が、「〇にKの社章 川口市本町2丁目 永瀬製作所 永瀬亀十郎」だが、昭和6年(1931)の広告がある。こちらでは「埼玉県川口町本町相之道 永瀬鋳工所 主 永瀬亀十郎」で、「チルド車輪」の写真が掲載されている。市制施行前だから「川口町」だが、社名は変更されているようだ。

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●結論としての決定打は、同じく昭和6年のこの広告ではなかろうか。「埼玉県川口町栄町二丁目 永亀鋳工所 永瀬亀吉」で、「鋳造品目」としては、同じ様に「金庫枠並扉 井戸ポンプ 其他日用品」を挙げている。

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「明治44年(1911)5月」の水甕に、「川口永亀製作」という角印のような鋳出しが存在した訳だが、「永亀」は姓名を短略したものでは無く、屋号であろう。現存する「永亀鋳工所」銘の作例は、この世にこれのみと思われる。小さな角印が歴史を語っている。これは川口遺産でもある貴重な水甕なのだ。

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●埼玉県川口市赤井3丁目に、見沼代用水東縁に沿った辰井公園がある。一角にある鋳鉄製のオブジェは、3頭の獅子だが、昭和47年(1972)11月16日に、市の無形民俗文化財第1号に指定された、「江戸袋の獅子舞」がモチーフだ。鋳造者は不明だが、ここは鋳物の町川口であるから、市内の業者によるものだろう。野ざらしでサビてはいるが、その荒々しさがいい。

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獅子舞は、江戸袋獅子舞保存会によって、江戸時代初期から今日まで伝承されてきている。春祈祷や秋の例大祭の際に、五穀豊穣を願い、悪魔祓いや氏子繁盛を祈念して舞われる三頭立の獅子舞だ。宵祭りに拝殿の板の間を踏みならして舞うことから「バッタバッタ舞」、村回りの際に雨にあうことが多いので「泣きむし獅子」などとも言われ親しまれてきたという。

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舞が奉納される場所は、川口市江戸3丁目の江戸袋氷川神社だ。創建期は不明で、厄除けの神の素盞鳴尊を祭神としている。平成14年2月の拝殿改修工事の際には、「隠し厨子」から奇跡的に4体の仏像が発見されている。平安時代後期ごろの一本造りの木造菩薩形坐像(像高34.2cm)などで、伝来不詳ながら、明治期の廃仏毀釈(前63項)を逃れた貴重な有形文化財だ。

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●次は、都内荒川区南千住の南千住熊野神社だ。掲示によれば、創建は永承5年(1050)、源義家の勧請によっている。「奥州征伐の時、ここに至り河を渡ろうとした際、奇異の霊瑞があり、鎧櫃に安じた紀州熊野権現の神幣をこの地にとどめた」という。

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千住大橋を現隅田川の荒川に架ける時、奉行伊奈備前守忠次(前100項)は当社に成就を祈願、文禄3年(1594)の完成にあたり、その残余材で社殿の修理を行なっている。以後、架橋ごとの祈願と社殿修理が慣例になったという。

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今の千住大橋には、国道4号線、日光街道が通っているが、最初の架橋は、徳川家康が江戸に入府した直後で、熊野神社には、文禄3年9月の棟札があるという。その橋長は66間(120m)、幅は4間(7m)で、単に「大橋」と呼ばれたが、昭和2年(1927)架橋の今現在の橋の銘版も「大橋」となっている。鉄骨が複雑に入り組んでいるが、タイドアーチ橋としては日本最古という。

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●都立中央図書館所蔵の「日本大橋盡(つくし)」という番付表を見ると、中央の縦欄に「江戸両国橋 江戸大川橋」と並んで、「行司 八十五間 千住大橋」とある。別格の大橋なのだ。因みに「勧進元」は、「江戸日本橋 大坂日本橋」となっている。

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天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」には、「千住川 荒川の下流にして、墨田川、浅草川の上なり」として、千住大橋の様子が描かれている。橋は、「荒川の流れに架す。奥州海道の咽喉なり。橋上の人馬は絡繹(らくえき)として間断なし。橋の北一、二町を経て駅舎あり。この橋は、その始め文禄三年甲午(1594)九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、いまに連綿たり」と書かれているが、上述の内容と合致している。

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●実はここの境内には通常、立ち入り出来ない。何度か通った或る日、境内で清掃する人を見かけたので、声をかけた。天水桶を見たい旨の事情を説明すると、快く開門してくれたのだ。欣喜雀躍、大いに感謝だ。正面にはシンプルに「大」の文字がある。「大橋」の意味だろう。その文字の位置とのバランスからして、桶の下部は石の台座にかなり埋没していそうだ。

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口径は2尺、600ミリほどだが、1基しか無い。かつては向かって左側に存在しただろう、対の1基には、「橋」の文字が浮き出ていたのではなかろうか。造立は、不鮮明ながら「文政十一年(1828)七月」であろうが、残念ながら作者を示す銘は無い。

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●ここ千住近辺では、多くの川口鋳物師が手掛けた天水桶を見てきた。造立の年代順に書き出してみると、「南千住・素戔雄神社 武州川口住 永瀬源内 藤原富廣 天保12年(1841)6月(前9項)」、「千住河原町・河原町稲荷神社 永瀬源内 藤原富廣 嘉永3年(1850)正月(前14項)」、「千住宮元町・千住神社 武州川口 増田安次郎 安政5年(1858)正月日(前2項)」。画像は、河原町稲荷神社だ。

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「千住仲町・仲町氷川神社 永瀬清秀 明治8年(1875)9月(前68項)」、「千住仲町・源長寺 永瀬留十郎 大正9年(1920)5月(前100項)」、「南千住・胡録神社 武州川口町 田中鋳工所製 昭和2年(1927)6月(前47項)」、「南千住・若宮八幡宮 川口市製作人 山﨑寅蔵 昭和10年8月(前70項)」、「千住・千住氷川神社 川口市 秋本光造 謹製 昭和39年8月(前2項)」の計8例だ。

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次の画像は仲町氷川神社だが、鋳鉄製の天水桶としては、この地で見た全てがメイドイン川口なのだ。千住周辺では、他地域の、例えば深川鋳物師らの作例は何故か現存しない。ここ南千住熊野神社の桶も、川口鋳物師が手掛けたとしても不思議ではない。

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●埼玉県久喜市高柳に高柳大香取神社がある。創建時期は不明だが、高柳村の総鎮守として祀られている。周辺の河川氾濫の歴史からか、小高い丘の上に鎮座し、高柳やすらぎ公園として整備されている。狭い境内には、昭和44年(1969)の社殿改築記念石碑、平成27年(2015)の大鳥居修復工事碑がある。

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堂宇前には、大き目な屋根に保護された、口径Φ600ミリの1対の鋳鉄製の天水桶がある。社殿が小ぶりなだけに異様なほどの存在感だ。奉納者は、「昭和3年(1928)11月10日 武州川口町 早水米蔵 御大典記念」だ。早水氏は、明治20年(1887)の生まれで、当時の北葛飾郡静村の出身だ。現在の久喜市北部にあたるが、源義経の妾の静御前の没地として知られる地だ。

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●どんな人だろう。先の400社近い登録がある「川口商工人名録」に記載がある。「電機用鋳物 川口市栄町2丁目 早水鋳工所 早水米蔵」で、鋳造業社の社長であったが、今は存在しない会社のようだ。社章は、「米」の字をアレンジしているが、実はこの会社は、前30項で登場している。川口市本町の川口市立文化財センター所蔵だが、2基の鋳鉄製天水桶の銘であった。

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『田中博寄贈、「武州川口町 田中鋳工所製(印影)(前68項など) 武州川口町 早水鋳工所 昭和3年12月」で、2基とも「廣澤製作所」向けであろう、正面にそう鋳出されている』と記述した。ここ高柳大香取神社のものも、「武刕(州)川口町 ○二(社章) 田中鋳工所製(印影)」で、1ケ月の差異で、ほぼ同時期に鋳造されている。

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当時、田中鋳工所は栄町1丁目に在していたが、ご近所で親しい早水氏の依頼で、天水桶鋳造のノウハウを持っていた田中氏が鋳造したと思われる。黒サビ(前95項)に覆われていて、これからも寿命を永らえる1対だが、川口の銘も誇らしく遺るのだ。

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●都内北区岩淵町に天王山正光寺はあるが、浄土宗の禅師、良忠上人を開山として、鎌倉時代に建てられている。本堂の右側に見えるが、10mもの岩淵世継大観音が鎮座している。ホムペによれば、「昔から岩淵の町は(荒川の)水害に悩まされてきました。明治3年(1870)、時の住職の第26世轉譽栄純上人代は、人々を水害から守ってあげられるようにと願いを込め、銅や浄財を募り、三丈三尺の正観音を建立したのでした」という。

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境内左側の銅製天水桶から溢れているのは、湧き水であろうか、「閼伽(あか)の井」がある。辞書によれば、仏に手向ける功徳水で、梵語「argha」の音写という。前116項都内足立区・西新井大師では、諸仏の慈悲が衆生に加えられる霊水という加持水の井戸を見た。

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前124項の滋賀県大津市園城寺町には、大津京を造営した天智天皇らの産湯と言われる、霊泉を汲む井戸があった。「御井寺」から転じた三井寺だ。人に害をなすのも水であり、命の源も水だ。人は水を制し、聖水として手厚く崇めなければならないのだ。

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●境内の一角に、緑青が美麗な青銅製の塔がある。高さは3mほどであろう。通常、宝塔は、円筒形の塔身に平面方形の屋根をもつ一重の仏塔だが、これは墓碑だ。下部には雲が浮かび、蓮華が開花し、「浄土門主 孝誉現有 南無阿弥陀仏」と掲げられている。

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建立したのは、「明治44年(1911) 先祖建立 昭和8年(1933) 2代目之改鋳 小山新七」だが、平成30年(2018)2月に廃業した、岩渕町の小山酒造の2代目社長だ。初代の小山新七は、酒造に適した湧水を使って明治11年(1878)に創業したが、5代目の小山周氏が幕を引いている。代表銘柄の「丸眞正宗」などは、遠縁にあたる埼玉県さいたま市にある小山本家酒造が製造を継続している。

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●墓碑に、「武刕川口市 ○二 田中鋳工所製(印影)」と陽鋳造されている。昭和初期のこの当時、田中氏が手掛けた鋳造物の材質の多くは、鋳鉄鋳物だ。この墓碑1基のために専用の設備を導入したとも考えにくい。請け負った田中氏は、この当時であれば、青銅鋳物の吹き元(溶解炉所持工場)の小川家(前53項)などに鋳造を依頼したのかも知れない。

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なお、ここで川口鋳物師が手掛けた梵鐘の作例を川口大百科事典で見ておくと、「元和五巳未年(1619)臘月吉祥日 長瀬治兵衛盛久(前108項)」となっているが、戦時中に金属供出(前3項)し現存はしていない。「臘(ろう)」とは「繋ぎ合わせる」という意味で、新年と旧年の境目となる旧暦12月を指す。よって大晦日を「臘日」ともいうようだ。

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●この銅鐘は、川口市のデータに記載されている中では最古だ。しかし先の「川口市勢要覧」によれば、後述もする「埼玉県川口市本町・宝珠山錫杖寺 寛永18年(1641)9月日銘 永(長)瀬治兵衛守久(前108項)」には、「川口村」と刻まれているという。

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「それより古いこの(正光寺の)鐘に川口町とある事などから、鐘の年代に疑問が起こる」という。確かに「村」より「町」の方が後の成立だ。そして「新造されたのでは無くて古い既製品を買い入れたものと想像されるのである」としている。

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●川口鋳物師が手掛けたという梵鐘を4例見てみよう。まずは、都内足立区入谷の五台山太子院源證寺だ。掲示板によれば、天文元年(1532)に十蓮社念誉一向源證上人によって創建された古刹だ。太子堂は、江戸中期の古建築で、開山上人所持の聖徳太子像を祀るという。ここに、区の登録文化財として江戸時代中期の「正徳2年壬辰(1712)」銘の梵鐘があるが、現存する江戸期の川口鋳物師製の銅鐘としては、最古から5番目という。

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戦時中に金属供出(前3項)したが、戦後に返還された貴重な遺産という。「入谷村補陀落山太子院」と刻まれていて、今現在とは山号の違いがあるようだ。作者銘として、「治工 舛岡(ますおか)儀衛門」と陽鋳造されている。タガネで彫り込まれた陰刻では無い。「川口住」や「武州川口」などの住所の銘は存在しないが、この人は川口鋳物師であるというのだ。 

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●画像は昭和26年(1951)版だが、同9年刊行の「川口市勢要覧」の「川口鋳工品一覧表」の中に、この鐘銘の記載がある。並んで、「宝暦四歳次甲戌(1754)春閏 武州川口住 鋳物師 増岡太治兵衛 鐘 岩槻慈恩寺(前52項前87項)」という鋳物師の作例の記載もある。枡岡からは、42年後の鋳造だ。

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増岡は、藤原富保を名乗った京都真継家傘下(前40項)の勅許の川口鋳物師だ。要覧の編者の岩田孝司氏は、漢字は違うが姓の読みの音が同じという理由で、舛岡も川口鋳物師であると判断したようだが、かなりアバウトだ。「親子か、祖父と孫と云ったやうな関係にあったものと察せられる」とまでしているのだ。

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さらに、「慈恩寺観音堂の正面に年代不明、増田金太郎氏作(前82項など)の鉄香炉がある所などから察すると、この増岡氏は、其の後、増田と改姓されたのでは無かろうかとも思はれる」とし、「今の増田一族の方々には先祖格にあたる事となり」と断じているが、飛躍が過ぎているような気がしないでも無い。なお過日の取材によれば、この鉄香炉は現存はしていないようだ。

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●東京都武蔵村山市中藤にある、真言宗豊山派の龍華山清浄光院真福寺にも川口鐘が存在する。ここは、和銅3年(710)に奈良時代の高僧の行基が創建したという古刹だ。かつては寺領20石の御朱印寺であったという。本堂前に置かれている1対の天水桶は、「昭和53年(1978)7月吉日 第31世 祥瑞代」となっているが、量産品のようだ。

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銅鐘は、市教育委員会の掲示によれば、「高さ138cm、口径75cmで、宝暦年間(1751~)、当寺が火災にあった際、亀裂が入り撞けなくなったので、この山門楼上にかけられている」という。鐘は市の文化財に指定されているが、下の画像が山門だ。

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「この梵鐘は、寛永15年(1638)3月21日、当寺第9世頼栄法師の代に檀家の協力により鋳造された。作者は、鍛冶 長瀬理右衛門久次で、この寺が正応3年(1290)に瀧性法師によって再興されたことなどの由緒が刻まれており、年代の上からも貴重なものとして、第二次世界大戦の時に供出(前3項)を免除された」とある。

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●登壇できず、実際に刻みの確認は出来ない。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、「長瀬理右衛門」は、「川口鋳物師であることの刻銘は無いが、同人の子孫と見られる長瀬理右衛門衆英の墓碑が、川口市舟戸町の平等山善光寺(前130項)にあるので川口の鋳物師とした」と記載されている。

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この事は、昭和50年8月10日に初めて確認されたと言うが、現存する川口鋳物師製の最古の梵鐘の作例という。なお2番目は、「埼玉県川口市本町・宝珠山錫杖寺 寛永18年(1641)9月日銘(前108項)」、3番目は、「都内練馬区高野台・東高野山長命寺 慶安3年(1650)9月21日銘(前59項)」だ。下の画像は、真福寺の現役の銅鐘が掛かる鐘楼塔。

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●現存する江戸期の川口鋳物師製の梵鐘としては、先の作品年表などの記録上、7例が知られている。本項や上述の項番で全てを網羅するが、6番目の古鐘は、都内北区田端の真言宗豊山派、宝珠山地蔵院與(与)楽寺に現存する。慶安2年(1649)に20石を拝した御朱印寺の名刹だ。過日の取材によれば、この古鐘は割れて損壊しているようで、寺内に保管され公開されていない。

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年表上その銘は、「宝暦元年(1751)9月 小川儀左衛門盛晴」で、昭和9年(1934)の「川口市勢要覧」では「小川儀左衛門」となっている。一方、「川口大百科事典」を出典としている川口市のデータベースでは「小川義左衛門盛晴」と記載されていて、「儀」と「義」の表示の違いがある。小川は、川口鋳造業中興の祖、3代目永瀬庄吉の義弟の小川治郎吉(前63項など)の祖先だ。要覧の9ページ目にはそう書かれている。

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●令和4年(2022)5月、ご多忙の中、与楽寺さんから貴重な資料をいただいた。これにより解析が進む訳で、誠に感謝に耐えない。心より御礼申し上げます。この結果は、川口市の文化財センターにもご報告申し上げたい。

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さて写真では損壊の状態は見られず、詳細な大きさは不明だが、2尺、口径60cmほどであろうか。なだらかな肩を持ち、108個の乳が存在する典型的な和鐘だ。大きな巣喰い(前22項など)も無いようで、高い鋳造技術を垣間見れる1口(こう)だが、では詳細に見ていこう。

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●銅鐘に関する専門用語は、前8項をご参照いただきたいが、4本の縦帯には、金剛界の五仏といわれる仏様の真言が梵字で記されている。寺によれば、それぞれに「アク オンアボキャシッデイアク」、「バン オンバザラダドバンオンアキシュビヤウン」、「タラク オンアラタンノウサンハンバタラク」、「キリク オンロケイジンバラアランジャキリク」だという。

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鳴り響かない鐘では困るので、現在、鐘楼塔には新鐘が掛かっている。「平成20年(2008)10月吉日 当山第33世 正信代」銘で、さらになだらかな肩を持つ見目麗しい梵鐘だ。池の間には雲に乗って浮遊する天女と龍神が描かれ、草の間には獅子と牡丹の花が配されている。この縦帯には、やはり梵字が凸に陽鋳造されているが、古鐘に倣っての事であろう。この存在は、実に重要である事が後に判明するのだ。

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●古鐘の蒲牢(ほろう)は反相対した双頭の竜頭で、中央に宝珠を挟んで持ち上げている。笠の下の反り返った張り出しは、この時代に特有な意匠だ。その笠には、上下方向に溶銅を流し込む湯口の痕跡が2ケ所あるが、鋳造後に切断し割られたそのままの状態で雑然と存在している。吊り下げてしまえば見えにくい場所であるから、当時はハツって成形する事もなくそのままなのだ。

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紫色で囲ったのは、ケレン(前95項)の跡だろうか。これは外型と中子を結合し、鋳造の注湯の際、その圧力に抗すべく製品の定位置を保つための金具だ。この時代は、溶解温度の差から、通常は鉄などの異材質が用いられた。同時に溶け込んでしまっては無意味だからだ。従って、ここにサビが浮き出ているのをよく見かけるが、これは埋没しているのだろうか。

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●否が応でも目を引くのが、池の間に見られるペンキによるらしき文字だ。左側の方の文字は判読できないが、右側には「免除」と書かれている。これは戦時の金属供出(前3項)を「免除」するという意味だろう。

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供出しなければならない鐘には、台東区根岸の長久山永称寺(前3項)の銅鐘のように「應(応)召鐘(前46項)」と書かれてしまうのだ。「召し出しに応じた鐘」であったが、ここのはそれを免れた訳で、戦争の生き証人であり、今となっては貴重な書き込みだ。

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●それにしても、目立たないように内側にでも書けばいいものを、容易に消せないペンキで、且つ目立つ表面に書き込むなど、軍部の高飛車感を感じずにはいられない。「免除」される理由は、色々あったようだ。

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時の為政者に関する文言が刻まれていたり(前129項)、美術的価値があるもの、慶長時代(1596~)以前や地元の鋳物師作の梵鐘などは、1口(こう)に限り対象外であったりだ。あるいは、遠音の効く美しい音色であったり、慈悲深い観音様が描かれていたり、梵字が記されていたりだ。

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●与楽寺の「免除」の理由は、梵字の存在であったろうか。同様の事例は、前8項の新宿区若葉の独鈷山愛染院や前105項の練馬区春日町の練月山愛染院でも見ている。あるいは、前88項の群馬県板倉町の光明山安勝寺では、立錐の余地なく刻まれた梵字などの存在が免除の理由であった。そしてこの銅鐘は、古美術保存法により、昭和20年(1945)8月8日、国指定重要美術品にまで指定されているのだ。

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梵字は、日本においては神の文字とも言われ、魔除けなどとしてお札にも記される古代インド由来の文字、キリーク(前47項前91項)だ。天平年間(729~)に、仏教と共に伝来したと言われるが、難解なために、文字自体を仏法の神聖な文字として崇めてきたという歴史があるようだ。軍部は、神聖なこのキリークを畏怖の対象としていたとも言う。

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●縦帯に見られる与楽寺の梵字は、鋳造後にタガネで彫り込まれた陰刻では無く、鋳造と同時に表現される凸の陽鋳文字(前1項)だ。これは手間や費用が掛かる鋳造法だが、結果、目立って際立つ存在となった。

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寺院の梵鐘は、住職や檀信徒の願念が染み込んだ門外不出の什宝だ。当時、彼らがコストが掛かる手法を敢えて選択し、それに忠実に答えた鋳物師・小川と共に、「免除」させたと言って過言なかろう。なお、ペンキ書きされた梵鐘は、前75項前129項でも見ているのでご参照いただきたい。

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●次に、資料を基に陰刻文字を読んでみよう。「免除」の面の左隣の池の間だから正面の写真では見えない場所だ。5行に亘ってお題目が刻まれている。「諸行無常 是生滅法 生滅々巳 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめっぽう しょうめつめつい じゃくめついらく」とあるのは、万物はすべて変転し生滅するもので、不変のものは1つとしてないという、涅槃経にある諸行無常の四句偈(げ)だ。

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続けて「偈曰(げいわく)」、「願諸賢聖 同入道場 願諸悪趣 倶時離苦(がんしょげんじょう どうにゅうどうじょう がんしょあくしゅ くじりく)」とあるのは、「願わくば、全ての仏道者が、同じく法要の場に入られますよう。願わくば、多くの苦しむ方々が、等しく苦しみの現世を離れ極楽に参られますよう。」の意だ。他の多くの銅鐘でも散見する偈文だが、これが寺院の教義だ。

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●「免除」の面の左下に向けて、「法印 俊覺」に続き、僧侶の法名や、檀家信徒の戒名等が記されているが、長年の風雪を凌いできた銅鐘だけに、摩滅は激しく判読は難しい。「乃至法界萬霊有無両縁」を願い、「當寺第十九世 法印俊海 造立之 田端村與楽寺什寶(宝)」となっている。右の紫線が「什寶」の部分だが、無神経にも、その上にペンキの書き込みがある。しかし、国民一丸の時代においては、この感覚は非国民扱いであったろう。

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造立は、「寶(宝)暦元年辛未(1751)九月吉日」で、「川口住 治工 小河義左衛門尉盛晴作」銘が、左側の紫線だ。「治工(じこう)」とは当時の業界用語であり、現代ではほぼ死語だが、「治具(じぐ)」という言葉はある。辞書によれば、『加工や組立ての際、部品や工具を案内し位置決めするとともに固定する補助具。英語では「jig」ということからこの漢字が充てられている』だ。

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当サイトで見てきた職工の肩書きとして、「冶工(やこう)」がある。にすいの漢字で、「冶金(やきん)」という言葉がある様に、「冶」には、「溶かす。鋳る。金属を精錬する。」という意味がある。こちらを用いるのが本来であろうが、「治工」と「冶工」が混同して使用されているのが、この当時の実情だ。

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●「川口住」とあるのが決定的で、「小河」は川口鋳物師だ。本項で後述のように、かつて埼玉県川口市は、「河口町」とも表記されたようだ。小川が「河」の文字をこ洒落れて充てたのであろう。

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和歌山県紀の川市の粉河(こかわ)地区出身の鋳物師は、その多くの作例に「粉川姓」を刻んでいた例もある(前105項)。大正期の鋳金工芸家の香取秀真(前116項)も、「鋳物師の常習」としているように、自身の名前でさえ同音異義の他の漢字を使用することに違和感は薄かったようだ。

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●経年の劣化で確定し辛いが、先に記述した「儀」は「義」が実際の刻みのようだ。「左」の文字は、早書きすると「九」に見えるが、いただいた資料もそうであった。「左衛門尉(前99項)」は、日本の律令制下の官職の1つで、特に鎌倉期や江戸期に武将らが拝命し、受領名として使用した重苦しい感じの呼び名だ。小川がそんな意味を込めて使用するはずもなかろう、ステータスとして勝手に名乗ったのだろうか。

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「尉」の文字が実際に存在するかあやふやだが、「義左衛門」が本名なのかも知れない。なお、前130項では、「小川義左衛門」の銘が登場している。文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」の「武蔵足立 川口宿」の欄に、「小川三左衛門」の名がある。京都真継家(前40項)傘下の勅許鋳物師の1人だ。三左衛門や先の永瀬庄吉の義弟の小川治郎吉は、「義左衛門盛晴」の系譜を受け継ぐ鋳物師の家系であろう。

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●鋳物師小川の刻銘は、青銅製の宝篋印塔や銅の根巻き(前63項)、銅碑(前53項)、銅鳥居(現存しない・前24項)などだが、全て青銅鋳造物だ。梵鐘への刻みが遺るのは、知る限り与楽寺のものが唯一無二であり貴重だ。

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有形文化財指定相当品であり、川口市からすれば、国宝級のレガシーだ。戦時の状況を伝え遺す産物としても看過できない訳で、永久に保存管理、可能であれば、建屋外にでも公開して欲しいものだ。改めて、与楽寺さんの資料提供に感謝します。

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●最後は、東京都西多摩郡日の出町にある曹洞宗東光院だ。山号を瑠璃光山とも妙見山ともするようだ。本堂は、28世壽岳庸宏の時世の平成11年(1999)に落慶しているが、ほぼ同時期に梵鐘も更新されている。ここには、川口鋳物師製としては、4番目の古鐘が存在する。

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まずはここの新鐘だが、口径Φ670ミリで、縦帯に「平和環境 吉縁成就」が掲げられている。「高岡市 鋳物師 老子次右衛門(前8項)」による鋳造だ。数えてみると、肩の所に乳の数は総計84個しかない。その代わりに、仏像が8体描かれているが、それが重要だ。

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●一方、本堂の廻廊に、昭和53年(1978)9月指定の有形文化財の旧鐘が置かれている。口径Φ500ミリ、高さは720ミリほどで、「時元禄十七甲申年(1704)臘月 成道(じょうどう)且成就云々」という線刻がある。「臘月」は、「ろうげつ」と読んで、陰暦12月の異称だ。また、「時」という文字に関しては、前28項をご参照いただきたい。

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「成道」は、辞書によれば、『仏教の修行者や求道者が修行を積んだ結果、悟りを開くこと。「道」は「さとり」の意。たとえばゴータマ・ブッダは苦行の実践を無益であるとして捨てたのち、菩提樹の下で悟りを開いたが、これを成道と呼び、毎年12月8日に行う法会を成道会という』とある。鐘身には、これが成就したとして戒名やらが刻まれているのだ。

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●これには乳の代わりに仏像が浮き出ているが、新鐘はこれに倣っていたのだ。その存在は、戦時の金属供出を逃れた理由でもあろう。そして縦帯に、作者の住所として、「武蔵国下足立郡河口町住」とある。3世紀前、埼玉県川口市は、「河口町」であったのだ。

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「川口」の名は、旧入間川、現在の荒川の河口に臨んでいた事が由来ともいわれている。室町初期(1336)成立の伝記「義経記」には、治承4年(1180)頃、源頼朝謀反により義経が、奥州から鎌倉に向かう途中、「武蔵の国足立の郡小川口に着き給ふ・・」と記されている。

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●また、鎌倉時代の日記文学の「とはずがたり」には、正応2年(1289)2月に京都を出発して鎌倉にやって来た、後深草院二条(著者で出家の女性・前41項)が、「同年12月に河越入道の後家尼に招かれ、武蔵国小川口に赴き・・ 信州善光寺などに詣で・・」とある。この「小」の意味は、当時、古利根川に沿った埼玉県加須市川口の渡しの方が、旧入間川の渡しより大きく、有名だったため「小川口」と呼ばれたようだ。

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あるいは、川口市長徳寺の「寒松日暦」には、「寛永元年(1624)2月22日快晴 鋳河口鐘」という、梵鐘完成の記録があるし、また、江戸時代の天保期(1836頃)の江戸名所図会(前100項)では、「河口鍋匠(なべつくり)」となっている。表記は違えど、音は「かわぐち」だ。

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●廻廊の木柵に阻まれて見づらいが、住所の下に続けて、「永瀬権右(衛)門尉勝之作」という作者銘が刻まれている。先の北区田端の宝珠山与楽寺でも触れたが、ここでは「尉」の文字の存在を確認できる。

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一方、「衛」の文字は抜けているようだ。これは、自分の本名であるにもかかわらず、画数の多いこの文字の刻み込みを嫌った結果だろう。江戸深川鋳物師の釜七が、「釜屋七右エ門」としたように、通常は、略して片仮名の「エ」とするはずなのだが。

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これまで当サイトで縷々見てきたように、「永瀬姓」は川口鋳物師の代表格だが、同人の銘は、前3項でも登場している。この鐘銘の存在は、昭和50年(1975)7月14日に確認されたというが、この様に、近年に確認された事象もある訳で、未だ知られていない作例もどこかに存在するかも知れない。

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●先の作品年表上、現存する江戸期の半鐘は2例だが、当サイトでは、画像の「川口市戸塚・青龍山西光院 冶工 武州足立郡 川口住 岩田英重作 明和3年(1766)4月吉日(前9項)」を見ている。後132項では、「埼玉県草加市苗塚・苗塚地蔵会館 武州川口宿 鋳物師 藤四郎 慶応2年(1866)12月」銘を記述しているが、これは現物確認できていない。

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また記録になく、当サイトで発掘したものとして、「都内青梅市大柳町・大柳八坂神社 武刕(州)足立郡 川口住人 鋳物師 永瀬豊八 豊次作之 弘化元年乙巳(1845)夏五月(前106項)」がある。あるいは、前85項前106項では、明治期や大正期の川口鋳物師製の半鐘も発掘したが、まだまだ確認されていない刻銘がこの世には多く存在するはずであり、今後の発見が楽しみだ。つづく。